我慢比べ
むかし、白兵戦の経験を持つ軍人から興味深い話を聞いたことがあった。
塹壕《ざんごう》の中に敵味方が対峙《たいじ》している。
その時、
「突撃!」
の号令がかかる。
一番最初に塹壕を飛び出した男は、まず十中八、九、敵の銃弾の集中攻撃を受けて死ぬ、というのである。
兵隊は体験的にこの事実を知っている。だから「突撃」の命令が下っても、だれもがまっ先には飛び出したがらない。だが、だれかが飛び出さないわけにはいかない。
時間にすれば、ほんの一秒か、二秒にすぎないのだろうが、仲間たちのあいだで無言の戦いが起こる。
「お前、行け」
「お前こそ行け」
いや、仲間同士の争いと言うより自分の心の中の葛藤《かつとう》かもしれない。
「行かねばならない」
「いや、一歩でも遅れたい」
極度に緊張した焦燥感の中で、とうとう我慢ができず、いたたまれずに、フイと飛び出す者がいて、それが死ぬ。
「なんていうのかな、精神的にどこか弱いところのあるやつがヤッパリ耐えきれなくなって、飛び出すんですね」
という話であった。
私には、この心境が——いたたまれずに我を忘れて飛び出してしまう男の心境が、身に染みてよくわかる。私もまたジリジリと追いつめられた情況に置かれると、もうやみくもにその情況から逃れたくなってしまい、
「えいっ、もういいや」
と、みすみす損な道に自ら飛び込んでしまう性癖がある。やはり、これは生来の気の弱さのせいなのだろうか。
話は変わるが、先日、ある麻雀大会で名手の手さばきを背後から観戦した。
彼は次の打牌の時に捨てる予定の牌を、手牌の右隅に置いておく癖がある。
私もいくらか麻雀を知っているから、
「ああ、あれは危険牌だな。捨てるのかな」
と、思う。
名人は打牌のたびごとに、その�捨てる予定の危険牌�に指先がかかるのだが、なかなかそれを捨てない。そのうちに、だれかが同じ牌を河に捨てる。
「ロン」
叫ぶ者がいて、予想通りその危険牌は当たり牌であった。
名人は、いかにも危なかったといった表情を作り、
「ヤッパリそうか。オレもこの次に捨てようとしてたんだよなあ」
と、つぶやく。
この場面を見る限りでは、名人も私もさして腕前に差がないように思えたのだが、何度か同じ場面に遭遇しているうちに私は気がついた。
危険牌を危険牌だと覚ることは、それほどむつかしい技術ではない。少し経験をつめばだれにでもわかることだ。だから、問題は手の中に余分な危険牌があるときそれをどう処理するか? 処理するうまい方法がないとき、それをどこまで我慢して持ちこたえているか、その我慢の強さにこそ名人の名人たるゆえんがあるのではないのか。
私などは、
「どうせ使えない牌なんだし……えいっ、男は度胸、女は愛敬、あとで後悔すればいい」
などと叫んで、いさぎよく突撃してしまうのだが、これが命取りになるのはご推察の通りである。
名人は口先でこそ、
「次に捨てようと思ってたんだ」
と言うけれど、果たして本当に次の打牌のときに捨てたかどうか、あやしいものである。
だれかが大きな役を聴牌し、虎視|眈々《たんたん》と和了を狙っているときは、言ってみれば、あの塹壕の中で�突撃�の命が下ったときと類似している。
我慢できずに飛び出した者が討ち死となる。そうと知りながらも、精神力にもろいところがある者は、つい、つい、飛び出して後悔のホゾを噛《か》む。
今どき、この太平の世の中では塹壕の白兵戦の話など時代錯誤の匂《にお》いがするだろう。麻雀の話も、たかが遊びごと、たとえ役満貫を振り込んでみたところで、さほどに深刻に悩むことでもない。
だが私は毎日の平凡な生活を送りながら、時折、今述べたこととよく似た現実にめぐりあうときがある。つまり、我慢の能力の差が——ほんのわずか我慢ができるかどうかということが、決定的な差異を生むような、そんな事態に遭遇することがある。
そう言えば、野球でも�球ぎわの強さ�という言葉があるけれど、あれも同じことではないのか。守備の名人は、ほかの人よりもほんの〇・何秒か長くタマから目が離れない。ほんの何ミリかグローブの手が長く伸びる。また、打撃の名人も、タマを追う視線が〇・何秒か長いだけのことだろう。
こうした人たちは、一つは訓練の賜物として、一つは天性の能力として、凡夫よりもほんのわずかだけ多く苦しさに耐えて自分の能力を広く、長く発揮できるよう自分の体を作っているのだろう。
「英雄は普通の人より勇気があるわけではない。ただ五分間だけ勇気が長続きするだけなのだ」
と、言ったのは、たしかエマーソンだったと記憶するけれど、私はこの言葉の中にも同じ意図を読む。
なにかに優れている人とは、凡夫に比べてほんのわずか持続の精神力が……力学的とも言ってよいような我慢の強さが勝っているだけなのではなかろうか。