図書館員の頃《ころ》
学生時代に肺結核を患い、体に比較的無理のない職場ということで、国立国会図書館の採用試験を受けた。
筆記試験を通過し、面接となり、
「図書館ではどんな仕事をやりたいか」
と尋ねられ、はて、積極的にやってみたい仕事が頭に浮かばない。とたんにわるい悪戯心《いたずらごころ》が首を持ちあげ、
「館長の仕事なんか、おもしろいと思います」
試験官は苦笑し、
「いきなりは無理だ」
と、言ったように思う。
面接場を出てから�与太が過ぎたかなあ。あの一言で駄目だろうなあ�と反省したが、試験官にはユーモアを解する人が多かったらしく、無事に採用となった。入館してみると、図書館上層部にはリベラリストが多く、あのくらいのジョークなら充分許容されたわけだ、と覚《さと》った。
当時の国会図書館は赤坂離宮(現在の迎賓館)にあって、四ッ谷の駅からの並木道はなかなかの景観だった。シンメトリックな白い王宮に、黒い鉄柵《てつさく》の塀。道はまっすぐに続いて、主要道路のほうが迂回《うかい》している。毎朝、貴族的な仕事に赴くようで、すこぶるよい気分だった。
離宮は、向かって左が男子用の居室、右が女子用の居室と分かれていて、図書館はこの左半分を主として使っていた。
もともと皇室の応接間として作られた建物だから、事務室にはそぐわない。部長室は風呂場、われわれの事務室は回廊だった。天井からシャンデリアがぶらさがり、壁画の美しいエジプトの間で�勤勉手当て三百円を寄こせ�などと組合交渉をやっていた。
この建物はヴェルサイユ宮殿に模《も》して作られたものだが、貴族の習慣を反映してトイレットがない(貴族は、みんなおマルを使用していた)。屋外に職員用のトイレットがあって、大雨の日には傘をさし、長靴を履いて行かなければいけない。不自由と言えば不自由だが、のどかと言えばのどかだった。
四月に勤務して、すぐに月給をもらった。現在でもそうだと思うのだが、ここは月給前払いのシステムなのである。うれしかったなあ。
前払いの月給は順ぐり順ぐりに支払われて、結局は退職の日に月給をもらわずに罷《や》める形になるわけだが、その日には退職金その他の諸手当てもあるので、一か月分の月給などもらわなくても、どうということもない。入館早々の喜びだけが印象に残る、うまいシステムだと思った。
初任給は一万円と少し、女性が�せめて二万五千円月給を取る人と結婚したい�と言っていた時期だから、相当に安いほうだった。仕方なしにアルバイトの原稿書きに精を出し、それが現在の小説書きの道につながった、と言えなくもない。
在職十一年。離宮から永田町の図書館への引越しをやり、それから和書分類係と洋書目録係に、それぞれ五年くらいずつ籍を置いた。
国会図書館は日本でただ一つの納本図書館だから、この国で発行される本は原則としてどんなものでも入って来る。
和書分類係は、それを内容に従って仕分けする。だから私はほぼ五年間にわたって、日本で発行される大部分の図書に眼を通していたはずである。
もちろん通読するわけではない。本の題名や顔《つら》を見て、すぐに中身のわかるものは、そのままパス。
内容のわからないものだけ目次を見て、前書きを見て、まれに第一章くらいを読んだりする。おもしろそうなことが書いてあると、そのまま仕事をしているような顔をして読み進む。役得のうちである。
サン・ジェルマン伯爵という不老不死の男がヨーロッパに実在した話、清教徒革命で処刑されたチャールズ一世がゴルフ狂であったこと、あるいは大航海時代のインドで人間の死体を肥料にすると、その人間そっくりの木が生えるという話、などなど昨今の私の小説の題材となった異聞奇談のたぐいには、この頃に仕入れたものが少なくない。
後半の洋書目録係では、その名の通り外国図書のカタログを作った。著者名を明らかにし、どこからどこまでが書名か、それを決定するのが主要な仕事だったが、知らない外国語となると、これだけのことでも結構むつかしい。油断していると�増刊号�と書いてあるのを著者だと思ったり、著者の名を本の題名だと錯覚したりする。
国立国会図書館で購入する洋書は、科学技術関係や法律書、官公庁資料などが主要なものだから、これは仕事の合い間に読んでもあまりおもしろくない。役得ゼロ。
ああ、そういえば、スイスで発行された浮世絵の図版が入ったことがあったっけ。もちろん野暮なボカシなど入っていない。歌麿、北斎、国貞など図柄は何度か国産の本で見て知っていたが、肝腎《かんじん》なところはいつもボカシだった。スイス版を眺めて、
「ああ、この絵はこういうぐあいだったのか」
と、初めて勉強をした。
今でもあの本は国会図書館の蔵書になっているはずだが、一般には公開しない。予算審査の折などに、
「ご苦労さまでした。お骨休めにどうぞ」
と言って、大蔵省のかたにお見せしたりするらしい。また、わるい悪戯を言っちゃったのかなあ。