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三角のあたま52
日期:2018-03-31 13:37  点击:262
 電話と手紙
 
 
 ル、ルン、と電話のベルが鳴る。
 
 仕事場の電話は私が取る。当然のことだ。私以外にだれもいないのだから……。その瞬間、
 
 ——いいことかな——
 
 と、胸を弾ませる。
 
 顕著な喜びではない。かすかな期待感。ほんのわずかなうれしさ。少なくともわるい気分ではない。二で割れば、よいほう。五十をまん中にして、五十一か五十二くらいの喜びである。
 
 ——だれからだろう——
 
 どんな内容の電話か、わかる前からこう感じてしまうのである。そんな私を見て、妻は、
 
「あなたは、根が楽天的だから」
 
 と笑う。多分そうだろう。
 
 幻覚剤の作用には、グッド・トリップとバッド・トリップとがある。とてつもなく幸福な妄想を描くか、どうにもやりきれないひどい夢を見てしまうか……人それぞれ、どちらかのパターンに属しているらしい。私は幻覚剤を使用したことがないけれど、おそらくグッド・トリップのほうだろう。ほんの少し心配性のところもあるが、根は絶対に明るいほうだ。この性格ならば、きっとよい幻想を描くにちがいない。
 
 
 
 話を電話に戻して……昔、友人のT君が言っていた。
 
「電話は厭《いや》だね。ベルが鳴ったとたん、なんかこう〓“いけねえ〓”って思うよ」
 
 どうやら私とは正反対の感覚らしい。あの頃、T君は何度か仕事を換え、どの仕事もうまくいかず、たしかゴルフ場の会員権のセールスみたいな仕事をやっていた。かすかにいかがわしい。借金も少しあるような話だった。受話器を取ると、
 
「このあいだのゴルフ場、あんたの話とずいぶんちがうじゃない」
 
 お客の苦情が漏れて来る。あるいは、
 
「このあいだの金、〓“返す、返す〓”って言ってたけど、いつなんだよ」
 
 と、催促の電話だったりする。
 
 ろくなことがない。わるいほうが確率的にずっと多い。こんな電話を何年か続けて受けていれば、電話のベルが鳴っても、けっしてうれしくはないだろう。
 
 つまり、電話のベルを聞いた、その一瞬、直観的にどう感ずるか。グッド・ヒアリングとバッド・ヒアリングとがあるのではなかろうか。
 
 私は原稿の締切りを、おおむねよく守るほうである。小説家の仕事では、原稿の催促を除けば、あまりこわい電話はかかって来ない。
 
「原稿、どうなってますか」
 
「ええ、今、ちょうどできたところ」
 
 こう答えられれば、電話のベルなんか「さあ、なんぼでも鳴りなさい」と、楽な気分でいられる。
 
 いそがしい最中に電話のベルが鳴るのは、少々迷惑なこともあるけれど、こっちが、
 
「もし、もし」
 
 と、不愉快そうな声を出すと、相手はたいてい恐縮する。うん、わかっていれば、それでいいんだ。気晴らしになることも多い。少なくともこわいことはなにもない。
 
 それ以外には、親しい友人から、
 
「よおッ、久しぶりに一ぱい飲まんか」
 
 と、誘いの電話がかかってきたり、あるいは担当の編集者から、
 
「増し刷りのご通知です。よく売れてますよ」
 
 と、おいしい話だったり、電話の用件は本当に多種多様ではあるけれど、おしなべてよいことのほうが多いだろう。通信簿の5段階評価で言えば、5、つまりものすごくうれしいことが五パーセントくらい、少しうれしい4が一〇パーセントくらい、あとはあらかたどちらとも言えない3が占めて、ほんの少々2があって、1はない。私の場合は、ここ数年こんな状態が続いているようだ。これならばベルの響きと同時にポジティブな感情を抱くことができる。あなたは、いかがですか。
 
 
 
 郵便物の到来も、かすかに待ちどおしい。恋文を待つような、あんな熱い思いで待つことは久しく体験してないけれど、とにかくこれも電話同様五十をまん中にして五十一か五十二の気分である。
 
 毎日、両手でようやく持てるほどの郵便物が届く。郵便屋さん、ご苦労さま。本当にそう思う。
 
 あらかたが雑誌や本。毎日、何冊か寄贈されて来る。いただくことに慣れてしまって、もう非常にうれしいということはないけれど、とくに厭《いや》な理由はない。自分の作品が掲載されている雑誌ならば〓“見たい〓”と言うべきか〓“見なければいけない〓”と言うべきか、二で割れば前者のほうが多いだろう。
 
 広告のたぐいも多い。マンションを買いませんか、国際投資をしませんか……封も切らずに捨てる。
 
 私的な手紙は、ほんの二、三通。送り主の名前だけを見て、脇《わき》によけ、郵便物の整理が全部終ったところでゆっくりと読む。私、楽しみはあとに残しておくほうなのです。
 
 時折、ファンからの手紙もまざっている。このところ中学生や高校生など、若い人からの手紙が増えている。それも女の子……。ほとんどがボーイフレンドに書くような文面である。
 
 ——小説が甘くなってるんじゃないかなあ——
 
 少し心配である。
 
 ——この娘、こっちがいくつだと思っているのかな——
 
 疑いたくなるケースも多い。多分、彼女の父親くらい、それより上かもしれない。
 
 
 
 昔は極端に筆不精のほうだったが、この頃は大分改った。しかし、まだ発展途上の段階、筆まめの領域にまでは達していない。
 
 慣れてしまえば、手紙はとてもよいものだろう。そんな予測がある。電話は、相手が不在では役に立たないし、かけにくい時間帯もある。その点、手紙は書いてしまえば、これにて一件落着。あとは投《とう》函《かん》するだけ。手紙にふさわしい用件というのもあるようだ。
 
 私の場合は、右翼などから抗議を受けることも少なく、厭な思いで手紙の封を切ることはめずらしい。ただ一つ例外があって、封筒を見ただけですぐにわかる。いつも厭な用件が記されているわけではないけれど、あまりよい印象は湧《わ》かない。
 
 税務署からのお手紙……。
 
 なにかの拍子で還付金の八百円也とか、千二百円也とか、そんな通知もあるのだが……あの封筒だけは、見て、楽しい気持ちになるわけにはいかない。
 

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