1982・秋 会津
上野駅で待ち合わせ、リレー列車に乗り込み、大宮駅で東北新幹線に乗り換えた。開通してまだ数か月。東北・上越の両幹線が、まだそういう接続をしなければいけない時期だった。車中はほとんど満席に近い。
「初めてだわ、この列車」
「俺もそうだ」
車両も新しい。内装も従来の新幹線の車両と少しちがっている。
「郡山《こおりやま》で乗り換えるんでしょ」
「うん」
「どのくらい?」
「一時間半かな」
畑の中に新設の工場らしいビルが見える。
「なにか話して」
「弱ったな。それがノルマか」
「そう。そんなに堅く考えなくてもいいけど」
朋子に頼まれ、用意して来たことがないでもない。中彦は顎《あご》を撫《な》でてから、
「実存主義の話でもしようか」
「うわーッ、むつかしそう」
「たいしたことない。教室では生徒に話す程度のことだから」
「英語だけじゃないの、教えるのは?」
「ついでにいろんなことを話す。結構熱心に聞いている」
「あなたの話、おもしろいから」
朋子は�傾聴しましょう�とばかりに膝《ひざ》の上に両手をそろえた。
「たとえば、ここにさきいかがある」
中彦は大宮駅のキヨスクで買ったさきいかの袋を切って、中身を二、三本頬張《ほおば》る。
「ええ……。お行儀のわるい授業なのね」
朋子はウーロン茶を飲んでいる。
「うん? まあ、いいだろ。さきいかは、原料となるするめをどう切り裂いて、どう塩味をつけて、その目的がなんなのか、つまり、おつまみになるためだって決まっているんだ。さきいかとはいかなるものか、先に定義があって、そのあとでさきいかとして存在するんだ」
「はい」
含み笑いを浮かべて頷《うなず》く。
「新幹線だってそうだろ。どういう設計で、どこを走って、なんのために存在するか、みんな決まっている。この世の中のたいていのものは、そういうふうに先に定義があって、それからあと、存在しているんだ」
「そうかしら。ナマコなんて、なんのために存在してるの? 人間に食べられるため? 魚屋さんで見るたびに考えちゃう。だれがあんな姿、考えたのかしら」
「ナマコねえ。いきなり難問が出ちゃったなあ。しかし、神様の目から見れば、なんか理由があって、この世に存在しているんだ。人間だって昔はそういうふうに考えられていたんだけど……二十世紀に入って、まあ、もっと古い時代にもそういう考え方あったけど、とにかく、人間はちがうんじゃないか、偶然この世に存在しちまって、これから定義をくだすものなんじゃないか、そういう考え方が二十世紀になってはっきりと出て来たんだな」
「わかんない」
「ナマコだって同じだと思うけど、ナマコは哲学のテーマにはなりにくいから……とりあえず人間について言えば、キリスト教なんかの考え方じゃ、人間はなぜ、なんのためにこの世に生を受けたか、決まっているわけだよな」
「なんのためなの?」
「神の国を実現するためなんじゃないのか、理想的に営まれた……」
「ああ、そうか」
「だけど……。そうじゃない、人間は、偶然、この世に放り出されて、存在しちゃって、なぜ、なんのためかはこれから決めるんだって、それが実存主義の根本よ、平たく言えば。ほかのものは……つまりさきいかや新幹線は、みんな定義が先にあって、そのあとで生まれて、その定義に適応すればいいんだけど、そうでないものもある。少なくとも人間はそうじゃなく、先に存在しちゃって、定義はこれから決めていく」
「で、どうなるの?」
「人間だけじゃなく、この世界だって、造物主がなんか目的を持たせて創ったものじゃない。ただ偶然存在しちゃったんだ」
「ええ……」
「ほら、ジグソーパズルってのがあるだろう。組み合わせて行くと、モナリザの絵になったりするやつ」
「あ、さっき売ってたわよ。東北新幹線が走ってる絵の……」
「あ、そう。あれがバラバラになっている状態を考えてみればいいんだ。この世の中はなかなかうまくいってない。戦争はある、病気はある、飢餓がある。目茶苦茶で、救いようがないほど矛盾に満ちているけど、なんとかうまい方法を見つければ、スッキリするものなのかどうか。ジグソーパズルをこわしてガチャガチャにしたみたいな状態……。しかし、本当にジグソーパズルなら、今はガチャガチャになっているけど、もともと設計図のあるものだから、工夫さえすればちゃんとモナリザの絵にもなるし、東北新幹線にもなる。この世の中もそうなんだ、と、十九世紀くらいまでの思想はだいたいそういう考え方だったんだ。なんかこう造物主みたいな人がいて、その人が設計図を作っておいてくれたんだから、今はバラバラで、矛盾だらけで、うまくいってないけど、設計図となるものさえ発見すれば、やがてうまくいく。キリスト教だってマルクス主義だってみんなそうよ。それに対していや、そうじゃないってのが、実存主義よ、簡単に言えば」
「わかるみたい」
「むつかしいことじゃないよ。バラバラになった、ジグソーパズルの断片。しかし、もともと設計図なんかない。ただ偶然山になっているだけ。どう組み合わせてみても、こりゃモナリザになんかならないよな。もともと設計図なんかないんだから。これから設計図を考えなきゃいけない」
「どう考えればいいの」
「かなり絶望的なんじゃないのか。どう努力してみても、もともと設計図がないんだから。設計図のないジグソーパズルの断片を、もしかしたらモナリザになるかな、新幹線になるかな、いろいろ試行錯誤をくり返してみたって無理だろ。すっきりした形になんかならないサ」
「悲しいのね」
「悲しいって言えば悲しい。それを不条理って言ってるわけだよな。ちぐはぐで、道理にあわない。今までは、人間も、この世界も、なにかに支えられていると、そう信じられていたのに、それは錯覚だとわかって、うろたえてる。二十世紀はそういう時代なんだ」
通路をしきりに売り子たちが往復する。列車内販売というものも、ちょっと不条理だ。必要なときに必要なものを売りに来ない。用がなくなると、売りに来る。
「どうすればいいの?」
「あははは。簡単に解決できるなら、だれも悩んだりしない。そこからいろんな考え方が出て来るわけなんだけど、なんて言うのかな、どうせモナリザの絵になんかならないとわかっていても、それでもせっせせっせと断片を組み合わせてみる。その作業に情熱を注ぎ、精いっぱい自分を燃焼させる、それっきゃない。よい結果をだすために頑張るんじゃなくて、自分の燃焼そのものが目的となるって言うか、そこに価値を見出そうとする。ヘミングウエイとか、カミユとか」
中彦は首をすくめ、照れくさそうに笑った。
列車の中でさきいかを頬張《ほおば》りながら語るテーマかどうか……。しかも少々雑駁《ざつぱく》な論理で。
しかし、朋子のほうは、
「わかったわ」
と頷《うなず》く。
「まあ、こんなとこ」
当たらずとも遠からず。
窓の外の畑がいつのまにか町に変り、郡山《こおりやま》駅が近づいていた。
「もう着いた」
網棚の荷物を取った。
「早いわね」
新幹線の駅はどこもよく似ている。
磐越西線《ばんえつさいせん》のプラットホームへ向かう客の数はそう多くはない。こちらは、うって変って短い車両。堅い椅子《いす》。窓を開いて風を入れた。
走り出すと、すぐに山の風景に変る。まだ紅葉の季節には少し早い。
列車はガタゴトと音を響かせて走る。踏切では赤いシグナルをつけた警報機がカンカンと鳴り、子どもが手を振っている。
「どこで降りるの?」
「猪苗代《いなわしろ》」
「どこへ行くの?」
「車でスカイラインを走って浄土平へ。景色がいいはずだ」
「雲が切れて来たわ。いいお天気になるんじゃないかしら」
「しかし、行ったことないんだから本当にいい景色かどうかはわからない」
「檜原湖《ひばらこ》とか五色沼とか」
「俗化しているらしいんだ。キャンプをするならともかく……。宿は檜原湖の近くだけど」
「すべておまかせ」
「不安だなあ」
予備校の同僚に会津の出身者がいて、その男が立ててくれたプランである。
「タクシー?」
「そう」
「いるかしら」
「大丈夫。それは確かめておいた」
列車の数はそう多くはない。到着時刻に合わせてタクシーが駅に集って来る。
季節はずれのウィークデイ。観光客らしい姿はまばらである。
「スカイラインを走って浄土平あたりへ。夕方までに檜原湖の青山ホテルに。行けますね」
と、タクシーの運転手に尋ねた。
「あ、充分行けるね」
東北|訛《なま》りは、わけもなく人柄がよさそうに響く。わるい人だっているだろうに……。
しばらくは鄙《ひな》びた町を走った。
そっと朋子の手を握る。朋子は、
——なーに——
とばかりに首をまわし、それから、首をすくめ、笑いながら、
「とうとう来ちゃった」
「そう。鴨川《かもがわ》以来……アフター・エイト・イアーズ・インタバル」
「なんだか英作文みたい」
「その通りだ。一つ一つぬり絵をつぶして行って……最後は本当にどうなるかなあ」
結婚かな。
日本沈没だったりして……。
「なんにも起きないわね、きっと」
「まあ、そうだろうけど」
「さっき、あなたのお話を聞きながら、考えていたの」
「なにを?」
「ぬり絵をすっかりぬってみたところで、なんにも起きやしないわ。目的にするほど大層なことじゃないもん。だから、なにかのために頑張るんじゃなくて、一つ一つぬり絵をぬって行くことが大切なの。一つ一つを大切にして行く……。うまく言えないけど」
「わかるよ。いいこと言うなあ。まったくその通りかもしれない」
人生なんて大きな目的を掲げてみたところで失望を味わうばかりだろう。そんなりっぱな目的があるかどうか、あったとしても実現できるかどうか。
——俺《おれ》たちはけっして英雄じゃあないんだし——
ロスト・ジェネレーション。希望を抱くこと自体に倦怠《けんたい》感を覚えてしまう。
形ばかりの目的を据《す》え、目的そのものの価値は問わない。それに向かって燃焼すること。ぬり絵の旅はいかにもそんな考え方にふさわしい。
道はスカイラインに入り、坂を登るたびにぐんぐんと展望が広がる。
「あっ、磐梯山《ばんだいさん》」
「うん。多分」
と、小声でつぶやく。
知らないところを走るのだから、はなはだ心もとない。
「いい形でしょう。あれが吾妻小富士《あづまこふじ》、あっちが一切経山《いつさいきようやま》」
と、無口な運転手が説明してくれた。
見る角度によって趣きが異なる。眺望は雄大で、粗々しい。ところどころに火山の痕跡が残っている。
「不動沢橋まで行って、引き返しますか」
「はい」
朋子が膝《ひざ》を突つく。
——わからないんでしょ——
と、目が笑っている。
左手にレストハウスと駐車場が見えた。右手は急な勾配《こうばい》を作って山が迫っている。細い道があるらしく、登り降りしている人の姿が見える。
「あとで、登ったらいいでしょ、若いんだから」
「はあ」
通り過ぎ、一気に坂を下ると靄《もや》が濃くなり、硫黄の臭いが鼻を刺す。
車が止まった。
深い沢の上に橋がかかっている。
「怖い」
ずいぶん下のほうに、水の流れが見えた。
中彦が橋の上でピョンピョンと弾ねる。そのたびに橋が小刻みに揺れる。
「わざとそういうこと、やるんだからあ」
「こわれやしないよ」
「そりゃそうでしょうけど」
車に戻り、いま来た道を返した。
「登って来なさいよ。ここで待ってますから」
「これが吾妻小富士ね」
朋子がガイドブックを見ながら尋ねる。
「そう。登ると火口があるから」
ここに来た以上、この山に登るのが観光のコースなのだろう。
「よかった、ペチャンコの靴を履いて来て」
「うーん。スニーカーのほうがよかったかなあ」
中彦が先に立ち、朋子の手を引いて急斜面《がれ》を登った。
「いいねえ」
「きれい」
たしかに登って見るだけの価値はある。
コニーデ型の火山。山は盆地の中にポコンとお碗《わん》を伏せたように突出し、てっぺんまで登り着くと、山頂はすり鉢状の大きな火口になって凹んでいる。火口の直径は一キロくらいありそうだ。山頂には火口を巻いて一周する道がついている。火口の底まで走り降りて行く人もいる。
「右まわりで行く?」
「いや、左まわりで行こう」
左右に別れて進み、対岸のあたりでめぐりあう方法もあったが、それでは離れ離れで歩く道のりが長すぎる。散策の楽しみがそがれてしまう。手をつないで歩いた。
なにしろ山そのものが周囲から孤立して隆起しているから、文字通り三百六十度の眺望。
湖が見える。
町が見える。
雲のむこうに、また山が連なって見える。空気がやけにうまい。
「星、きれいかしら」
朋子がつぶやいたのは、鴨川の夜を思い出したからかもしれない。
「晴れてれば、よく見えそうだなあ」
「でも、夜は怖いわね」
「この付近の宿に泊まっていれば、来れるな」
道をゆっくりと一めぐりしてもとの位置に戻った。
「お待ちどおさま」
「グルッとまわりなさったかね」
「ええ。とてもすてきでした」
さっきまで見えていた太陽は、さっさと山の陰に隠れてしまった。付近一帯が灰色の影に包まれ、高原はたちまち夕べの気配を帯び始める。
山は夕暮れも美しい。
五色沼は、どれがどの沼だったのか、車を止め、二つ、三つ覗《のぞ》いたが、名前までは覚えられない。
五色とは言うけれど、まあ、ほとんどが青の系統である。青い沼ばかりを見ていると、檜原湖《ひばらこ》は灰色に淀《よど》み、薄汚れて映る。
——これが普通の湖の色なんだよな——
と納得するまでに、少し時間がかかった。
湖畔の宿に着いたのは、六時前だった。
「疲れた?」
「ううん、そうでもない」
温泉につかり、夕餉の席にすわった。
「お酒、毎晩飲むの?」
「いや、そんなことはない」
「このあいだのカクテル、おいしかったわ」
「マルガリータだったっけ」
「グラスのふちに塩がついてるの」
「じゃあ、そうだ」
テレビはあまりよく映らない。
「地方に来ると、NHKの実力をまざまざと感じさせられるな」
「ほんと。民放は少ないし、よく映らないところもあるわ」
ニュースが三越デパートの社長解任を報じている。社長と親しい関係にあった女性も脱税の嫌疑で逮捕されたらしい。
「この人、知ってるわ」
「あ、そう。同業者だもんな」
「ランクがちがうわよ。ものすごいやり手」
「そうなんだろうな」
宿泊客も少ないらしく、ひっそりとしている。障子を開けると、黒い夜が窓のきわまで押し寄せていた。
あかりを消した。
朋子が眼をあげ、眼を伏せた。
——どんな体だったろう——
乳房のふくらみ、恥毛の感触。ほとんどなにも思い出せない。鴨川では本当に稚拙な交わりだった。
肩を抱き、布団《ふとん》の中に崩れた。
——こんなとき……女はなにを考えるのかな——
やはりきれいに抱かれたいと思うのだろうか。
愛の仕草には、どうしようもないほど散文的な部分がある。美意識にそぐわない動作がある。
——�ウェスト・サイド物語�はすごかったな——
この瞬間に、どうしてそんなことを考えてしまうのか、中彦はわれながらおかしい。あの映画では、少年たちのちょっとした悪戯や喧嘩《けんか》までもがみんなダンスになっていた。美意識に適っていた。
——ああはいかない——
朋子の浴衣《ゆかた》を脱がせて脚をからめる。踊りみたいに滑らかにはやれない。
——こんな乳房だったろうか——
本当になにも記憶がない。
指を伸ばすと女体はすでに潤《うる》んでいた。その発見がうれしい。
——慣れている——
朋子が……以前よりずっと……。
当然のことだ。アフター・エイト・イアーズ・インタバル。朋子は結婚生活を体験しているんだから。
——どんな結婚だったのか——
いっときは愛しあったにちがいない。それがどうして別れることになったのか。
——その男にも同じように抱かれただろう——
何度もくり返して……。しかし、体の関係なんて些細《ささい》なことなのかもしれない。心が変ってしまえば、抱き合ったことの意味なんて、なにも残らない。
「朋さん」
と、小さく呼んだ。
この呼びかたも初めてだった。朋子は体を緊迫させて応《こた》える。
しばらくは手を握り合ったまま寄りそい、
「眠くなった」
「そう。眠りましょう」
「うん」
中彦が隣の布団に移った。
——なにかもう少し優しい言葉を吐くべきだったろうか——
いとおしさを示す言葉が浮かばない。英語なら思い浮かぶのだが……。
朋子がバスルームに立つ。
水音が聞こえた。
そのうちに中彦は眠ったらしい。短い眠りだったろう。眼をさまし、
——ここはどこだ——
ああ、そうか。朋子の寝息が聞こえる。安らかな響きをくり返している。
——朋子はなにを望んでいるんだ——
結婚ではない。はっきりと言葉で聞いたわけではないけれど……そんな気がする。結婚願望は一つのエネルギーだ。たとえ顕著に見えなくても、心の中に存在していれば、かならずなにかの形で作用をもたらす。それが朋子からは感じられない。
——俺のほうはどうなんだ——
皆無ではないが、ほとんどその願望はない。二十代のどこかに置き忘れて来てしまったらしい。
好きな女性と知りあえば、一緒に暮らしたいとは思う。もちろん朋子に対してもその気持ちはある。
だが、結婚というのは一人の女性を選ぶということだ。選び続けるということだ。一緒に暮らしたいと思うことと結婚とはよく似ているけれど、少しちがう。この先、同じくらい好きな女とめぐりあうこともあるだろう。心の奥底から、しみじみと、
——この人じゃなきゃ、いけない——
と、ふくれあがってくるような納得があって、そのときにこそ決断をすればよい。中彦は、ほかのことでも、
——もう少し待ってみるか——
ふんぎりの遅いたちである。
ぬり絵の旅を続けているくらいがほどのよいところかもしれない。
そのうちに眠ったらしい。
翌朝、眼ざめると朋子の姿が見えない。湖畔に出たらしい。
中彦もサンダルを借りて湖畔の散歩道に出た。
——右へ行くか、左へ行くか——
朋子の行方はわからない。
左の道を選んだ。
この道を行って朋子とうまく出合うようならば、朋子との今後の関係もきっとうまくいく。反対に、朋子が右の道を行っているようならば、遠からず破綻《はたん》に見舞われるだろう。そんなジンクスめいた思案を課してみた。
灰色の湖だが、水そのものは澄んでいる。透明な水の底に病葉《わくらば》が層を作って堆積している。
ガサッ、ガサッ。
丈の高い水草のあいだから黒い水鳥が一羽飛び立ち、それを追って二羽が水面をかすめる。追いかける鳥の羽が青く鮮かに輝く。
逃げたのが雌。追ったのが雄。きっとそう。すぐにから松の繁みのむこうに消えてしまった。
朋子の姿は見えない。
道を引き返した。
ホテルの近くまで来て、遠くを指さしている朋子に会った。
「噴煙かしら」
ここから見る磐梯山は、さながら山頂を鈍器でなぐったように疵《きず》つき、えぐれている。霧も流れている。少し黒ずんで見えるのは噴煙かもしれない。
「うん。どこへ行ったの?」
「散歩。あなたがよく眠ってたから」
「起こしてくれればいいのに……。いないから湖畔まで行って来た、捜しに」
「私も行ったわ」
「道が二つに分かれてただろ。右と左と……。どっちへ行った?」
「どっちかしら」
「右のほうだ、きっと」
「ボートの桟橋のところ」
「なんだ」
朋子はどちらの道も選ばなかった。
——まだ神様が二人の運命を決めていないんだ——
苦笑が浮かぶ。
「どうして」
「いや、べつに」
ジンクスのことは言わない。
「ボート、九時からですって。貸し自転車もあるみたい。乗れる?」
「自転車に乗れない男って、いるかな」
「いるんじゃない」
「とにかく朝食を食べよう」
「ええ」
朝食のあとでボートを借り、湖の中ほどまで漕ぎ出した。ボートが進むたびに磐梯山の風景が雄大になる。湖を一望するようにそびえ立つ。
岸に戻り、タンデムに乗って湖畔の道を走った。中彦が前、朋子がうしろ……。初めはなかなか呼吸がうまくあわない。
「朋さんはなにもしなくていい」
「でも……」
「そう、そう、その調子」
男が操る。女が従う。
中彦はわけもなく昨夜の抱擁を思い浮かべた。
——脳味噌ってやつは、まったくヘンテコな連想を浮かべるな——
間もなく調子がよく漕げるようになった。
「ああ、いい運動」
汗ばんでも、ひとふき風に吹かれればたちまち汗が引いてしまう。
バスの時間にあわせ正午すぎにホテルを出た。
「短い旅だったけど」
「でも、楽しかったわ」
「本当に?」
「本当よ。嘘《うそ》のわけないでしょ。あなたは?」
「もちろん俺は丸だよ」
朋子の膝《ひざ》に花丸を描いた。
「二日泊まれると、いいんだけど」
「結構いそがしいから」
「こんなことなら、俺、時間表にもう少しあきを作っておけばよかった」
「駄目よ。ちゃんと働かなくちゃあ」
「ちゃんと働かなくてもいいように、今の仕事を選んだつもりなんだけどなあ」
「いけません。生徒さんたちは必死なんでしょ」
「むこうは一生に一度のことかもしれないけど、こっちは毎年だからなあ」
「そんなひどいこと言って」
「本当だよ。もちろん、こっちだってそれなりに一生懸命やってるよ。みんなかわいいし」
「でももう半大人でしょ」
「背はでかいし、髭《ひげ》なんか生えてるし、見かけはごついけど、子どもだよ。俺だって、そうわるいことは考えてはいないさ」
「ええ……」
「眼をまるくして、俺のあやしげな話を聞いている」
「あやしいの?」
「少しな。昨日の話だって……。俺流の実存主義」
「よくわかったわ。また聞かせて」
「今度はどこへ行こう」
「うまくスケジュールがとれるかしら」
むしろ朋子のほうがむつかしそう。
「そこをなんとか。ぬり絵が完成する日まで」
「そうねえ」
猪苗代《いなわしろ》から郡山《こおりやま》へ、郡山から大宮へ、大宮から上野へ、二人で行く旅の時間の経過が早い。
「さよなら」
「また会おう」
「そうね」
朋子は銀座で人に会う約束があると言う。
東京駅で別れた。