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時のカフェテラス03
日期:2018-03-31 13:53  点击:338
 海の影法師
 
 
「じゃあ、よろしくお願いします。明日、当人に連絡させますから」
 須坂《すさか》が深々と頭を垂れると、小柄な小西は手で制するような身振りをして、
「大丈夫ですよ。須坂さんの頼みなら」
 と言う。それから急に思い出したみたいに、
「あんたご自身はどうするんです? 他人の面倒ばかりじゃなく……。本社に戻るんでしょ」
 と尋ねた。
 本社に戻りにくい事情は小西にもわかっているはずだ。
「そうもいかんでしょうが。これでだいたいやることはやったし、少し休んで充電でもしますわ」
 須坂は笑いながら告げたが、さびしさは多分隠せなかっただろう。
「あんまりいいことはなかったね」
 小西は肩をまるめてしみじみと言う。
「全力を出しきりましたから。案外いい思い出になるんじゃないですか。失礼しますわ」
「また遊びにいらっしゃいよ。落ち着いたら飯でも食いましょう」
「ええ。いいですな」
 もう一度お辞儀をして社長室を出た。小西は工場の外まで送って来てくれた。
�ラジエータ部品・小西製作所�と塗った看板のトタンがたわみ、風にバタバタ鳴っている。
「じゃあ、よろしくお願いします」
 同じ言葉を繰り返してから須坂はボロ車のエンジンをふかした。
 この界隈には小さな工場が軒を連ねている。どこも不景気で苦しい。小西のところだってそう楽ではあるまい。
 須坂は百メートルほど走って車を止めた。
 ハンド・ブレーキをかけ、ポケットから手帳を取り出しスケジュールを確認した。三時に木更津《きさらづ》市内の�ボン�で仁科静枝に会う。四時半に富津《ふつつ》の工場へ行く。それからまた木更津に戻って静枝と会うことになるかどうか……これははっきりと予定に組まれているわけではない。
 手帳のうしろのほうのページには、大勢の名前が記してある。ざっと三十人あまり。その中の一つを線で消した。ほとんどの名前に線が引いてある。鉛筆で消したもの、ボールペンで消したもの、あるいは赤線を引いた名前もある。そのばらつきぐあいが、ここまで来る道のりのたどたどしさを物語っている。一人、一人、手間をかけて再就職の先を捜した。今日も三軒まわった。小西製作所で一人引き受けてもらい、これであらかた終った。あとは是が非でも働きたいという連中ではない。
「これでよし」
 須坂は車を川崎のフェリー港に向けて走らせた。何度も通った道だから出港の時刻も暗記している。埠頭《ふとう》に着いたときスピーカーが乗船を呼びかけていた。
 
 須坂は甲板に出た。飛行機が下腹をさらしてつぎつぎに飛び立つ。頭の上を飛んで行く。
 海を吹きぬけて来る風がここちよい。いつのまにかそんな季節に変っていた。
 ——あと何回来るかな——
 こんなところに、こんな交通機関があることさえ知らない人も多いだろう。須坂自身だって富津工場の責任者を命じられるまで、この船に乗ったことがなかった。
 子どもみたいに身を乗り出して水の面《おもて》を眺めた。船が思いのほか速いスピードで走っているのがわかる。白い波は舳先《へさき》で盛りあがり、やがて灰色の筋となって流れて行く。
 五年前にも同じように水の面を見つめていた。そんな感慨が胸をよぎる。まるで消えて行く波のように……。
「あんまりいいことはなかったね」
 小西の声が響く。小西は声に温かみのある人だ。
 ——そうかな——
 水鳥が二羽ブイに乗って羽を休めている。いつかもこんな風景だった。
 そう、たしかにあまりよいことはなかった。
「須坂君、君には富津工場の責任者をお願いするよ」
 それが始まりだった。
 左遷《させん》——とっさにそう思った。ショックは覚えたが、意外ではなかった。かねてからありうることだと思っていた。
 先代の社長がなくなり、若社長になってからというもの、須坂は上層部とそりがあわない。ことごとに意見が衝突する。
 どちらが正しいとか、まちがっているとか、そういう問題ではない。見通しのちがい、方針のちがい、もしかしたら人生観のちがいかもしれない。
 若社長は無節操と言ってよいほど新しい仕事に手を出す。仕事の幅を広げることも必要だが、イズチ産業がつちかって来た技術を抜きにして新しい仕事に手を染めるのはどうなのか。すぐに根なし草になってしまう。技術者はつらい。現場から不満が出ていた。製缶のエンジニアがどうして急に、ボール箱を作らなくちゃいけないんだ。
 いや、贅沢《ぜいたく》の言える情況ではないと、それは須坂にもわかっていた。ただ、社長にはもう少し現場の心に思いをはせてほしかった。労働組合もない会社ではないか。須坂はそうまちがっていたとは思わない。
 粋《いき》がって現場の意見を代弁しているうちに、
「うるさい奴は、ちょっと他所《よそ》に行っていてもらおうか」
 そこで富津工場の責任者がまわって来たのだろう。
 あの頃はまだ会社の景気もわるくなかったから、
「よし、新天地でやってやろうじゃないか」
 腕をさすり、下唇を突き出し……さほど暗い気分ではなかった。
 新工場ではステレオやテレビのボディを作る仕事。ほとんどなんの経験もない作業だったが、そのへんのことはもうあきらめていた。新しい仕事だけにおもしろいところもある。
 気がかりと言えば、妻の病気が悪化していたこと。京子は入院したばかり。大崎の家には、母と高校生の娘がいた。
「ひどいな。奥さんが入院中なのに」
 しかし、これはサラリーマンの宿命だ。家族の病気を理由に転勤を拒否するのはむつかしい。
「なに、うちは女だけの家族だからな。なんとかなるさ」
 母はもちろんのこと、娘もよく頑張ってくれたと思う。
 川崎・木更津間は、一時間十分の距離である。何度ももどかしい思いでこの海を越えた。仕事を思い、家族を思い、とりわけ妻の容態を考えながら……。
 それでもフェリーの走る時刻はまだいい。
 最後の船が出たあとは、陸路をまわって車で帰らなければいけない。新設工場の責任者には仕事が山ほどある。真夜中まで働くこともまれではない。夜業を終え、それから夜道をひた走りに走って妻のいる病院へ。京子に対しては、あまりよい夫ではなかっただろう。いつか大切にしてやろう、そう思いながら機会がなかった。
 臨終の床にも間にあわなかった。昏睡の直前にひとこと、
「お父さんは?」
 宙を捜すように目をしばたたいたとか。
 小西は「あんまりいいことはなかったね」と言っていたけれど、この五年間、本当によくなかったのは、これ一つだけだったかもしれない。言葉はわるいが、妻が死んだおかげで心身ともに新工場の仕事に集中することができた。
「そうでもないか」
 須坂は海に向かって独りごちた。エンジンの音が大きいので自分の声ですらそうよくは聞こえない。
 初めのうちこそ新工場の業績は好調だった。次から次へと注文が集まり、輸出も伸びた。地元から工員やパートタイマーを大勢雇い、商工会議所から感謝状をもらうほどだった。
 だが、すぐに不況がやって来る。注文が激減し競争が激しくなり、体力のない企業はたちまち潰《つぶ》されてしまう。加えて円高。一ドル二百円まではなんとかこらえたものの、そこから先は、売れば売るほど赤字になりかねない。
 少しずつ生産量を減らし、パートタイマーを削ったが、その程度の対策では間にあわない。
 ——なんとかこのピンチを乗り切れば——
 須坂は傷《いた》ましいほど働き、ない知恵を絞った。
 さいわい娘も短大に入り、須坂の母と一緒につつがなく暮していた。後顧《こうこ》の憂いはない。
 不景気だって円高だって、初めからそういうものだと覚悟して挑めば活路はある。それが須坂の考えだった。
 一進一退が続く。むしろ退くほうが多かったけれど……。
 突然、イズチ産業が上位の企業と合併することとなった。追い討ちをかけるように富津工場の閉鎖が決まった。寝耳に水の決定だった。
「そんな馬鹿な」
 もちろん須坂は反対した。本社に赴《おもむ》いてどんな形でもいいから工場を閉じることだけは避けるよう訴えた。
 しかし交渉の対象となるべき上層部が合併の計画で浮き足立ち、管理能力を欠いているのだから話にならない。閉鎖はゆるぎない現実として進行し、現地で採用したほとんどの工員やパートタイマーは職を失った。須坂がそれを宣告しなければいけなかった。
「このままでは申し訳ない」
 他企業から須坂が引き抜いた奴もいる。いそがしいときには、ずいぶん苛酷な労働を強《し》いた覚えがある。どなったし、怒ったし、小突いたりもした。みんな苦楽をともにした仲間たちだ。
「罪ほろぼしに私はここに残って、就職の斡旋をする」
 須坂はそう宣言し、本社からの呼び戻しに応じなかった。けっして稚気《ちき》ではない。�そうしなければ一生悔むぞ�心の奥でそう叫ぶものがあった。
 それが三ヵ月前のこと。数人は本社へ帰った。十数名はすぐに新しい職場が決まった。パートタイマーのほとんどは、土地を離れてまで働こうと希望していない。仕事があれば働く、といった程度の意識だから、これはとことん再就職の世話をする必要がない。
 残りは三十人あまり。これがなかなか決まらなかった。
「自分でも捜せよ」
 自分で新しい職場を見つけて来る者がいれば、須坂はわざわざその企業の内容を確かめ、よいとわかれば、かならずその会社まで行って、しかるべき筋に頭をさげて彼の将来を頼んだ。そうしなければ気がすまない。一つ、一つ、世話をして三十数人を消した。
 そんな作業がようやく終ろうとしている。
「あいつ、うまくやっていけるかな」
 こうつぶやいてみたが�あいつ�は一人ではない。いろんな男の顔が浮かぶ。
 言っちゃあわるいが、ちっぽけな企業がちっぽけな工場で雇った連中ばかり……。どこかはんぱな奴がほとんどだった。根はわるくないのだが、一つ二つ欠けたところがある。新しい勤め先でつつがなくやっていけるかどうか。とりわけ若い奴ら……。
 案ずるより生むがやすし、そんな言葉もある。完全な奴なんかいやしない。世間でもまれているうちに、なんとか恰好がついていくものなんだ。
 ——学校の先生なんかがよかったのかなあ——
 そう思ったのは自分自身のこと。若い連中の面倒をみるのが性にあっている。昔の部下にしばらくぶりに会って、少しでもりっぱになっていると本当にうれしい。よくはわからないが、これはきっと教師に向いている性格だろう。
 ふいに兄貴のことを思い出した。
 水の面を見つめていると、ときどきそんなことがある。幼い頃、遊覧船の甲板で柵につかまりながら兄と二人で海を見ていた……。そんな記憶がぼんやりと残っている。
 よほど古い記憶だろう。兄は五歳上。四十年以上も昔に戦争で死んだ。須坂が覚えているのは、ほんのいくつかの断片。仏壇の奥にある黄ばんだ写真。それさえもここ数年見ていない。たしか予科練兵士の服装で、きっかりと敬礼している。その姿で家の玄関を出て行ったような、そんな場面も眼の奥に映るのだが、これは本当に須坂が自分の眼で見たものかどうかわからない。
 たった一人の兄弟だった。なんでも教えてくれる兄だった。多分……やさしい兄だったろう。いつも須坂は腰巾着《こしぎんちやく》みたいについて歩いていた。
「大きくなったら先生になるよ」
「馬鹿。兵隊になってお国のために死ね」
 須坂はお国のために死ぬこともなかったが、先生にもならなかった。
 エンジンの音が低くなり、フェリーは港に近づいている。四角く切った岸壁に四角い形の船が着く。接点にはたくさんの古タイヤが縛ってある。船のほうにも、港のほうにも……。
 まず人が降り、それから車が桟橋を渡る。すぐに車が人の列を追いぬく。
 木更津の港から市の中心部までは、そう遠い道のりではない。ご多分にもれず道は細く、複雑にくねっている。
 須坂は腕の時計を見た。
 二時四十二分。静枝との待ち合わせは�ボン�というコーヒー店。三時には充分に間にあうだろう。その店の前には花を飾ったテラスがあって、とても垢ぬけた様子だ。
 キクンと胸が鳴る。
 船の震動がまだ体のどこかに残っている。思い出ばかりに浸っていたが、今日はもうひとつ大切な仕事がある。
 ——気を引きしめなくちゃあ——
 須坂は車の中で腕をまわした。
 
 静枝と知りあったのはこの町の、富士見通り裏のスナックだった。看板にはビストロと書いてあるが、ビストロがどういう意味か、須坂は正確には知らない。
 そこは静枝の姉夫婦の店で、静枝は、頼まれて時折手伝っていたらしい。酒を飲ませる店だが、食事もできる。
「変な人だと思ったわ」
 尾籠《びろう》な話だが、須坂は市内を車で走っていて便意を覚えた。我慢ができなくなり、飛びこんだのが、静枝のいる店だった。脂汗を浮かべていたらしい。
「初めからくさい仲だったんだ」
 月並みなジョークを言った覚えがある。
 店に入った以上なにか注文しなくてはいけない。車を運転しているからアルコールはまずい。
 焼飯を作ってもらった。味は……可もなく不可もなし。一息つき、五千円札で勘定を払ったが、静枝は一万円札と勘ちがいしたらしい。須坂がそのことに気づいたのは、夜半過ぎ、大崎の家に帰ってからだった。どう考えても千円札が少し多い。
 ——しめた——
 とは、けっして須坂は思わない。
 ——困っているだろうな。悪いことしちまった——
 あのくらいの店なら五千円のまちがいは大きい。いくら売り上げを出せば、それだけの利益が出るのか。原価計算をしてしまう。
 ——彼女は雇われ人みたいだったし、弁償させられたんじゃあるまいか——
 ほぼ一晩の日給に相当するだろう。人件費を考えてしまう。
 ポケットをさぐったが、店のマッチもない。電話番号はもちろんのこと、店の名も思い出せない。
 三日間いそがしい日が続き、四日目になって、ようやく見覚えのあるドアを押した。
「いらっしゃいませ。ああ……」
 このときは静枝の姉もいた。静枝は須坂の顔を覚えていたが、釣銭をまちがえた当人とは知らなかった。
 須坂はカウンターに着いて、すぐに釈明をした。
「あ、やっぱり」
「どうも変だと思ったのよ」
 会話の調子から、二人が姉妹だろうと想像した。面ざしも少し似ている。年齢は、四十を境にして上下に同じくらい離れている。つまり四十二、三歳と三十七、八歳……。
 これが縁で須坂はこのビストロに時折顔を出すようになった。
 あとで思い返してみれば、初めから静枝に引かれるところがあったのだろう。静枝も須坂に対しては、他の客と少しちがった愛想を配ってくれてるように思えた。そう、ほんの少し……気のせいかもしれなかったが……。
 だが静枝はいつも店にいるとは限らない。本職はなかなか腕のいい和裁師で、
「お姉ちゃんのとこより、こっちのほうが儲《もう》かるのよ。でも、あんな店じゃいい人いないでしょ。無理に頼まれちゃうとねえ——」
 それが実情だったろう。
 三ヵ月ほど通って、ようやく外で会う約束を取りつけた。
 映画を見て、食事をして、ほんの少し酒を飲んで……五十代の技術屋はこういうことには慣れていない。それでも静枝は苦情も言わず、問わず語りに自分の身上を語ってくれた。
「兄が日立にいるのよ。三人兄妹で」
「ご両親は?」
「母はずっと昔。父は今年が三回忌なのかしら。姉には世話になったわ」
「もともとこの土地の人なのか?」
「ううん、もっと田舎。鴨川《かもがわ》のほう。漁村の出よ」
「そのわりには垢ぬけている」
「そんなこと、ないでしょ。今にボロが出るわよ」
「独り?」
「そう。だれももらい手がいないの」
「そりゃ嘘だな。えり好みが強いんだ」
「そんなこと言える年じゃないわ」
 浅黒く、むしろ小肥りのほうだが、表情に愛敬がある。年齢よりずっと若々しい印象がある。けっしておしゃべりではないが、どんな話でも楽しそうに話す。そばにいると、春の陽だまりみたいに、明るさと温かさがほのぼのと漂って来る人だ。
 二度目は東京へ誘った。三度目は……市内のコーヒー店で手軽く。このときに行ったのが�ボン�だったろう。
「いいお店ねえ。木更津にはめずらしいわ」
「東京湾のまわりは東京のうちだよ」
「昔はホント、ひどいところだったのよ」
 女の存在が須坂の目に、耳に、ここちよい。妻を失ってからしばらく忘れていた感覚だった。率直に言えば、妻が生きているときだって、よほど時間を遠くさかのぼらなければ、この感覚を思い出すのはむつかしい。
 とはいえ須坂は真実体がいくつあっても足りないほどいそがしい立場だった。静枝に会いたいと思っても、そう繁く会えるはずがない。せっかくの約束も何度か取りやめにしなければいけなかった。
 男と女のあいだにも物理学の法則は関与している。たとえて言えば炉に火を入れるようなものだ。火を入れたあとで、そのまま作業を中断してしまえば、火は勢いをなくしてしまう。ほとんど消えかかる。次に作業を始めるときには、また火をかきたてるところから始めなければいけない。
 せっかく火が起こり始めたのに、そこでまた中断。次はまたまた、火起こしから始める。須坂と静枝の仲は、そんなふうだった。つまり……親しさがとんとんと加速度をつけて深まっていかない。二、三週間ぶりに会って、前回別れたときの親しさを取り戻すために、デートの時間のあらかたを使わなければいけなかった。これではいっこうに先に進まない道理である。
 ——いつか、いつか——
 そう思いながら、いそがしさに押し流されていた。
 ——なんとかしなくちゃ——
 今日でいよいよ富津の工場も本当の閉鎖となる。玄関のドアに二重の鍵をかけ、その上、板を渡して長い釘を打つ。
 その日取りが決まったとき——つい一昨日のことだが、須坂は静枝に電話をかけた。
「三時に�ボン�で会いたい。ちょっとお話があるから」
 さりげない調子で告げたが、言葉の重みはそれなりに伝わっただろう。
 ——なんと言おうか——
 結婚の申し込み? まだ、それは早過ぎる。
 須坂は自分の立場を考えると、ついひるんでしまう。五十一歳。二度目の結婚。娘がいる。母がいる。しかも当面は無職になりそうだ。相手は三十代のなかばこそ過ぎているけれど、とにかく初めての結婚。性格もよく、健康で、生活力も一通り持っている女なんだ。
 だが……世間の恋人たちのように繁く会うことはできなかったが……それに、なにひとつ恋らしい出来事もなかったが、会えば、ひたひたとおたがいの胸の中に満ちて来るものがあった。少なくとも須坂はそうだった。静枝もそうなのではあるまいか、と感じることは一度ならずあった。
 ——結婚の申し込みはともかく�好きだ�ということははっきりと伝えよう——
 今日会って、なにかしら二人の関係の節目のようなものを作らなければなるまい。大切な言葉を伝えなければなるまい。そして……そのあと須坂は、いったん工場へ行く。夜の予定はあけてある。静枝ともう一度会えればいいのだが……。
 春の花を並べたカフェテラスが、車のフロント・ガラスに映った。
 
 静枝はすみの席にすわって待っていた。
「久しぶり。いつも同じこと言ってるみたいだな」
 須坂は笑いかけた。腹の底からうれしさがこみあげて来る。
「ええ……」
「すっかり春になったな。この前まで甲板になんか出られたものじゃなかったけど」
「フェリーでいらしたの」
「ああ。あれが一番便利だ」
「東京の、もう少しまん中のほうに着けてくれると、いいんだけど」
「そうだなあ。竹芝桟橋とか……」
「あの……今日で工場を閉《し》めるんですか、本当に?」
「そう。玄関に板を打ちつける」
「どうするの、須坂さんは?」
「本社に戻る気はないんだ。もともと上のほうとあわなくて、こっちに飛ばされたんだからな。今度の合併も、俺にはいい方向だとは思えないし……俺の働き場はないね。すぐに本社に戻ったのならともかく、こっちで最後までみんなの世話をするって、そう突っ張ったときから、もう道はきまっていたんだ。むこうに言わせりゃ、最後のわがままだよな。それを通してやったんだから罷《や》めろって……」
「そうなの」
 須坂は会社の事情を説明した。自分の身のふりかたについても、まあ、二、三ヵ月は静養するが、技術を持っているので、食うくらいのことはなんとかなるだろう、とつけ加えた。
 静枝は「ええ」とか「そう」とか相槌だけは打っているけれど、少し元気がない。思案が半分どこかへ飛んでいる。
 さもあろう。せっかく会って、会社の話ではつまらない。
「どうした?」
「いえ、べつに……」
「これからいったん工場へ行くけど、夜、あいていない?」
 フェリーの中では、このコーヒー店で決定的な台詞《せりふ》を告白するつもりだったが、どうもその気になれない。勇気が湧いて来ない。雰囲気も熟していない。なにを言うか、まだきまっていない。できれば夜を待ったほうがいいだろう。夜の国道を車で南に走り、半島の突端まで行ってみようか。岬の人気《ひとけ》ないホテルで静枝と二人の夜をすごせないものか。
 ——あなたを抱きたい——
 言葉が喉にまで昇って来る。それが一番言いたい台詞なのかもしれない。
「夜はあいてる?」
 繰り返して尋ねた。
「ええ……。ただ……」
「ただ?」
「あの……須坂さんにお話したいことがあって」
「ほう」
 静枝は残りのコーヒーをゆっくりと飲み干した。
 
 木更津から富津の工場まで車で三十分あまりかかる。
 道路工事でもやっているのだろうか。道は思いのほか込んでいる。須坂は右頬に傾きかけた日射しを受けながらゆるゆるとハンドルを操った。体の芯《しん》に力が入らない。体重が軽くなったような気がする。
 ——これでいいんだよな——
 と、薄笑いが頬に浮かぶ。
 静枝はコーヒーをきれいに飲み干してから視線を伏せたまま一気につぶやいた。
「実は……今度……結婚することになったの。半年ほど前に知りあったかたなんですけど」
 一瞬、須坂は軽い眩暈《めまい》を覚えた。下腹に力を入れて必死に意識の平衡《へいこう》を保った。
 ——いい大人が、みっともないぞ——
 体重が軽くなったのは、あのときから……。ずっと続いている。
「そう。それはよかった。おめでとう」
 とにかく笑って祝辞を告げた。
 静枝が申し訳なさそうに告げたのは、とりもなおさず須坂の気持ちを知っていたからだろう。それを承知のうえで須坂に言うのは静枝の決意がゆるぎないからだろう。
「日取りは決まったのか? どんな人?」
「九月三日です。公務員で、同い年の人」
 静枝は顔をあげて恥ずかしそうに笑った。しかし表情の奥には幸福が漂っている。女はこの瞬間に美しい。そこまで知れば、須坂はもうなにも言う必要がない。
「九月か。暑いね、まだ」
「あ、そうですね。出席してくださいます?」
「いや、俺は出ないほうがいいんじゃないかな。会社の上役ってわけじゃないし」
 あとは残務整理のような、とりとめのない会話が続いた。今夜、会うのも適当ではあるまい。
「さて、俺は行かなくちゃあ」
 大げさに腕時計を見た。
「いろいろとすみません。これ……」
 さし出した長い袋は多分ネクタイだろう。別れの挨拶のようなもの……。
「ありがとう」
「困ったことがあったら、またご相談します。いいですか」
「いいよ。家のほうに電話をして。じゃあ、さよなら」
 手を振って別れた。
 ——彼女くらいの人なら、俺よりずっといい相手がいて不思議はない——
 五十男の後妻じゃかわいそうだ。須坂は年甲斐もなく愚かな夢を見ていたらしい。
 渋滞を抜けると、工場が見えた。
 駱駝《らくだ》みたいな丘陵の、低いほうの中腹に建っている。新建材を使って組立てた粗末なもの。これ以上安い建物はない。撤去するより放置しておくほうが金がかからない。いずれまた作業を開始するときがあるのかもしれないが……。
 工場の玄関には、すでに十数人の女たちが集っていた。ほとんどが地元に家庭を持つパートタイムの人たち。彼女たちに今後のことについて最後の指示を与え、挨拶をすまし、形ばかりの手じめをする約束だった。するめにコップ酒。漁村の女たちも混って、すこぶるたくましい。
 須坂の音頭《おんど》で手じめを打ち、それで解散。荷物を車に積んでいると、
「工場長はどうなさるね」
 と帰りかけた女たちが尋ねる。
「俺はもう少し事務が残っている。最後は俺が板を打って閉めるから。もういい」
 きっぱりとした口調で告げた。
「そうですか。じゃあ、お願いします」
「この近くに来るときがあったら、狐のすみかになっていないか見てくれよ」
「はあ」
 ペコンとお辞儀をして三々五々降りて行った。
 須坂は一人残った。
 事務が残っているわけではない。たった一人で工場に別れを告げたかった。
 ドアを閉じ、鍵をかけ、一礼をしてから三枚の板を釘で打ちつけた。工場を一周し、少し離れて全景をながめ、それからふと思いついて細い道伝いに、もう一つの丘に向かって歩いた。
 その丘のてっぺんからは浦賀水道が真下にうかがえる。工場に来たばかりの頃は、よくそこに立って海をながめた。潮の動きを見ながらさまざまなことを考えた。多くは、つらいこと、苦しいことだった。考えて、忘れるために海を見た。
 ——しばらく行ったことがなかった——
 丘に登ると、なつかしい景色が広がっている。海は西日の中で赤く輝いていた。海峡のまん中に黒い船が浮いている。
 ——軍艦かな——
 はっきりとはわからないが、それらしい船が一つ浮いている。
 またしても遠い記憶が甦って来た。忘れてはいたが、思い出そうとすれば鮮明に映る一つの場面……。これは兄の記憶と繋っている。
 昭和二十年の、多分この季節だったろう。
 新潟の海だった。須坂は家族と一緒に新潟に疎開していた。
 あの日、海には一隻の駆逐艦《くちくかん》が碇泊していた。前後の事情はよくわからない。当然空襲警報はかかっていたのだろうが、岸のほうは安全だった。たった一隻の駆逐艦めがけて敵の戦闘機が何機も襲いかかる。駆逐艦も反撃する。すさまじい光景だった。須坂が……岸壁にいる人のほとんどが、初めて見る本物の戦闘だった。
 しかし駆逐艦の運命は眼に見えている。援軍はけっしてやって来ない。文字通りの孤軍奮闘だ……。船は中から燃え始め、傾き、沈んでいくのがわかった。水兵たちはボートをおろして逃げようとするが、そのボートにまた攻撃が加わる。海に落ちても、なお機銃掃射が降る。わずか数百メートルの海が渡れない。
 司令塔に人影が一つ立っていた。黒い影でしかなかっただろうが、たしかにその姿が見えた。
 ——敬礼をしている——
 微動だにしない。船が傾いても同じ姿勢で立っている。駆逐艦は沈没の速度を速め、ぐらりと回転するように揺れて消えた。その瞬間まで黒い影は立ち続けていた。
 どこまでが本当に子どもの目で捕らえた風景だったのか、わからない。しかし須坂はたしかに見た。海に消えて行く軍艦と、おそらく艦長であっただろう人の姿を……。その光景が一枚のゆるぎない絵として脳裏に刻みこまれた。
 それが今ふっと心に甦って来た。
 ——自衛隊の船かな——
 ながめているうちに眼下の浦賀水道は暮れ始めた。赤の色が黒に変る。船は動かない。甲板には人の姿もない。とても静かな夕暮れだ。
 須坂はふりかえった。
 低い視界に閉鎖した工場が見えた。これも静かにうずくまっている。
 須坂は体をまわし、廃屋に向かってまっすぐに対峙《たいじ》して掌をあげた。背筋をピンと伸ばして、
 ——敬礼——
 いつまでも、いつまでも、黒い影法師となって立ち続けていた。
 

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