結婚披露宴で
結婚披露宴に出席するたびに苦情を言いたくなることが、少なくとも二つ三つある。おめでたい席ではあるし、原則的には一生にたった一度しかないことだから……つまり、そこで文句を言っても次に改善する機会がめぐって来ることは期待できないのだから、たいていは黙っているのだが、本書のページをかりて、いささか鬱憤《うつぷん》を晴らさせていただく。
まず、司会者のしゃべり過ぎが気に入らない。
察するに、あれはテレビの司会者の影響ではあるまいか、と思う。
私自身もあるテレビ局のワイド・ショウでキャスターの役を務めていたので、あまり大きなことが言える立場ではないのだが、テレビ番組の司会者はおおむね愚にもつかないことをペラペラとしゃべりまくる。
まあ、それは仕方がない。
テレビの司会者は、それが職業であり、なにやかやと饒舌《じようぜつ》に話しまくって、自分の存在を視聴者に印象づけなければいけない。居るのか居ないのか、よくわからないような司会役ではタレントとしての生命が危ない。目立とう精神も身過ぎ世過ぎのうちなのだ。
しかし、結婚披露宴の司会役はそうではあるまい。
当日の主役は新郎新婦であり、また主賓をはじめとする参列者各位のはずである。司会者はほんの進行役。大切な役まわりではあるが、ことさらに目立つべき立場ではない。
ところが、どう心得ちがいをしたのか、この人がよくしゃべる。
まず会の冒頭に自己紹介を長々とする。お日がらがよろしいとか、新郎と自分はどんな関係だとか、時には新郎新婦の人となりまで説明したりする。
会の冒頭は、式次第の流れの中ではすこぶる�高い�位置である。こんな時にペラペラ司会者がしゃべるのは、司会者がメイン・テーブルに着席するのと同じくらい珍妙なことのはずだ。ちがうだろうか。
自己紹介は必要最小限度、ほんの一言ですますべきである。
テーブル・スピーチが始まると、司会者が、
「若い二人に大変役立つ、結構なお祝辞をいただきました」
などと、論評がましいことを言う。これも司会役の仕事の範囲を逸脱している。
さて、次に、これも司会役の仕事に関係があるのだが、祝電の披露というのが、私にはよくわからない。
いいですか。祝電というものは、きれいな封筒に入っているけれど、料金にして五百円足らず、電話一本かければこと足りる、簡単な儀礼である。発信人が秘書にでも一言告げておけば、それですむものだ。
これに比べれば、参列者のほうがずっと大変である。
式場まで足を運ぶのも一仕事だし、ご婦人ならば衣装を整えるだけでも相当に費用がかかる。参列者はそれだけの労力やお金を費やしてわざわざ出席してくださったかたなのだ。
その人たちをさしおいて、�さあ、これから祝電を読みあげます。みなさん、敬聴してくださいよ。拍手をしてくださいよ�と求めるのは、どういう神経か、私には不思議に思えてならない。
電報はせっかく文字で書いてあるのだから、あとで新郎新婦に手渡しておけば、それで発信人の祝意は充分に伝達されるのではあるまいか。
それをわざわざ読みあげるのは�参列者たちよ、よく聞けよ�という意志がある証拠であり、これは参列者をずいぶん馬鹿にしていることにはならないだろうか。
時間にゆとりがあるのなら、ほんの一言でもよい、参列者のほうに祝辞を述べてもらったほうが、その労にむくいることになるのではないか。
一歩譲っても、式次第の一番最後あたりで、発信人の名を一応紹介しておけばそれで充分なのであり、仰々しく電文を読みあげるなど、もってのほかである。
会費制の結婚式というのも、忌むべきものの一つだ。
会費が惜しいわけではない。
自分が�結婚しました�という挨拶《あいさつ》くらい自分の費用でまかなったら、どうだろう。たとえ紅茶一ぱい、ケーキ一個でもかまわない。質素な結婚式はむしろほほえましい。
自分の結婚まで他人の金でやろうとする、その�けじめのなさ�が、ひどく不愉快である。
かたい話ばかりが続いた。最後はジョークで締めくくろう。
「夫婦円満のコツは、相手をほめることです」
というスピーチを聞いて、花嫁がその夜ベッドの中で早速実行したそうだ。
「あなたって上手ね」と。
これは、やはりまずいですね。