赤い街
「長島と王と、どっちがすごい選手だったの?」
小肥りのママがウーロン茶のグラスを揺すりながら尋ねた。�サムシング�は酒も飲ませるが、軽食の用意もしてある。仕事帰りのサラリーマンがちょっと立ち寄るのに便利な店だ。
時刻は七時過ぎ。カウンターの隅に置かれたテレビがプロ野球のナイターを映し始めた。巨人・大洋戦。背広姿の長島が甲高い声で喋《しやべ》り、ユニフォーム姿の王が険《けわ》しい表情で、たった今、画面に登場したところだった。
広瀬は同僚の村木を誘って、カウンターのテレビに近い位置に陣取っていた。
「そりゃ記録ということなら……」
村木がいったん言葉を切ってビールを口に運ぶ。話す前に舌の滑りをよくしておかなければいけない。
このテーマは村木がうるさい。語らせればとめどなく話す。ママは直感的にそんな気配を覚《さと》って、わざと尋ねたのかもしれない。お客が話したいことをうまく誘って話させる、それも、この商売のサービスのうちだろう。
それに……このママは、ものごとに優劣をつけたがる癖があるようだ。虎とライオンと、どっちが強いか、海と山とは、どっちが楽しいか、猫と犬と、どちらがかわいいか、広瀬はそんなたわいのない議論を何度かこの店で聞いた。
「記録ということなら王のほうが断然すごい。長島は足もとにも及ばない。横綱と小結くらいの差がある」
村木の小鼻が蠢《うごめ》く。広瀬は、ママと村木とを半々に見ながら頷いた。異論はない。村木とはまったくの同世代だから、同じ体験を背負っている。二人の名選手のことはこまかいエピソードまでよく知っていた。
カウンターには、もう一組、若いサラリーマンたちのグループがボトルを置いて水割りを飲んでいる。アルバイトの女の子を相手に、スキン・ダイビングの話。海の底がどんなに美しいか、競いあって話している。その中の一人が時折こちらの話に顔を向けるが、彼の年齢では�サード長島�の雄姿を知るまい。四十歳を過ぎていなければ、このテーマは語れない。
「へえー、そうなの」
「しかし、だ。今後、王は出ることがあっても長島は出ない。絶対に出て来ない」
村木はわがことのようにきっぱりと断定した。これが村木の持論である。広瀬はいろんなところで聞かされた。
「どうして?」
グラスの中の氷がパチンと音をあげて割れた。ママがウーロン茶の底をのぞきながら尋ね返す。
「日本がちがう。情況がちがう。同じ情況は二度とくり返さない」
「むつかしいのね」
「長島が大学を出てプロに入ったのが昭和三十三年。ママはいくつだった?」
「まだ可憐な美少女よ」
「よく言うよ。少しは覚えがあるのか」
「ある、ある。もう東京に出て来ていたわねえ、父の転勤で」
「三十三年がどういう年だったか、こりゃ知らんよな」
「なにしてたかしら、本当に」
「この年に大事件があった」
「なーに?」
「赤線の灯が消えた」
「ああ、そうなの」
「大事件だよ。何百年かの伝統文化が途絶えたんだ」
「文化ねえー。知ってるの、赤線?」
「ほんの少しな。長島がデビューする、赤線の灯が消える、これはたいしたことなんだぞ」
村木が気張ったとき、表のドアが開いて新しい客が入って来た。
「あら、いらっしゃい」
客は頬を撫でながら、まっすぐに進んでカウンターのまん中の席に着いた。
——ああ、やっぱり——
広瀬はわけもなくそう思った。
二十五、六歳。印刷会社に勤めていると聞いた。名前はセンちゃん。それ以上くわしくは広瀬も知らない。いつも早い時間に現われてビールを飲み、食事をする。何度か顔をあわせた。
カウンターに並んで、軽く会釈をする程度の関係。話したことは……多分ない。深いかかわりはないのだが、広瀬にはちょっと気にかかることがある。勝手に想像していることが少しある。
たった今も村木の話を聞きながら、頭の片隅でセンちゃんのことを思っていた。そこへ案の定センちゃんが現われた。こんな偶然も時折あるものだ。
「日に焼けたんじゃない」
「地黒だよ、俺は」
「でも、また濃くなったみたいよ」
短い髪。浅黒い肌。肩はガッシリと張っている。力仕事でも充分にやれそうな体躯だ。
ママがセンちゃんにお絞りを渡し、ビールを注ぎ、ふたたび広瀬たちの前へ戻って来ると、村木は一つ咳払いをしてから、
「さっきの話だけど……」
と繋いだ。
いったん話し始めた以上、最後まで話さなければ気がすまない。そのくらいの価値はあるんだ……と、余人は知らず、当人は信じている。
「うん?」
「三十三年を境にして日本の社会が変ったんだ。もはや戦後ではなくなる。高度成長期にさしかかる。男中心の世の中が少し変って、マイ・ファミリー的な社会構造がはっきり見え始める。今までは父ちゃんだけが酒をくらったり赤線へ行ったりして遊んでいたんだ。三十年代に入るとテレビが普及して、どこのうちでも茶の間にテレビがあるようになる。みんなでテレビを見ながら一家団欒を楽しむようになる。母ちゃんと子どもが、自己主張を始める。チャンネル権をだれが持つか、もう父ちゃんだけが威張っているわけにはいかない」
「言われてみれば、そうねえ」
「テレビのおかげで映画が大衆娯楽の王者から滑り落ちる。プロ野球だって、昔は松竹とか大映とか、映画会社が持ってたんだ。ところがみんな手を引いちまって、マスコミ産業が……つまりサ、テレビを持った会社が、どんどんのしあがって来た。テレビと野球がくっつく。そのときに長島茂雄がプロ野球のヒーローとして登場したんだよな。球場に行く人の数なんかたかがしれてる。みんながテレビで見てたんだ。ジャイアンツはそのテレビのネットワークとしっかり結びついていたんだ。しかも地盤は東京。東京が全国でダントツのマンモス都市になったのも、あの頃からだったし……。ジャイアンツは、地盤も東京で、東京のテレビ局から独占的にゲームが放映されたんだ。いろんな条件が、一番いいお膳立てになっていたんだよな。今はちがうよ。テレビはあの頃よりもっと普及しただろうけど、ほかに娯楽がたくさんあるもん。テレビ見てんのなんかダサイ趣味よ。プロ野球だって、ほかにゴルフとかサッカーとかラグビーとか……そう、スキン・ダイビングとか、おもしろいスポーツが、どんどん出て来て、もう昔ほど絶対の価値はない」
「ジャイアンツも、昔ほど人気がないしなあ。タイガースとかカープとか」
広瀬が茶化すように口を挟《はさ》んだ。
「まったくだ。王が登場したのは、ちょっと遅かったよ。タイミングが少しずれていた。個人としちゃ王のほうがすごいけど、時代のシンボルとしちゃあ、長島のほうがずっとすごい。だから長島は二度と出ないんだ。つまり赤線の灯が消えて、長島が登場したんだ」
「ふーん」
ママは曖昧な表情で頷く。
村木の長広舌《ちようこうぜつ》がどこまで納得できたか……あの時代を通り抜けて来た人でなければ理解できない話なのかもしれない。
「時代が人間を要求するんだよ。ナポレオンでも織田信長でも。その時代に一番ピッタシあったいいタイミングで登場してヒーローになる。少し遅れたら、もういけない。歴史のヒーローにはなれない」
ママが不意に広瀬の顔を見て、
「広瀬さんも知ってるの、赤線を?」
と尋ねた。野球より、このほうがママの興味に適《かな》っている。
「知ってるよ、きわどいところで」
「今、いくつ?」
「四十九だ。長島より一つ下だ」
「じゃあ、学生のとき行ったわけ?」
「そう。厳密に言うと、売春防止法が施行されたのが昭和三十三年。猶予期間が少しあって、本当に消えたのは三十四年の三月」
「くわしいのね」
「サラリーマンになった頃には灯が消えてた」
「結構遊んでんのね、真面目そうな顔して」
「そうでもない。金がなかったもん」
「高かったの?」
「今、考えると、そう高くはなかったけど、みんな貧乏だったからなあ。大切な金を握って、必死の覚悟で行ったんだよな」
「男って好きだから」
「女だって好きだよ」
「そりゃ言えるけど」
ママはセンちゃんの注文で野菜いためを作りにかかる。センちゃんは広瀬たちの話を聞いているのかどうか。飲み物はいつもビール一本、それ以上飲むことはない。
テレビの野球は巨人のチャンス。村木は椅子をまわして画面に正対する。
「ゲッツー打なんか打ったら承知しないぞ」
広瀬は、息まいている村木をはすかいに眺めながら古い記憶を心にたぐった。
新宿はまだ狭く、細長い街だった。駅を出て伊勢丹デパートに行くまでの道筋が繁華街だった。歌舞伎町の方角に盛り場が伸びて街全体が大きく広がったのは、もう少しあとのことだったろう。高層ビルなどあるはずもない。あのあたりはガス・タンクの並ぶ野原だった。
繁華街を通り抜け、大通りの長い横断歩道を渡ると、そこが新宿二丁目だった。赤線地帯への入り口はいくつもあったが、広瀬はいつも同じところから入った。ジンクスのようなもの……。大通りを越してしまえば、ほかになにか目的のある街ではない。
地図はおおよそ心得ていた。友人に連れられて何度か冷かして歩いたから。
「学生さん、寄ってらっしゃいよお」
声をかけられても広瀬は懐《ふところ》がさびしい。慣れているふりをして手を振って通り過ぎる。すでにサラリーマンになっていた友人があいかたを決めて登楼すると、しばらくは遊園地のブランコに乗って待っていた。
五百円あれば一番安い遊びができた。灯が消える直前に少し値上りをしたが、広瀬がよく覚えているのは、この金額だった。
五百円がどれほどの価値だったのか、はっきりとは思い出せない。一日アルバイトをすると三百円くらいの収入ではなかったか。
真夏の昼下がり。初めて一人で行ったときだったろう。まだ本格的に店を開いている時刻ではなかった。
それでもあちこちのドアが細めに開いていて、女たちの姿が見えた。客を待っているというより、たまたまそのあたりに用があって立っているような感じだった。洗濯物を干している女もいる。買い物の帰りらしい女もいた。
広瀬は早足で歩いた。
まるでほかの目的でたまたまこの街に来たように歩いた。けっして女たちと目を合わせない。女がいるとわかれば、むしろ道の反対側を通った。
それでも家の中の女たちを目の端で見る。一瞬のうちにうかがう。
やはり美人のほうがいい。
だが、めったなことで美人になんかめぐりあわない。皆無に近い。
——せめて半分より上——
その程度の願いだった。
娼家が次から次へと軒並み続いているような路地は通りにくい。多勢に無勢、引きずりこまれるおそれがなくもない。
同じ道を通るのもまずい。物色しているらしいと、すぐに見破られてしまう。見破られたからといって、なにか不都合なことが起きるわけではないけれど、心をすっかり読まれてしまうのは、ばつがわるかった。
——夜のほうが、いい人がいるのかな——
今はオフ・タイム。昼寝をしている女も多いだろう。歩いているうちに、どうでもいいような心境になってしまう。早く抱きたい。望みがだんだん低くなる。
このまま帰る気にはなれない。せっかく金を用意して来たのだから、どこかの店にあがらなければ体が承知しない。
「あら、早いのね」
突然、声をかけられた。ただ通り抜けるつもりで入った路地だった。薄暗いドアの中から扇風機の風が吹き、ターバンを巻いた女が顔を出す。
「うん」
足を止めたのは、よほどひどくない限りぼつぼつ決めようと思っていたから……。
左右に開くドア。ベニア板をくりぬいてシャンペングラスや楽器の形に、色ガラスが貼ってあった。
女は黒眼が大きい。そばかすが頬に密集している。それが特徴だった。
けっしてよい器量ではないが、とくにわるくはない。二丁目の平均点。だが、人柄がよさそうで、どことなく親切そうに見えた。これはとても大切な条件だ。広瀬は二十歳を過ぎたばかり。たちのわるい女に当たると、ろくに楽しませてもらえない。
「遊んで行く?」
「五百円しかないんだ」
部屋にあがると飲みたくもない紅茶が出る。色だけの薄い紅茶……。その代金として百円べつに取られるのがルールだった。
広瀬の懐も五百円こっきりというわけではなかったが、紅茶の分を値切ってみた。
「いいわよ」
女は四角いドアの薄闇から手を差し出し、広瀬の腕を抱えた。もう逃げられない。
「お客さんよ」
奥に一声告げてから、先に立ってとんとんと階段を昇る。
四畳半ほどの部屋に布団と姫鏡台。布団は赤い、はでな模様だった……そんな気もするのだが、どの部屋も類似の様子だったにちがいない。女がスウィッチを押すと、小さな扇風機が首を振る。
「お帳場して」
前金で五百円を差し出す。
やり手が紅茶を持って来て、襖《ふすま》の細いすきまから中へお盆をさし入れる。女は、たった今受け取った五百円の中から、いくらかを手渡した。
足音が遠ざかると、ふり返って笑った。
「暑いわね。学生さん?」
「うん」
「よく来るの?」
「月に一ぺんくらいかな」
実際の数より多くを言ったのは、
——また来ることもあるんだから、サービスをよくしてくれよ——
といった気分である。
「あ、そう。頭、このままでいいわよね」
ターバンのままブラウスを脱ぎ、スカートを落とし、スリップ一枚になって布団の中に滑りこんだ。
広瀬はうしろ向きになって服を脱ぐ。背筋が汗ばんでいる。扇風機の風で乾した。
「いらっしゃいよ」
「うん」
女は布団を蹴り、器用に男を誘導して脚を開く。
短い遊戯だった。放出のあとには、
——なんでこんなことにあれほど夢中になるのか——
あわい後悔を抱く。虚脱感もある。五百円も少しもったいない。
男が身を起すまで、そのまま待っていてくれるのは、心のやさしい女だ。
「よかった?」
女も汗ばんでいる。
「よかった」
戸惑いながら答える。自慰のほうが、ここちよいのではあるまいか。
だが自慰ばかりではイマジネーションが枯渇《こかつ》する。よりよいイマジネーションのためにも、時折本当の交接がなければいけない。
女はぎこちない足取りで部屋を出て行く。男は扇風機の前で服を着る。女はすぐに戻って来て、手早く服を着た。
「なんていう名前?」
「平凡よ。ア、キ、コ」
一つ一つ区切りながら言った。年は二十代の後半くらい……。だが口調はあどけない。
「どんなアキコ?」
「春夏秋冬の秋子」
「本名?」
「そうよ。面倒だもん」
二人で部屋を出て階段を降りた。さっきから三十分もたっていないだろう。
「また来て」
「うん、来る」
路地の角を曲るときにふり返ると、まだ秋子は店の外に立ったままこっちを見ていた。
「……遊女は客に惚れたと言い、客は来もせでまた来ると言う」
浪花節の一節を口遊《くちずさ》んだ。その先は知らない。
路地の裏手に喬木《きようぼく》が残っていて、蜩《ひぐらし》がまのびのした声で鳴いていた。
「ママ、お金を拾ったことある?」
ジャイアンツの攻撃は尻すぼみ。画面がCMに変ったところで今度は広瀬がカウンターの中のママに尋ねた。
「拾わないわねえ。広瀬さん、拾ったの?」
ほかの客たちが聞き耳を立てている。野球の話よりこのほうがだれにとっても興味が深い。
「いや、そうじゃないけどサ」
「五年くらい前にいっぺんあるわ。石神井《しやくじい》にいた頃。風の強い日で、道を歩いてたらサ、木の葉に混って五百円札が飛んでるの。あせって追っかけちゃった。だれも見てなかったから、よかったけど」
「この頃は十円玉もなかなか落ちていない」
「落ちてても拾わない奴がいるから頭に来る」
村木がテレビを見たまま話に加わる。
「拾わないの? どうして?」
「面倒だからだろ。とくに若い人」
「私なんか一円玉でも拾っちゃうけどね」
「一円なんか、なんに使う? 役に立たないだろ」
「そりゃそうだけど……。でも昔、言われたでしょ。�一円を笑う者は一円に泣く�って」
「古いこと知ってるじゃないか」
「センちゃんたち、拾わない? 一円玉じゃ落ちてても」
カウンターの中を左右に動きながらママが一番年若い客の意見を尋ねた。
「うーん。場合によるよ。一円じゃ拾わないな、やっぱし。十円なら拾うかもしれないけど」
「十円玉って案外大事よね。電話かけようとして……一万円札しかなくって……。真夜中で、どこもあいてなくて、雨なんかザアザー降ってたら、どうしようもないでしょ」
「なんかそんなテレビドラマがあったなあ。十円玉がないばっかりに大切な連絡ができなくて、入念に企《くわだ》てた計画が狂って行くっての」
「いくらなら交番に届ける?」
酒場の会話は、一辺を欠いた三角形だ。ママと客A、ママと客B、二本の線分は引かれているが、客Aと客Bのあいだには、線がない。こだわりがある。そこにはあまり濃い線を引かないのが暗黙のルールである。
「拾ったお金?」
ママが広瀬に聞き返した。
「そう」
「そうねえ、一万円かなあ。一万円ならもらっちゃうかなあ。三万円くらい。広瀬さんは?」
それには答えず、
「自分が落としたときは、どうする? いくらなら交番へ駈け込む?」
と聞き返した。
「五万円以上……かな」
「そのへんがめどだよな。自分が拾ったとき届けるのも、落として交番へ一応行ってみるのも」
「でも、拾ったお金って、考えちゃうでしょ。どういう人が落としたろうって……」
センちゃんが野菜いためのおかずで、白い御飯を食べながら言う。米はコシヒカリ。たっぷりと盛ってもらって職人のように豪勢に食べる。
村木のほうはビールも飲まずに野球に見入っている。
「ええ?」
「千円くらいでもサ、子どもが落としたのなら結構大金だろ。今ごろ泣いてんじゃないかと思うと、気が引ける。落としたのが大金持ちなら、五万円でも十万円でも、ルンルン猫ばばできるけどさア」
センちゃんは、田舎出の人らしい、素朴な笑いを頬に刻んで言う。これは本心だろう。
「本当よね」
奥の一組が席を立った。
もう一度秋子の店へ行ったのは拾った金のおかげだった。
財布の中に百円札が八枚。ほかに小銭と、商店会の福引き券が入っていた。
けっして上等な財布ではない。
——どうしよう——
子どもの財布ではあるまい。サラリーマンかな。交番に届けてみたところで、この程度の金額なら本人はあきらめているだろう。その公算が強い。
——まあ、いいか——
中身を見た瞬間から広瀬の心に誘惑が見え隠れしていた。
拾ったのは四谷。新宿二丁目は近い。
電車に乗り、繁華街を通りぬけ、長い横断歩道を渡った。もうあとへ引く気にはなれない。
秋の日暮れは早い。街は赤い灯をともし、ぼつぼつにぎわい始めていた。ドアのすぐ内側でラーメンをすすりながら客を引いている女がいる。
「学割りあるわよう」
声をかけられたが、広瀬は肩をまるめて通り過ぎた。
「どこへ行くのよう」
からかうような声に呼ばれた。組んだ脚のきれいな女だ。顔もわるくないが、目つきがよくない。意地がわるそうだ。
そう長くは迷わなかった。
——よくないことをしている——
この街を歩くときは、この気持ちを拭うことができない。
まして今夜はうしろめたい金を使うのだ。心がひどく高ぶっていた。
見覚えのある路地に入って、見覚えのある店の前に立った。すぐに女が顔を出す。この人じゃない。
「秋子さん、いる?」
知った顔のほうが安心だ。
「秋ちゃん? いるわよ」
女は階段の上に向かって声をかけた。黄色いスカートがすぐに階段を降りて来た。広瀬を見て、
「あら」
と頷く。
——二度訪ねるほどの女だろうか。もっといい女が抱けたのではあるまいか——
その迷いは路地に入ったときからあった。だが、とにかくここへ来てしまったのは、女の仕ぐさに心の暖かさのようなものを漠然と感じていたからだろう。
秋子はさほど意外そうではない。
——やっぱり来てくれたわね——
そんな表情だった。
一度彼女になじんだ客が二度目に来ることも、よくあるらしい。広瀬が考えているよりいい女なのかもしれない。
若いときには自分の物指しに自信が持てない。みんながいいと思うのなら、きっといい女なのだろう。
——よかった——
女の表情を見て広瀬は遠まわりの満足を覚えた。
「少し寒くなったわね」
「うん」
季節の変化は早い。
部屋には電気ストーブが赤い光を広げていた。
「いつだったかしら」
「二ヵ月くらい前かな」
この夜は紅茶代もキチンと払った。
女が服を脱ぎ、男も服を脱いで体を重ねる。
相変らず短い遊戯だった。秋子は身を反《そ》らして広瀬の動きにあわせてくれた。
部屋のすみで弾むような小さな音が響く。放出のあとで虫の鳴き声らしいとわかった。
「なんだろう?」
「かねたたきでしょ」
「へえー」
名前は知っていたが、音色を聞くのは初めてだった。
「田舎でよく鳴いてたわ」
「どこ?」
「新潟。糸魚川《いといがわ》の近く。知らないでしょ」
「富山県のほうだろ。海辺で」
「よく知ってるわね。厭だ。行ったことある?」
「ないけど」
秋子は身を起こしかけたが、
「もう一回、やる?」
と笑う。
「いい」
返事をしてから、�しまった�と思ったが、言葉を取り消すのもきまりがわるい。そのままズボンをはいた。
「今年もすぐ終るのね」
「うん」
「また来ても、いないと思うわ」
「ここに? どうして」
「やめるの。赤線も終るしね」
「やめて、どうするの?」
新聞にもそのテーマがくり返して載っていた。
「結婚する」
女は呟いて花のように笑った。歯並びがきれいなことに気づいた。
少し意外だった。
——こんなところにいて……結婚をする人がいるのだろうか——
だから広瀬は尋ねた。
「相手はおなじみさん?」
「ちがうわよ。田舎へ帰って……大工さん」
「その人、知らないわけ、この仕事?」
残酷なことが聞けたのも若さのせいだろう。秋子は屈託がない。
「知らないわよ。せいぜいいい奥さんになってあげなきゃね」
「田舎って、糸魚川?」
「そう」
二人はもう服を着終っていた。
階段を降り、外に出た。夜の街がとても赤い。秋子はこのときも広瀬が角を曲がるまで門口に立っていた。
それから何ヵ月かたって赤線の灯が消えた。
——あの人、しあわせになったかなあ——
顔も体の特徴もすっかり忘れてしまってからも、そのことだけは時折ふいと心に浮かんだ。
ジャイアンツの勝ちは、ほぼ決まったらしい。
「どう、新居は?」
村木が首をまわして尋ねる。広瀬はつい最近、家を手に入れた。老後のすみかのつもりで作った。とてつもない借金をして……。
返済まで二十年かかる。二十年後の自分を想像するためには、二十年前の自分を考えてみればいい。
「どうせプレファブの安普請《やすぶしん》だからな」
「たいしたもんだよ」
「広瀬さん、新築したのよね。お祝いもしなくて……」
「いいよ、べつに」
センちゃんの食事が終った。多分独り者だろう。これからどんな夜を過ごすのか。
ママが茶碗をさげながら、
「センちゃんのお父さん、大工さんなのよね」
と言う。
そのことは以前に、カウンターの会話で聞いて、広瀬は知っていた。
そして、もう一つ、彼が糸魚川の出身であることも……。
——糸魚川だって広い町だ——
大工さんも大勢いるだろう。
「ご両親、お元気なんでしょ」
「まあね」
「東京に呼んであげれば」
「むこうのほうが好きなんじゃないのか」
どう記憶をたどってみても秋子の面差しを思い出すことはできない。はっきりした眼、そばかす、よい歯並び……せいぜいそれだけだ。センちゃんの眼も大きいけれど。
「お袋さんの名前は?」
そう尋《き》きたい気持ちがあるけれど、これはずいぶん唐突の質問だ。聞いてはいけないことのようにも思えて、広瀬は尋ねない。
「ご馳走さん」
センちゃんが立ち、テレビの中から長島の声がこぼれた。