小説の書き方
さきに、テレビ番組の司会者をつとめていたことを書いた。
「おまえもいろいろなところに顔を出すんだなあ」
と、友人知人に苦笑されるので、いくらか気おくれを覚えているのだが、じつはこのほかにも私は日本経済新聞社の文化講座で�小説の書き方�の講座を担当している。
この道では、すでに朝日新聞社のカルチャー・センターが話題の講座を持っていて、あちらのほうは駒田信二さんが名講義を重ねていらっしゃる。
「駒田さんにはとてもかなわないなあ」
と、真実そう思ったが、日本経済新聞のほうでは�若い、エンターテインメントの実作者を希望している�ということなので、それならいくらか当てはまると思ってお引き受けした。
わりとすぐ引き受けてしまう癖があるんですね、私は。
あとでうかがってみたら講師選定の条件には、もう一つ�チャンと授業に出てくれる人であること�という項目もあったらしい。
なるほど。エンターテインメントの実作者の中には、強者が多いから、
「あ、二日酔いだ。今日は休講!」
ということも、おおいにありうる。
この文化講座は日本経済新聞と伊勢丹デパートの提携で開いたものなので、デパート商法としては受講生からお金をいただいておきながら�はい、休講�では、はなはだまずかろう。
あまり休講のなさそうな私が選ばれたゆえんである。
——どんな人が聞きに来るだろう——
と、いたく興味を抱いて第一回目の授業に出てみたら、四十五人のクラスのうち四十人が女性。年齢的には、三十代、四十代、五十代が、ほぼ同じ人数で大部分を占めていた。
顔ぶれはこれでわかったが、どんな目的で�小説の書き方�を聞きに来るのか、その動機があまりよくわからない。そこで第一回目にアンケートをとってみた。�一生に一度、小説を書いてみたい、と思っている�という答えがいくつかあった。�小説好きなので、自分も書けるものなら書いてみたい�という主旨の答えも散見された。
傑作は�本当は主人が書きたがっているんですが、勤めがあるので受講できません。私が聞いて帰って、夕食後に伝えます�それから�子どもが文章にセンスがあるようなので、将来その道に進ませたいと思って�の二つ。さしずめ�内助の功�型と�教育ママ�型。
昔は�小説家になりたい�などと言ったら親兄弟があわてて引き留めたものだけれども、昨今は大分事情が変わって来たらしい。
授業を始めてみると、これがなかなかむつかしい。
教えることがあまりないのである。
同時に始まった他の講座にはたとえば�音楽の鑑賞法�や�利殖の知恵�などがあって、そちらのほうは、なにやら盛りだくさんの講義をやっているようだ。
だが�小説の書き方�は、あまりいろいろな知識を与えても、かえって役に立たないおそれがある。
小説とはこういうものだ、ああいうものだ、こんなのもある。こう書いたほうがいい、こう書いた人もいる——こういう知識は、小説鑑賞の役には立つが、あまり知識ばかりを詰め込まれると、
「小説って、むつかしいものだなあ」
という意識だけが先に立ち、いざ自分が書くときになって、自己規制だけが強くなり、なにも書けなくなる。
どうやら、この講義はスポーツのレッスン、たとえばゴルフのレッスンなどに似ているのではなかろうか。
�ボールから目を離すな��左手を強く��体の軸を揺らしちゃダメだ�などなど、ゴルフの場合、教えられるべき項目はそれほど数多くはない。おそらく二十か条か三十か条を正確に守れば、シングル・プレイヤーになれるだろう。
だが、理屈はわかっても、体がなかなか思うようには動かない。レッスン・プロは、だからいつも同じことを繰り返して教える。�小説の書き方�も、これによく似ている。
こまかいことを言えば、際限がないけれど、初めて(あるいはほぼ初めて)小説を書く人に申し述べるべき注意事項はそれほど多くはない。�人間をよく観察して、生き生きと描くように�と、ひとこと言えば、それでみんな終わってしまうようなところもある。
よく観察するにはどうしたらよいか、生き生きと描くにはどうしたらよいか、もちろんそれについても一通りの解説はするけれど、最終的には本人が自分なりに会得《えとく》しなければいけない。知識だけではどうしても教えられないところが相当に大きく残ってしまう。
「とにかく実際に書いてみることです」
と、勧めているのだが、書いたものをあまりたくさん持って来られると、さあ、大変。
それよりも私は自分の原稿を書かなければいけないんだった。