蜜 柑
ドキン。ヤスコの胸が弾んだ。狼狽が心に広がる。
——うかつだった。気づかないでいるなんて——
町の果物屋の店先。フルーツを買いに来て、われ知らずスイと青い蜜柑に手が伸びた。寒くなってから出廻るあのオレンジ色の蜜柑ではない。まだ緑色の皮をまとった蜜柑。皮をむくのに苦労するすっぱい蜜柑。ヤスコはけっして好物ではなかった。ここ数年食べたこともなかった。
その蜜柑をふと買ってみたいと思ったのは、なぜだろう? すっぱいものを食べたいと望んだ理由はなんだろう?
考えられることは一つしかない。もともと生理は不順のほうだから気にもとめずにいたけれど、指折り数えてみれば二ヵ月あまり途絶えている。ここ一〜二週間はなんとなく気分が冴えない。すっぱいものだけではなく、食べ物の好みも微妙に変化していた。
ヤスコは急いでアパートへ帰り、親友のノブエに電話をかけた。ノブエは二人の子を持つ母親だ。
「ねえ、やっぱりそうかしら?」
「うーん。公算は大ね。だれ? 思い当たることはあるんでしょ」
「あなたの知らない人よ。ねえ、食べ物の好みも変ったみたい。そんなこともあるのよね」
「もちろんよ。まるで別の人になったみたいに好みが変わることもあるみたいよ。ま、早くお医者さんにみてもらうことね。生むにせよ、生まないにせよ……」
「馬鹿ね、私、まだ独身なのよ」
「わかってるわよ。でも、あんた、わりと煮えきらないタイプじゃない。いつまでも独りでいちゃ駄目。彼に�赤ちゃんができたの�って言えば、それがきっかけで結婚が決まることもあるわ」
「ええ……」
「とにかくお医者さんへ行くことね」
「うん。じゃあ……ありがと」
電話機を置いてからもヤスコはそのままの姿勢で思案を続けた。本当に�赤ちゃんができたの�と言えば、彼は結婚に踏み切ってくれるだろうか。
ヤスコは首を振る。とてもそうとは思えない。
——ヒロユキさんは、そんな人じゃない。ミノルのほうなら、ともかく——
ノブエには話せないことだったが、ヤスコは二人の男と同時に交際を続けていた。ミノルはずっと前からヤスコに首ったけ。ついつい情にほだされて体を許したこともあったが、ヤスコが本当に好きなのはヒロユキさんのほう。でも、そのヒロユキさんは冷たくて……。
ヤスコはハンドバッグの中から手帖を取り出して日記を見た。ここ数ヵ月の行動が簡単に書き込んである。Hはヒロユキさんのこと、Mはミノルのこと。
——やっぱりそうね——
デートの時期から考えて、もしお腹の中に本当に赤ちゃんがいるならば、それはヒロユキさんの子……。十中八九、いや、百のうち九十九まで間違いはない。
ヤスコは翌日会社を休んで病院へ行った。ドクトルは努めて無表情に、
「妊娠してます。二ヵ月と少しですかな」
と告げた。商売がら患者が結婚している女ではないと見ぬいているのだろう。ヤスコの頬が火照《ほて》った。
「赤ちゃんができたわ。あなたの子よ」
ヒロユキを呼び出し、にがいコーヒーを飲みながらヤスコは告げた。だが、ヒロユキは他人事のように無表情だ。
「そんなこと言われたって困る。おたがいに納得ずくの遊びのはずじゃないか。オレは知らんよ。今日は忙しいから失礼」
「でも……」
結婚のことなんかとても言い出せる雰囲気ではない。
どうしよう。せっかく芽生えた命を無惨につみとっていいものかどうか。思い惑いながらアパートへ帰ると手紙が一通来ていた。ミノルからだった。
「ヤスコさん。あなたが好きでたまりません。思い切って言います。どうか僕の妻になってください……」
電話口でヤスコが話している。相手はノブエだろう。
「結婚することに決めたわ。彼の名前? ウフフ、ヤマダ・ミノルって言うのよ。うん、べつに堕ろす必要なんかないじゃない」
「よかったわね」
「ええ」
本当によかった。不思議なことに結婚を決めたとたんにミノルが好きになった。冷たいヒロユキよりずっと……。
ヤスコはつぶやく。
「本当ね。妊娠すると好みが変わるって……」
テーブルの上には青い蜜柑がのっている。