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まじめ半分12
日期:2018-03-31 09:53  点击:259
 ある雑誌の終焉《しゆうえん》
 
 
 昭和二十年代から四十年代にかけて�漫画読本�という雑誌が発行されていたのを覚えておられるだろうか。
 版元は文藝春秋。漫画が半分、読物が半分といった体裁で、エンターテインメント一筋の編集方針。新鮮な企画に溢《あふ》れ、なかなかスマートな都会的な誌面だった。
 当時はまだ娯楽雑誌の少ない時期だったから�漫画読本�はおおいに人気を集め、全盛期には三十万部を越える部数を誇っていたのではなかったか。
 その発行部数がだんだん減少し、ついには十万部を切り、昭和四十五年九月号を最後にして休刊、実質的な廃刊となった。
 理由はいくつか指摘できる。週刊誌が雑誌の主流となり、読者の嗜好《しこう》が月刊誌から離れたのもその一つだろう。劇画の台頭もマイナス要因として作用したにちがいない。さらに「世の中の雑誌がみんな漫画読本になってしまったからなあ」
 といった情況とも無縁ではなかっただろう。つまり消費文化への移行にともない、多くの雑誌が娯楽色を強め、みんな�漫画読本�的傾向を帯びるようになった。結果として�漫画読本�の特殊性が色褪《いろあ》せてしまったのである。
 しかし、このことは裏を返せば�漫画読本�の企画性がそれだけすぐれていた証拠ともなりうるだろう。私は今でも、
「おもしろいページを作ろうと思ったら、古い�漫画読本�を見るといいですよ。なにかしら盗み取れるものが残っていますから」
 と、若い編集者のかたがたに答えることが多い。
 アダムス、ペイネ、サーパーなど欧米のすぐれた漫画家たちの作品に触れることができたのもこの雑誌のおかげだった。当節はやりの一口ジョークも、この雑誌が毎号掲載している呼び物の一つだった。漫画賞、しゃれた外国小説の紹介、折込みのピン・アップ・ヌード、カラー・ページ、穴場ニュース、旅と食べ物のページ、新人漫画家の発掘なども、この編集部が意欲的に作りあげた�遺産�であった。
 まだ商業雑誌の少ない時期だったから、寄稿家の顔ぶれも多彩だった。第一線の漫画家はもちろんのこと、吉行淳之介、山口瞳、暉峻《てるおか》康隆など、洒脱《しやだつ》な文章がページを飾っていた。まださほどに著名ではなかった頃の野坂昭如、政治家に転身する以前の野末陳平、さらには星新一、永六輔、前田武彦、小中陽太郎、石川喬司、上前《うえまえ》淳一郎、片岡義男たちもしばしば登場していたように思う。匿名のページも多かったので定かにはわからないが、現在ジャーナリズムの中堅に活躍する書き手の中には、この雑誌から育った人が相当数いるのではなかろうか。かく言う私自身も休刊間近い頃の常連ライターであった。
 まさか私が参加するようになったせいではあるまいが、四十年代に入って�漫画読本�の売れ行きは下降を続け、あわてて劇画に色目を使ったりしたが、これもカンフル剤とはならず、
「今後の編集方針についてご相談したい」
 という主旨で、何人かの寄稿家が編集部に招かれて麹町《こうじまち》の�松井�という料理店に集った。
 私が少々定刻に遅れて部屋に入って行くと一座の雰囲気が糊でも張ったように強《こわ》ばっている。
「どうしたのですか」
「はあ。せっかくお集まりいただいたのですが、今日の午後の重役会で�漫画読本�は休刊と決まりました」
 企画会議はたちまち残念会と変わった。
 編集部の面々は�無念やるかたなし�といった表情で苦い酒を汲《く》んでいた。たとえて言えば、江戸時代、主家の復興を画策しているその矢先にお家取りつぶしの知らせに接したようなものであろうか。
 二次会、三次会と続き、私は担当の編集者のYさんといっしょに十二時過ぎに拙宅へ戻った。そこでまた残念会のやり直し。
 突如Yさんが立ちあがり、
「どうもおもしろくない。社長に電話をする」
 と、言う。まさか冗談だろうと思ったが、Yさんは私の家の電話機を取って本当にダイヤルを廻《まわ》し始めた。
 社長は池島信平氏であった。話のやりとりから察して、まず奥さんが出たようだ。
「読者の一人ですが�漫画読本�が休刊になると聞きました。その件についてぜひとも社長にひとこと申しあげたい」
 池島社長はもう休んでいたらしいが、わざわざ起きて電話口まで出て来た。
「どうしてやめるんですか。けしからんじゃないですか」
「読者のかたがたのお気持ちはよくわかりますが、なにぶんにも会社の方針として決定したことなので……」
 とかなんとか、社長は当たり障りのない答弁を告げていたようだったが、そのうちに今日の重役会で決まったばかりのことがどうして読者に知れたのだろう、と訝《いぶか》しく思ったらしい。
「どこでそのニュースをお知りになりましたか」
「はあ、じつは私、編集部のYです」
「バカヤロウ!」
 これは、かたわらで聞いている私の耳にもはっきりと聞こえた。
 だが、池島社長はすぐに気を取り直し、
「お前たちの気持ちはよくわかる。私も初めの頃にあの雑誌の編集長をつとめていたから愛着はある。休刊は残念だ。いずれなにかの形で再刊するから、やけ酒なんか飲むな」
 と、穏やかな説得に変わった。
 私は電話を聞きながらなにがしかの感動を覚えずにはいられなかった。
 自分の担当する雑誌が休刊になったからと言って、その忿懣《ふんまん》を社長にまで直訴する社員というのはめずらしいのではないか。とかくシラケ社員の多い当節、これはやはり美談のほうに属する。
 またYさんは多少型破りな編集者ではあったけれど、彼に電話をかけさせた理由の一つに相手が池島社長であったということも忘れてはなるまい。私は残念ながら、この名編集者のほまれ高い人物に直接お目にかかる機会には恵まれなかったが、仕事を愛し社員を愛し、まあ、真夜中の電話くらい受けて立ってくれそうな雅量の持ち主ではなかったのか。いくら無鉄砲なYさんでも相手を考えずにあんな電話をかけるはずはない。
 当時の私は国立国会図書館に勤める公務員であった。お役所にはお役所の秩序があるのだから、いちがいに比較するのは無謀な話だが、一人のサラリーマンとしてこういう珍事を許容しうる組織の情況をうらやましいと思った。
 とりわけ�バカヤロウ�と一喝したあとで、酔っぱらい社員のせつない心情を察してじゅんじゅんと説いて聞かせた池島氏について�なるほど、ひとかどの人物だな�と感銘した。こういう社長の下で働いている編集者はしあわせだったろう。
 もとより以上のエピソードは�漫画読本�という雑誌の一寄稿者として編集部に比較的近い位置にいたけれど、けっして編集部員ではなかった私の、言わば傍観者としての印象にしかすぎない。休刊の事情についても私の知らない複雑な理由があったのかもしれないし、池島社長の人柄も伝聞、推測の域を出ない。
 ただ、今でも私たち往年の寄稿家たちは「あの雑誌はわるくなかったのになあ」と、語り合うことが多い。
�漫画読本�は、たとえば�改造�や�世界�のように日本文化のオピニオン・リーダーとなるような重要な雑誌ではなかったが、現在に続く娯楽雑誌のさまざまな源流を内包するユニークな試みに溢れていた。その終焉《しゆうえん》の日のエピソードを、せめてもの遠いはなむけとして私は語ってみたかったのである。池島氏は他界し、Yさんも編集部にはいない。

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