目黒のサンマ
サカタ氏は東京の目黒で生まれ目黒で育った。
「目黒って、なにが有名なんだ?」
会社の同僚に尋ねられても、にわかに思い浮かぶものがない。山手線の駅。付近には高級住宅地があって……そうか、お不動さまがあるぞ。あそこの境内には、青木昆陽の墓があって……待てよ、そんなことを言うと「なんだ、イモの名産地か」とひやかされるんじゃあるまいか。
答えかねていると、仲間の一人が、「そりゃ、目黒はサンマにきまっているじゃないか」と茶化した。
その落語なら、サカタ氏も知っている。
たしかお殿様が家来を連れて鷹狩りに出かけるんだ。目黒の里に迷いこんで、お腹はペコペコ。どこかにものを食するところはないものか? 一軒のあばら屋を見つけて、家来が「これ、お殿様のお口にあうものはないかな」
そう言われても困ってしまう。品川沖であがったばかりのサンマが一匹あるけれどこれは下魚だからお殿様が召しあがるものじゃない。
だがお殿様はひときわご空腹のご様子。
「苦しゅうない。それを持て」
「ヘヘーッ」
炭火でジュウジュウと焼き、脂の流れ落ちるサンマを差し出した。
言っちゃあわるいが、昔のお殿様なんて、鶴の吸い物だか、菊のおひたしだか知らないが、普段はだしがらみたいなものばかり食べさせられている。空腹のうえに、とりたてのサンマの塩焼き。これ以上の美味はない。これが病みつきになり、お城に帰ってもなにかとサンマを食べたがる。お城のお料理番はサンマの腹わたを取り骨を抜き、相変らずだしがらみたいな料理を作るから、これがうまいはずがない。お殿様がため息をつき、
「サンマは目黒に限る」
と呟くのが、落語のオチになっているはずだった。
「昔は目黒なんか山の中だったんだろうな」
「今はりっぱな住宅街だぜ」
「もう一つ、目黒には新しい名物があるだろう」
遊び好きの男がニタニタ笑いながら言う。
「なんだ?」
「地元にいて知らんのか。目黒なんとかというラブ・ホテルがあるだろう」
名前は知っていた。どこにあるかも知っているけれど、サカタ氏は一度も行ったことがなかった。そのホテルには、いろいろめずらしい設備がそろっているらしい。
「あのくらいのホテル、最近はどこにでもあるんじゃないの」
「しかし、目黒が元祖だよ」
あまり自慢になるシロモノではない。�しかし、一度くらい行ってみたいな�サカタ氏はそう思わないでもなかった。
その機会は思いのほか早くやって来た。子どもたちの夏休みが始まり、妻は家族を連れて鳥取の実家へ帰った。妻の実家は、日本海を望む小高い山の上にあって夏のレジャー地としては絶好のところ。
「あなたもあとからいらっしゃいよ。夏休み、取れるんでしょ」
「ウーン」
「お父さんもおいでよね」
「うまく休みが取れたらな」
妻と子どもを送り出し、しばしのやもめ暮らしとなった。
一日、二日の休暇がとれないでもなかったが、山陰まで行って帰ってでは、骨休めにもなるまい。海の遊びも中年男にはただ疲労を連想させるだけだ。わざわざ疲れるために夏休みを取るのも馬鹿らしい。
その夜は、八時過ぎまで残業をして、行きつけのバーに足を運んだ。
「あら、サカタさん、お久しぶり」
昔顔なじみだったホステスが、今夜は客となって遊びに来ていた。もう店には顔見知りも少ないらしく、退屈そうにグラスを傾けているところだった。
たちまち意気投合し、一軒二軒とはしご酒。彼女は一度結婚したが、なにか理由があって別れたらしい。飲むほどに、酔うほどに、
「ねえ、一度だけ行ってみたいところがあるの。雑誌なんかに書いてあるでしょ。いろんな設備のあるラブ・ホテル……。ウフフフ」
こうまで言われてたじろいでは男の恥。サカタ氏は勇躍目黒のラブ・ホテルへとタクシーを走らせた。
うだるように暑い夜だった。だが室内はほどよい冷房が効いていて、まことに心地よい。今晩はここに泊って、明日は休暇をとろう。列車に揺られて遠くの海に行くよりよほどすばらしい休暇になるだろう。生涯で最高のサンマー・ホリデイ。
サカタ氏はふと呟いてみた。
「サンマーは目黒に限る」