いま捕鯨について
たまたま鯨の尾の身が大好物だったことから捕鯨問題に関心を持ち、捕鯨問題懇談会のメンバーに加わり、昭和五十六年にはイギリスのブライトンまで赴いて国際捕鯨委員会の会議にオブザーバーとして出席した。私の立場は、簡単に言えば「鯨を捕らせろ」のほうである。当初から、
——これは敗け戦さらしいな——
とわかっていたが、予想通りズルズルと反捕鯨勢力に押し込まれて、とうとう土俵をわってしまった。目下はそんな情況である。
捕鯨をめぐる問題の焦点は、たった一つしかない。世界の海に鯨は捕っていいだけ棲《せい》息《そく》しているのかどうか、それだけである。その他の論点は……たとえば、
「鯨はとても頭がよくって、捕ったらかわいそう」とか、あるいは、「鯨なんか食べなくたっていいだろ」とか言う主張は、二義的である。牛だって豚だって頭はいいし、ものを食べるという行為は、どの道、残酷さをともなうものだ。また、鯨肉を食用とするかどうかは、民族の文化の問題であり、利用のパーセンテージが少ないからと言って切り捨ててよいものではあるまい。むしろ消えかかっている文化を保存することのほうが、二十一世紀的視点のはずである。
だが、鯨は本当に捕っていいだけ棲息しているのだろうか。この問題が案外むつかしい。
いったいどのくらい棲《す》んでいれば適当なのか、まずこれがわからない。大昔は、おそらく今よりたくさんいただろう。とはいえ自然の淘《とう》汰《た》もあるから、無制限に増えるわけでもあるまい。適正な数はどのくらいか。人間が適宜捕獲しながら、よい状態を保っていくというポイントが、理屈としては考えられるが、それがどのあたりか、意見はまちまちである。
ひところ、日本が一番よく捕っていたのはミンク鯨であり、これは繁殖力も旺《おう》盛《せい》で、たしかに増加しているらしかった。しかもこのミンク鯨は、繁殖力の弱いナガス鯨などと同じ海域に棲息し、同じ餌《えさ》をあさるから、一定量のミンク鯨を捕ることがナガス鯨の保護になるという、そういう側面もたしかにあった。
捕鯨国日本の主張は、
「貯金で言えば、元金にまで手をつけるつもりはない。利子のぶんだけ利用させてくれ」
ということだったが、もともと元金が足りなくなっているんだ、利子をどんどん元金にくり込んでほしい、という反捕鯨側の主張も、適正な鯨の数がわからない以上、それなりに論拠があるだろう。
今、どのくらい鯨がいるのか、これもよくわからない。牧場の牛を数えるのとは、わけがちがう。一説では、ある海域にいる鯨の数を調査して、
「二十頭から二百頭のあいだですね」
そのくらいアバウトのものだと言う。二十と二百、十倍のちがいがある。概数と呼ぶことさえためらわれてしまう。
頭数を調査する費用も手間もばかにならない。日本は捕鯨国であり、捕鯨産業で利益をあげている国だから、この調査にある程度までお金をかけることができた。鯨を捕る作業と併行して資源情況の調査をやることも充分に可能である。事実、長年それをやって来て、
「鯨はこんなにいる。大丈夫だ」
という数値をはじき出すのだが、非捕鯨国の側に立ってみれば、
「なーに、捕鯨国の出す数値なんか当てにならん」
この判断もむげに否定することができない。では、非捕鯨国が提示する鯨の頭数が信頼できるのかというと、もともとこうした国は捕鯨には関心がない。
「自然のまま放っておくのが一番いいんじゃないの」
という考えなのだから、多大な予算をつけてまで調査をする気になれない。したくてもなかなかできない。ろくな調査もせず、根拠のあやしい数値が横行しているようにも感じられた。
さらに、もっと身に迫った問題がある。私自身は科学者ではないし、鯨がどのくらいいたらいいのか、今どのくらいいるのか、どちらのテーマについても、専門的な判断を持っているわけではない。
何人かの科学者の意見を傾聴し、データも自分なりに読みこみ、
——このくらいの利子は見込めそうだし、利子くらい使ってもいいんじゃないの——
と感じる。とりわけミンク鯨については、
——絶対に増えている。捕っても大丈夫——
日本の主張を是認し、是認できたからこそオブザーバーにもなったわけだが、
「科学者でもないあなたが……一度も調査をしたことのないド素人のあなたが、そんなこと本当にわかるのですか」
と問われれば、
「うーん」
と、返答に窮してしまう。〓“本当にわかる〓”というのは、とてもむつかしいことだろう。だれが本当にわかるのか。本当にわかっている人でなければ、このテーマに口を挟んではいけないのか。つきつめて行くと、これは信ずるかどうかの問題になってしまう。
鯨だけではない。
知識の領域が細分化されている今、なんによらず、専門家以外の者が〓“本当にわかる〓”のはむつかしい。そしてその専門家の意見もおおいに分かれている。
原子力発電はどうなのか。大気汚染はどうなのか。本当に知っている人はだれなのか。知りもせずに……とりわけ大局を見ず部分だけを見て主張をしている人が多いのではあるまいか。しかし、専門家しかわからないからと言って、ほかの人が口を出してはいけないというのも困りものである。
やはり、信ずるか信じないかの問題。たとえまちがっていても信じた道を進むよりほかにない。
鯨でさえ、あれだけむつかしかった。世間にはまだまだむつかしいテーマが山積しているだろう。
私は今でも捕鯨についての日本の主張はまちがっていなかったと思う。そのことは、ここ数年のうちに資源の増大という形で明らかになると思う。だが、捕鯨そのものについては、今の私はむしろ消極的である。捕鯨に関してはまちがっていなかったが、自然保護全体に関しては日本人の意識はあまりにも低い。その罰を鯨で取らされているのかもしれないのだから……。