地震あれこれ
東海地震の噂《うわさ》があちこちでささやかれている。
地震は本当に来るのだろうか。
何年か前、ある地球物理学者と対談したことがあったので、その時に質問してみた。
「関東大地震級の地震が遠からず起きるって言われてますが……」
すると物理学者は厳粛な面差しで答えた。
「かならず来ます。科学的なデータははっきりとそれを予測しています」
「いつ頃《ごろ》?」
「まあ、十年以内、と私は一応考えていますが」
これはエラいことだと思った。
「確実ですか」
と、念を押すと、物理学者はかすかに笑って、
「この種の予測には確実ということはありません。多少の誤差はつきものでしょう」
「どのくらい誤差があるんですか」
「そりゃ地球のことですから、一番小さく見積もっても四、五十年の誤差はあるでしょうな」
ナーンダ、と思った。
だが、これが科学的真実というものだろう。東海沖あたりを中心に地震の気運が高まっているのは本当らしい。
しかし、なにぶんにも地球は大きいし、その生成発展の歴史は古い。
もし人間の場合、�明日の十二時に死ぬ�と予言されて、十二時十分に死んだら�予測はみごと適中した�ということになるだろう。この誤差十分に相当するものが、地球の場合には四、五十年になる。�近いうちに地震が来る�と予測して、五十年後に地震が来ても、地球物理学的には�おおむね適中した�ということになるのだろう。
地球の変遷のサイクルと、人間一生のサイクルとがあまりにもちがいすぎるのだから、これは仕方がない。
この時にもう一つおもしろい話を聞いた。
「大地震というものは、こわがっているひまがないものなのです」
と、学者は言う。
「はあ? こわくないんですか」
「いや、こわいことはこわいけど、こわがるひまがないんです」
「はあ?」
「つまり、大地震というものは、最初の一揺れか二揺れが一番大きい。急にドドーッと襲って来るケースがほとんどです。こわがるより先に逃げ出さなければいけません。たいていの人は家が揺れ出すのを感知して�ああ、このままひどくなったら、どうしよう�と心配するわけですが、実際には初め弱く揺れ、次第次第に強くなる大地震というのはほとんどありません。だからこわがっているひまがあるのは、もうそれ自体大地震でない証拠なんです」
これは、いいことを聞いた、と思った。
いつぞやの伊豆沖地震の時、私はマンションの五階にすわっていた。かなり大きく揺れて不安を覚えたが、�不安を感じるゆとりがあるのは大地震ではない�と信じてすわり続けていた。
案の定、間もなくおさまった。
私の知人に地震恐怖症の男がいるので、早速この�学説�を教えてやった。
「大地震は急にドドッと来るんだ。このまま大きくなるんじゃないかって、気をもむ必要はないものらしいぜ」
地震をこわがる人というのは、家が揺れ始め、なんとなくもっと強くなっていきそうなあの四、五秒間が恐ろしいのだから、私の説明で彼は充分安心すると思った。
ところが、彼はいっこうに気を安める様子もない。
「どうした? やっぱり心配かね」
と、尋ねたら、
「うん。今度はいつドドッと来るかと思って、四六時中心配していなければいけない」
なるほど。これも一理屈である。
話は少し変わるが、今、私は�マンションの五階にいて�と書いたが、これは私の自宅である。
過日、四階の、真下の家から電話がかかって来て、
「足音が響くから、少し気をつけてほしい」
と、言う。
わが家には子どもが三人もいるのだから足音が響くこともおおいにありうるだろう。下の家では、ドシンと足音が響くたびに、天井を見あげて顔をしかめているだろう。すこぶる同情して、少しは気をつけるように努めているのだが、なにぶんにもこちらも日常生活を営んでいるので、足音を完全になくすことは不可能だ。
私は四六時中気を使うようになった。子どもたちの足音にも気を配るようになった。そこで、ふと思った。
下の階の人は、足音が響いたときにだけ心を悩ませればそれでいいのだが、私は�どの足音が響くだろう�と終日心を悩まさなければいけない。こちらの精神的被害もそう小さくはない。
地震恐怖症の男が�四六時中心配しなけりゃいけない�と言った心境が少し理解できた。