イエス・多分・ノウ
�政治家と淑女の言葉遣いは正反対である�という内容の、愉快なフランス小ばなしを読んだ。
その理由はこうだ。
政治家は�多分�のときに�イエス�と言う。�ノウ�のときに�多分�と言う。もし�ノウ�と答えるようでは、その人はもはや政治家ではない。
一方、淑女は�イエス�のときに�多分�という。�多分�のときに�ノウ�と言う。もし�イエス�と答えるようでは、その人はもはや淑女ではない。
おわかりだろうか。
たとえば、老齢年金の増額を政治家に訴えてみよう。彼は内心で�それは無理だな�と思っていても脈があるような返事をする。
「予算のわくがきついけれど、なんとか努力してみましょう。福祉問題はわが党のもっとも力を入れているポイントの一つですから」
つまり�ノウ�であるにもかかわらず返事は�多分�なのだ。
多少でも実現の可能性がある状況ならば、
「その件は心配ありません。大臣も十分承知していますから。今春早々にも実現されます」
と、�多分�のかわりに�イエス�の太鼓判を押す。
いくら状況がわるくても、
「そりゃ駄目。無理だな。何度陳情したって、キミ、骨折り損だ」
などとはけっして言わない。�ノウ�の答えを言うようではとても政治家としてはやっていけない。
一方、淑女のほうは、
「今晩どう? すてきなホテルを知っているんだけど……」
と男に誘われて、内心おおいに望んでいる場合でも、彼女はけっして�イエス�とは言わない。ちょっと眉《まゆ》をしかめて、イエスのようなノウのような曖昧《あいまい》な態度で、
「ええ……。でも……今夜は疲れてるから……」
などと言う。つまり中途半端な�多分�の返事を呟《つぶや》くはずである。
どっちつかずの心境でいるときはもちろん、
「駄目よ、そんなこと」
と、拒否の姿勢に出る。だから�ノウ�と言われても完璧《かんぺき》に断わられたわけではない。世のプレイボーイ諸氏は、この厳粛な女性心理をよく知っているはずだ。
ホテルに誘われて、「はい、はい」と返事をするようでは、もはや淑女とは言いがたい。
若干の個人差はあるだろうけれど、政治家と淑女の言葉遣いはおおむねこういう仕組みになっているらしい。
だが、以上の指摘はなにも政治家と淑女の場合ばかりではなかろう。オフィスの中でもセールス担当の部署などは、政治家的言葉遣いを愛用するようだ。
電気冷蔵庫を買った奥様が小首を傾《かし》げながら、
「本当にこわれたら修理に来てくれるの? 真夜中でも?」
と、セールスマンに尋ねたとしよう。
まあ、一応そういうタテマエになっているけれど、現実には真夜中に電話一本で修理に行けるようなシステムにはなっていない。
だから本当の答えは�多分�あたりが適当なのだが、そこはそれ大袈裟《おおげさ》に頷《うなず》いて、
「ええ、もちろんですとも。救急車より早いくらいですよ」
と、受けあう。
「こわれたら新品と替えてよね」
と言われて、そんなことはできっこない場合でも、
「こわれませんよ。まあ、その時は相談してください」
と�多分�の返事をする。
お客の注文にはめったなことで�ノウ�と言ったりしない。それがセールス畑の会話術であろう。
一方、金銭に関係する部門は、一般に淑女のごとく慎重で、
「今月は五、六百万円ぐらい黒字が出るだろう」
と、水を向けられても、
「ええ……まあ……多分」
自信のあるときでも、曖昧な返事をする。気安く�イエス�の返事をして受けあったりはしない。�多分�のときは、控えめに�ノウ�の返事をしてしまう。
もちろんこうした応対は、ただ単に言葉遣いの問題だけでなく、その人のものの考え方——つまり楽観的に考えるか悲観的に考えるか——とも深く関係していることだろう。
最後にもう一つ愉快な小ばなしを紹介しておこう。
アフリカに靴の売り込みに行ったセールスマンが二人、本社に電報を打った。一人は、「ミコミナシ、トウチデハ、ダレモクツヲハカナイ」
もう一人は、
「ミコミアリ、トウチデハ、ダレモマダクツヲハイテイナイ」
後者のほうがおそらく有能なセールスマンである。セールスマンは楽天的でなければ生きていけまい。