チョコレート慕情
チョコレートについて書く。
この原稿を書いているのが二月十四日。ちょうどバレンタイン・デーなので、行きつけの酒場あたりからご丁寧にも贈り物が届く。
これを見て小学六年生の娘が負けじとばかりハーシェイズのチョコレートを一枚買って来てくれた。これは私が時折ハーシェイズの板チョコを買うので、きっと私の好物だと判断したためらしい。
本当のことを言えば、この銘柄が格別好きなわけではない。匂《にお》いなんかは強過ぎて、時には少しなまぐさいような感じさえするのだが、それでもスーパー・マーケットの菓子棚にこれが並んでいるのを見ると、つい手を伸ばして買ってみたくなる。私たちの世代にとってはハーシェイズのチョコレートとラックスの石鹸《せつけん》、この二つは文化そのものの象徴であった。防空壕《ぼうくうごう》の長いトンネルを抜けると、そこにハーシェイズがあった、と言ってもよい。ラックスの匂いをかいだとき、アメリカ人はこんな石鹸を使っていたのか、これじゃあ戦争に負けるわけだ、と彼と我の物資の豊かさのちがいをまざまざと感じたのは私だけではあるまい。
チョコレートの記憶は、昭和十六年、太平洋戦争の直前にまでさかのぼる。その頃、駅の待合室の隅に自動販売機があって、コインを入れハンドルを右に廻《まわ》せばミルク・キャラメル、左に廻すと板チョコが出て来た。これから察すると当時、板チョコとミルク・キャラメルとは同じ値段だったらしいが、その後チョコレートのほうが値上がりをして、今でもこの傾向は修正されていないのではあるまいか。
戦争が進むにつれ、チョコレートとはめっきり縁がなくなった。少なくとも昭和十九年、二十年あたりでは匂いさえ嗅《か》いだことがなかっただろう。当時の食糧事情を考えれば、チョコレートなど食べられるはずがない。もし食べたとすれば、その前後の事情をなにもかも明晰《めいせき》に覚えているにちがいない。だれがくれたか、いくつくれたか、だれと分けたか、すぐに食べたか、などなどを。そんな記憶はいささかもない。
久しく忘れていたチョコレートの香りを思い出したのは、たしか昭和二十一年の秋頃だった、と思う。その頃、私は新潟県の長岡市に住んでいた。進駐軍の兵士は東京でこそいくらでも見られただろうが、田舎の町ではめずらしい。
ある日、駅の近くで遊んでいると列車が止まり窓が開いた。かねて話に聞くアメリカ兵が数人窓から顔を出して外を見ている。私たちは線路ぎわに駈《か》けよって初めて異国の男たちを眺めた。
「ヘーイ」
とかなんとか叫んだかと思うと、窓の中の男たちがチョコレートを私たちに投げつける。銀紙に包んだ小さなチョコレートだったと思う。子どもたちはいっせいに飛びつく。
だが……私は一瞬たじろいでしまった。
昨日までの敵からかような恵みを受けてよいものだろうか。いかに敗れたりとはいえ、投げられたものを争って拾っていいものだろうか。日本人の面目はどこへ行ったのか。まあ、大袈裟《おおげさ》に言えば、そんな考えが頭の中をよぎった。
列車は動き出し、アメリカ兵たちは陽気に手を振って遠ざかった。
チョコレートを拾った子どもたちは、いっせいに紙をむいて食べ始める。私にはなにもない。なにしろ匂いの強い菓子である。しかもその匂いは芋ようかんやブドウ糖の塊などとはまるでちがっている。
真実、頭がクラクラした。
——どうして、オレも拾わなかったのか——
かえすがえすも残念だ。後悔が胸を刺す。なにもこんなところで恰好《かつこう》をつけることもなかったじゃないか。アメリカ兵のほうだって、実に軽い気持ちでバラ撒《ま》いてくれたんだ。猿に餌《えさ》を撒いて楽しむような気分ではなかっただろう。
チョコレートの匂いはしばらくのあいだ周辺に漂い、いつまでも無念さが残った。
ハーシェイズのチョコレートが時折手に入るようになったのは、それから間もない頃だったろう。初めのうちは高価な品だったらしく、なかなか一人で一枚もらえることはなかった。板チョコを凹《くぼ》みの線にそってパリンと割り、一センチ四方ほどのかけらを口の中でいつまでもいつまでも、とろけてなくなるまでなめていた。
父が二十枚入りの箱を買って来てくれたときは家族一同で万歳をしたのを覚えている。
今ではもうチョコレートなんかなんの感動もない菓子となった。近頃の子どもたちはチョコレート類より、むしろお酒のおつまみになるような菓子類を好むようになったとか。
もちろん私自身もチョコレートを頬張《ほおば》って楽しむ年齢ではない。肥満の敵と考えて、どちらかと言えば敬遠している食品の一つだ。
だが、なつかしさだけはいつまでたっても消えない。娘のくれたハーシェイズをパチンと割って嗅ぐと、敗戦直後のさまざまな感興が心に戻って来る。
バレンタイン・デーにはなんの思い出もないけれど、チョコレートのほうならば話はべつである。