黄の花
初めて哲也にその店を教えてくれたのは、妻の博子だった。
「ガラス窓が大きいでしょ。洋品店かと思っていたらコーヒー屋さんなのよね。雑木林の角のとこ。わりと感じのよさそうな店よ」
私鉄沿線の街は、五、六年前からマンション、銀行、コンビニエンス・ストアと、少しずつ新しいビルが建ち始め、最近になってようやく垢《あか》ぬけた店構えを見るようになった。とはいえ、まだキャベツ畑がところどころにあるくらいだから、たかが知れている。警報機もカンカンと鳴っている。
「ああ、そう」
テレビを見ながら生返事《なまへんじ》を呟《つぶや》いたが、
——行ってみるかな——
と、関心がないわけではなかった。
哲也は私立高校で教鞭《きようべん》をとっている。教科は世界史。ここ数年ずっと木曜日を研究日に選んでいた。
数日後の木曜日に朝寝坊をしてリビングルームへ顔を出すと、博子はどこかへ出かけたあとらしい。十時二十分。新聞に目を通し、そのままドアに鍵をかけて外に出た。
このあたりには武蔵野の気配が残っている。空が明るい。日射しがずいぶん暖くなった。枯木みたいな枝も、よく見ると、鮮かな青の芽を吹いている。雑木林の道ではしきりにさえずっている鳥の声まで聞いた。
「ここだな」
目当ての店はすぐに見つかった。踏み石だけの階段をあがって、コンクリートの中二階。たしかに大きなガラス窓が三面に張ってある。店の名は�明日香《あすか》�。店の中から公園の花壇がよく見える位置だった。
ドアを押した。
鈴が鳴った。
客はだれもいない。
「いらっしゃいませ」
奥の格子戸が開き、初老の婦人がペコンと現われた。最敬礼みたいなお辞儀をしている。
「コーヒーとトーストをくださいな」
日溜《ひだま》りに腰をおろして周囲を見まわしたとたん、
「えっ?」
恐怖に近い驚きを覚えた。
——見たことがある——
右手の壁に黄色い絵がかかっている。花と少女。十五号くらいの大きさ……。
——そうか。昔、家にあった絵だ——
と、驚きの原因を知るまでに、そう長い時間はかからなかった。
こんな偶然もあるのだろうか。すると……パラシュートでも開くように、糸にたぐられ、いくつかの情景が頭の中に浮かんで来た。父の部屋。白いカーテン。姉のうしろ姿……。
「お待ちどおさま」
お盆に載ったコーヒーとトーストが届いた。
トーストはバターをぬって焼いてある。パンの中にまで脂と塩味が染み込んでいる。哲也はこれが好きだ。コーヒーはブラックのままで。四十代のなかばになって、肥満が少し気になり始めていた。
すぐに視線は壁の絵に戻る。
黄の花は山吹だろう。薄曇りの空の下に一面に群生し、一部はかたわらに立った少女の背より高く生《お》い繁っている。少女は帽子をかぶり、手を伸ばして花の茎《くき》を折ろうとしている。
——変だな——
いったんは、昔、父の部屋にあった絵と思ったが、よく見ると、少しちがっているようだ。哲也の記憶の中にいる少女はもっと横顔をはっきりと見せていたようだ。外国人だとすぐにわかるほどに……。
だが、目の前の絵は、そこまではわかりにくい。絵の大きさも、これは少し小さい。父の書斎にあったのは、もう一まわり大きくて、二十号くらいの油絵ではなかったか。
哲也は立ちあがって仔細に眺めてみた。特徴のあるE・Kのサイン。これは同じ画家の手と考えてよさそうだ。幼い哲也は、いつも不思議な字だと思って見つめていた。英語を習ってからも、捩《よじ》れたサインはE・Kとは読みにくかった。
カップを片手にしばらくは戸惑いながら目を向けていた。コーヒーの味もよくわからない。
�絶対にちがう�とも言いきれない。だが微妙にちがっている。子どもの頃には、
——どうして外国人なのかな——
と考えた。幼い頭は、わけもなく�日本人のほうがいいのに�と思ったのだろう。
絵の中の少女は白いワンピースを着て、長い脚にサンダルをつけている。髪は帽子の中に隠れていて、かすかに茶の色が見える。
こまかく観察すれば、この絵からも白人の少女とわかるけれど、哲也はもっと確実に白い少女の顔を見たような気がしてならない。
画家は似たような図柄で幾枚《いくまい》かの絵をかくことがある。一見して区別のできない二枚の絵を見ることはけっしてまれではない。
——それだな——
と哲也は納得した。
昔、自分の家にあった絵にめぐりあう——それではあまりにも偶然が過ぎるというものだ。よく似た、ほかの絵……そのくらいの邂逅《かいこう》がほどよいところだろう。
そう結論をつけたときには、トーストもコーヒーも平らげていた。哲也はあらためて店の造りに視線を伸ばした。
——わるくないな——
しばらくすわっていたが、相変らずほかの客は入って来ない。もう一度黄色い絵に一瞥《いちべつ》を送って哲也は席を立った。
記憶の構造はよくわからない。歴史書のように古いところから順序よく記録されているような気もするけれど、実際にはそうではあるまい。むしろ曼陀羅《まんだら》みたいにいろいろな情景があちこちに散らばっている。とりとめのない図柄。そして濃淡がある。
古い記憶は当然一つ一つ頭からこぼれ落ちていくわけだが、こぼれそうになっているのを拾いあげると、その時点でまたいくばくかの命を与えられ、記憶の寿命が延びる。こんな操作をいくつもいくつも繰り返しているうちに、古いことと新しいことがごっちゃになる。新しいことが、いつも新しい記憶になっているとは限らない。古いことのほうが新しいことよりずっと鮮明に生きているケースもまれではない。再生のたびごとに多かれ少なかれ修整が加えられ、当人が記憶していることと過去の現実とが微妙に異っている場合も多い。
黄色い花の絵の記憶は、いっときは哲也の脳裏に深く、強く映ったものだったが、そのまま脳味噌の一番奥に押しこめられ、ずいぶん長い時間にわたって日のめを見ることがなかった。長い暗闇をへて、目をあけたら突然目の前に燦然《さんぜん》と輝いている風景……コーヒー店の絵は、哲也にはそんなふうに思えた。
——目黒に住んでいた頃だな——
これはすぐに思い出せる。古い仕舞屋《しもたや》で、一部が洋館風の造りになっていた。玄関を入ると長い廊下があり、その奥の突き当たりが父の部屋だった。
レースのカーテン。白いカバーをかけた長椅子があり、旧式のオルガンが一台置いてあった。これを弾くのは姉の和代である。当時としてはかなり高級な趣味だった。おかっぱ頭。セーラー服。ピンクのリボン。曲目はアヴェ・マリア。
絵はドアを入って左手の壁にかかっていた。その先は中庭で、つつじがいつも窓を赤く染めていたような気がするのだが、もとより春だけのことだったろう。
父は印刷会社に勤めていて、羽振りのよかった頃だったろう。哲也は父の歴史をつまびらかには知らない。初めは軍需工場に勤める技師だった。敗戦後、印刷会社に入り、定年前に独立したが、その直後に肺結核を再発してあっけなく他界した。
髪をきれいに分け、笑うと目尻にたくさん皺が寄る。とても優しい人だった。
これは記憶というよりも、何度も何度も姉から聞かされたこと。姉にはよい思い出があるらしい。哲也もそんな気配をいくつか思い出すことができるけれど……。
父の部屋で家族そろって遊ぶのが、幼い頃の一番の喜びだった。そんな集まりは、ときどきおこなわれていたことでありながら、子どもたちには、特別な雰囲気のともなう出来事だった。おそらく昔の父親は、家族と離れて独り遠い位置に生きていたのだろう。その父が自分たちの高さまで降りて来て相手をしてくれる、それだけで子どもたちにはうれしいことだった。心の高ぶる事件だった。
そんな夜にはお菓子も特別なものが出て来る。母も上機嫌だった。たいていのことはおおめに見てくれる。紅茶にブランディをちょっと垂らすのも、このときだけのご馳走だった。
知人が加わりトランプで遊ぶこともあった。神経衰弱。フォーティワン。ツーテンジャックは大人の仲間入りができたようで誇らしい。母はおかしな手をやっては顰蹙《ひんしゆく》をかう。父がいつもうまい理屈をつけてかばっていた。
ゲームが終れば姉の和代がオルガンを弾く。まれには父が歌うこともあった。�流浪の民�がよく耳に残っている。
慣れし故郷 放たれて
夢に楽土を 求めたり
�放たれて�は�花垂れて�だと思っていた。歌を聞きながら首をあげると、壁には黄色い絵。文字通り花がたわわに垂れている。だが、歌と絵の結びつきは、ずっとあとになってから辻褄《つじつま》をあわせたことかもしれない。
とにかく、一枚の絵が家族団欒のシンボルのような位置を占めていたのは本当だった。父の部屋を思うときにはいつも鮮かな黄の色調が目に映るのだから……。
「これはわが家で一番高価なものだよ」
この言葉も父から直接聞かされたのかどうか。E・Kのかいた二十号なら、たしかに安いものではない。父はどういう手段で入手したのか。だれかの遺品を格安で買ったような話だったが……。
「火事のときには、まずこれを持ち出せ」
笑いながら言っていたのは、多分父の声そのものの記憶だろう。居間には、猫が金魚鉢に入っている印刷画があって、このほうがずっとわかりやすかったけれど、それとはべつに山吹の花垂れる油絵は、大人の世界に通用する価値を持っている……。きっとそうなんだ、よほど高いものなんだ、と畏怖《いふ》に近い心で眺めていた。
父が死んで一家はたちまち困窮した。父はサラリーマンをやめて会社を興《おこ》したばかり……。最悪の時期の死といってよい。一年あまりの療養でめぼしい財産はあらかたなくなっていた。遺産などあろうはずもない。それからは年ごとに苦しくなるばかりだった。五十代なかばの母にできる仕事なんか、なにもない。母は体も弱かった。いきおいそれまで家事手伝いをしていた姉が一家の支柱として働くことになった。知人の世話で、製紙会社のオフィスへ。姉は洋服のデザイナーとして身を立てたいようだったが、その希望も長くは続けられなかった。
目黒の家は印刷会社の社宅だったから、とうに越していた。戸塚の借家で父の葬儀を出し、そのあと間もなく母子三人のアパート暮らしに変った。
姉一人の給料で生活するのは、なかなかむつかしい。質屋の督促状《とくそくじよう》がよく郵便受けに落ちていた。質屋は品物を流すより、貸した金と利子をほしがる。もう古物など売れない時代に入っていたのだろう。
「困ったわね」
「どうしよう」
家族には現金が必要だった。
そのときまでどうして山吹の絵が残っていたのか。不思議と言えば不思議である。母や姉には団欒のシンボルとして手放しにくい気分があったのかもしれない。
「これを売りましょう」
姉が指差した絵はアパートの壁に窮屈そうにかかっていた。
「でも、和代。売れるかしら。こういうものは売り方がむつかしくて……」
書画|骨董《こつとう》のたぐいはたしかに値があってないようなもの。母の不安も無理がない。
「大丈夫。倉田さんが売ってくださるって」
倉田さんは、姉が就職するときにも世話になった人である。広告会社の課長くらいのポストにいただろう。
大きな絵を額ごと新聞紙に包んだ。紐《ひも》をかけ、哲也が自転車に載せて駅まで運んで行った。
「ひとりで平気?」
「なんとかなるわ」
和代が脇にかかえ、体を傾けるようにして改札口を抜けて行った。そのうしろ姿が奇妙になまなましく目の奥に残っている。
——行っちゃうんだな——
絵を見送りながら、哲也は、一つの時代への訣別を感じていたのかもしれない。姉の様子にそんな気配が漂っていた。
姉が帰って来たのは、ずいぶん夜が更《ふ》けてからだった。
「驚いちゃあ駄目よ」
真実うれしそうに笑っていた。母と哲也とが固唾《かたず》を飲む前に、姉がトランプの切り札でも出すみたいな手つきで封筒を取り出した。茶色の薄い封筒は、脹《ふく》らみに耐えきれずに破れた。
テーブルの上に何枚ものお札がこぼれ落ちた。こぼれてもなお封筒の中にお札の束が厚く残っていた……。
——どれほどの金額だったのか——
不思議なことに哲也は、それが万円札であったかどうか、それさえもおぼつかない。見たことはたしかに見たのだが、こぼれ散ったさまを見たのは……これも後日の記憶修整のような気がしないでもない。
家族の習慣からいって、年端《としは》もいかない少年に多額の札束をさらけ出したとは考えにくい。まして父の形見を売って得た金ではないか。せいぜい哲也はちらりと見た程度だったろう。
無性にうれしかった。久しぶりにご馳走を食べた。たしかそうだった。母の顔がなごんでいた。
しばらくはそのご利益があったろう。哲也の大学の入学金、授業料なども、出所はそのあたりだったろう。
黄色い絵が、熱い太陽のように思い浮かぶのは、絵そのものの色調もさることながら、こうした余慶《よけい》のせいかもしれない。つまり、
——あの絵には世話になった。すごい絵だったんだ——
と、その印象が逆に古い記憶に作用して、現実以上に燦然と父の部屋に輝いていたように思うのかもしれない。
「行って来たよ�明日香�へ」
哲也は灰皿を引き寄せながら博子に告げた。
夕食が終ると、二人の子どもたちはそれぞれの部屋へ退《ひ》き籠る。洋菓子やトランプでは、もう一家の団欒はむつかしい。ラジカセにファミコン。それに……二人とも受験が迫っている。
「�明日香�って……?」
「例のコーヒー屋だよ。雑木林の隣の……」
「ああ、行ったの。どうでした、味?」
博子は夫婦《みようと》茶碗にお茶を注ぐ。
「まあまあだな。トーストが俺好みで」
「雰囲気もいいでしょ」
「室内装飾に金がかかっているよ。大丈夫やっていけるかな」
「そうねえ」
博子が夕刊のテレビ欄を見ながら呟く。眉根《まゆね》を寄せる。この時間帯は大人の鑑賞にたえる番組がほとんどないようだ。
「おもしろいことがあったよ」
「なーに?」
「壁にかかっている絵が、昔、俺んちにあったのと、そっくりなんだ。よく似てるけど、そのものじゃないな」
「あら、ほんと」
E・Kの名を告げたが、博子は知らないらしい。
「一流の画家だよ。結婚したときには、なんの財産もなかったけど、以前は多少値打ちもんがあったんだ、俺んちにも」
言い訳でもするように告げた。
「油絵?」
「そう。山吹の花と少女の絵で、いつも親父の部屋の壁にかけてあった。その下にみんなで集まって菓子を食ったりトランプをしたり……いい時代のシンボルみたいなもんだな。子どものころを思い出すと、かならずあの絵が浮かぶ」
「手放したの?」
「ああ。貧乏のどん底だったからな。結構高い値で売れて、大学へはあれで行ったようなものだったな」
何枚もの札が封筒からこぼれた話は、どうも話す気にはなれない。
「よかったじゃない」
「まあな。それにしてもよく似てたな。画家は同じ図柄の絵をよくかくって言うけど……」
「そうみたいね」
「絵柄はそっくりなんだ。ただ少女が、俺の記憶じゃ外国人だと簡単にわかったような気がするけど、コーヒー屋のはよほどよく見なけりゃわからん。首の角度が少しちがうみたいなんだな。でも、あれはわるい絵じゃない。雰囲気があって……」
「リトグラフじゃないの?」
「ちがうな。本物だ」
「汚れないのかしら」
「ガラスが張ってあるよ。ただこのへんのコーヒー屋の絵にしてはもったいないな。安物じゃないから……。見ておいでよ」
「ええ」
答えながら、博子は所在なさそうにテレビの歌合戦を眺めている。
哲也はタバコに火をつけて、煙の輪を作った。
もうひとつ思い出すことがある。油絵と直接関係のある出来事ではないけれど、黄の花のイメージを追って心に浮かんで来る。楽しい話ではないが、夫婦の世間話くらいにはなるだろう。
「絵を売ってくれたのは倉田さんといって、ほら……一度会っただろ、渋い感じの人で」
「お姉さんのお葬式に来てた人?」
「いや、ちがう。姉のときにはいなかった。羽田で、新婚旅行のとき。ひどく愛想がよくって……。�だれ?�って聞いてたじゃないか」
「ああ。でも、忘れちゃった。古いことですもん。どうかしたの、その人」
「絵を高く売ってくれたんだ」
「ええ……?」
「で、そのあと……四、五年たって、俺、出版社に入りたくてサ、倉田さんに相談したんだよな。そしたら�K社の重役に親友がいる。プッシュしてあげよう�って、そういうことなんだ。うれしかったな。試験のほうは面接までいったし、倉田さんも�重役に会って君のことを頼んだら、大丈夫だと言ってた。おめでとう�って言うから、安心してたら……残念でした。世の中まっ暗。ガックリしたよな。ま、俺には教師のほうがむいてたかもしれんけど」
「ふーん。だれがわるかったの?」
「そりゃ俺がわるかったんだろ。実力がなくて。今はそう思うよ。ただ、俺が教師になって間もなく、偶然、K社の、その重役と会ったんだ、歴史学会で。その人が俺の名刺見て�聴波哲也。なんて読むんですか。へえー、キクナミですか。初めて見ました�って、その重役が感心してんだよな。俺の名を本当に見たことも聞いたこともなかったらしい。変だなと思ったけど、倉田さんのことはなにも言わなかった……」
「話が通じてなかったのね」
「多分ね。倉田さんが調子のいいこと言ってたんだな。ゆっくり考えてみると、そんな感じがなくもなかった。飯なんかご馳走してくれて、いい人だと思ってたけどね」
今となってはもうどうでもよいことだが、あのときの釈然としない気分は忘れられない。欺《だま》された、と思った。世間というものを見せられた、とも思った。倉田さんにはこまごまとお世話になったけれど、好感を残すことはできなかった。
「受験なんかでもあるじゃない。あいだに入った人が�ナントカ先生に紹介しました�とか……。こっちは知りもしないのに」
「いつかもあったな」
私立学校の教師を務めていると、これはいつも心に留めておかなければいけない危険の一つである。受験生の父母を相手に、詐欺まがいのことをやる奴がいる。
「それっきり? その倉田さんとは」
「羽田が最後だなあ。姉貴より少し前に死んだ」
「早死ねえ」
言われてみれば、そうだろう。みんな鬼籍《きせき》に入ってしまった。倉田さんはいくつで死んだのか。姉の和代も五十を迎えたばかりの若い死だった。たった一人で……。ずいぶん苦しんで死んでしまった。哲也には、もう近い血縁者はいない。
博子は翌日すぐに�明日香�へ足を運んだらしい。食卓でその話題になった。
「わざわざ行ったのか」
「ちょっとお買物もあったし……コーヒーを飲みたい気分だったから」
「どうだった?」
「わるくないわね。このへんとしちゃ上等ね。ただ店番がいつもおばあさんなのかしら」
「老後の仕事なんじゃないのか」
「でも、もちょっと若い人じゃなきゃ。私たちはべつにかまわないけど……」
美人のウエイトレスでも置けば、人気の店になるかもしれない。今のままでは危い。
「絵はどうだった?」
「いい絵ね。強烈な色彩だけど」
「うん」
「でも、あなた、あれ、一目で外国の少女ってわかるじゃない。脚の感じとか、肌の色とか……顔がよく見えなくても、わかるわ」
「そうかな」
すると……新しい思案がのぼって来る。指折り数えてみれば、絵を手放したのは二十年以上も昔のことだ。絵そのものの記憶はさらにそれより昔にさかのぼる。記憶の中にある画像は、実際に哲也が目で見たものなのか、それとも何度か修整されたシミュレーションなのか、わからない。
たとえば……描かれていたのは、白人の少女だった。顔はよく見えないが、姿形でそれは簡単に見当がつく。博子が一見してわかったと言うのだから、きっとそうなのだろう。哲也が昔の絵で少女の横顔を見たように思うのも、実は�外国の少女だ�という先入観から生まれた虚像で、本当は最初から現在�明日香�の壁にかかったままの姿だったのかもしれない。
そう考えるのは、
——やっぱり同じ絵かもしれない——
と、あらためてそんな判断が浮かんで来るからである。
昔の絵のほうが少し大きく見えたのは、子どもの目として当然のことだ。幼い目には世界はかならず大きく見える。画家が、そっくり同じ図柄の絵を描くことは充分にありうることだが、いつもそうとは限らない。はるかにそうでないことのほうが多いだろう。デッサンならともかく、完成した油絵となると、そう繁くは類似のものをかかない。
強い根拠はないけれど、今は思案がその方角へ傾く。姉が引きずるようにして持って行った紙包みは、それからも何度かほどかれ、包まれ、いくつかの手を渡って、今�明日香�の壁にかかっているのかもしれない。
「あれ、売り物かしら」
と、博子が真顔で尋ねる。
「いや、ちがうな。きれいな店を作ったものだから、一番の宝物を飾ったんじゃないのか」
老婦人の心意気だろう。一度、絵を入手した経緯を尋ねてみようかしらん。
「高いんでしょうね、今、売ったら」
声の響きを計りかねて、哲也が首をあげた。
「まあな」
博子はなにげなく言ったのだろうが、哲也のほうは気にかけてしまう。無一文から始めた結婚生活だった。とりわけ新婚のころは貧しかった。すばらしい油絵が一枚あったなら、ずいぶん役に立ったろう。たとえばマンションを買ったとき……。教育費も馬鹿にならない。
すぐにそんなことを思うのは、やはり哲也の頭の中に封筒を破って溢れたお札のイメージがあるから……。あれは実像だったのか。
——もしあのとき売らなかったら——
母の死があった。姉の死があった。哲也の結婚よりも、そのときに使うのが本筋だったろう。とりわけ和代の死はまずしかった。
死病と知りながら、哲也はそう繁くは病院へ行けなかった。一年のあいだに、せいぜい六、七回……。少なくはないが、多くもない。
博子は……そう、哲也と一緒に行ったのを除いて一、二回は行っているだろうか。
姉と博子の折りあいは、あまりよくなかった。喧嘩こそしなかったが、おたがいに敬遠していた。どちらがいいとか、わるいとか、そんなことではない。性があわない、というやつだ。
もしかしたら……姉は哲也に対して�私が育てた弟よ�とそんな気分があったのかもしれない。たしかに父の死後はずいぶん姉の世話になったのだし、その感情はわからないでもない。
だが、その気分が哲也を越えて博子にまで及ぶとなると……少しでも姉のほうに押しつけがましい態度があったりすると、博子にはわずらわしい。煙ったい。自分に関係のない借金を催促されるみたいで……。二人の不和にはそんな事情もからんでいただろう。
姉の見舞いには哲也一人で行くことが多かった。
「これを使ってくれ」
死の一ヵ月前に行ったとき、十万円を入れた封筒を姉に手渡した。
「ありがとう」
和代はひどくやつれていたが、このときの笑顔だけは若やいで見えた。その封筒は手つかずのまま死んだ枕の下に残っていた。もうあの時期に至っては、自分でお金を使うことはなかったのだろう。
死の直前に一瞬だけ意識が戻った。哲也だけがそばにいた。
「きれいね」
「なにが……」
「花が咲いてて……。なんて花かしら」
たしかにそう聞こえた。花の名が思い出せず、苛立たしそうにして、そのまま表情が堅く変った。すぐに昏睡《こんすい》に落ちて行った。
翌週の木曜日、いつも通りの朝寝坊。朝食のあと、哲也はまた�明日香�を訪ねた。店には他の客もなく、女主人がおぼつかない手つきでコーヒーを運ぶのも同じだった。
——やっぱり同じ絵かもしれない——
今日はそう思う。
いつか消えてしまった時間の中に、この絵と一家の団欒があった。
人気《ひとけ》ないガラス窓の内側から早春の曇り空を眺めながら、哲也はとりとめもない追想をめぐらした。
目を閉じると、一面の黄の花が見えた。花の群は視界を越え、曠野《こうや》の果てまで続いている。
姉の言葉がよみがえって来た。これもいくぶん記憶の中で修整されているのかもしれないけれど……。
「きれいね。花が咲いてて……。なんて花かしら」
病人の混濁した意識は、一面に広がる黄の花を見ていたのではなかったか。山吹の名さえ思い出せない頭脳が、必死になってそれを映し広げていたのではあるまいか。
黄の花の絵は、おそらく姉にとってかけがえのない時代の象徴だったろう。優しい父。一家の団欒。なつかしいぬくもりに浸《ひた》るときは、いつも花の絵が目の奥にあったのかもしれない。
——ずいぶん遠い記憶なのに——
いや、そうではないんだ。姉にとっては、あの日、紙包みを持って駅の改札口を抜けたときから、生活の絵模様が変った。絵を手放すのは、それまでの半生への訣別だったろう。うしろ姿を見た哲也より、もっと痛切に和代はそれを考えていたのではないのか。姉の思案が見えない電波となって、あのとき、哲也に同じ思いを伝えたのかもしれない。
そうだとすれば、いまわのきわにもやはりその絵を思い浮かべるだろう。その花の咲く曠野を越えて、父や母の住む国へ行くことを考えるだろう。
倉田という男のことを考えた。いったんは恨んだこともあったが、哲也自身も、あの頃の倉田の年齢を越えた。人の世のさまざまな感情がわかるようになった。もうなんの憤りもない。
——封筒の金は、絵だけの値段ではなかったのかもしれない——
いつの頃からか、そう考えるようになった。真実は、もとよりわからない。かすかにいまわしいものを覚えたのは、やはり記憶の修整だろうか。
姉は間もなく倉田の愛人となった。
——�愛人の弟です�と言って就職の世話をするのはむつかしい——
相手はきっと「どういうご関係の方ですか」と尋ねるだろうし……。
——わるい人ではなかった——
姉のためにもそう思ってやりたい。
壁の絵はなにを知っているのだろう。父と母と、姉と哲也のことだけではなく、この世のさまざまな風景を見て知っているのかもしれない。
人は死のまぎわになにを思いだすのだろうか。
——俺もこれを見そうだな——
十年先か、二十年先か、目のうちに一面の黄の花を浮かべ、その曠野を通ってとぼとぼと歩いていく自分の姿を思いながら、哲也はコーヒーのさめるのも忘れて見入っていた。