卵について
肺結核にかかった友人のところに卵を五つほど持って見舞いに行き、
「これを食べて早く治ってくれ」
「ありがとう」
友人は深く頭を垂れてうやうやしく贈り物を受け取る。数十年前には、たしかにそんな風景が心に響くものとして実在していた。つまり、卵はそのくらいの貴重な食品であった。滋養と言えば卵であった。
風邪を引くと、卵酒を作ってもらう。母親が炭火の上に小さな鍋《なべ》を置き、清酒少々、砂糖少々、その中に卵の黄身だけを落としてかきたてながら温める。ほどよく温まったところで、マッチをすり、炎を鍋に近づけると、パッと青い火が燃え立つ。
それが消えれば卵酒の出来あがり。茶《ちや》碗《わん》に半分ほどの分量を、フウフウ吹きながら飲む。甘くて、酒くさくって、のどの奥にツンと来るような感じ。すぐに胃袋のあたりから酔いとぬくもりが込みあげて来た。
どれほどの薬効があったかわからない。あったとすれば、体が温まること、そして卵の滋養がおおいに作用していただろう。粗食の時代であったからこそ、卵の価値も高かった。
私も肺結核にかかった。
昭和三十年代。その前の時代に比べれば、卵の価値はずいぶん下落していたけれど、それでも病気の養生には欠かせない大切な食品であった。
近所に卵を専門に売る店があって、
「あそこは卵が新しいの。値段も少し安いし」
「うん」
散歩がてらによく買いに行った。
店先に卵を入れた籠《かご》が三つほど置いてある。それぞれに十二円、十五円、十八円、と卵一個の値段が記してある。
十二円は小さい。十八円は大きい。私はいつも十五円を買った。たびたび買いに行ったので、よく覚えている。値札の字体には、ひどく乱雑に書いたのと、反対に滅法丁寧に書いたのとがあって、おそらくこれは店の主人と奥さんと、その筆跡のちがいだったろう。いつも十二円と十五円と十八円の三種類で、それ以外の数値は見当らなかった。
——なぜかな——
養鶏所ではそう都合よく三種類に分けられるように生まれては来ないだろう。十二円の籠の中にも十三円くらいの卵もあるだろうし、十四円の卵が十五円の籠に入っていることもあるだろう。
しかし、ざっと眺めて、三つの区分はそこそこに納得のいくものだった。十二円の籠の中で一番大きなものでも十五円の籠《かご》より小さかった。十八円の籠には、どれを見ても十五円の籠より大きなものが入っていた。
——本当のところがどれが得なのかなあ——
かりに卵の寸法に二ミリの差があるとして、体積の差はどうなるのか。それと値段の差は妥当なものかどうか。私はわざわざ数式を立てて調べてみたような気がする。
結果は忘れた。
大きな卵のほうが少し得だったのではあるまいか。小さな卵のほうが少し損だったのではなかろうか。
いずれにせよ、私は十五円の籠の中から、できるだけ大きい卵を選んで買い、卵の力で早く病気を治し元気にならなくちゃあと考えていた。
卵にはそう思わせるだけの尊さがあったのである。
考えてみると、卵の値段はその後ほとんど変っていない。昨今はヨード入りとか金印とか特別高価な卵もあるらしいが、そして、
「このごろの卵、まずいでしょ。栄養価もきっと落ちてるわ」
という意見もあるけれど、なにはともあれ、スーパーマーケットへ行けば、昔と比べて姿形に変りのない卵が六個入り百円くらいで売っている。一個十七円也……。
これほど値あがりのしなかった商品もめずらしい。おかげで卵に対する尊敬の念はめっきり減ってしまったけれど、
「卵さん、ありがとう」
そう言ってあげなければ、少し申し訳ないような気がしてならない。
話はガラリと変る。
同じ頃、近所に住むKさんの奥さんは、卵型の面ざしで、とてもきれいな人だった。色も白いし、いつも湯あがりみたいにこざっぱりしている。
——ゆで卵みたいだな——
と思った。
そう思って見れば見るほど顔の輪郭は正確な卵型だった。髪型は……とにかく引っつめにして卵型を際立たせていた。額を隠していることなど、けっしてなかったし、長めの髪を両耳のわきに垂らしていることもなかっただろう。
愛敬があって、とてもやさしそう。私は卵に対してよい印象を持っていたから、この奥さんについても当初はよいイメージを抱いていたのだが、
「あんな虫も殺さないような顔をしていて、ひどい人なのよ。前の奥さんと子どもを追い出し、自分が居すわったんだから」
と、評判はあまりよくなかった。
——そんな人には見えないけどなあ——
前の奥さんのほうがひどい人なのかもしれないし……。それにKさんを真実愛していたのなら仕方ないだろう。
だが、一度だけ、彼女が野良猫に石を投げているところを目撃し、その顔つきのにくにくしげなこと、恐ろしげだったこと、つね日ごろとはおおいにちがっていて、
——やっぱり——
と思ったりもした。
本当のところはわからない。
どちらかと言えば、私は日本的な面ざしの女性が好きである。卵型。もちろん結構です。だが、みごとな卵型を見ると、どうしても昔見たあの奥さんを思い出してしまう。
実は最近、周辺にみごとな卵型が一人いて、愛敬もあるし、とてもやさしそうなので、
——いい人みたいな気がするんだがなあ——
と、迷っている……。
余計な気をまわしていただいては困ります。なにが言いたいかといえば、つまり、その……よきにつけわるきにつけ、昔見た人とよく似た人に会うと、なんの関係もないはずなのに、その二人が、
——性格まで同じじゃあるまいか——
そう思っている自分に気がついて、愕《がく》然《ぜん》とする。あなたにはそんなことありませんか。