不運なシャツ
「なんだ、ワイシャツがないじゃないか」
出勤の仕度をしていたカネダ氏がいらだたしそうに呟いた。
「あら、ごめんなさい。先週も先々週も洗濯屋さんの来る日に留守をしていたもんだから……。でも、ひとつもないってことはないんじゃない?」
カネダ夫人が申し訳なさそうに言う。
「みんな首まわりの小さいやつばかりだよ」
「うそ。縞のがあるでしょ」
夫人は洋服箪笥の中をのぞきこみ、太い縞がらのシャツを取り出した。
「これは、まずいんだ」
「どうして?」
「どうしてって……はで過ぎるよ」
カネダ氏はためらいがちに答えた。
「いいじゃない。このごろみんなこのくらいの着てるわよ」
夫人はカネダ氏の戸惑うような様子に頓着せず、ビニールの袋を破って縞がらのシャツを差し出す。カネダ氏はしぶしぶ腕を通した。
夫人には�はで過ぎる�と言ったが、このシャツを着たくない本当の理由はそれではなかった。
なんと言ったらいいのだろう。運がわるいのだ、このシャツを着た日は。
三ヵ月前、出張先の会食でなまものを食べ、二人が中毒死を起こした事件があった。カネダ氏は激しい下痢だけで、からくも助かったが、あのとき着ていたのがこのシャツだった。下痢のおかげで仕事もさんざんだった。
二ヵ月前、タクシーに乗っていて事故にあい、隣席の男が死んだときにもこのシャツを着ていた。
そればかりではない。一ヵ月前にもいやな思いを味わっている。癌の検査を受けて入院を勧められ�これはいかんぞ�と思った日もこのシャツだった。精密検査を受けた結果�なんの心配もなし�とわかったが、どうもこのシャツは縁起がわるい。ろくなことが起きない。とくに迷信にこだわるほうではないけれど、これだけ不運が続くとやっぱり考えてしまう。
そもそもこのシャツを入手したいきさつからしておかしかった。お仕立て券つきの生地がデパートから届き、送り人のところを見たが名前が記してない。
「だれだろう?」
「へんね。気味がわるいわ」
と妻と話しあった。
包みをあけたとき�御多幸を祈ります�と書いた紙があったっけ……。
だれかの悪戯《いたずら》だろうと思って、さして気にも留めずそのまま仕立てさせて着たのだったが、着るたびにおかしなことが起きてしまう。
もちろん、初めは気づかなかった。病院に検査を受けに行ったとき脱衣所で�今日ははでなシャツだな�と思い、それから急に�この前の自動車事故のときもこのシャツだったぞ�と思い出した。
さらに考えてみると、その前の食中毒のときもそうだったとわかった。はでなシャツなのでそうしょっ中は着ない。着たときのことはみんなよく覚えている。
ここ三ヵ月ばかりのあいだに三度着て、三度ともあやうく死にかけた。とても着る気になれない。
「やーめた」
カネダ氏は小さくつぶやいて、いったん腕を通したシャツを脱いだ。仕方ない。少し首まわりの小さいので我慢しよう。多少窮屈でもこのほうが一日安心して仕事ができるだろう。
「あら? どうしたの」
夫人は怪訝《けげん》そうに首を傾けたが、カネダ氏は、
「うん、今日は白のほうがいいんだ」
そう言って家を出た。
どこのだれが贈ってくれたかわからないシャツ……もしかしたらこの世界のどこかに悪魔が住みついていて、そいつが時おりこんないたずらをするのだろうか。
包み紙の下には�御多幸を祈ります�と書いてあったが、そんな文句はちっとも当てになりゃしない。悪魔はそんな文字を書きながら心の中でさぞかし長い舌を出して笑っていたにちがいない。
論より証拠、たった三ヵ月のあいだに次々に奇妙なことに遭遇するなんて……。
しかし、白いワイシャツを着ていればもうなんの心配もあるまい。会社に着いたカネダ氏はもうシャツのことなどすっかり忘れてしまった。午後には大きな仕事を一つまとめ、帰りがけに上役といっぱい飲んで帰路についた。
グワーン。
大きな響き。ダンプカーがカネダ氏をはねあげたのはその直後だった。目撃者の証言によればほんの一〜二分彼は生きていたとか……。
そのわずかな時間にカネダ氏は悟ったはずである。
「しまった。あれは幸運のシャツだったんだ。あやうく死ぬところをいつも助けてくれたんだ」