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猫の事件35
日期:2018-03-31 12:50  点击:343
 蚕 食
 
 
 喜びと悲しみがいつも交互にやって来る。僕の人生はどうやらそんな仕組みになっているらしい。
 妻の死病を知らされたのが一年前。
 それから三ヵ月たって、年来の研究に成功のめどがついた。
 ところが研究所の阿呆所長に呼び出され、
「いまごろ蚕《かいこ》の繁殖なんて古いよ、絹なんか輸入したほうがずっと安い。それに、君の研究は原理的には、すでに証明されつくしていることなんだ」
 と、にべもなく実験の中断を申し渡された。
 そんな馬鹿な。いくら原理がわかっていたって科学はそこが終点じゃない、とりわけこの研究は最後までやってみなければ本当の価値はわからない。
 所長と言い争い、
「じゃあ結構です。自分でやります」
 と辞表を叩きつけた。もともと待遇のわるい三流の研究所。いつか罷《や》めようと思っていた。
 病床の妻だけが、
「せっかくの研究じゃない。最後までキチンとやったらいいわ」
 と慰めてくれた。
「ありがとう。きっとやるさ」
 でも成功する日まで和枝が生きていてくれるかどうか……。
 マンションの一室を改造して実験室を作った。朝から晩まで研究を続けた。腹が減ると近所の食堂へ行って食事をとる。三日に一度は足を伸ばして病院へ行った。
「どう、ご飯をチャンと食べてる?」
「うん。不自由はしていないよ。今は研究に夢中だからね。それよりあんたのほうだ。早く元気になるといいな。今日は顔色がいいぞ」
 実際は日増しに妻の容態はわるくなっているのだが……。
「ええ。今日は少し楽みたい。実験のほうはどう? 進んでいる?」
「もちろんだ。絶対うまくいくさ」
 こっちのほうなら自信がある。なにしろ五年も前から研究していることなんだから……。
 いや、もっと昔からかな。
 子どもの頃、知合いの農家で蚕を飼っていた。何匹か分けてもらって自分でも飼ってみた。とてもかわいらしい。嫌いな人もいるだろうけれど……。そのうちに付近で宅地の造成が進み、桑の木を見つけるのがむつかしくなった。ずいぶん遠くの畑まで桑を取りに行かなければならない。
 ——どうして蚕は桑でなくちゃあ育たないのかな——
 それが疑問の始まりだった。
 大学の農学部に入り、生化学を勉強しているうちに昔の疑問が心に戻って来た。
 ——蚕は桑でなくてもいいのかもしれない——
 類似の成分からなる葉っぱはほかにいくらでも存在する。蚕の栄養という面からだけ言えば、ほかの葉っぱでなんの不足もないはずだ。
 ——要は、蚕が自分で桑しか食べないこと。ほかの葉っぱを食べようとしないこと。それが問題なんだ——
 蚕の頭の中に、桑の葉だけが自分の餌だと考えるシステムができあがっているのだろう。
 だったらなにか特殊な薬液を発見し、それを桑以外の葉っぱに散布する。そうやって蚕に桑だと思い込ませればいいじゃないか。
 原理はやさしいが、ここから先がなかなかむつかしい。
 桑の葉の特質を分析し、そんな薬液を作るまでに五年の歳月がかかったというわけだ。
「うまく成功したよ」
「よかった。やっぱりあなたはすばらしい人よ」
 病院のベッドの脇に、桜やホウレン草の葉を敷いた養虫箱を持ち込み、妻の眼の前で研究の成果を見せてやった。
 霧吹きで薬液を吹き散らし、乾いたところで蚕を入れる。みんなサクサクと食べ始めた。みるみるうちに桜やホウレン草の葉が減って行く。
「あとは論文を書けばいいのね」
「そう」
「みんな驚くわ」
「まあな」
 僕は曖昧に答えた。
 実はもう一つ、確かめておきたいことがあった。実験を進める途中で気づいたことがあった。それは……やっぱり栄養価の高い葉っぱを食べさせたときのほうが蚕は早く育つ。体もグンと大きくなる。したがって繭《まゆ》も大きい。
「卵ほどの繭が作れるかもしれないぞ」
「本当に?」
 妻は細い腕を毛布の上に差し出し、掌を開いて、まるでその上に大きな繭が転がっているかのような仕ぐさをする。その動作がとても弱々しい。
 ——急がなくてはいけない——
 僕は心の中でそう思った。
 
 つぎつぎに栄養価の高い葉っぱを食べさせてみた。
 繭は少しずつ大きくなる。
 それに歩調をあわせるように妻の容態は悪化する。
 とうとう最期の日がやって来た。
 僕は新しい繭を持って病院へ走った。
「ほら、ここまでできたぞ」
「こんなに大きな繭……」
 呟くように言って和枝は眼を閉じた。
 妻には身寄りがいない。僕にも知人は少ない。亡骸《なきがら》を家に運び、たった一人で別れの夜を過ごした。
 ——棺にはいっぱいの繭を入れてやろう——
 夜は更け、さまざまな思い出が胸を駈けぬける。
 初めて会ったとき……。
 初めて抱いたとき……。
 和枝の肌は上等の絹みたいに滑かだったな。突然、激しい衝動にかられて僕は和枝の着衣を剥がし始めた。別れる前にもう一度だけ妻の体を眼に留めておきたかった。
 病魔はさほどひどくは妻の体の美しさをそこなってはいない。とりわけ胸のあたりは白く、ふっくらと盛りあがっている。下腹部は青く光り、黒い恥毛が形よく生い繁っている。
 ——研究ばかりしていて、充分には愛してやれなかった——
 後悔が胸をかすめる。
「いいのよ、それで。あなたはもっとすばらしい研究をなさって。なにか手助けをしてあげたかったのに……」
 頭の中にそんな声が響く。
 手助け……か? その声に誘われるように奇妙な考えが浮かんだ。
 こうなると、妻の死どころではない。思考はたちまち妻の死を離れて途方もない方角へと飛翔を開始してしまう。僕の悪い癖。研究者魂……。
 和枝は許してくれるだろうか。
 うん、きっと許してくれるだろう。
 僕は妻の亡骸を実験室へ運んだ。
 
 初めは、ほんの気まぐれでやってみたことだった。確信があってのことではない。
 だが、僕の直感は当たっていた。
「和枝、助けておくれ」
「ええ、いいわよ」
 夜ごとにそんな会話を交わした。
 いつのまにか妻の死から五日たっていた。部屋には臭気が立ち始めた……。
 たしかに……これは科学的な事実だ。どんな葉っぱよりも動物性の蛋白質のほうが栄養価が高い。エネルギーをたくさん含んでいる。だから蚕はどんどん大きくなる、太くなる、長くなる。
 和枝の青い体に霧吹きを使ってたっぷりと薬液を散布した。蚕たちはなにも知らずに蚕食を開始する。
 サクサクサク、サクサクサク……。
 音は日ごとに高くなる。夜ごとに荒くなる。
「和枝、君のおかげだぜ」
 すばらしい発明だ。そう。悲しみのあとにはきっと喜びがやってくるんだ。
 ——大きな繭ができるぞ。滑らかな絹ができるぞ——。
 今ではソーセージより太い蚕たちが何十匹、何百匹と群がって、サクサクサク、サクサクサク……。
 ほら、実験室の闇から音が聞こえて来るでしょ、ね?
 

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