1989・夏 和歌山
一年がまたたくまに過ぎた。
いや、そうではない。どの一年とも変りのない、昼と夜と二十四時間が三百六十五回くり返す型通りの一年であったが、たった一つの変化が、一年の長さにふさわしくなかった。
朋子の死は突然だった……。
事故死ではない。
——病気というものは、もう少しゆっくりと人を死に誘うものではあるまいか——
前ぶれはたくさんあったらしい。死に至る病人の足取りは相当に速かったけれど、さりとて前例のないほど異常な変化だったわけではない。段階を追って悪化したことはまちがいない。だから�朋子の死は突然であった�と、そう言ってしまっては正しくはあるまい。中彦が迂闊《うかつ》だっただけのこと……。
——人はそう簡単に死ぬものではない——
と、おおよそは正しいか、けっして絶対とは言いきれないテーゼに、中彦が盲目的に信を置いたのがいけなかった。
朋子の顔に薄く貼《は》りついているような疲労は何度も目撃した。宇和島への旅では、ずっとそれを見続けていた。
——仕事のやり過ぎ——
そうとばかり思い込んでいた。
だが、あとで聞けば、仕事をやり過ぎるのも、朋子に死をもたらした病いの特徴なんだとか。いまわしい細胞が増殖を開始し、そのために一時的のことながら生命力が高揚し、なにかにとり憑《つ》かれたように働きまくる。生体が若い命であるときには、とりわけそんなことがよくあるらしい。命の短いことを本能的に知って、精いっぱい生きようとする、そんな本能も働くのかもしれない。
宇和島から帰ったあと、
「和歌山へはいつ行こう」
「行きたいわね」
電話口からこぼれて来る声は、強い願望でありながら、かすかにネガティブなものを含んでいる……。そんなふうに聞こえた。
——行けない事情があるのかな——
また前の夫とよりを戻したりして……。
「だから、いつ」
「そうねえー。体調がよくないの」
「へえー、風邪《かぜ》かな」
「そうかもしれない。この頃、なかなか風邪がなおらないから」
「無理するなよ」
「ええ」
「早く元気になって、ジャーンと威勢よくやろう、最終回は」
「ええ、本当に」
行きたいのも本当ならば、体調がすぐれないのも本当らしい。
——急ぐことはない——
中彦はいつもそう思ってしまう。
こんなやりとりが二、三回あって、青山のコーヒー・ショップで会ったときには、
「ドックに入ってちゃんと診てもらおうと思うの」
「それがいい」
化粧がまた濃くなっていた。
素顔の表情は顕著に病んでいたのではあるまいか。
朋子は八王子の病院へ入院した。
——なんでそんな遠いところへ——
と思ったが、妹さんの家が近いからと、これはあとで知ったことである。朋子自身、
——長い療養になるかもしれない——
と、感ずるものがあったからだろう。
「中学生の頃、結核をやって、それが再発したらしいの」
「結核なんて、今ごろあるのかよ」
「あるらしいわよ。現にそうなんだから。腎臓もわるいらしいの」
「ふーん」
「二、三か月入院して骨休めね」
「そんなにかかるのか」
「そうみたい」
「まいったなあ」
これも電話で話したことである。
もちろん中彦は見舞いに行った。朋子の様子は……たしかにやつれてはいたが、命にかかわる病気だなんて中彦は天から考えていなかったから、
——腎臓は結構厄介だからなあ——
甘い視点で病気を見ていた。
「また来るよ」
「無理しないで。病気のとこ、見られるの、好きじゃないし」
朋子にはたしかにそんなところがある。いい状態の自分を見せたい……と、その気持ちには嘘《うそ》はない。
「わかった。まあ、ときどき」
八王子は遠い。行こうと思っても行きにくい。朋子は短い手紙を書いて寄こす。中彦も手紙を送った。日常の些事《さじ》を記して……。
——このほうがいいのかもしれない——
朋子の手紙には�会いたい�とか�見舞いに来てほしい�とか、その手の文句はなにも書いてなかったし、むしろ中彦の手紙を楽しみにしているようにうかがえた。この時期に病院を訪ねたのは、たった二度……。朋子の好きそうな本を選んで送ったりしたが、それもあまり読めないらしく、かえって負担になったのかもしれない。
そのうちに中彦がアメリカ旅行に出発する。ほぼ一か月のスケジュール。ハワイには行ったことがあったけれど、本土は初めてである。
帰ったら朋子に、
——こんな話をしよう、あんな話をしよう——
心づもりがたくさんあったのは、病気の悪化など、ほとんど頭の中になかったからだろう。アメリカは雄大で快適で中彦はその明るさに酔っていた。
だが、朋子にとっては、この時期が決定的だった。手術もしたらしい。
日本に帰って病院を訪ねてみると、これはもう、ただごとではない。顔色や様子を見れば、
——簡単な病気じゃないぞ——
初めて疑いを持った。
「ちょっと長引くらしいの」
「きちんと癒したほうがいい」
「ええ」
「和歌山はゆっくりでいい」
「行こうね」
朋子の口調は軽かった。自分の病気をどれだけ知っていたのか。なにもかも知っていたのかもしれないが、中彦に話したことは、
「悪性じゃないから大丈夫よ」
「元気そうだよ」
ただの見舞人なのだから、それ以上のことは聞けない。
——妹さんに会ってみようか——
そう思いながら果たせなかった。
それから死まで、あっけないほど早かった。この過程だけは本当に信じられないほど短かった。人の命なんて、たあいのないものだ。死ぬときは簡単に死ぬ。朋子の妹から連絡があって駈《か》けつけたときには、もう昏睡状態に陥っていた。そこで初めて、
「入院のときから、もう病気が相当に進行していて」
と聞かされた。
葬儀はさびしいものだった。親も子もいない。こんなときのために人は家族を作っておくのかもしれない、などと中彦は馬鹿らしいことを考えた。
白い花の中で朋子が笑っている。
朋子は色の鮮かな花が好きだった。
——どうせなら、そんな花で飾ってやれないものだろうか——
菖蒲《しようぶ》の花の鮮明な紫の色が、そして遠い日の公孫樹《いちよう》の黄の色が中彦の脳裏に映った。
奇妙なことに中彦が一番しみじみと感じたことは……表現をするのがとてもむつかしいのだが、
——損をしたなあ——
そんな実感だった。
ところどころにポカンと穴があいている。心の中にも、時間の中にも、空間の中にも……。本当にどう説明したらいいのか。今までは、
——うん、俺には朋子がいる——
心の奥底に、ほとんど意識のない感覚として、そんな期待があった。安らぎがあった。朋子の存在感があった。
それが急に消えてしまった。とても大切なものを失ってしまい……大切さをあまり強く意識していなかったから、失ってはじめてその損失にうろたえている。それが、
——損をしたなあ——
という実感の正体かもしれない。
まったくの話、日々の生活の中で、ふと気がつくとあちこちにうつろな穴があいている。
もちろん朋子の一生を……とくに不幸ではなかったかもしれないが、命の短さだけを考えてもけっして幸福とは言えない一生を、悼む気持ちは充分にあったけれど、それはむしろ、よそ行きの感情……そう思わなくては世間の習慣に反するから、そう思っているような部分も少なからず含まれている。
「無理しなくていいのよ」
朋子はいつもそう言っていたし、どちらにとってもそうであったことが、二人の関係の一番すばらしいところだったろう。
立場が逆になっていたら、
——やっぱり俺も�無理するなよ�と思うだろう——
よそ行きの感情ではなく、すなおに、
——損をしちゃったわ——
と、朋子に思われたら、それで満足、それで本懐、きっとそうだろう。
人間はこの世に投げ出され、なんの理由もなく消えて行く、朋子の死に直面してさらにはっきりと、さらにひしひしと、そのことを実感させられたが、それを追いかけるように、
——だからこそなにかをやりとげなければいけない——
と、あらためて強く考えさせられた。
たいしたことはできない。本当に価値のあることなんか、この世にありゃしない。自分にとっての価値。自分にとっての満足……。
——朋子は自分の命の長さにあわせて、ささやかな目的を作ったのかもしれない——
初めは気まぐれだった。旅を楽しむための口実だった。そのうちに体が警鐘を鳴らす。
「あなたはそう長くは生きられませんよ」と。無意識のうちにも朋子は、それを感知して、そしてなんの役にも立たないぬり絵の完成を生きた印にしようとする。そんな意識が脳の片すみにに宿る。
「南楽園を見たいの」
朋子にしては、めずらしいほど執着があった。
「和歌山へも行きたいわね」
切実な響きが感じられた。
——弁慶のことを言ってたなあ——
もちろんただの偶然だろう。弁慶は九百九十九本の刀を集め、最後のところで志を遂げられなかった。
「あと一歩のところで駄目になるんでしょ、こういうことは、昔から」
その通りになってしまって……。逆にぬり絵の旅など考えなかったら、朋子は死ななかったのかもしれない、と思う。
——まさかそんなこともあるまいけれど——
今となっては、せめてぬり絵の地図だけは完成させてあげなくてはなるまい。
ある朝、朋子がくれたモーニング・カップの古地図を見ながら、
——今日、行こう——
中彦は内ポケットに地図を入れ、午後の新幹線に乗った。
新大阪で降りて天王寺《てんのうじ》へ。天王寺から和歌山まで。
堺を通り抜け、しばらくは住宅地らしい街が窓の外に続く。
いつのまにか山が深くなり、大阪と和歌山はけっして一続きの平地ではないらしい。
阪和《はんわ》線の車両が県境を越えたところで内ポケットの地図を取り出し、一か所だけ残った白の部分を赤く、青くぬりつぶした。
和歌山駅に着く。
夜が街を黒くおおっていた。
駅の前こそネオンがまばゆく点滅しているが、思いのほか鄙《ひな》びた印象の町である。ここにも市街地の中心に城址《じようし》があるらしい。
——どこに行ったらいいのか——
ガイドブックも持たない。タクシーを止め、
「海の見えるところ」
「雑賀崎《さいがさき》の燈台かなあ。なんにも見えんけど、夜だから」
「行ってみて」
商店もあらかた、シャッターをおろしている。灯を消している。走るにつれ街がますます暗くなる。
「あれは、なに」
指をさして尋ねた。
「天満宮です」
「ちょっと止めてよ」
いくつもの階段。高いところに灯がともっている。白いものが揺れて消え、境内をだれかが……女が歩いているように見えた。
急な階段を昇った。
息が切れるほど急いで昇った。
影を含んだ光の中に、どっしりとした社《やしろ》がうずくまっている。だれもいない……。白いものを見たのは眼の錯覚だったろう。とりあえず神殿の前に立って手を合わせた。
——いま朋子とここに来ました——
短く告げ、境内を一めぐりし、階段のふちに立った。
だれかが降りて行く。ずっと下のほうを……。
まさか。
しかし、そんな気配を感じたのは本当だった。
階段を駈《か》け降りた。
息が切れるほど急いで……。
タクシーが、ひっそりと待っている。
「じゃあ燈台まで」
「はい」
旅館街を通り抜ける屈曲した道だった。
「ここですよ」
燈台と言っても、いつか朋子と訪ねた野島崎のように豪壮なものではない。小さな灯がクルクルとまわっている。海を照らすと言うより陸のありかを船に教えている。展望台をかねているらしい。
ゆるい螺旋《らせん》状の通路を昇った。
暗い海だけが広がっている。視線を凝らすと、海の上に黒い島があった。海面は十メートルほど下にあるらしい。
内ポケットから地図を取り出す。
——ようやく完成した、ぬり絵の地図——
こんな結末になるとは予想していなかった。手もとにだけは燈台の光が当たる。もう一度地図を眺め、中彦は一つ頷《うなず》いてから、ライターの火をつけた。
地図を海に向かってさし出し、火を移す。
炎が地図をなかばまで燃やすのを待って、指を離した。
炎が揺れながらゆっくりと海へ落ちて行く。
そして音もなくふっと消えた。
暗い海に一瞥《いちべつ》を送り、螺旋状の階段を降りた。
「なんも見えんでしょう。見えればいい景色なんだけど」
「見えた、見えた」
「もういいですか」
「もういい。みんな終った」
「はあ?」
海ぞいに散歩道のようなものがあるらしい。
「ここでいいよ。散歩をして、適当に宿を捜すから。いくら?」
運転手がメーターを覗《のぞ》き込む。
余分なお金を渡し、運転手が釣銭を取り出したときには、もう中彦は歩き始めていた。
「いい、いい」
「いいんですかあ」
「もういい。みんな終った」
海ぞいの暗い道を進みながら、眼を凝らした。何メートルか先をまた最前の白い女が歩いて行く……。
「朋さん。やっぱり来てたんだね」
声をかけ、中彦は足を速めた。