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時のカフェテラス07
日期:2018-03-31 13:56  点击:254
 翡翠のブローチ
 
 
 ル、ルン……。
 最初のベルが鳴ったのは朝の十一時頃だったろう。
 ——今ごろ、だれかしら——
 もう少し眠っていたい。葉子は枕を顔の上にのせ、耳をふさぎ、ベルの音を殺した。
 だが、いったん目ざめてしまうと、たやすくは眠られない。頭の片方で眠ろうとする努力を続けながら、もう片方で田宮のことを考えた。
 深夜二時過ぎにスナックを閉め、田宮の泊っているホテルへ行った。
「早かったな」
「道がすいてたから」
 シャワーを浴び、窓の外が明るくなるまで抱きあって別れた。
 ——田宮は、もう大阪へ着いただろうか——
 おたがいに五分と五分の関係。ほどほどの親しさ。借りもなければ貸しもない。借りてるぶんがあるとすれば、同じくらい貸しているぶんがある。親し過ぎるのは剣呑《けんのん》だ。人間関係は骨身に染みこまないほうがいい。何人かの男と親しくしているうちに、よくわかった。こつを覚えた。
 人生には男より楽しいものがいくつかある。さしあたっては、お金儲け……。そう言いきってしまっては抵抗があるけれど、ビジネスと言えば恰好がつくのかしら。
 精いっぱい頭を働かせ、本気で挑戦する。これは半端な世界じゃない。ゲームとしてもおもしろい。実際に儲かれば、それはそれでべつな喜びをあがなう手段となる。プロセスで楽しみ、結果で喜ぶ。スナックの経営、株の売買、近ごろは陶器を焼くことに凝《こ》っている。
 それでも時おり田宮に抱かれたくなるのは生き物の証拠なのだろうか。一過性の喜びでしかないのだが、そのときはやはりここちよい。無くて我慢のできないほどの喜びではないけれど、あればあったで悪くない。屈託《くつたく》が残らないのが条件だ。その意味でも田宮はほどがよい。なぜだろう? 理由はよくわからないが、セックスのあと味が軽い。別れたあとに後悔やあざとい意識に悩まされることがない。彼の気くばり? こっちがそれほど愛していないから……。
 シーツの上に脚を滑らせ、体を伸ばすと、今朝がたの快感がまだ少しくすぶっているようだ。淫《みだ》らなイメージが浮かぶ。このひとときはちょっと楽しい。情事のおまけみたいなもの。
 ル、ルン……。
 また電話のベルが鳴った。今度は腕を伸ばして受話器を取った。
「もし、もし」
 かすれ声で答えた。声がまだ充分に目をさましていない。
「葉子? まだ寝てた?」
 すぐにナナの声だとわかった。
「なによ、朝から。まだ眠たいのに」
「お願い。もうお昼過ぎよ。コーヒー飲も。きのう遅かったの?」
「まあね」
 家に着いたのは、朝六時。きのうなんてものじゃない。遅いと言うより早いという時間。だが、田宮のことを逐一《ちくいち》ナナに告げる気にはなれない。うすうすは知っているだろうけれど。
「ね、ニュースよ。崎谷と別れたわ」
 ナナの声を聞いたときから、なんとなくその話だろうと思っていた。
 ——相変らず男運がわるいのね——
 とっさにそう思ったが、これは運だけのせいではない。もともと目の薄い男に期待を懸《か》け過ぎるからだ。納得のできる話は少なかった。アメリカ人の貿易商、歯医者、歌舞伎の役者、大学の助教授、みんな奥さんがいて「離婚をしたら」という話だった。その台詞《せりふ》だって本当に男が言ったのかどうか……ナナのほうだけが聞いたつもりでいて……。
 崎谷というのは建築家だ。一度ナナと一緒に食事をご馳走になった。頭はきれるのだろうが、どう見ても実《じつ》のあるタイプじゃない。銀座によくいる客。垢《あか》ぬけしていて、ホステスのボーイ・フレンドとしてはわるくないけれど、深入りしていい相手じゃない。
 ——またナナの病気が始まった——
 そう思い、注意もしてやったのだが、まるで耳に入っている様子はなかった。
 六ヵ月ほど関係が続いて、案の定、別れ話になって……その愚痴を聞いてほしいということだろう。
「またふられたの」
「ふったのよォ」
「似たようなもんだけど」
「ね、コーヒー、飲もうよ」
 ナナとは、七、八年ほど前、銀座の同じクラブで働いていた。葉子のほうがずっと年かさだが、適度に仲がよかった。気があった。根のわるい子じゃない。長所は美貌。みてくれはまことに申し分ない。女の葉子が見てもドキンとするときがある。
 ——男はたまらないのだろうな——
 見るたびにそう思った。
 住まいも近いので、店が終ると、よく同じ車で帰った。今でもナナのマンションはそう遠くない。身寄りの少ない子だから、葉子のことをとても頼りにしている。多少はひま潰しの気分もあって、ナナの愚痴にはわりとよくつきあってあげて来た。
「墓地下の喫茶店に来てよ。ね、一生のお願いだから」
 話を聞いてさえやれば、ナナの気分は晴れる。モルヒネでも打ったみたいに心の痛みがなくなる。
 だが、そのナナも三十を二つ三つ越えたはずだ。少しずつ痛みが残るようになったのではないかしら。このごろは、ふっとそんな気配を感じるときがある。
「じゃあ……いいわよ。お風呂に入るから、一時半ね」
「うん。ありがとう。待っている」
 電話を切った。
 ベッドの中で指折り数えてみると、四時間半くらいしか眠っていない。
 ——少しこたえるかな——
 丈夫なたちなので体はさほどつらくないが、四十を過ぎて、無理のあとにはめっきり化粧ののりがわるくなった。それが気がかりだった。
「よいしょ」
 かけ声をかけてベッドから起きた。窓の外が眩《まぶ》しい。余計に肌の荒れが気にかかった。
 
 待ち合わせの店は、どちらの家からも同じくらいの距離にある。白い壁にアイビーが垂《た》れている。メニューは少し高めなのかしら。昼休みの時間をはずせば、たいていすいている。
 青山通りから墓地の繁みにそった道に入ると、栗の花の香りが空気の中に混っている。
 むせるような匂い。男の体液に似ているというのは本当だろうか。
 首を伸ばして捜してみても、それらしい花は見えない。たしか細長い毛虫みたいな花。墓地にはふさわしい。
 階段をあがり、ドアを押すと、入口の近くに三人連れの客がにぎやかに話しあっている。空席が三つ、四つあって、一番奥のテーブルでナナが小首を傾《かし》げるようにして待っていた。
 ドアが開いたことには充分気づいているはずだが、すぐには目をあげない。窓の外に視線を送るようにして表情を止めている。それが絵になる。ナナのテクニック。右四十五度くらいの角度がとくによい。葉子を待つときにもポーズを作っている。
 色は浅黒い。だが、潤いのある小麦色だ。目も鼻も口もみんな輪郭《りんかく》がはっきりしている。黒眼がちの大きな目。鼻もすっきりと伸びて、鼻孔も形よい。少し整形をしているのかな? 鼻の形からそう思うのではなく、ナナの性格から考えて、ありえないことではない。唇はちょっと上唇が突き出していて、かわいらしい。肌の色素は髪の毛にも浸透するものなのだろう。本当にまっ黒い髪だ。色白の人には、この黒さはない。本日は、片側にだけゆるく三つ編みにして、オレンジのワンピースの肩口に垂れている。
「待った?」
「ううん、今、来たとこ」
 喫《す》い口に紅のついたタバコが一本だけ灰皿に捨ててあった。
「結構暑くなったわね」
「また夏が来るのよ。厭ねえ」
「仕方ないでしょ。四季があるんだから。気候のほうだって、いつも同じじゃ退屈しちゃうわよ」
「北海道にでも巡業に行こうかしら」
「ホステスの巡業? いいじゃない」
 ナナはプロポーションまでいい。簡素な衣裳がそれをよく表わしている。モデルにも充分なれる体形だ。欲を言えば、もう少し背丈がほしいところだが、小柄のわりには胸も豊かで、ホステスにはむいている。背の大きいホステスはかわいげがなくて、よい条件とは言えない。
「これ、どう思う?」
 ナナはポシェットの中からブローチを取り出した。まん中は翡翠《ひすい》だろう。エメラルドとはちがった、深い東洋の緑がとても美しい。指先でつまんで色と重さを計った。これだけの石となると安くはあるまい。
「いいじゃない」
 とりあえずそう答えた。
「でも、まわりが……」
 と、ナナが赤いマニキュアの指で翡翠の周囲を指さす。
 たしかにそれは言える。金色の花弁のようなデザインが三枚あしらってあるのだが、これがどうにも趣味がわるい。
「なんか仏壇みたいな感じでしょう」
「ほんとね」
 言われてみると、安物の仏具みたいな印象だ。仏壇の引出しに転がっている細工物のようだ。よほどセンスの悪い職人が作ったものだろう。
「どうしたの?」
「もらった」
「手切れ金?」
「そのつもりなんじゃないの、むこうは」
「やっぱり」
 ナナはテーブルの上のブローチを指先で邪慳《じやけん》に弾く。
 けっして翡翠を憎んでいるわけではない。価値は充分に知っている。宝石商にもう値ぶみをさせたかもしれない。ただ……邪慳に扱うのは、デザインの悪さが、男のずるさと重なって見えるから。このくらいじゃ満足できないわ……そんな見栄もある。
「石だけ残して作り替えればいいじゃない」
「そうね」
 素っ気ない調子で答える。�私は不機嫌なのよ�と態度で告げている。
 注文のコーヒーが届いて会話が途切れた。
「あんた、ママに習わなかった?」
 話のつぎ穂《ほ》を捜しているうちに葉子はふと思い出して呟いた。
「なーに?」
「お客さんの分けかた」
「ううん。知らない」
 ゆっくり首を振る。首が細くて、長い。花を載せた茎のように揺れる。おつむのほうは頼りないが、隅から隅までナナは美貌に恵まれている。一つくらい欠点があるのかしら。ビキニを着ると出べそだったりして……。
「大とり、小とり、客、いろ、まぶ、ひも、用心棒のチャリンチャリン」
「なによ、それ」
「だからお客さんの分けかたよ」
 以前に勤めていたクラブのママのお供をして熱海まで招待旅行に参加したときだったろう。ママはグリーン車のシートで足先の草履をぶらぶら揺らしながら、なかば冗談みたいに周囲のホステスたちに話していた。まだナナは店に来ていなかったかもしれない。おもしろい分類法なので葉子はよく覚えている。
「ええ?」
 ナナは大まじめな顔で聞き返す。
「大とりは、やっぱりマンションの一つくらいかな」
「大きく取るわけね」
「そう。小とりはどのくらい? ン百万くらい。それから普通のお客さん。これはお小遣いをいただいてもせいぜい十万円。お洋服買ってもらって、売上げに協力してもらって……まあ、そんなところ」
「そういう人、このごろ少ないわよ」
「でも、この翡翠、小とりくらいはありそうよ」
「まあねえ」
 二人の視線がブローチに移る。それにしても、どうしてこんなすてきな石に無細工なそえものをするのかしら。作った人の気も知れないが、買った人の気もよくわからない。
「お客さんの次は、いろ。これは恋人ね。まぶは好きな男で、ひもはわかるでしょ」
「いろとまぶは、どこがちがうの?」
 ナナにしては、ましな質問だ。葉子自身もママから聞いたときに同じ疑問を抱いた。
「いろは、むこうがこっちに惚れてんの。こっちも好きだけど、むこうのほうがもっと好きなのよ。お食事に行っても、むこうが勘定を払ってくれるわ。まぶのほうは、こっちが、かわいがっているって感じ。たまにはお小遣いくらいあげる。微妙なとこよね。これがもっとひどくなると、ひも。内心は軽蔑してんだけど、便利だし、優越感を感じるためにもいいじゃない」
「でも、嫌いよ、ひもなんか」
「やめたほうがいいんじゃない。好き好きだけど。それから用心棒。車で迎えに来てくれたり、集金に行ってくれたり……。最後はチャリンチャリン。十円玉の音よ。電話だけかけて寄越す男」
「十円指名ね」
「そんなとこ。だいたい男はこの八種類に分けられるんだって。わかる? 崎谷さんは、小とりくらいだったんでしょ」
 そう言いながら葉子は、
 ——田宮はどれかな——
 と考えた。
 東京へ出て来るたびに葉子の�スナック�に顔を出してくれるが、客というほどの客ではない。
 ——まあ、いろくらい——
 まぶと呼ぶほどこっちが入れあげているわけではない。
「わかんない」
 分類学はナナにとってさほど興味を引くテーマではないらしい。
「初めはだれかと店に来たんでしょ、崎谷さん?」
「そう」
 火をつけたばかりのタバコを消してナナはようやく、話し始めた。
 
 どんな人にとっても出会いのチャンスはあるけれど、ホステスという稼業は毎日が出会いの連続だ。人生にかかわる男が、いつ現われるかわからない。その気になれば、毎晩でも現われる。
 崎谷は、ナナの馴染みの客の連れだった。去年、もう寒くなって……七ヵ月くらい前だったろう。
「建築家の崎谷さんだ。俺んちを設計してくれた人だ」
 そう紹介された。年齢は四十代のなかばくらい。あとで四十二歳と教えられた。
 ——好きなタイプね——
 男の横顔をうかがいながらそう思った。
 もっともナナの場合は、好きなタイプはかなり広い。四十代で、一応恰好がよく、羽ぶりがよく、親切そうな男なら、たいてい�わるくない�と思う。
 崎谷は精悍《せいかん》なスポーツマン・タイプ。話の中に英語がポンポンと入って、きっと頭のいい人なのだろう。建築家は銀座でよくもてる職業の一つである。
 最初のときにはなにを話したか覚えていない。
「またいらして」
「うん。近いうちに来るよ」
 二日おいて崎谷は一人でやって来た。一人で来る客は、たいていホステスに狙《ねら》いがある。大勢で来ても狙いはあるけれど……。
「君に会いたくて」
「うれしいわ」
 崎谷の視線は初めから熱っぽかった。ナナが話していると——さしておもしろい話でもないのだが、崎谷はじっとナナの顔を凝視している。そんな視線にぶつかって、
 ——あ、来るな——
 そんな予感を覚えた。
 男は例外なく面食いだ。だから美しい女のほうは�男はみんな私のことが好きなんだ�と信じてしまう。これは一種の刷りこみ現象だろう。それに……現実問題として、この確信は、めったに裏切られることがない。
 とりわけナナはそうだった。彼女は正真正銘の美女だし、心の美しさなどにはさほど高い価値を置くほうではないから、このテーマは信じやすい。男に好かれることには慣れている。世界中の男が自分を好きなんだと思っている。あとは男が上手に誘惑をしてくれること、それから……なにがしかの経済的な利益をもたらしてくれること、それだけが要件だった。
 崎谷はおおむねたくみに演じたといってよいだろう。二人が親しくなるのは早かった。初めて店に来たときから数えて、一ヵ月もたたないうちにホテルのベッドで抱きあっていた。
「なにかプレゼントをしよう」
 男は戦果に気をよくして、こんな台詞を吐く。ナナはあどけない表情で呟く。
「キャッシュのほうがいいわ」
「ああ……そうか。いいよ」
 男もそのほうが面倒くさくない。
「毎月ちょうだい」
 一層かわいらしい声で言う。
 男は毎月抱けるものなら、それもわるくないな、と考える。お金を渡すときには当然抱きあうだろう。あとは金額だけの問題だ。
 ナナが消え入りそうな様子で告げた金額は、男が想像していたものより安かった。
「いいよ」
 いたわるように肩を抱きながら承諾した。
 ——うまくいった——
 と男はほくそ笑む。
 とはいえ崎谷がそれほど巧みな猟色者であったかどうかは疑わしい。
 と言うのは、恋のムードを盛りあげるために……あるいは礼儀作法の一つとでも考えたのか、多少は本心の部分もあったのだろうが、
「女房が冷淡な女でね。できれば別れたいよ」
 言わずもがなの台詞をうっかりこぼしてしまった。一度だけではない。言いかたはちがっても、似たような言葉を何度か漏らした。
 ナナは見かけこそ現代風なレディだが、心の中は思いのほか旧弊《きゆうへい》だ。女は結婚するのが一番しあわせ、と、ある意味では正しいモラルをかたくなに信じている。だから結婚の話は忘れない。餌の匂いには敏感だ。
 ——すぐでなくてもいいわ。一、二年後きっと奥さんと離婚して私と一緒になるつもりなんだわ——
 と考えた。この期待はけっして消滅しない。
 だが、どなたもご存知のように男はそう簡単に離婚をするものではない。したいと思ったとしても、実行にはさまざまな困難がともなう。できもしないのに離婚をほのめかす手合いはさらに多い。
 崎谷も途中で�しまった�と気がついたが、もう遅い。
「どうするつもりなのよォ、弁護士さんに話した?」
「もうちょっと待ってくれ」
「聞きあきたわ、その台詞」
 相手が煮えきらないとなると、ナナはその代償としてお小遣いの値上げを言いだす。意図していることかどうかわからないが、この二つが頭の中できっちりと繋っている。とはいえ値上げをしてやったからと言って、結婚の願望を捨てるわけでもない。それはそれ、これはこれ。日を置いてまた、「奥さんとはもうセックスもしてないんでしょ。別れるべきよ」
 と主張する。
「まあな」
「いつ?」
「そう簡単にはいかないものなんだ、こういうことは。子どももいるしな」
「そんなこと、はじめからわかってたことでしょ。なんだかんだって調子のいいこと言って」
「そうあせるなよ」
「あせるわよ。そんなこと言うためなら、もう来ないで。度胸がないのよね、男のくせに。ああ、馬鹿みた。へんな男に引っかかってしまって。スカッとしたいな」
「怒るなって」
「あたり前でしょ、怒って」
 バタバタと周囲のものを手荒く整理し始める。それを無視して崎谷が知らん顔をしてテレビでも見ていようものなら、なにかが飛んで来る。ライター、サングラス、ハンドバッグ、枕……。小さいものから順に大きくなる。
「機嫌わるいんだな、今日は」
「そうよ、きまってるじゃない。お金はないしさ」
「このあいだやったろ」
「あんなの、すぐなくなるわ。ありがたいけどサ。お礼言わなくちゃ駄目よね。大切なお金なんだから。ね、奥さん、なんて言うの、月給を渡すとき? ご苦労様って……」
「銀行振込みだよ、今は」
「奥さんのほうがずっとたくさんもらうんですもんね」
「そうでもない」
「いくら? 月に」
「いいよ、そんなこと。ほら、これで洋服でも買えよ」
 と、立って背広のポケットをさぐり、財布から数枚抜き出す。
 この瞬間だけナナの機嫌がなおる。
「うれしい」
「ま、そのうちにいいこともあるサ」
「なに?」
「いや……俺もいろいろ考えてんだから」
 危い台詞を言いそうになって、あわてて口をつぐむ。
 男としては、別れないためには小遣いの連続的な値上げに応じなければいけない。それが困るから、離婚をちょっとほのめかしたりする。事態はますますわるくなるばかりだ。
 そのうえ、ナナはわがままだ。美女の特権。だらしないところもある。これは知能指数と関係がある。そんな短所が男にも少しずつわかって来る。
 男は逃げにかかる。ついこのあいだまで満ち潮のようにナナに寄せられていた関心が、引き潮のように去って行く。
 ナナは気づくのも遅いし、うまく男を引きとめる手段も持ちあわせていない。ただひたすら不機嫌になったり、ヒステリーを起こしたり、厭味を言ったりするだけだから、余計に男の引き足は早くなる。
 美女の頭の中には、
 ——次の男がいるんだから——
 と思う部分があるから、執着心もそう強くはない。
「このごろ御無沙汰ね。浮気の虫が騒ぎだしたんでしょ」
「馬鹿なこと言うなよ」
「調子いいんだから。いいわよ、いつでも別れてあげる。そのかわりお小遣い置いてってね、半端なお金じゃ厭よ」
 男はなにがしかの金を出す。ナナとしては、あとは自尊心を保持するために、相手がどんなにくだらない男であったか、それを周囲に告げれば、気分は七、八割がた収まる。
 崎谷は翡翠のブローチを最後の挨拶のつもりで置いて、えっさえっさと逃げて行ったのだろう。葉子は話を聞く前から見当がついていた。
 
「最低の男ね、けちで、しつこくて。設計事務所の副所長だなんて嘘だったのよ」
 コーヒー店の一番奥の席を選んだのは正解だった。ナナが、いかにも憎らしげな顔つきで、あしざまにののしるのは、けっして人に見せたいものじゃない。聞かせたい言葉でもない。
「名刺、見たんでしょ」
「忘れちゃったわよ。適当に自分で作ってばら撒《ま》いてたんじゃないの。若い人と一緒に飲みに行っても、あいつ、払わないんだってサ。�俺は合理主義者だ�って。なによ、ただのけちじゃない。そのくせ気取っちゃって……。恋人なんか持つタマじゃないのよ。ただのスケベェ。ドスケベェ」
「男はみんなそうでしょ」
「あいつは特別ね。けちのくせ、しつこいの。元を取ろうとしてんじゃないの。何度も何度もやりたがってさァ」
 なんでこんな美しい顔が、ひどい言葉を吐かなくちゃあいけないのか。
 葉子は慣れている。毎度のことだ。台風と同じこと。しばらくは荒れるにまかせておいて、通り過ぎるのを待てばよい。
「言ってやったのよ。�あんたにはネ、あたしはもったいないのよ�って。言わなきゃわかんないんだもン、あの馬鹿。本当、あんなのとつきあっていると、馬鹿がこっちにまで伝染しちゃうわ。場末のおばんにでももててればいいんじゃない、ああいう男は」
 ナナの言い草には、いつも決まった根っこがある。前提がある。�私ほどの女が抱けるんだから、あんた、よっぽど感謝していいのよ�といった自信。�それなのに、あの男……�といった不満である。
 男たちがどうしようもないほど面食いである現実を考えてみれば、ナナのうぬ惚れをあながち非難する気にはなれない。六、七割がたはその通りだ。これだけいい女を抱けるなら、男は相当の犠牲を払っても仕方あるまい。そう考える人がいてなんの不思議もない。
「奥さんを見たら、ひどい女。品がないのよねえー、顔に。あれじゃ離婚もしたくなるわ」
「いいじゃない、似た者夫婦で」
 葉子は茶化し加減に言った。
「言えるわねえ。でも一度寝た男の奥さんがひどいと滅入って来るわね。こっちまでブスになってしまったような気がするよ」
「わかるけど」
 鼻先で頷く。
 葉子にも経験のない心理ではない。真剣に愛した男だった。男は妻と別れて、葉子と一緒になると言った。その気持ちに嘘はなかっただろう。それまで疑ったら、みじめ過ぎる。たしかに一時はすべてがうまく運ぶように見えた。だが、遅々として進まない。男は問題のむつかしさに気づいて厭になる。最後に奥さんが懐妊して、それがフィニッシュだった。男の気持ちが微妙に変った。
 数ヵ月たって、葉子はその男の奥さんを垣間《かいま》見た。どう眺めてもあまり上等な人格には見えなかった。
 ——この程度の人に負けたのか——
 いったん胸に収っていた憤懣がまた戻って来て、しばらくはそれを静めるのに苦しんだ。男までが憎くなった。
 ——こんな女を選んだ目で、私を選んだのかしら——
 親しい男の妻を見てはいけない。それからはずっとその方針を守った。田宮の妻も知らない。
「男って、わからないねえ」
 ナナは外国人がするように掌を上に向けて肩をすくめる。�あきれちゃったわ�とでも言いたげに。台風はおさまりかけている。
「そうよ。今ごろ気がついたの」
「そうでもないけどサ」
「いい女がいると、盛りがついた犬みたいにガツガツ寄って来るけど、そのわりにはたいしたことはできないもんよ」
「どうしてかしら?」
 ナナは呟きながら指先で、テーブルの上のブローチをくるくるまわしていたが、今度はそれを取って胸にあて、
「作りなおせば、いいかもねえー」
 と言う。
 葉子は、わけもなくある男の言葉を思い出した。さっきからずっと思い出していたのかもしれないが……。あの人ももうひとつ度胸の足りないインテリ・プレイボーイだった。
「女は宝石なの。とってもきれいな……」
 ナナの胸もとを見つめながら、男の声をなぞって葉子は呟いた。
「ええ……?」
「でもサ、その宝石のまわりには、都合ってものが、いっぱい取りまいてんのよ」
「うん?」
「都合がわるけりゃ、中の石がいくらよくたって、男は尻ごみするのね」
 葉子は思う。
 ——ナナほど美しくなかったけれど、いつだって私はわるい女ではなかったわ——
 涙が出るほど�いいやつ�だった時期もある。
 男はそれをちゃんと認めながら、結局はさまざまな都合を口にした。妻が、子どもが、仕事が、世間の目が……。それを知るたびに少しずつ葉子の情熱は風化した。けっして大きな期待をかけない、それが恋のやりかたとなった。田宮にとっては、少しも都合のわるいところのない、便利な女になっているだろう。
「翡翠だけ残して、まわりは取っちゃいなさいよ」
 そばにペンチでもあれば、むしってしまいたいほどの衝動を覚えた。
「あたし、都合がわるいかなあ」
 ナナがタバコを抜きながら言う。
「わるいわよ」
 結婚はしたがるし、お金はせびるし、わがままだし……。ナナはまだわかってはいまい。まん中の石さえきれいなら、周囲の都合なんかどうにでもなると考えているのだろう。
 窓の外を見た。
 ——男にとって、女はきれいな宝石。でもそのまわりには都合ってものがいっぱい取りまいている——
 木立ちが濃い緑を広げているので、ガラス戸が鏡になる。葉子自身の顔が眉をしかめて映っている。
 その表情を通して、男たちの……何人もの男たちの�都合のわるさ�を告げている顔が浮かび、今、葉隠れの中にまざまざと頼りないものを見たように思った。

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