文庫本
新潮文庫に〓“ジョークなしでは生きられない〓”という、長いタイトルの拙著がある。
私が小説家になる以前、十年ほどのあいだ月刊誌に連載した雑文をまとめたもので、内容は内外のジョークや小ばなしのたぐいを紹介しながら、エッセイ風の文章が挟んである。ちょっと引用してみれば、
〈夫がいて、妻がいて、その妻がだれかよその男といい仲になる。すると夫はとたんにコキュに変身する。日本語に訳せば「寝取られ男」。自分でなろうと思ってなれるものではない。すべて他動詞である。そのかわり仕事をしていても、麻《マー》雀《ジヤン》をやっていても、女房持ちならいつでも、どこでもコキュになれる。もちろん今こうして本書を読んでいる〓“あなた〓”もなれるのである。このところ日本の主婦の自由化は急速に進み、二、三十代人妻の浮気率は二〇パーセントとか。かなりの高率である。ああ、たれかコキュを思わざる。まずフランス小話から。
かつてプレイボーイでならした中年男が妻に向かっていった。「オレも若い頃はずいぶん罪なことをしたもんだ。コキュを何人作ったかわかりゃしない」すると妻が答えた。
「あら。あたしは一人しか作らなかったけど……」
言うまでもなくコキュは被害者である。だが古来この被害者はあまり同情されない。寄ってたかって嘲《ちよう》 笑《しよう》のタネにされる。それでもどこからも苦情はでない。自覚症状がないから、弁護に立つ者がいないのだ。
コキュはフランス語である。「テ・コキュ」といえば「お前はコキュだ」ということになる。フランス人の耳には帝国ホテルは「テ・コキュ」ホテルと聞えるから大変だ。おちおち泊っていられない。日本にはコキュみたいにうまい言葉はないけれど、もちろんコキュがいないわけではない〉
と、今度は江戸小ばなしの紹介に移る。長い引用になってしまったが、どんな内容かおわかりいただけるだろう。はい、正直なところ、そんなに上等な本ではない。笑ってはいただけるだろうが、エロチックな部分も多く、紳士淑女の顰《ひん》蹙《しゆく》をかうかもしれない。
ある日、本棚を整理していたら、この本が転げ出し、ラッパーがはげ落ちた。ラッパーというのは、本の外側に巻いてある、通称〓“カバー〓”のことだ。
ここで正しい用語を説明すれば、カバーというのは本の表紙のこと。〓“フロム・カバー・トゥ・カバー〓”という英語もある。前の表紙からうしろの表紙まで、本をすっかり読んでしまうときなどに使う慣用句である。カバーが堅ければハード・カバー。柔かい軽装本ならソフト・カバー。そのカバーの外側に、印刷された、たいていはカラフルな紙が一枚グルッと巻いてあって、日本語ではむしろこのほうをカバーと言ってしまうのだが、これは正しくはラッパー、包み紙である。さらにその外側に、それぞれの本屋がサービスとしてつけてくれる紙は……あれはなんて言うのかわからない。
それはともかく〓“ジョークなしでは生きられない〓”のラッパーがはげ落ち、本体のカバーが現われた。私は一瞬、
——あっ——
と、ショックを覚えた。ベージュ色のカバー。新潮文庫の文字。葡《ぶ》萄《どう》のマーク……。
昔の文庫本にはラッパーがなかった。私が高校生、大学生の頃、せっせと読んだ新潮文庫、それはみんな、このベージュ色のカバー、葡萄のマーク。ヘルマン・ヘッセもアンドレ・ジイドも、パール・バックもボードレールもみんなこのカバーだった。見るだけで、高貴なる文学への憧《どう》憬《けい》がふつふつと胸を満たしたものだった。このところラッパーをかぶっているので、すっかり忘れていたけれど、新潮文庫に対する遠い日の畏《い》怖《ふ》の念が心に甦《よみがえ》って来た。
ところが……である。
よくよく見れば、本棚から落ちた新潮文庫は阿刀田高〓“ジョークなしでは生きられない〓”……。ヘルマン・ヘッセ〓“車輪の下〓”とはあまりにもちがうではないか。ボードレール〓“悪の華〓”とはちがいすぎるではないか。いや、いや、自分の著作をことさらに卑下するつもりはないけれど、さはさりながら、
——こんなはずじゃあなかった——