お盆のような月
〓“レトリカ〓”という本が贈られて来た。
版元は白水社。編者は榛谷泰明さん。面識のあるかたではないけれど、たいへんな読書家にちがいあるまい。巻末の略歴を見ると、私と同い年、同じ大学の同じ文学部の卒業と記してあった。
広告で出版の予告を見たときから興味の引かれる本であった。早速ページを開き、あちらこちら、とりとめもなく拾い読みをしてみた。
なかなかおもしろい。
〓“レトリカ〓”は、もう一つのタイトルを〓“比《ひ》喩《ゆ》表現事典〓”と言い、まるごと一冊さまざまな比喩を集めて件名べつに編集したものである。
比喩というのは、〓“お盆のような月〓”とか〓“鏡のような海〓”とか、平たく言えば、たとえのことである。文章家がどんなたとえを使っているか、三千あまりの用例を、ざっと千五百人ほどの内外の作家の文章から拾っている。
私自身の用例も二つほど引用してあって、それが私のところにこの本が贈られて来た理由だろう。
〈気がつくと足元の枯草が歯ブラシのようになって揺れている。葉先に宿った水滴が風に飛ばされ、飛ばされながら凍りついたのだろうか〉(〓“瑠《る》璃《り》色《いろ》の底〓”)
〓“歯ブラシ〓”から〓“揺れている〓”までの部分が太い活字になっていて、これがつまり比《ひ》喩《ゆ》の部分。〓“瑠璃色の底〓”は、その文章を含む私の小説のタイトルである。
これは冬も間近い蔵《ざ》王《おう》山《さん》のてっぺんに私が赴いたときの風景。本当に一面白い毛の歯ブラシを並べたように凍りついていた。
〈新生児が大勢籠《かご》に入って、焼きかけの今川焼みたいに並んでいる。看護婦が〓《あん》子《こ》でも入れるように次から次へと手際よく胸のガーゼを取り替えていた〉(〓“サン・ジェルマン伯爵考〓”)
太い活字は〓“焼きかけの今川焼みたいに〓”の部分。しかし、この引用文全体が一つの比喩的な情景描写になっていると言ってもよいだろう。
これも実際に体験した風景である。
杉《すぎ》並《なみ》区の荻《おぎ》窪《くぼ》病院で私の叔父が産婦人科医を務めている。私の二人の子どももここで生まれた。総合病院だから私も外科病棟に入院したことがある。新生児室には生まれたばかりの赤ちゃんが何十人も並べてあって、看護婦が一人一人に同じ作業をくり返して行く様子は、
——まるで今川焼だなあ——
と、見るたびに思った。
机の前で思案のすえに考えだす比喩もないではないが、たいていは、ある情景に触れてその瞬間に、
——まるでナントカだなあ——
と感じる。それを記憶しておいて、あとで作品の中に利用するケースが多い。
私はおそらく比喩を比較的多く用いる書き手のほうだろう。しかし、自分がどんな比喩を使っているか、問われてもすぐには思い出せない。〓“レトリカ〓”に引用をされた二つの例も、引用の許可を求められて、
——ああ、そんなの書いたな——
と、気づいたくらいである。
「なにか会心の比喩、ありますか」
と尋ねられても、
「なんだろう」
しばらく捜さなければ、思い浮かぶまい。
——向田邦子さんはどうかな——
と〓“レトリカ〓”の索引を調べてみたが、引用した作家の一覧表の中に向田邦子の名はなかった。
向田邦子も比喩をよく使い、しかもその使いかたが巧みな作家である。〓“レトリカ〓”に向田邦子の用例が含まれていないのは、きっと編者が向田邦子の読者ではないからだろう。
この編集は楽な作業ではない。一人でやるとすれば、相当に長い年月を、多分必要とするだろう。ある日思い立ち、意図的に読書の折にメモを取り、カードを作り、そして記録が一定量そろったところで具体的な編成作業にかかる。いずれにせよ厖《ぼう》大《だい》な読書の積み重ねがあって、はじめてできる仕事である。
読書家は読書家であればこそ、読みたい本を読む。自分の好みに忠実である。仕事のために読むものは限られている。すばらしい比喩の使い手である向田邦子が〓“レトリカ〓”に入っていないとしても、編者を咎《とが》めることではあるまい。
話は少し変るが、数年前、私は主として三十代から五十代の女性を対象にして設けられた小説教室の講師を務めていた。向田邦子はこの世代に愛読者が多いし、女性が文章を書くときとても役に立つ作家のように思われたので、私は、向田邦子の短篇小説を何度かテキストとして利用した。だから私は向田作品について通り一遍の読書ではなく、相当に細かく読んでいる。
比喩には、仕かけの大きい比喩と小さい比喩とがある。〓“お盆のような月〓”は小さいほうだろう。字数も少ないし、お盆と月とイメージも接近しており、常《じよう》套《とう》的である。一方、たっぷりと字数を使い、たとえるものとたとえられるものとイメージは相当にかけ離れているのだが、書き手の筆力でその二つを接近させ、読む者を納得させ、よくもわるくもそれが味わいになっている文章もある。これが大きな仕かけの比喩である。
向田邦子は小さな比喩も使うが、仕かけの大きい比喩もよく使う。
〈まさかとやっぱり。ふたつの実感が、赤と青のねじりん棒の床屋の看板のように、頭のなかでぐるぐる廻《まわ》っている〉
これは〓“花の名前〓”の中で、妻が夫の浮気に感づいたときの表現である。かなり仕かけが大きい。
向田邦子の場合は、二ページに一つくらいのわりで、大きく華やかな比喩が登場する。
「とてもうまいです。しかし、比喩の使い方としては、あのくらいの頻度が限界です。あれ以上たくさん使うと、少しうるさくもなるし、飾りすぎにもなりかねません」
と、これは私が小説教室で言ったレクチャーであり、向田文学の比喩についての私の率直な感想である。
比喩は使いまちがうと、けれんに流れやすい、飾りすぎて、温泉場のやたらお金をかけた、豪華にして悪趣味のホテルみたいになりかねない。
名人上手はむしろ比喩など使わないかもしれない。使うもよし、使わぬもよし……。小説の根幹にかかわるテクニックでありながら、毒気も帯びている。
〓“レトリカ〓”は読んでもおもしろいし、この分野の嚆《こう》矢《し》としても価値は小さくあるまい。