夜を焦がす火
——すごい。危くないのかしら——
西の窓を開けると、工場地帯の高い煙突が一本だけ見えた。黒い筒は絶えまなく炎を吹きあげ、火はちぎれた旗のように踊って夜を焦がしている。一瞬ごとに姿を変えてさまざまな模様を描く。
引越して来たその夜にも、早苗《さなえ》は輝く火を見たはずだが、しみじみと眺めたのは三、四日たってから……。夫の帰宅の遅い夜だった。
部屋は高層マンションの七階。眼下に高速道路が延び、低いビルが続き、左隅に工場地帯のほんの一画だけがうかがえた。煙突のむこうはきっと海だろう。
しばらくはわれを忘れて見入っていた。火の色がこんなに美しいとは……。息を詰め、いつしか息苦しさを覚えるほどの美しさだった。
——なにかに似ている——
そう思ったが、すぐには思い浮かばない。
そのうちに、記憶の中のなにかと似ているのは、炎の形や色ではなく、めらめらと夜空を焦がして揺れている不思議な妖《あや》しさ、それが人間の心の作用と通じているから、と気づいた。もし熱い心の状態をそのまま風景に表わしたら、きっとこんなにでもなるだろう、と早苗はぼんやりと考えた。
「でも」
と、戸惑ってしまう。
思い返してみても早苗は、そんな気持ちを抱いた覚えがない。
夫の順二郎とは、知人の紹介で知りあった。結婚を決心したのは、桜の花びらがほろほろとこぼれる公園だった。青空の美しい日だった。花の下を歩きながら空を見あげると、薄桃色のむこうに澄んだ青が映っている。
——桃色と青って、意外と、よくあうのね——
そんなことを思った。
その日はとても穏やかな日和で、一生こんなふうにのどかに生きて行きたい、と考えた。そのことをよく覚えている。
わるい縁談ではなかっただろう。順二郎はまちがいのないエリート。人柄も家庭環境もみてくれも、大きな欠点はなに一つとしてない。
「さっちゃん、やったじゃない」
結納《ゆいのう》の日に叔母が大仰《おおぎよう》に叫んでいたが、その通りの結婚相手だった。
早苗も若かった。
しばらくは十歳年上の夫に憧憬のような畏怖を抱いた。その感情は今でも続いている。
二年たって美可《みか》が生まれた。
順二郎の海外勤務があり、早苗は実家に帰って美可を育てた。夫婦がべつべつに暮らしていたのは、このときだけなのだが、現実には同じ家に住んでいても、順二郎はひんぱんに出張を繰り返している。海外勤務のときと、そうは変らない。娘を育てながら、時折帰って来る男を待っているような、そんな生活が普通の形になった。
いつのまにか十年がたっていた。夫にはどこと言って大きな落ち度はない。ただいそがしいだけ。会社の事情と夫の立場を考えれば、そのいそがしさも仕方ないもののように思える。
——みんなこんなものなのかしら——
心のどこかに小さな穴があるように感じた。
美可ももう小学生。年ごとに手がかからなくなる。夫の世話もたいしたことがない。むつかしい血縁者はいないし、収入もそこそこにある。穏やかな日和で暮らしたいと、そう願ったことは一応|叶《かな》えられているだろう。
ただ、どこかにちょっと濁った部分がある。穏やかな生活の中には、もの足りなさも穏やかに忍び込んで来るのかもしれない。どこがどう不足なのか、早苗自身、指摘するのがむつかしい。
——違うわ——
風の向きが変ったのだろうか。右になびいていた炎が、まっすぐ上に立つ。それからあわただしく左に傾く。そのたびに黒味を帯びた赤の色から白く輝くオレンジへと移る。
記憶をどうたどってみても燃えさかる火のように心が昂ぶったことはない。
体が小刻みに震えているのがわかった。
車のブレーキが響く。あの音はマンションの玄関のあたりから……。だれかが帰って来たのだろう。
——主人かしら——
エレベーターのボタンを押して、ドアが開き、エレベーターが昇り始め、ふたたびドアが開き……耳を澄ましたが、靴音は聞こえない。ブザーは鳴らない。どこか他の家だったのだろう。
振り返って柱時計を見た。
もう深夜に近い。昨夜も順二郎の帰って来たのは一時過ぎだった。手荒く背広を脱ぎ、崩れるように眠ってしまう。
早苗は窓辺を離れ、障子を開けて美可の部屋をのぞいた。寝顔があどけない。ふっと笑いが浮かぶ。とりとめのない会話を思い出した。
「あなたの寝顔に似てるわ」
「そう言われても困る。外国じゃ浮気をした奥さんが夫にそう言うそうだ」
「どういうこと?」
「似てると言われたって、寝顔は自分で見ることができない」
「ああ……」
少し考えて意味がわかった。
早苗は順二郎のほかだれも男を知らない。夫もまさか疑っているわけではあるまい。
美可がよく眠っているのを確かめてから早苗はまた窓辺に立った。
——似ている——
小説のヒロインに、映画のヒロインに、自分の心を同化させたことがあったのではないかしら。そうならば、夜の火のように熱く燃えた魂も、きっとあったにちがいない。
——たしかフランスの映画……不倫の恋——
場面のいくつかが脳裏に浮かぶのだが、題名は思い出せない。
夏目漱石の�それから�を思ったが、これは最近映画を見たせいだろう。激しい情事が描かれていたわけではないけれど、時代の古さを考えれば、ヒロインの魂はずいぶん熱くたぎっていただろう。
火はなおも燃え続けている。夜通し燃え続けている。いつも欠かさず見ているわけではないけれど、見るたびに燃えているようだ。
——そうかな——
思いめぐらしてみると、燃えていない夜もあったような気がする。四六時中じゃ煙突のほうだってたまらない。たわいのない思案を揺らしながら早苗は、あかずに火の色を眼の奥に映していた。
カタン。
郵便受けが鳴ったように思った。
——今日あたりきっと返事が来るわ——
早苗は洗濯で濡れた手を拭いながら玄関をのぞいた。ドアの内側に郵便受けがある。
予測は当たっていた。
ダイレクト・メールや公共料金の振込み通知に混って横書きの封筒が落ちていた。裏を返すと、野中武雄と右肩あがりの名前が読めた。
——こんな字だったかしら——
特徴のある字体が初めて見るもののように映った。
封を切る。立ったまま読み、そのまま膝を落としてもう一度読み返した。
�なつかしいお手紙ありがとう……何度か思い出しました……相変らず博物館に勤めています……そう、おっしゃる通り家はそう遠くありませんね……僕もお会いしたい……いつも月曜日が休みです……お電話をください……�
いくつかの文章を一つ一つなぞるように確認した。
夫の勤務が博多の支社から東京本社へと変り、このマンションを新しい住所と決めたときから、
——野中さんの家の近くらしい——
と思っていた。落ち着いたら手紙を書いてみようと思っていた。
それを実行したのが、四日前。手紙を書けば当然返事を待つ心境になる。このところずっと野中のイメージが頭のすみにあった。
野中とは、早苗が博物館へアルバイトに行ったときに知りあった。早苗のほうは、まだ女子大生で、博物館の年寄くさい職員たちの中で野中だけが若かった。
とてもやさしい人。とても話のおもしろい人。
「この男の人のミイラは、紀元前六〇〇年頃のものですね」
「そうなんですかあ」
「こっちの女の人は、紀元前五九〇年くらいかな」
「ずいぶんこまかいところまでわかるんですのね」
「いえ、同じときに発見されたんですけど、女の人のほうを少し若く言ってあげたほうがいいから」
「嘘ばっかり」
野中は眼を細くして笑っていた。
休み時間によくコーヒーをご馳走になった。アルバイトが終ってからも何度か誘われて、会った。
——恋だったのかしら——
世間にはけじめのはっきりしないことがたくさんある。人はいつから恋人になるのか? いつから人は老人になるのか?
手を握りあいながら公園を歩いた。木陰で唇を求められ、顔をそらし、頬に熱い感触を覚えた。恋だとしたらとても未熟な恋だったろう。
——嫌いな人じゃなかったわ——
もっとうまくいく可能性もあっただろう。
人生には、ほんのちいさな小石のせいで針路の変わるときがある。早苗も幼かった。野中のほうも、
「この給料じゃ嫁さんなんかもらえんよ」
煮えきらないところがあった。
そのうちに今の夫との話がとんとんと進んだ。こちらはとても積極的だった。まちがいなくよい縁談だった。たしかな話だった。
早苗の中に心残りがなかったわけではない。一つは、恋らしい恋も体験せずに結婚をしてしまうことに対して……。もう一つは、野中武雄という存在に対して……。まだ読み終らないうちに手もとから消えてしまった本みたいに淡い失望が残った。
——武雄だなんて……ちっとも猛々《たけだけ》しくないじゃない——
結婚の挨拶状を送り、あとは年始状を交換する程度の関係が細く続いた。
けっして忘れきっていたわけではない。さびしいときには時折、引出しのすみから取り出すように思い出してみた。夢の中にも野中は鮮明に登場する。そして誘いかける。とりわけここ数年はそんなめにあって驚かされた。
——嫌ね、すっかり恋人気取りで——
野中はいつもその役割だ。目ざめたときに笑いが浮かぶ。すると、自分でもわけがわからないほどのなつかしさが胸にあふれてきた。
�ご無沙汰しておりますが、お元気でいらっしゃいますか。実は、夫の転勤で、急に東京に戻ることになり……�
野中の住所が、早苗のマンションからそう遠くないことを理由にして手紙を書いた。宛名には博物館の住所を記した。野中も結婚をして、たしか幼い子どもが一人いるはずである。
早苗としては控えめに書いたつもりだったが、なにほどかの熱さは文と文とのあいだに滲《にじ》んでいただろう。野中からの返事にも同じ熱さが見え隠れしていた。
——電話をかけよう——
手紙の末尾には博物館の電話番号が書いてある。ダイヤルをまわせば野中の声が聞こえるだろう。なんの不思議もない。それが電話なのだから。電話の前に立ったが、ためらいがある。
——すぐに電話をかけるのは、はしたない——
そんな抑制心が働く。とりあえず洗濯を終らせなくちゃあ……。
しばらくは野中のことを思いながら家事を進めた。台所もかたづき、洗濯物も乾燥機に投げ込んだ。午後には美可も学校から帰って来るだろう。野中のほうも十二時から一時までは昼休みに入るだろう。
ダイヤルをまわしたのは、十二時少し前だった。
「もし、もし、野中です」
声にははっきりと記憶があった。奇妙なことに、このまま電話を切りたい衝動を覚えた。しかし、それも失礼だ。意味がない。
「もし、もし、池永です」
「ああ、久しぶり。お手紙ありがとう。なつかしかったなあ。僕の返事届きました?」
「はい、いただきました」
「そう。本当に久しぶりだねえ」
「お元気でいらっしゃいますか」
「ええ。相変らず。いつ東京へ戻ったんですか」
「えーと、もう三ヵ月になるのかしら」
「そう。で、お子さんは?」
近況を尋ねあった。野中も三十五歳になったらしい。
「会いましょうよ」
野中のほうが誘った。
「ええ。よろしいんですか」
「もちろん。いつがいいのかな」
「普通の日のほうが……」
「勝手を言えば、月曜日がいいんだ。月曜ならば、どの時間でも」
手紙にもそう書いてあった。
「じゃあ午前中。変ですか」
「いいですよ。そのほうがいいもんね」
「はい」
「来週の月曜日。急かな?」
「かまいません」
「善は急げだもんな。どこにしよう? 駅の東口、改札を抜けたところ」
「はい」
「十時くらいでは早いのかな」
「早いほうがかえっていいの」
たくさん会っていられるから……とまでは言わない。
「わかった。楽しみにしているよ。じゃあ、そのとき」
「はい、さようなら」
電話を置くと、動悸が激しい。
カーテンを開けて深呼吸をした。
——善は急げだなんて——
少なくともこれは�善�に属するものではないだろう。視線を伸ばすと、垂れ籠《こ》めた灰色の雲を背景にして朱色の火が燃えていた。
春の到来を、告げる日だった。
「やあ」
「すぐにわかったわ」
改札口で野中と会い、足の向くままに多摩川べりまで歩いた。
この道筋でも、話題の大半は二人の近況と十年の変化だった。野中は眼を細めて、少年のようにあどけなく笑う。表情には昔のままの癖がよく残っていた。
「少し太った?」
「そりゃ太るよ。以前と比べれば五キロは多い」
「私も。厭になっちゃう」
「ぜんぜん変らないよ」
川土手を下り、水辺まで行ってみた。腰をかがめ、水を掬《すく》った。まだ冷い。立ちあがって水の行方を眺めた。
「やっぱり流れているのね」
「そりゃ流れているさ、川だって、時間だって」
「本当ね」
「ボートに乗ろうか」
「時間がないみたい。戻りましょ。御飯でも、どうですか」
「いいよ」
繁華街に戻り、中華料理店でそばをすすった。それからコーヒー店へ。花壇に囲まれたカフェテラス。二時までに帰ればいいだろう。
残り時間が少なくなるにつれ、胸をしめつけられるような重苦しさを覚えた。
——会ってよかった——
なつかしい。楽しい。
だが、かすかにもの足りない。無駄な話ばかりしている。もっと大切な話が……それがなにかわからない。もどかしい。
「過去しかないのかな」
苦笑いを浮かべながら野中が呟く。
そう、たしかに二人はさっきから過去の話ばかりしていた。
「ええ……そんなみたいね」
「また会えますね」
男の眼の中に欲望が宿っている。そう見えた。
「ええ」
眼を合わせたまま女も同じ程度の欲望を輝かせて答えた。
「来週?」
「ええ。今日と同じところで、同じ時間に」
「わかった」
それが二人の習慣となった。
「夜は無理だろうか。ゆっくりお酒でも飲みたいな」
デートを重ねるうちに野中が呟いた。朝の出会いはあまりにも明るすぎる。わだかまりを背負った二人には、夜のとばりと酒の酔いなどがふさわしいように思えた。
「ええ。考えるわ」
機会はすぐにやって来る。美可が早苗の実家へ泊まりに行くことになった。そう仕向けたところもあった。順二郎は折よく出張中。
「ママはクラス会があるの。一人で行ってごらんなさい。頑張って」
なによりも娘を送り出すときに胸が痛んだ。
——いけない母親ね——
でも、なにかしらふっ切らなければ、どんな小さな冒険だってできやしない。美可のうしろ姿を見送りながら早苗は頭を振った。なにかを忘れるように、思い切るように……。
それから、化粧を整えて家を出た。都心に出て銀座の夜を楽しむ計画である。折あしく電車の事故にあった。苛立ちと逡巡。しかし事故はすぐに収まる。約束の時間に少し遅れてしまった。
「ごめんなさい」
「心配したよ。本当に来れるのかなあって思って」
瀟洒《しようしや》なレストランでワインを飲んだ。酔いがさまざまな屈託を薄くした。
——何年ぶりかしら——
夜の街を歩くとビルの明りが美しい。放恣《ほうし》な心を掻きたてる。タクシーを止め、知らない道を走って重いドアを押した。
「これがディスコなの」
「そう。少し流行遅れだけど」
いくつもの光が点滅し、一瞬ごとに色と模様を変える。体の奥底にまで否応《いやおう》なしに響いて来る音の群れ。しばらくは眺め、見よう見まねで踊ってみた。野中は思いのほかうまい踊り手だ。ともすればいやしくなりそうな踊りを、少し古風に、そのぶんだけ品よく踊る。
「うまいのね」
「そうでもない」
踊る姿が鏡に映り、消えてはまた映る。酒の酔いが魂の酔いに変った。
ふたたび外へ出て夜の街をさまよい歩いた。
「そんなにめずらしいですか」
「ええ。だって、こんな時間に遊び歩いてることなんか、なかったですもん。東京もきれいになったのね」
いつのまにか腕を組んでいた。どれほど歩いたのだろう。地下鉄から京浜線へと乗り継いで帰路についた。微酔を帯びた乗客たちの人いきれさえもが早苗の心を昂ぶらせた。
「なんだか夢みたい」
「夢かもしれないよ」
「本当に。送ってくださる?」
「いいよ」
駅からは裏道を通ってマンションまで。引越して来て間もない町だが、どこに知人がいるかわからない。
もう十一時……。
心の酔いは続いている。別れづらかった。
——この人は、いつもいい人だったわ。どのようにでも形を変えて私を包んでくれるの——
近所の喫茶店などではかえってひとめにつくだろう。
ためらいのあとで早苗が呟く。
「ちょっとお茶を飲んでいらっしゃらない?」
「いいけど……いいの?」
「ええ」
玄関からエレベーター。エレベーターから家のドアまで。二人は間隔を置くようにして急ぎ足で歩いた。だれにも会わなかった。
「どうぞ。汚れているけど」
「いいマンションだね」
「少し狭いの」
部屋に入ってからは、どう抑えようとしても動悸が静まらない。胸が重く、息苦しい。
——夫は鍵を持って行かなかった。万一帰って来るとしても、きっと先に電話をかけてよこすだろう——
そう確信しても重苦しさは収まらない。何度も深呼吸をした。ブランディ・ティを作った。
「とてもおいしい」
「ええ」
テレビもうとましい。
話もあらかた尽きてしまった。
急に言葉が途絶えた。
唐突な沈黙のあとで男が肩を抱く。そして抱き寄せた。
女は抗《あらが》った。
——いけないわ——
そこまで覚悟ができていたわけではない。
だが、もう二度とこんな機会はやって来ないだろう。美可が泊まりに行くことなんか本当にめずらしい。早苗が一緒に行かない口実を見つけるのもむつかしい。いつもクラス会ではおかしいし……。順二郎は出張の多い立場だが、きまって留守とは限らない。
「あなたを忘れられなかったよ」
「ええ……」
男はしっかりと抱きしめる。
女は首を振りながらも抗いを弱める。しばらくはぎこちない抱擁が続いた。
女が立ちあがり、あかりを消した。
——わからない——
どうしてこんなことになったのか、体がドロドロに溶けている。頭の中の、意地悪い部分が、たしかに�抱かれましょう�と唆《そそのか》している。それが信じられない。
カーテンは閉じていた。
だが、早苗の眼の奥で赤い火が、夜を焦がして燃え続けていた。
不思議な感覚だった。
性の喜びは、これまでにも感じたことがあったけれど、野中に抱かれた夜は、なにもかもが狂っていた。脳裏に奇妙な絵が浮かんだ。人間の体。女の体。でも体は皮だけで、中は白波の立つ海だった。ルネ・マグリットの絵みたいに……。いくたびも、いくたびも波が繰り返して押し寄せて来る。女体は、波の方向もわからぬほどに乱れ狂った。
声をあげた、と思う。
遠い声。本当の自分がどこかにいて、それが叫んでいる。闇の中に糸を引いて響いた。意識があれほどおぼろになるとは信じられない。歓喜があれほど激しいとは信じられない。野中は明けがたに帰った。
寂寥感と後悔が残った。それとは裏腹に新しい自分を発見したような満足感もあった。
——もうこれっきり——
そう思いながら、これっきりでは終れそうもない自分を早苗は感じていた。
——のめりこんだら、ろくなことがないわ——
その判断はあったけれども……。
野中からはすぐに電話がかかって来た。
「とても楽しかった」
「本当。あたしも」
「また近々会いましょう」
「ええ……でも、いろいろとよくないみたい」
「そう、後悔してるの?」
「後悔って言うより……なんだか厭なの。いつか説明します」
「とにかくまた会おう。来週にでも」
「少し考えるわ」
何度も誘いかけられ、もう一度美可を実家へ泊まらせた。一つの情事のためには、たくさんの嘘をつかなければいけない。虚構を組み立てなければいけない。そんな計画を一つ一つ実行している自分がうとましかった。
女体は同じように蜜の喜びを味わったけれど、釈然としないものは、さらに強く早苗の中に残った。
——男は気楽なものね——
野中はとても都合のいい関係を手に入れて歓喜しているのだろう。言葉はわるいが、すてきな玩具を見つけて手放したくないのだろう。
春が深まり、たくさんの花が咲き、夫が課長に昇進した。お祝いに家族三人で横浜まで行って食事をした。夜は久しぶりに夫に抱かれた。
「家のことも考えてくださいね」
「家のこと? ああ、考えてるよ。しかしいそがしくてなあ」
夫はすぐに寝息をたてる。早苗は厭《いや》でも野中のことを思ってしまう。
——あの歓喜はなんだったのかしら——
とりとめのない想像をめぐらした。トランクの中に札束がいっぱい入っている。開いて使えば、たくさんの喜びを味わうことができるだろう。でもトランクは簡単に開かない。早苗は開けようともしない。いつか開くことだけを考えて、じっと待っている……。
小用に立つと、煙突の火があかあかと燃えていた。
野中の誘いは断り続けた。
——行ってみよう——
一ヵ月たって、ある朝、ふいに野中の住む家を確かめてみようと思った。野中が勤めに出ている留守に……。
——なんのために——
わからない。ただの好奇心……。あるいは、生理的な勘のようなものだったかもしれない。住所を頼りに地図を見た。あとは行ってみればわかるだろう。
空いっぱいに青の色が広がっている。風も心地よい。青葉が若々しい緑を映して輝いていた。
二駅だけ私鉄に乗って、野中の住むアパートはすぐにわかった。公園と隣りあわせのビル。緑には恵まれているが、建物は少し古びている。
三階建ての公務員住宅。その二階の五号室。長い廊下の両隅に階段がある。一つを昇って一つを降りた。途中で�野中�と記した表札を見た。
もう一度ゆっくりと階段を昇って廊下へ戻ったとき、背後で五号室のドアが開いた。
胸が高鳴ったが、野中であろうはずがない。子どもを抱いた女だった。階段の踊り場ではっきりと顔を見た。女は、
——だれかしら——
とばかり視線を止めたが、すぐにそのまま立ち去る。女は少女のようにあどけない面差《おもざ》しだった。
——季節なら春——
今日の空のようにうららかな表情だった。きっと不幸がよけて通って行くタイプにちがいない。
アパートの敷地に大きな泰山木《たいさんぼく》が枝を広げ、まっ白い花が五つ、六つ咲いていた。
とても美しい。
とても大きい。
早苗は時間を忘れて花と、その上に広がる空を見つめた。
——一生をこんなふうにして生きて行きたい——
わけもなくそう思った。泰山木の花のような生涯とは、どんな生きかたなのか。それもよくわからないまま、ただそう思った。
息を吸うたびに花の匂いが強く薫《かお》る。花びらを一つ拾い、ハンカチに包んで帰った。
夕刻また野中から電話があった。
「会いたい」
「ええ、いつか。来年くらい」
「どうしたんだ?」
「べつに」
電話を切った。泰山木の匂いが、部屋のどこかに隠れている。
何年かたって、今の気持ちを野中に説明するときがあるだろう。現実には、そんなときはないのかもしれないが、その日の場面が鮮かに早苗の心に浮かんだ。コーヒー店のカフェテラス。そばに泰山木の花がたわわに咲いている……。
夕食後は美可を連れて花を買いに出た。美可は色のきれいな花がほしいと言う。オレンジ色のポピイに、白いポピイを少し混ぜてもらった。
美可はとても聞きわけのよい子。頭も賢い。
「おやすみなさい」
時間割をそろえ、枕もとにランドセルを置いて眠る。
夜更《よふ》けて風が出た。今夜も順二郎は遅いだろう。
——消えないのかしら——
カーテンを開けると、煙突の火が今夜も空を焦がして飛ぶように乱れて燃えていた。