みどりの日
四月二十九日は〓“みどりの日〓”という名の祝日になるらしい。いつのまにかそう決まってしまった。
私の予想は、大はずれ。
いつとは言わないが、かなり以前から私は裕仁天皇崩御のあと四月二十九日は国民の祝日となり、その名は〓“平和の日〓”になる、と固く、固く、固く信じていた。そう予測していた。ガチガチの本命。これ以外にはないと考えていた。
昭和天皇は、その歴史的意義、在位の長さ、人となりなど、多くの面でしばしば明治天皇と対比されて来た。明治憲法と昭和憲法の対照はだてではない。その明治天皇の誕生日は秋の盛りにあって〓“文化の日〓”。
となれば昭和天皇の誕生日は春の盛りにあって〓“平和の日〓”。文化と平和、バランスもよく、言葉の持つ意味の深さも甲乙つけがたい。
なるほど明治天皇の治世は富国強兵の時代であり、
——文化だったかなあ——
と首を傾《かし》げる側面もないではないが、なにはともあれ西洋文化が積極的に取り入れられ、文明開化の成就した時代であった。富国強兵だってその一環として捕らえることができるだろう。印象のよくない部分は、ちょっと頬《ほお》かむりしてもらって、カッコウよく〓“文化の日〓”。このあたりの事情も四月二十九日を〓“平和の日〓”にすれば、よく呼応している。昭和の御代も平和ばかりじゃなかったけれど、そこはちょっと頬かむりをして〓“平和の日〓”、プロセスはともかく昭和は結論として平和を祈念した時代であった。
ああ、それなのに〓“みどりの日〓”だなんて……。どうしてこんな腑《ふ》ぬけた名前になってしまったのか。私は天皇制の存続について強い関心を持つ者ではないけれど、昭和っ子の一人として恥ずかしい。
〓“みどりの日〓”の命名には、昭和天皇が植物学に造詣が深く、すぐれた植物学者であったことが大きな理由となっているらしい。
ふざけたこと、言わないでくださいよ、竹下さん(この総理大臣のときに命名されたのです)。
昭和天皇が植物学者として、どれほどすぐれていたとしても、それはあくまで私的な研究でしかない。昭和天皇の八十余年の生涯は、顕微鏡に目を寄せ、じっと標本を眺めている姿に象徴されると〓“みどりの日〓”の命名者たちは本気でそう思ったのだろうか。そうだとしたら歴史的認識の欠如ばかりか、普通の常識さえ疑わしい。
昭和天皇の八十余年の生涯は〓“戦争と平和〓”、これしかない。植物学よりもなによりも天皇裕仁が真実心をくだいたのは、このテーマではなかったのか。そうでなければ国民はやりきれない。それでもやっぱり植物学のほうだと言うのだろうか。〓“みどりの日〓”は歴史的存在の矮《わい》小《しよう》化《か》と言ってもあながち言い過ぎではないだろう。
「あれはなんだねぇ、やっぱり」
と、友人のS君が私の話を聞いて笑いながらつぶやいた。
「なにさ」
「〓“ふるさと創生〓”じゃないのか。緑を掲げるのは」
へえー、気がつかなかったなあ。
言われてみれば、そんな匂いも少しする(〓“ふるさと創生〓”は……なんだかよくわからないけれど、竹下首相のアイデアだった)。
緑と言えば大自然である。ふるさとの大自然を見なおそう……となれば、これはもう〓“ふるさと創生〓”まで、あと一息。
竹下さんがそこまで意図して命名したとは思わないけれど、自分の頭の中にあるイメージと〓“みどりの日〓”という名辞が近いような気がして、
——これがいいね——
となった……。当たらずとも遠からず。ちがうだろうか。
緑を大切にするのはけっしてわるいことではない。私も大好きである。
だが、今回の命名について竹下さんは、
——このところ評判もわるいし……国民に好感を与えるような名前がいいんじゃないの——
くらいの感覚。はしなくも歴史的視点の甘さを露呈してしまった。まさか秘書が決めたんじゃないでしょうね。
何十年かたって、
——〓“みどりの日〓”? なにをした天皇だったの? ああ、そう。植物がお好きだったのね——
天皇制なんてその程度のものになっているかもしれないが(そうであっても私はとくに痛《つう》痒《よう》を感じないけれど)昭和天皇の御《み》霊《たま》の前にうやうやしく頭《こうべ》を垂れた人たちは、こんな評価に矛盾を感じないのだろうか。不思議と言えば不思議である。
お話変って、昔、ある新聞記者が晩年のクレマンソーに尋ねたそうな。
「最悪の政治家はだれですか」
老政治家の答えていわく。
「最悪の政治家をきめるのは、実にむつかしい。これこそ最悪と思ったとたん、もっとわるいやつがかならず出て来る」
フランス人だけあって、言うことがしゃれている。昨今の日本国を眺めていると、とてもただのジョークとは思えない。この国の政治家は……総理大臣は、本当のところどうなのだろうか。
マスコミの報道を見聞していると、どの総理大臣もみんなわるかった。ボロクソに言われていた。
でも吉田茂さんなんかは死んでしまうと、とたんにものすごくりっぱな名宰相になってしまう。佐藤栄作さんもノーベル平和賞なんかもらっちゃって、ああいう物さしの当てかたもあるのだろう。
わるい中にも上中下くらいの区別はあるにちがいない。戦後の首相がみんな六十点以下だとしても、もし本当にそうなら、民主主義の時代にこの国で首相を務めるということは、そのくらいの点数しか取れないものと考えたほうがよい。六十点を百点とする物さしを用いなければなるまい。
みんな同じようにわるいと言うのでは、評価をしないのと同じである。政治の報道、解説にたずさわるかたがたは「あれもわるい、これもわるい」ではなく、もう少し理性的な物さしを示してほしい。
それにしても、竹下さん、この人はどうなのかなあ。最後にもう一つジョークを。
「竹下さん? いいんじゃないですか」
「本当に?」
「うん。この次の首相に比べればね……」
まったくの話、だんだんわるくなっているような気がしてならない。