ブラザーの言語学
今ではもう�新制�中学という呼び名はなくなったが、私はその新しい�六・三制�中学の第一期生であった。
小学六年の二学期ごろまで旧制中学へ入るための受験勉強をしていたが、途中で、
「中学へはみんなが行けるらしいぞ」
という噂《うわさ》が流れた。
三月になって小学校は無事に卒業したけれど、次に行く学校がない。
ある日、近所の子が、
「あした、S小学校へ来いってさ」
と伝えに来て、行ってみると、その日が新制中学の入学式だった。
学校は今まで通っていた小学校の一部分を借りた仮校舎。先生もあわててかき集めたような印象がなくもなかった。
東京あたりではどうだったのかわからないが、私が住んでいたのは新潟県の長岡市——まあ、田舎町のほうである。今思い返してみても玉石|混淆《こんこう》の教師陣だった。
英語科のT先生は、東京外語を卒業したのち長く外交官を勤めた老教師で、年齢的にはいささか若々しさに欠けるうらみはあったが、まちがいなく�玉�のほうに属していた。
新しく習う学問をすぐれた先生のもとで学べたのは幸運であった。
「ブラザーという言葉に相当するうまい日本語はないんだよ」
と教えられたのをよく覚えている。
T先生の説明はこうだ。
辞書を引くと、ブラザーの訳語には�兄弟�と書いてあるが、これはあまり正確ではない。�兄弟�という日本語は、相互の関係をあらわしたものであり、英語のブラザーはそれとは少しちがう。ブラザーは兄でもなければ弟でもない、それを二つ混ぜあわせた存在を言うのであり、日本語には適当なものがない。日本人は兄か、弟か、かならず区別して言う習慣があり、英米人は、まず二つひっくるめたものをブラザーと言い、必要があればエルダー・ブラザーとかヤンガー・ブラザーとか、形容詞をくっつけて分けるのだ。だから�アイ・ハブ・ア・ブラザー�という文章があったら、前後の関係から考えて「私には兄が一人ある」あるいは「私には弟が一人ある」と訳さなければいけない。
「これから先、英語を勉強するにあたって、いつも日本語と英語とでは、ものの考え方からしてちがうことは忘れてはいけないよ」
という結論であった。
中学生を相手に教えるにしては、少し高級すぎる内容だったかもしれない。
しかし、今でも私がこの話を記憶しているところをみると、小さな頭でそれなりに理解できたのだと思う。
この教訓はたしかにその後末長く外国語を学ぶに当たっておおいに役立った。外国語を勉強するときばかりでなく、欧米の文化に触れるときにも、彼と我と�世界の切り方がちがっている�という認識は、すこぶる有効であった。
大学に入って、K先生からフランス語を習った。テキストはジロドウの�アンフィトリオン38�という戯曲。むつかしいテキストだったが、男女間の�きわどい�やりとりが描かれているので、そこがちょっとおもしろい。
このテキストの中に(直訳すれば)�彼女は愛の最中にしゃべらない�という文章があり、K先生はこのくだりを女生徒に訳させたあとで、
「それはどういう意味かね」
と、尋ねた。
その女生徒はちょっと考えてから、
「この女の人はきっと恋愛をすると無口になるタイプなんじゃないでしょうか」
と、答えた。
K先生はニヤリと笑ったように思う。
それから笑いを顔に残したまま、
「フランス人にとっては、愛ってものはネ、心の問題じゃなく、肉体の愛を意味する場合が多いんだよ」
と、説明した。
くだんの女子学生が、この説明だけでテキストの真意を理解したかどうかはわからない。だが、読者のみなさんはもうおわかりだろう。
�彼女は愛の最中にしゃべらない�というのは、けっして恋愛をすると無口になるわけではなく、肉体的な愛の最中に「いい」だの「すてき」だの、そういう文句を口走ったりしない、という意味内容であった。私はこのときも、遠い昔、中学校の教室で習った�ブラザーの言語学�を思い出した。
フランス語の�アムール�。これはたしかに辞書を引けば�愛�という訳語が記してある。しかし、その�愛�の中身は、日本人が考えるほど精神的なものばかりではないらしい。精神の愛とセックスとが微妙にからんだものであり、適度に使い分けなければいけないようだ。
中学生の息子が夏休みの宿題で英語を勉強している。私は昔習ったことを思い出し、「ブラザーに相当するうまい日本語はないんだよ」と教えてやったが、豚児《とんじ》はキョトンとした顔で私を見つめるだけであった。私の説明のしかたがわるいのか、相手がわるいのか……。