ビニール本
仕事場で一生懸命原稿を書いていたら、知り合いの編集者が苺《いちご》とビニール本を持って陣中見舞いに来てくれた。苺のほうはともかく、ビニール本のおみやげ品はめずらしい。
「これで元気をつけろというわけですか」
「まあ、そうです」
「元気がつき過ぎたらどうしよう」
「それほどお若くないでしょう」
と、ニヤニヤ笑っている。
くやしいけれど、たしかにビニール本を拝見したくらいでにわかに活気づく年齢ではない。
「これが今、名高いビニール本か……フーン」
などと呟《つぶや》きながら、ペラペラとページをめくった。
そもそもこの手の本を人前で鑑賞するときには一定の作法があるのでありまして、かりそめにも身を乗り出して凝視などしてはいけません。体をはすかいにして、さほど興味はないけれど、まあ、せっかくだからちょっと見ておこうか、いくぶん面倒くさそうに眺めるのが正しい作法。ページの進行につれ、
「なかなかやるもんだねえ」
「モデルはどういう娘なのかねえ」
と、呟き、最後は、
「まあ、ポルノなんてどうってことないんじゃないの。セックスに好奇心がなくなったら人類はおしまいだからなあ」
などと文化論的な擁護でまとめるのがよろしい。もちろん私も作法通りに通覧し、編集者が帰ったあとで熟読|玩味《がんみ》、こまかい部分まで賞味いたしました。
ビニール本とはいかなるものかおおよその見当はついていたのだが、手に取って眺めるのはこれが初めてのこと。どこへ行ったら買えるのか、どこが優良出版社なのか、国法の網をかいくぐってどこまで人体を明らかにしているか、などなどなにも知らなかった。
まだご覧になったことのないかたのために申し述べれば、ビニール本とはきわめて薄い半透明の下着を着用した大胆的カラー・ヌード・グラビア集と考えていただければよい。半透明だから、なにやらもやもやとあやしい風景も窺《うかが》える。あまりにもはっきりと窺え過ぎるときには、一、二ミリの、引っかき疵《きず》のようなぼかしが入る。北欧の解剖図風鮮明写真に比べればこの程度の露出度はまことにささやかなものだが、薄布を通してという、日本的技法は、あからさまの場合よりかえってエロチックに見えるのではないか。
薄布は刑法のお目こぼしにあずかるための苦肉の策なのだろうが、そのためにかえってエロチックになるというのでは、取り締まり当局はなにをやっているのか、と首を傾《かし》げたくなる。
もしかしたら、いっきに露出させてしまってはうま味が薄いので、当局は業者に少しずつ露出の方針を取らせ、業界の末長い健全な発展を願っているのかもしれない。そう勘ぐってもみたくなる。
ジョークはさておき、ここまで許可したのなら——多分、許可したのだろうと推察するのだけれど——もうなにもかも許可しても同じことなのではないかとも思う。ビニール本は、完全なる丸裸にはまだ一歩残余があるけれど、限りなく透明に近い一歩手前である、と、そう理解していただいてもよいしろものだ。
一通りカバーからカバーまで観察したあとで、今度はモデルがどんな顔をしているか、その点を重点的に見直してみた。つまり、一回目のときは顔以外のところばかり勉強していたことになる。
そこで、かねがね考えていたことだが、写真というものは想像以上にその一瞬の雰囲気を——写された人間の感情をうまく掌握《しようあく》しているものだ。写真家がやたらパチパチとシャッターを落とすのを見て、
「専門家なら一枚でピシャッと決められないものかいな」
と、腹立たしく思った時期もあったが、今はちがう。
一瞬のよい表情をとらえるためには、やはり数多く写して必然性の中の偶然性に頼らなければいけないのだろう。つまり、ここまで追い込めば、何枚かに一つ傑作ができるという必然的な情況を作り、あとは偶然性に期待をかけるということだ。
焼き物造りもこれに近いし、版画にもそれがある。もしかしたら私たちの書く小説にも、最後は偶然性に頼ってよい出来を期待している部分があるのかもしれない。隅々まで隈《くま》なく作者の予定したものだけで作られる芸術はむしろ少ない。
話がそれてしまった。しかも堅くなった。人はポルノグラフィを語ると、なぜか堅いことを言ってごまかしたくなる。
ビニール本のモデルたちの表情を見ていると、あらためて本職の写真家はプロフェッショナルだな、と感ずる。ビニール本の撮影者はおそらくその道のりっぱな職業人ではあるまい。だからモデルたちの表情がまことに稚拙である。表情にエロスを! どうかこのあたりをもう一つ工夫してください、などと思ううちに一、二時間はたちまち無為のうちに過ぎ、編集者氏の陣中見舞いは、あまりよいお見舞いにはならなかった。