ナツメロ賛江
ご多分に漏れず�なつかしのメロディー�のファンである。
なにしろ歌謡曲以外にこれと言った楽しみのない時代に育っているから、愛着の度合いもことのほか深い。あまり性能がよいとは申しかねるラジオの前にすわって熱心に�今週の歌謡曲ベストテン�を聞いていたものだった。
そんなメロディーが今ふたたびテレビの画面から流れて来ると、やはり耳を傾けずにはいられない。あの頃ひそかに思いを寄せていたガール・フレンドの顔などもそこはかとなく浮かんで来るのであります。
それはともかく、テレビのナツメロ番組を眺めていると、いくつか気掛かりなことが心に昇って来る。「あの歌はどうしてナツメロ番組に登場しないのだろうか」などと。
たとえば�三日月娘�。
※[#歌記号、unicode303d]いく夜重ねて砂漠を越えて
明日はあの娘《こ》のいる町へ
鈴が鳴る鳴るらくだの鈴が……
歌っていたのはだれだったろうか。敗戦後のひととき、マーケットと呼ばれた粗末な商店街の屋根から屋根へとしきりに流れていたような気がするのだが、私はナツメロ番組でこの歌を聞いた覚えがない。
�青春のパラダイス�という歌もあった。
※[#歌記号、unicode303d]あでやかな君の笑顔やさしく
われを呼びて
青春の歌に憧《あこが》れ丘を越えていく……
手もとに歌詞集があるわけではないので、文句のこまかい部分はちがっているかもしれない。この歌は私にとってはなつかしいものであり、充分に、流行《はや》っていたように思うのだが、めったにテレビで聞くことはない。訝《いぶか》しく思って、あるテレビ局のプロデューサーに尋ねてみたら、
「理由はよくわかりませんけど、現実に番組を担当するディレクターたちが、ナツメロ世代じゃなくなっているんですね。つまり、彼らは今ナツメロと言われている歌を子どもの頃に実際に親しんでいるわけじゃない。それで、番組を作るときにここ数年間に歌われている�お決まりのレパートリー�の中から選曲することが多いんですよ。だから、いったん落ちこぼれてしまったものは、なかなか浮かびあがって来ない。そういうことなんじゃないですか」
と、分析してくれた。
この分析が正しいかどうかはわからないけれど、現象面から見れば適中しているように思う。
いずれにせよ、どうせナツメロ番組を流すのならば、もう少しこうした面での配慮があってよいのではあるまいか。私はいつももどかしい思いを抱いている。
ことのついでに、ナツメロ番組についてもう一つ意見を申し述べれば——。
率直に言って往年のナツメロ歌手たちは歌が下手クソになってしまった。昔はそれぞれに巧みな歌い手だったのだが、やはり寄る年波には勝てない。
�訓練をへた声はけっして衰えない�
と、おっしゃるむきもあろうけれど、それも程度問題ではあるまいか。
いささか厳しい感想を述べるならば、歌には�金をもらって歌う歌�と�金を払って歌う歌�と二種類ある。前者は言うまでもなく、プロフェッショナルの歌手たちの仕事であり、後者は私たちが日頃酒場などで歌うカラオケ・ソングの場合である。
ところがナツメロ歌手の中には、残念ながらその技量において、この後者のレベルに�劣るとも勝らない�人がいらっしゃる。あえて名前を申し上げる失礼は遠慮するけれど、こういう私の判断に首肯されるかたもけっして少なくないのではあるまいか。
敬老精神は人並みに持ち合わせているつもりだが、敬老精神だけでプロフェッショナルの世界が支配されていいものかどうか。長年の功績を評価するのにやぶさかではないけれど、なにやら評価の方向がほんの少し狂っているような気がしないでもない。
せめて時には、往年のナツメロ歌謡を現役パリパリの歌手のみなさんに歌っていただきたい。そんな番組もたまにはあるのだが、この手のショウではかならず番組の後半で、
「では、このへんで新曲を聞かせていただきましょう」
となって、かならずしもこっちが聞きたいとは思っていない新曲が——たいていはあまりはやっていない新曲が——披露される。とたんにナツメロ番組としてのトーンが崩れてしまう。
「お気持ちはわかりますがね。現役の歌手としては新曲の宣伝をしなければテレビ出演の意味がない。だから、古い曲を歌ってもらうときには、抱き合わせで新曲をやってもらわないと、制作上ちょっとむつかしいところがあるんです」
と、これもあるテレビ局のプロデューサーが述懐してくれた。
このご意見も�多分そうだろうな�と納得がいくのだが、配慮の方向がちょっとそっぽのような気がしないでもない。まず第一に視聴者を楽しませることが番組制作の基本なのではありますまいか。