淫《いん》靡《び》な視線
「〓“なるほど〓”って納得しましたよ」
知りあいの編集者が、私の近作を読んでわざわざ電話をかけて寄こした。
その作品は「視線」というタイトルで、自信作というほどのものではないけれど、ちょっとした狙《ねら》いがなくもない。
主人公は四十代のサラリーマン。小料理屋のママと親しくなり、体の関係を持つ。ママは花柳界の出身で、ほかにも何人か親しい男がいるような気配がある。小料理屋の開店五周年のお祝いが開かれ、常連が集まる。ママは昔とったきねづか、歌にあわせて〓“奴《やつこ》さん〓”を踊ったが、主人公はその身ぶり手ぶりを見ながら、抱きあったときの彼女の姿を思い浮かべる。見ているのは踊りだが、男の脳裏にあるのはむしろ閨《けい》房《ぼう》の姿であり、そんなイメージに淫靡な喜びを覚える。その瞬間、彼ははっと気がつく。ここに集まった他の常連たち、その視線もみんな同じではあるまいか。みんな同じものを見ているのではなかろうか。いくつもの淫靡な視線が彼女目がけて飛んでいるのを感じて愕《がく》然《ぜん》とする。
「お座敷の踊りなんて、なにが楽しくて旦那衆が見ているのかと思ってたけど、ああいうことなんですね、つまり」
それが編集者の納得したことであった。私が作品に托《たく》したメッセージもそのあたりで、それがうまく伝わったのだから、成功と言ってよいだろう。
「わかった? 一応そこが狙いだから」
「体験談ですか」
「とんでもない。あの世界をよく知ってるわけじゃない」
これは本当だ。
私の、ずっと年上の知人に花街にくわしい人がいて、かりにNさんとしよう。
「演舞場をつきあってくれ」
と誘われ、新橋演舞場へ行ったことがある。ナントカ踊り……。彼の馴《な》染《じ》みのお姐《ねえ》さんも当然出演する。私も酒席で何度かその人を見たことがあった。
晴れの舞台に彼女が登場した。あの手の踊りというものは、
——下手じゃないんだろうけど、わざわざ見るほどのものかなあ——
と、そんな感じがなくもない。油断をしていると、なまあくびが出かねない。しかし、隣の席にいるNさんは、眼を凝らして眺めている。
その眼ざしを横から見て、
——あ、裸を見ている——
と感じた。
小説家のいやらしいところである。
下《げ》衆《す》の勘ぐりかもしれない。裸という表現も適当ではないだろう。が、とにかく舞台の上のお姐さんは鮮かな衣《い》裳《しよう》を着て舞っていたが、Nさんのほうは、頭の中に閨房の仕草を描いているのではあるまいか。
——おそらく体の関係はあるだろうし——
もしそうならば、きっとこの瞬間にはそれを思い描くだろうし、それならまんざら楽しくないこともあるまい。
——しかし、待てよ——
彼女の客は、本日ここに大勢来ているはずである。切符をたくさん買わされたり、御祝儀をせびられたりして……。その全員が、とは言わないけれど、何人かがやっぱり隣の席と同じように彼女の閨房を思い浮かべているのではあるまいか。会場を見渡し、あっちから、こっちから、そんな視線が乱れ飛んでいるように思った。
「そんな馬鹿な……。あれは芸術です」
とお叱《しか》りを受けるかもしれない。
古来、日本の芸術にはこういう淫靡な思惑が伝統的にかかわっていて、文部省推薦ばかりではない、と私は思うのだが、一歩譲ってこのケースは、下衆の勘ぐり、当たっているかどうかはわからない。だが、小説家はそれでいいのである。
つまり、事実を把握することがなにより大切な立場にある人なら、Nさんがそのお姐さんと関係があったかどうか、しこうして演舞場の席で閨房の姿を思い描いたかどうか、それは裸なのか長《なが》襦《じゆ》袢《ばん》くらい着ていたのか、そのあたりはおおいに問題となるだろう。
小説家はそうではない。この職業では、事実かどうかが大切なのではなく、事実らしいと感じ、それを事実らしく描くことが肝要なのである。極論をすれば、想起したことが事実とまったく関係がなくても、それから先が事実らしければそれでよい。Nさんとお姐さんがどうであるか、そんなことはどうでもよろしい。一幅の淫靡な情景が私の頭の中に浮かび、
——いただきます——
と、ありがたくイメージを貯えることができれば、それでよろしい。
このテーマは、小説家に人を見る眼があるかどうかということにも関連する。人間を描くことが仕事の一つなのだから、人間をよく見ているだろうと、それはたしかにそうなのだが、見方がちょっとちがう。
ここにAさんという人物がいて、刑事や人事課長や詐欺師は、Aさんの人柄を正確に把握しなくてはいけない。小説家はAさんを観察し、その結果、Aさんとは似ても似つかないAさんもどきを想像したとしても、そのAさんもどきが小説の中にいきいきと登場し、現実感を持ってくれればそれでよい。正しく見ることは二義的であり、いきいきと描くことのほうが大切である。そこが刑事や人事課長や詐欺師とちがう。正しく見ることは正しく描くことに通じてはいるだろうけれど、それが本筋ではない。新橋演舞場の体験もまたそうであった。
話をもとに戻して、演舞場で感じた視線はほかのところでも飛んでいるかもしれない。舞台に立つ女性はほかにもたくさんいるのだし、その女性と親しい男性は、きっと客席にいるだろうから……。宝塚でも、新劇でも変りない。
もしかしたらテレビだって同じかもしれない。
恋をするなら、テレビの娘よ
スウィッチ一つで すぐ会える
オコサでオコサで本当だね
こんな歌詞を酒席で聞いたことがあるけれど、これだって深読みをすれば、同じ視線で眺めているケースがあるだろう。
テレビの娘は時代の花形であり、昨夜、彼女を抱いた男は、こっそりとそのことを思って眺めているだろう。うらやましい。