おごりの技術
酒場の椅子《いす》を立ったところで、
「おねえさん、お勘定」
「いや、それは困る。今日はオレにおごらせてくれ」
「いいから、いいから。ここはオレの案内した店なんだから」
「そう言わずに、頼むよ」
「まあ、ここはオレに」
よく見かける風景である。世の中にはお金を払いたい人が大勢いるんだな、と思いたくなるけれど、そんなはずはない。サラリーマンにとってはおごるか、おごられるか、そこに微妙な問題がある。あまりおごり過ぎてもいけない。さりとていつもおごられてばかりいるのでは、これも情けない。
「オレがおごる」
「いや、オレが出す」
と言いながら、一定の期間をおいて合計してみると、相互に損得がないよう、適度にバランスをとっている状態が望ましい。みなさん押し問答をしながら、そのへんの計算をチャンとはじいているわけである。
そう言えば、昔、父親からおもしろい話を聞かされたことがあった。父と私は四十歳近くも年齢が離れていたし、めったに父は家にいなかったし、たまに顔を合わせるとたいてい文句の一つくらい言われていたから、あまり父子の対話らしいものを持った記憶がないのだが、あのときはどうした加減か、父は幼い私にかなり高度な処世術めいた教訓を垂れてくれたのだった。
「人にものをおごるときには、三つの方法があるんだ」
「はい」
私は神妙に敬聴していたにちがいない。
「まず高いものをおごって、相手に高いものをおごったとわからせる場合だ」
「はい」
「次は、高いものをおごりながら、安いものをおごったように思わせる場合だ」
「はい」
「最後は、安いものをおごりながら、高いものをおごったと思わせる場合だ」
「はい」
組み合わせとしては、もう一つ、�安いものをおごって、安いものだと思わせる場合�が残っていると私は思ったが、父はそのことについてはなにも言わなかった。その時の私は、この教訓の中身をそれほど深く理解できなかったが、今、思い出してみると、なかなか含みのある分類法ではないか。
たしかに客人を豪華な店に案内して�ここは一流の店なのですぞ�と、はっきり相手に印象づけたほうがよろしい場合がある。銀座のクラブなどには、店のほうでも明確にそういう接待法を意識しているところが多いのではないか。
それとは反対に、超一流の店に連れて行きながら、相手にそれを意識させず、さりげなくご馳走《ちそう》して負担をかけさせない——そんなやりかたのほうがよいケースもある。どちらかと言えば、粋な接待法。一人前の大人ならば、こういう接待法も一通り心得ておかなければなるまい。
相手はずっとあとになって、
「ああ、あれは思いのほか高い店だったんだな。こっちが負担にならないよう、そこまで気を遣ってくれたのか」
と、感銘をうける。あとになってジワジワと好意の効きめが現われて来る。
安いものをおごりながら、高く思わせる技術も時には必要だろう。いくぶん詐欺めいた社交術だが、人生きれいごとばかりではやっていけない。
ずいぶん昔のことだが、りっぱなのし紙を巻いた一升|壜《びん》をいただき、
「二級酒かな。一級酒かな。贈り物だからまさか二級酒ということもなかろうが、一級酒をいただくほどの間がらでもないし……」
のし紙をはいでみたら、中身は醤油《しようゆ》だった。これは、かならずしも相手のほうにごまかしてやろうという気持ちがあったわけではあるまいが、なんとなく欺されたような気がしたのは本当だ。
「醤油と知りせば、あんなに恐縮して頭を何度もさげることはなかったのに……」
と、さもしい考えが浮かんだものだった。私の父が、最後の一つの組み合わせ、つまり�安いものをおごって、安いものをおごったと思わせる場合�を言わなかった理由も充分に理解できる。
これはわざわざ教訓として申し伝えるほど重要なことではない。とりたてて修得を心がけなければならないほどの技術でもない。このケースを割愛したのは当然であった。
さて、そこで、私はこの三つの技術を身につけているだろうか。とても自信はない。
高いところに連れて行って、高いと思わせるのは比較的やさしい。残りの二つはどちらも相手を少し欺すことになるわけだが、うまく歎したかなと思ったとたんに、実はそうではなく、相手が適当にこっちにあわせていてくれたような疑念が湧《わ》いて来る。人にものをおごるのは思いのほかむつかしいことのようだ。