マイ・コンピュータ
この頃《ごろ》自分が子どもであった頃のことをよく考える。
私自身が人の子の親となり、毎日否応なしに自分の子どもを眺めているので、それが引き金となって昔のことを思い出すのだろう。
六歳の時に太平洋戦争が始まった。当時はたしか大東亜戦争と呼んでいたと思う。
私は極楽と地獄の存在を信じていた。
戦争が始まれば敵が攻めて来ることもあるだろう。そうなれば爆弾に当たって死ぬこともあるだろう。
ところがわれとわが胸にかえりみて、私はあまり善良な子どもではなかった。嘘《うそ》をつくとか、小遣いをくすねるとか、盗み食いをするとか、どうせたいした悪事を働いていたわけではあるまいが、子ども心としては反省してあまりりっぱな人格と頼むことはできなかった。
——このまま死んだら地獄へ行かなければならない——
おおいに恐れおののき、十二月八日の開戦を境にして庭掃除をしたりお使いに行ったり、たとえ死んでも地獄に行かないですむように善行に励んだ。
ところが開戦当時の日本軍はすこぶる景気がよかった。次々に敵地を占領し、領土を広げ、このぶんではとても内地まで敵軍が攻めて来るとは考えられない。善行は�十日坊主�くらいで終了し、もとの木阿彌《もくあみ》に戻ってしまった。
なぜ極楽や地獄の存在を信じたのだろうか。この理屈が今考えても笑いが止まらないほどおかしい。
近所に結婚した人がいて、これは当時の習慣に従って神前結婚であった。新郎新婦は神の前で手を合わせ、結婚を報告した。
それから一年ほどたって子どもが生まれた。少年はこの現実をつぶさに観察して、
——なるほど。神様に報告したおかげで子どもがさずかったんだな——
と考えた。
神が存在するものなら、当然地獄も極楽もあるだろう。まことに明快な論理であった。
当時私の父は鉄工所の経営者で、家庭は、まあ、裕福であった。
裕福と言ってもたかがしれている。せいぜい中産階級の上ぐらいのところ。とりたてて裕福さを自慢できるほどの状態ではなかったが、とにかく父は社長の肩書を帯びていたし、家屋敷も花崗岩《かこうがん》の塀をめぐらした見苦しからぬたたずまいだった。
子どもとしては�わが家は金持ち�と信じていたのだろう。
ところが野口英世の伝記を読んでも、二宮金次郎の伝記を読んでも、みんな貧乏の人ばかりである。
少年少女のための伝記作者は、いかなる見識のなせるわざか知らないが、現在でも偉人は子どもの頃貧しい生活を送り、その苦しみによく耐えた、と書くのがお好みのようである。戦時中はさらにこの傾向が顕著であったように思う。
私はおおいに失望した。
どの伝記を読みあさっても貧乏の話ばかりだ。楠正成《くすのきまさしげ》、中江|藤樹《とうじゆ》、山本|五十六《いそろく》、みんなそうだった。
——ああ、ボクはとても偉い人にはなれない——
花崗岩の塀を眺めて、何度失意のため息をついたことか。
しかしこの落胆は、間もなく近衛文麿《このえふみまろ》の伝記を読んで解消された。
子どものための読み物の中にどうして近衛文麿の伝記があったのか、単行本だったのか、それとも雑誌の中の一つの記事だったのか、そのへんの事情はなにもかも忘れてしまったが、とにかく近衛文麿という華族の末裔《まつえい》が、金持ちの子であるにもかかわらず一かどの人物になったという記録が少年の私を励ました。その事実は今でも明晰《めいせき》に思い出すことができる。
子どもというものが、いったいどんな思考をめぐらすものか、一般的な傾向は私にはよくわからない。ただ、以上のようなエピソードを思い返してみると、私はかなり合理的な——すこぶる手前勝手な、子どもらしい合理性にはちがいないのだが——少なくとも形式論理としては合理的な思考傾向を持った子どもだったような気がしないでもない。
そのせいかあらぬか、ある年齢までは科学を専攻するつもりだった。技術者として身を立てるつもりだった。
それがどこでどうして小説家への道を選んでしまったのか、その経緯を説明するゆとりはないけれど、奇妙な理屈をこねる癖は今でも変わっていない。小説の中にもその傾向は見られなくもない。
人間の脳味噌というものは、相当に幼いときから一定の思考プログラムを持っていて、そのコンピュータは容量を変えることはできるとしても、本来の機種をなかなか変えがたいもののように私は思うのだが、これは教育学の理論にもかなうことなのだろうか。
このごろ私は自分の子どもたちの脳味噌の中をつぶさにのぞいてみたい、と思うことが多い。