悪意あり
ゲーテの最期の言葉は、
「もっと光を」
だったとか。
うーん、さすがはゲーテ。ありがたいことを言うわ。無《む》知《ち》蒙《もう》昧《まい》な私たちに対して適切な教訓を残してくれたんだ、と思いたいところだが、実際は臨終の部屋が暗かったせいらしい。
この言葉のすぐ前に、
「窓を開けてくれ」
と、召使いに頼んでいる。それに続けてこれを言っているのだから、
「もっと明るくしてほしい」
くらいの意味だったろう。
なーんだ。
なにしろ〓“ゲーテの語らなかった真理は一つもない〓”と言われたくらいの人だから、なにげない日常の台詞《せりふ》も、りっぱなアフォリズムにされてしまう。
しかし、ゆっくり考えてみると、このエピソードそのものが、ゲーテの残した教訓なのかもしれない。
つまり、言葉というものは、それが語られる情況、前後の文脈を抜きにしては本当の意味は伝わらない。ゲーテ本人はなんの意識もなかっただろうけれど「もっと光を」は結果としてその典型的な例となった。
「窓を開けてくれ。もっと明るくしてほしい」だけだったものが、その一部を引用して、そこにゲーテに対する敬愛の念が加われば、
「もっと光を」
ありがたいなあ、になってしまうのである。
これは私たちの日常生活でもしばしば経験することである。ゲーテの場合は、なにげない言葉がよい意味にされているから救われるけれど、たいていは言葉の一端をとらえて、
「あの人、こんなひどいこと言ったのよ」
と誹《ひ》謗《ぼう》の材料として引きあいに出される。
言った当人としては、
——そういう意味で言ったわけではないんだがなあ——
と、いくら弁明してみても、たいていはもう遅い。悪意で引用されたら、正反対の意味にもなってしまう。
一例を挙げよう。
ひところ私はカルチャー・センターで小説の書き方を教えていた。
「××さんの文章は、一般的に言えばけっしてよい文章ではありません。私はそう思います。ぎくしゃくしているし、ちょっとわかりにくいところもある。滑らかじゃない。でも、その文章が、××さんの描く世界と微妙に呼応している。よくあっている。やっぱりこの文章でなければ××さんの世界は表現できないなあ、と思う。それが小説家の文章であり、名文なんです」
××さんのところには、著名な小説家の名前が入る。
私としては、ほめているのである。これは本当だ。歯《は》応《ごた》えのある思想は、歯応えのある文章で書かれたほうがよい。
だが、聴講生の一人が、あちこちで、
「阿刀田先生が言ってましたよ。××さんの文章はいい文章じゃないって」
吹《ふい》聴《ちよう》しているらしい。
これは困った。××さん自身の耳にも入っているのではあるまいか。月夜の晩ばかりがあるわけではない。
さりとて、××さんに電話をかけ、
「あのう、私があなたの文章はよくないって言ってると、そういう噂《うわさ》が流れているらしいですけど……」
と釈明するわけにもいかない。この手のことは弁明の機会さえ与えられないのが普通である。
以来、この講義はやらないし、この誌面でも××さんと名前を隠しておく由縁である。
似たようなことは、世間でもひんぱんに起こっているだろう。
野球場というところは、耳をそばだてて聞いていると、本当にすさまじい。
「この野郎、北別府、死んじまえ」
ひどい野次が飛ぶ。
「岡田、あほんだら。顔がわるい」
「中畑、どこ見てる。わるいのはお前だ。せんずりかいて寝ろ」
引用するのもはばかられてしまう。
これだけの罵《ば》詈《り》雑《ぞう》言《ごん》を面と向かって言ったらどうなるか。ただですむはずがない。
野球場だから、まあ、許されるわけである。
「王様の耳はろばの耳」という童話があったけれど、野球場の野次はほら穴に向かって叫んでいるようなものだ。少なくとも叫んでいる人の意識はそれに近い。言葉だけ取り出して、
「あなたは、北別府投手に〓“死んじまえ〓”と言ったそうですが……」
と言われたら、困ってしまうだろう。
一番誤解されやすいのはジョークのたぐいだろう。当人は冗談のつもりで言ったのに、相手はそうは取らない。よくあることだ。
それと、政治家……。舌禍のたぐい。つい本心がこぼれ出てしまうケースもたしかに多いのだが、
——聞いた人がことさらにわるく取ったんじゃないかなあ——
と思いたくなるケースもけっして少なくない。新聞、雑誌の記者の中には、悪意に解釈する癖を持った人がいないでもないから……。
最悪の例を一つ。
もう七、八年ほど前のことになるだろうか。私のデスクの上の電話が鳴った。
「もし、もし」
相手は、ある週刊誌の名を挙げ、その取材記者だと名のった。風俗関係の取材らしい。
「なんでしょう」
「このごろ女性相手のソープランドっていうか、女性客が行くと、若い男がセックスの相手をしてくれる店があるそうですが、ご存知ですか」
どうして私にそんなことを聞くのか、わからなかった。けっして気取って言うわけではないけれど、私はその方面にとくにくわしくはない。なにかのまちがいだろう。
「知りません」
と答えて、電話を切った。
後日、雑誌が送られて来た。記事の冒頭に太い活字で書いてある。
〓“女性相手のソープランドが東京にあるかどうか、作家の阿刀田高氏は「知らない」と言うが、これはたしかに実在するのだ!〓”
取材の内容にはなんの嘘も混《まじ》っていないけれど、私はその道の権威になってしまった。