戦後は遠くなりにけり
美空ひばりさんの死を悼む記事がいろいろな雑誌に載っている。扱いはみんなよく似ていた。
大衆のアイドル、日本人の心を歌ったエンターテイナー。戦後の荒廃した社会に明るい希望を与えた歌手として国民栄誉賞を授与されることにもなった。
だが、お立ちあい。美空ひばりさんが、日本の歌謡界最大のスターであったことにはなんの異論もないけれど、〓“戦後の荒廃した社会に明るい希望を与えた〓”という部分があまり強調されすぎると、私なんか、
——本当にそうだったかなあ——
と、首を傾《かし》げたくなってしまう。
そういう側面もあったが、そうでない側面もたしかにあった、と私は思っている。
昭和二十年代、歌謡曲を取りまく状況が今とはずいぶんちがっていた。ラジオから盛んに歌謡曲が流れていて、どこの家でもそれを聞いてはいたけれど、三度に一度くらいは、
「こんなもの、聞くな」
と、親に叱られた。少なくとも中流以上の家庭ではそうだった。
歌謡曲はサブカルチャーであり、歌だけならまだしも黙認されるところがあったが、それを歌っている歌手となると、
——まともな人間じゃないね——
つまり、不良のやること、そんな気配がなくもなかった。
鮮明に覚えていることが一つある。
当時はテレビがなかったから、歌謡ショウをそっくりフィルムに撮って、それを映画館で上映していた。映画を見に行くと、ニュースと劇映画のあいだに、そんなおまけが映し出される。
私もそれを見た。
川田正子さんという、当時人気の童謡歌手が、その中で歌っている。「汽車汽車、シュッポ、シュッポ……」などと、少女はまぎれもなく健康で明朗な童謡を歌っているのだが、私の母は、
「普通の家の子なのに、こんな人たちと一緒に歌って」
と、眉《まゆ》をしかめ、それが周囲の大人たちの標準的な考えであった。
つまり〓“普通の家の子〓”である川田正子は、たとえ歌う歌が童謡であっても、歌謡曲の連中なんかと同じ舞台にあがってはいけない、あがったら、もうそれだけでかんばしいことではなかった。
これより少し遅れて名子役として登場した松島トモ子さんも、
「芸能界ってとこは、普通の家の子が近づくとこじゃないって、そういう意識はたしかにありましたね」
と述懐している。
川田正子さんや松島トモ子さんのように、一見して筋のよさそうな少女でもそうだったのである。
美空ひばりさんは、そういう時代に、これはもう正真正銘の歌謡曲を引っさげ、その雰囲気に首までドップリつかった感じでデビューしたのである。
——歌はたしかに小器用にこなしているけれど、こまっちゃくれた変な子ね——
少なからず白い眼で見られていた部分もあった。
私はけっして美空ひばりさんをおとしめるために言っているのではない。むしろそういう時代に登場し、長い年月をかけてサブカルチャーであったものを大衆に広く受け入れられるものへと高め、世間の認識を変えたこと、その生きたシンボルであったこと、それこそが美空ひばりさんの価値であったと私は言いたいのである。もちろん、これは美空ひばりさん一人の力でやったことではないし、歌謡曲は現在でも依然としてサブカルチャーの側面を持っているけれど、状況はあきらかに昭和二十年代とちがっている。私は同じ世代を生きた者として、当時のムードを正確に伝えておきたいと思う。
「あんたの指摘には同感だけど、それは、つまり俺たちが年を取ったってことなんだよな」
私の話を聞いて、友人のK君が笑いながら呟《つぶや》いた。
「うん?」
「今はもう俺たちよりずっと若い連中が現場の指揮をとっているんだ。戦争中はもちろんのこと、昭和二十年代だってほとんど記憶にない連中が現場の指揮官なんだよ。知らないことは、知らない。資料で調べたってサブカルチャーのたぐいは、こまかいところまで残っていない。美空ひばりが昭和二十年代にどんなムードの中で登場したかなんて、もうわからない人が多くなっている。ここ十数年ぐらいの印象で美空ひばり特集を作っているわけだ」
「なるほど」
「前にも、ほかで同じようなこと、感じたよ」
「へえー?」
「なつかしのメロディってのがあるだろ」
「うん」
「昭和二十年代にたしかにはやった歌なのにサ、どういうわけかその後歌われなくなって、そうなると、はやったという事実さえ忘れられちゃう。記録からも脱落してしまう。今のテレビ局のディレクターはその頃の記憶がないからどうにもならない。戦後は着実に遠くなっている」
「たとえば、どんな歌?」
「〓“三日月娘〓”。はやったんだよなあ、これは。国籍不明みたいな、変な歌だったけど」
「知ってる、知ってる。幾夜重ねて砂漠を越えて、明日はあの娘《こ》のいる町へ……」
「そう、そう。ナツメロの歌集を捜しても見つからない」
「どうしてなのかな」
「わからん。〓“青春のパラダイス〓”なんてのもあったぞ」
「あでやかな君の笑顔やさしくわれを呼びて、青春の歌にあこがれ丘を越えて行く」
「知ってるねえ」
「知ってるところをみると、ヒットしたんだろうね」
「それから〓“雨のオランダ坂〓”」
「それはたまに歌われるんじゃないか」
「こぬか雨降る港の町の……」
私たちはおおいに意気投合し、しばらくは遠い日の歌を口ずさんだ。
サブカルチャーとはいえ歌謡曲はなかなかのものである。
あの頃、楽しみと言えば、映画と歌くらいしかなかった。美空ひばりさんが戦後史の一ページを飾る偉大な存在であったことはまちがいない。だがなにもかも美談だけでまとめてしまっては、本当の姿と歴史的な視点とをそこなってしまうだろう。