1982・春 東京駅
人ごみの中にいると、岡島中彦はよく馬鹿らしい想像をめぐらす。
——今ここで懐《ふところ》に一番たくさん金《かね》を持っているのは、どいつだろう。その金がストンと俺《おれ》のものにならないだろうか——
金額はどれほどか。
一千万円……。まさか。昨今は多額の現金を持ち歩く人は少ない。たった十万円くらいだったりして。
同じように、
——今ここで一番美しい人はだれだろう——
当然その女性が自分と親しい関係になってくれることを考える。
なんの現実性もない。ただ思いめぐらすだけ。それが楽しい。ささやかな遊びになる。何百人かの人間が集っていれば、いろいろな人がいる。思いがけない才能の持ち主もいるだろう。見ただけではわからない。英語のめっぽううまい人。天才的なギャンブラー。一番寿命の短い人。今日のうちに死ぬ人だっているかもしれない。想像はどこまでも広がって行く。
東京駅の地下道。たくさん集って来ている。みんなせわしなく動いている。中彦は新幹線の改札口に向かいながら、頭の片すみでいつもと同じような思案をめぐらしていた。
たとえば、一番おしゃれのうまい人。
眼は女性に向く。
しかし、東京駅はこのテーマにあまりふさわしいところではないようだ。旅に出るとき、だれしも少しは着飾るだろうけれど、ここは田舎《いなか》の人も多いところ。やっぱり銀座か、青山あたり。
——おしゃれってのは不思議なものだな——
頭の働きとたしかに関係があるはずなのに、きっかりと一致していない。とても賢い女性なのに、着る物のセンスが極端にわるい人がいる。反対に、馬鹿のくせに、おしゃれだけはうまかったりして……。本当にわからない。
——きれいな黄色だな。あの人がこの地下道で一番おしゃれ上手かもしれない——
一瞬眼を向けると、それに応《こた》えるように黄色のスーツがツツンと近づいて来て、立ち止まり、ゆっくりと笑った。
「……やあ」
戸惑《とまど》いながら声をあげた。
眼の焦点を女の表情にあわせ、四、五秒をかけて朋子《ともこ》だとわかった。
「お久しぶりね」
そう、八年ぶりかな。いつかこんなことがあるかもしれない、心の奥にそんな思いがないでもなかった。
人ごみの中に身を置きながら、
——これだけ大勢いるんだから、俺《おれ》の知人もきっといる——
これも中彦がよく思う癖の一つである。ぼんやりと朋子のことを考えていたかもしれない。
「どうしてるの?」
「どうしてるのって?」
「たとえば……お子さんとか」
「結婚、やめちゃった」
「えっ、離婚?」
「まあ……そうね」
「思いきったこと、やるなあ」
「あなたは?」
「俺は独りよ、あい変らず」
「大学の先生に……なった?」
通路のまん中に突っ立っていては通行の邪魔になる。壁際に寄りながら、
「なるわけないだろ」
と答えた。
「だって、大学院に行ってらしたじゃない」
「就職がなかったからだよ。時間、ある?」
「私はいいけれど。どこかへ行くところなんでしょ」
朋子はボストンバッグに眼を止めて言う。旅仕度《たびじたく》らしいと気づいたのだろう。
「名古屋へ」
「お仕事?」
「そう。予備校の教師をやってるんだ」
「予備校って……受験の」
「そうだよ。えーと、一台遅らせる。そこでお茶を飲もう」
構内にビュッフェがある。
「いいんですか」
「十一時ジャストの�ひかり�に乗れば、ギリギリ間にあう。二十分くらいある」
「ええ」
連れだってビュッフェに入り、
「コーヒーでいい?」
「はい」
コーヒーを二つ頼んだ。
「大学院へは行ったよ。知ってるだろ。ろくな就職がなかったもん」
「勉強家でしたもんね、岡島さん」
「そりゃちがうよ」
誤解をされては困る。むしろものぐさで、好きなことを好きなようにやって生きている。けっして勤勉ではない。一昨年母が死んで、だれに心配をかけるわけでもない。自分さえよければそれでいい。勝手気ままに暮らしている。三十代のなかばに達し、つくづくそんな生き方が自分にあっているとわかった。
「でも、英語がすごかったじゃない」
「そうでもない。英語なんかアメリカに行けば乞食《こじき》だってできる」
「そりゃ、そうでしょうけど」
子どもの頃から英語が好きだった。たしかに勉強はしたけれど、勤勉とはちがう。テレビが好き、タバコが好き、昼寝が好き、それと同じ次元の問題だ。四六時中熱心にテレビを見ていて、勉強家とは言うまい。のべつタバコを喫《す》っているのは、ただのヘビイ・スモーカーだし、やたら昼寝をしているのは勉強とはもっとも遠い性癖と見なされる。
中彦の場合は、たまたま英語が好きだったから、せっせと読んだ。ほかの教科には、なさけないほど興味がなかった。
さしたる考えもなく英文科に進み、就職もままならず、漫然と大学院へ進んだ。
実情を知らない人は、大学院と聞くとすぐに学者を連想するらしいが、けっしてそうじゃない。現に学者になる人の数なんか限られているし、中彦のように自己流の生き方を捨てきれず、人生の決断を意味もなく先に延ばしているだけの手合いもたくさんいる。
「東京で教えて、週に一回、名古屋へ行く」
「そうなの」
朋子は少々不満らしい。
「これが本職」
と、テキストの入った鞄を叩《たた》いた。
「おもしろい?」
「とくにおもしろくはないけど、俺には合ってる。分相応。もしかしたら天職かもしれない」
「まさかあ」
「本当だ。武芸者みたいなもんだから」
「武芸者?」
「そう。宮本武蔵とか佐々木小次郎とか」
「予備校の先生が?」
テーブルの上にコーヒーが並び、朋子がシュガーの袋を切って、まず中彦のカップに注ぎ込む。
「うん。俺はまだそんなに強くないけどサ。予備校の先生はみんななかなかの実力者だよ。高校の先生なんか足もとにも及ばないんじゃないのか。だけど、組織に属してチャンとやるのが下手《へた》くそなんだ。仕官して殿様に仕えてみても、根が正直で、わがままで、オベンチャラ言ったりすることできないから、すぐにしくじっちゃう。あとは腕をたよりに、あっちの道場、こっちのお屋敷、用心棒みたいなことやって生きてるわけよ」
「そこが宮本武蔵なのね。岡島さんらしい。あい変らずおもしろいこと言って」
「大学なんてとこは、古手のボスがやたら威張ってて、助手になるのも、講師になるのも、地方の三流大学に飛ばされるのも、みんなそういう連中の胸先三寸だもんな。だから若いのはボスの鼻息ばかりうかがってるよ。顔つきまで卑屈になる」
「むかないわね」
「むかない」
「痛いめにあったみたい」
「そうでもない。もともとそっちのコースに色眼を使ってなかったからな。一人でそっぽ向いてたよ」
「じゃあ、今は勝手やってていいわけ?」
「まあな。力があって、ちゃんと教えてれば文句は言われない。やくざみたいな背広着て来る講師もいるよ」
「そうなの」
「だれの顔色うかがうこともないもん。第一、予備校って、今、一番いい学校じゃないのか」
「どういうこと?」
「うん? 大学なんか最低だよ。生徒は勉強したがってないし、教師のほうも教えたいわけじゃない。学校ってのはサ、習いたいです、はい、教えましょう、それが原点だよ。習いたくもない奴を集めて、教えたくもない奴が出席とったり、私語を禁止したり、試験でおどかしたり……。俺、自分もろくでもない生徒だったから、偉そうなこと言えないけどな、あんな連中に教えたくないよ。態度わるくて。高等学校だって似たようなもんじゃない。タバコ喫《す》うな、髪染めるな、エスケープするな、そんなとこまでいちいち面倒みる気ないよ。予備校はちがうもんな。習いたくない奴は来る必要がないんだから。本当。もっとも教育的な環境だよ、あそこは」
「あなたらしいわ」
「それよりあんたのこと聞こう。どこに住んで、なにをしてるんだ?」
コーヒーに砂糖を入れすぎてしまったらしい。ただ甘いだけ……。風味もなにもない。
「デパート、やめたわ」
「それは知ってる。で、あのあと、すぐに結婚したわけだ。好きな人だったんだろ、当然」
「うーん、どうかしら。父が昔風で、簡単にさからえるような家じゃなかったのよ、私んとこ。もちろん相手もそうわるくはなさそうだったんだけど」
「ふーん」
「いろいろゴチャゴチャあって」
「わからない」
「短い時間で説明できることじゃないわ」
「そりゃそうだ」
「話しにくいわ」
「まあ、よかった……んだろ」
「そうね」
「で、実家へ帰って……」
「そうでもないの。そのあと父が亡くなっちゃうし、兄の家族とは一緒に居にくいでしょ。今は東中野のマンション。お友だちと原宿《はらじゆく》にアクセサリーのお店を持つの。私は店員をやるだけですけど……。お時間よろしいの?」
と時計を見る。
「ああ、行かなきゃ」
と伝票を取って立ちあがった。
「すみません。送って行くわ。いい?」
「いいけど」
地下道を早足に歩いた。
朋子が入場券を買い、新幹線の改札口をくぐる。
「何番線?」
「十九番かな。自由席だから」
「毎週行くんですか」
「そう。ビジネス・ホテルに泊って、明日の早い列車で帰って来る」
「大変ね」
エスカレーターを昇り、
「ちょっと待って。すぐ出て来る」
あいているシートにボストンバッグを放り投げ、プラットホームに戻った。
「乗り遅れないで」
「あと五分はある。いいね、女性に送ってもらって旅に出るのは」
「私じゃ役不足じゃないかしら」
「いや、いや、わるくない」
「名古屋かあ。行ったことない……みたい」
「このまま乗せちゃうかな」
「怖いこと言わないでくださいな」
「あはは。で、地図のぬり絵は完成した?」
中彦は指先で鉛筆を動かすような仕草を示して尋ねた。
朋子の顔を見たときから尋ねたいと思っていた。二人だけのあい言葉……。まさか朋子は忘れてはいないだろう。
「ああ」
と、朋子はいたずらっぽい表情で笑ってから、
「駄目。ぜんぜん。まだぬり残しがいっぱいあるわ」
プラットホームのアナウンスメントが乗車を呼びかけている。
「じゃあ、また再開するか」
しかし、周囲のさわがしさに消されて、声がよく届かなかったらしい。朋子は小首を傾《かし》げる。�再会�と聞こえたのかもしれない。
——それならそれでもいい——
同じことだ。
「またゆっくり会おう。どこに連絡をしたらいい? 電話番号を教えて。俺のほうはここだ」
中彦がポケットをさぐり、名刺を取り出す。朋子がハンドバッグを開け、
「メモありません」
「じゃあ、ここに」
もう一枚名刺を抜いて渡した。
朋子が走り書きをする。中彦は車両に乗り込んで、それを受け取る。
「行ってらっしゃいませ」
「うん。連絡する」
ドアが閉まった。
列車の進行にあわせて朋子が歩く。
その姿もすぐに見えなくなり、眼の中にスーツの色だけが残った。
——ほとんど変っていないな——
会った瞬間には、
——少し年を取ったかな——
と思ったけれど、たちまち以前のままの面《おも》ざしに戻った。表情も身ぶりもまるで変らない。言葉遣いも初めのうちは、少し丁寧な言い方をしていたけれど、すぐにくだけた調子に戻ってしまった。
中彦はボストンバッグの中から文庫本を取り出したが、それをシートの網袋に放り込み、ノートを出して膝《ひざ》の上に広げた。
窓の外は多摩《たま》川。舟が航跡を残して、ゆっくりと昇って行く。
——うまく描けるかな——
白いページに日本の地図を描き、北から順に都道府県の名を書き入れた。
北海道から東北地方までは図柄も簡単で、略図の中に地名を収めるのもやさしい。関東地方に入ると、もういけない。
——朋子は結構うまく描いていたけどなあ——
小さなスペースに無理に押し込むようにして関東地方から中部地方へと移る。地図が小さすぎて県の名を書き入れるのがむつかしい。棒線を引いて陸地の外に書く。
——いけねえ——
岐阜県を忘れるところだった。
——ほかに落としているところ、ないかな——
確かめてみる。急ぐことはない。名古屋までたっぷりと時間がある。よい暇つぶしになるだろう。文庫本の推理小説もちょうどおもしろいところにさしかかっているのだが、その楽しみはあとに取っておこう。
——せっかく朋子に会ったのだから——
しばらくは朋子の記憶をたどってみたい。
——変だな——
一都二府一道四十三県のはず……。一つ足りない。調べなおして……佐賀県が抜けていた。
「俺の場合は……」
とつぶやいてから、行ったことのある都道府県の名前を丸で囲んだ。