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まじめ半分22
日期:2018-03-31 09:57  点击:331
 なぐる教育
 
 
 私の父はけっして子どもをなぐらなかった。兄もなぐられた覚えがないと言うし、私自身も記憶がない。
 父は鉄工所の経営者で、若い頃には荒くれどもを引き連れて未開の樺太《からふと》あたりまで渡っているのだから、男くさい、荒っぽい生活習慣に無縁のはずはなかった。
 ただ奇妙に文化的な生き方やリベラルな思想に共鳴するところがあって�わが子をなぐらない�という信条も、多分そんなところから出ていたのだろう。
 その信条とはなんの関係もあるまいが、父は頭髪が薄く、四十代のなかばできれいにはげていた。私は父の頭に髪の毛のある姿を想像することさえできない。五つ年上の姉も知らないし、八つ上の兄も知らない。十二歳年上の長姉にも尋ねてみたのだが、
「私も知らないの」
 という返事だった。
 私は心配になり、母にも尋ねてみた。
「そうねえ、結婚後しばらくはあったけど、初めから薄かったわねえ」
 さすがに母は知っていた。
 だから私の知っている父は、みごとなはげ頭であって、口ひげをたくわえ、和服姿ですわっているときは、なかなか威厳があった。
 顔をあわせると文句を言われることが多いので、できるだけ父のそばには近づかないようにしていた。幼い私にはこわい父親だったが、その実、人情もろい、やさし過ぎるほどやさしい人柄だったらしい。
 子どもの頃の私はまことに意気地なしの、情けない少年だった。いじめっ子が怖くて仕方がない。押し入れの中に隠れて、なんとか学校へ行かないように工夫したこともしばしばであった。
 どうしてそれほどいじめっ子が怖いのかと言えば、煎《せん》じつめれば、なぐられるのが怖かったのである。なにしろ家ではなぐられた経験がないのだから、外でピシャンと頬《ほお》などを叩《たた》かれると、これが身に染みて恐ろしい。世界がまっ暗になってしまう。なんとかなぐられないようにと、いじめっ子の前に平伏し、来る日も来る日も屈辱的な生活を送っていた。
 小学五年生の頃だったろうか。私は忽然《こつぜん》と悟った。
 ——なぐられるのはそれほど恐ろしいことだろうか。いくらなぐられたって殺されるわけではない。痛いといったところで、ほんの瞬間だけだ。虫歯のほうがもっと痛い。なぐられないようにと願ってさまざまな屈辱的な思いをするより、なぐられたほうがずっといい——
 喧嘩《けんか》の弱いのは相変わらずだったが、なぐられてもなぐられても必死で抵抗するすべを覚えた。いじめっ子としては�なぐる�効果が消失してしまっては、いじめ甲斐《がい》がない。私は次第になぐられなくなり、以前ほど弱虫ではなくなった。
 私自身の中にこんな体験があるものだから、わが子に関しては、なぐることをそれほどためらわなかった。家でなぐられていれば、外でなぐられてもさほどこたえることはあるまい。それに子どもが充分に幼い時期には、理屈をいろいろ並べて説教したって相手の理解が及ぶまい。世の中には理屈ぬきにやってはいけないことがあると、そう会得《えとく》させるためには、やはり�なぐってやること�も時には大切だと考えた。
 わが家には二男一女がいるが、それぞれに何回かなぐられた経験を持っているはずだ。
「いいか、なぐるぞ。半歩足を開け。手を腰に当てろ」
 と、軍隊式に用意を整えさせ、そこで往復ビンタとなる。
 わざわざこう宣告してなぐるのは、けっして感情でなぐるのではない、理性でなぐるのだ、儀式の一つなんだ、という父親の側の配慮である。
 しかし、ほどよくなぐるというのは、なかなかむつかしい。原稿を書いているときになぐるとしばらくは指先がふるえて仕事ができなくなる。
 長男をなぐったときには、数時間後に、
「お父さん、耳が痛いんだよ」
 と訴えるので、あわてて病院まで連れて行った。医師に、
「ほどほどにしてください」
 と、忠告され、まことに締まらない話だった。
 なぐられるほうもつらいだろうが、なぐるほうだって楽ではない。�やり過ぎたかなあ��あまり文化的とは言えないなあ�などと、しばらくは後悔のようなものが胸の中に去来して、気分がすっきりとしない。
 しかし、結論として私は�なぐる�教育をそれほど否定しない。感情ではなく、理性でなぐるぶんには、他人が——たとえば学校の先生などが——わが子をなぐることも、あっていいと思っている。
 理性でなぐるのだから、相手が充分に理屈を理解する年齢に達すれば、もう私はなぐらない。中学三年生の長男は、ここ一、二年なぐられてはいないだろう。理屈がわかるようになったせいもあるが、親父より背が高くなってしまっては、なかなかなぐる勇気が湧《わ》いて来ないのである。

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