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時のカフェテラス09
日期:2018-03-31 13:57  点击:240
 薄暮飛行
 
 
 ——あ、浮いた——
 そう思った次の瞬間に、窓の外の草むらがななめに傾き、滑走路がどんどん遠ざかって行く。
たちまち空港そのものが遠景に変り、眼下の街が地図になった。
 そして海に出る。
 右手に細い海《うみ》の中道《なかみち》。その先に志賀島《しかのしま》が浮かび、機体の旋回につれ、それもすぐに見えなくなった。
「夕日がきれい」
 響子《きようこ》は左の肩に市橋の息を感じながら呟いた。シンプルな夏のワンピース。肩は貝殻骨《かいがらぼね》のあたりまで、あらわになっていた。
 夏の日はゆっくりと暮れかかっている。太陽はすでに雲海の下に隠れ、ところどころ薄みを貫いて金色の光が溢れている。ぽっかりと宙に立つ雲があった。
「三分たった」
「ええ?」
「飛行機は離着陸の瞬間が危い。事故はたいていそのときに起きるんだ」
「そうらしいわね」
 仕事がら響子は旅に出ることが多い。昨夜は博多のホテルでタンゴを歌った。�碧空《あおぞら》��黒い瞳��小雨降る径《みち》�など、古い、よく知られた曲のほうが拍手を多く集めた。ホテルの客には若い世代は少ない。
 飛行機には何度乗ったかわからない。それでも乗るときはいつも怖い。心のどこかで事故を意識している。
 ——特別臆病なのかしら——
 ほんの少し高所恐怖症のところがある。
 だが、だれしも飛行機に乗るときには、いくばくかの不安を覚えるのではあるまいか。事故なんて滅多にないものと知りながら、不幸な偶然を想像する。飛翔の瞬間に落下を思う。市橋もきっとそれを考えていたのだろう。禁煙のサインが消えた。
「もう安心だ」
 と、市橋は自分に聞かせるように言う。
 窓の外は、雲だらけの空をひろげている。その果ては、地平線でもないし、水平線でもない。新しい言葉を考えなければなるまい。さしずめ雲平線。
 ——少し語呂がわるいわね——
 そう言えば、このごろの新しい歌……歌詞には、たいてい二、三ヵ所ひどく語呂のわるいところがある。歌いにくいと言うより、そこへ来るといつも気をそがれてしまう。詩情が崩れてしまう。
 ——昔のほうがよかった——
 そう思うこと自体、響子が年を取った証拠かもしれない。三十八歳。まだまだ若いつもりではいるけれど、現実には若さからずいぶん離れてしまった。三十八は十九の二倍なのだ。
 市橋の肩が動き、響子の手を握った。
「でも途中で事故を起こすこと、あるじゃない」
 ハンカチとハンドバッグで市橋の手を覆《おお》いながら言った。
 ——厭ね、こんなところで。悪い人——
 そんな気持ちをこめて軽く握り返した。指先が掌をくすぐる。少し淫《みだ》ら。昨夜の情事が心にのぼって来た。
「皆無《かいむ》じゃないけど、ほとんどない」
 通路側の席は、中年の紳士。週刊誌を読んでいる。
「飛行機の窓から、ほかの飛行機が飛んでいるのって、見ないわね。いっぱい飛んでいるんでしょうに。船なんか、よくすれちがって手なんか振るじゃない」
「このあいだ見たな。真下を飛んで行った。すごいスピードで、すぐに見えなくなる」
「本当?」
「同じ高さを飛んだりはしないよ。危いから。手を振るってわけにはいかない」
 握った手が合図を送って寄こす。�好きだよ�と、そう読み取ればいいのかしら。口と手と、べつべつな会話を交わしている。炬燵《こたつ》カンバセーション——そんなへんてこな言葉を発明したのは、竹井だったろう。はにかむような笑顔。白くて長い指。初めての恋人と呼んでもいい。炬燵というものは、外で真面目な話を交わしていても、中はちょっぴり淫らである。
 ——もう十五年もたつんだわ——
 死んでしまった人は、年を取らない。だから心に浮かぶ竹井は、いつも若々しい。傷つきやすい人。どの道、この世でたくましく生きて行くのに向かない人だった。その判断にまちがいはないのだが、響子がそう言いきってしまっては、竹井も浮かばれまい。竹井を思うときには、いつも心の中で苦《にが》い後悔を覚え、そっと手を合わせて来た。
 ——なにも死ななくてもよかったのに——
 何度もそう思った。
 とはいえ、その記憶も昨今はすっかり薄くなっている。時間はいっさいを風化させてしまう。昔の苦しみ、過去の恋……
 竹井の次が戸波。それから昭二。飛び石のように跳んで市橋へと続く。
 ——これが四番目——
 三十八歳で四つというのは、多いのか、少ないのか。
 けっして多くはあるまい。二十代はレッスンが忙しかった。ローマに留学して三年間のブランクがあった。三十代はプロの歌い手となるのに夢中だった。よそ見なんかしていられない。おしなべて恋をする時間は乏《とぼ》しかった。
 ——ろくな恋をしてないな——
 そんな実感がある。むしろ気がかりなのは数のことよりも中身のほう。とりわけ今ひっかかっているのがよくない。最悪と言ってもいい。
 ——どうして昭二みたいな男に深入りしてしまったのか——
 響子は自分でもよくわからない。魔がさしたとしか言いようがない。
 昭二は、よくこの手の話にあるような美男子なんかじゃない。むしろ凡庸《ぼんよう》な容姿、凡庸な体躯。社会的なステータスを言うには若過ぎるし、男として特にりっぱなところがあるわけでもない。それは初めからわかっていた。ただの一ファン。熱心さということなら、昭二よりもっと熱心なファンがいないでもない。
 おどおどとした様子、放っておいたら駄目になりそうな人柄。それでいながら、とてもしつこい。しぶとい。何時間でも待っている。ずいぶんみじめなことでもじっと耐えている。そして、
 ——君のために、こんなにつらい思いをしたんだから——
 と、その一点にすべてを賭《か》けて執拗《しつよう》に迫って来る。
 あれも一つの才能のうちだろう。
 響子はまんまとひっかかってしまった。しつこさに負け、一緒に暮らすようになり、これは大変な人だとわかった。嫉妬の深さは常軌を逸している。暴力をふるう。男のくせに涙をボロボロと流して泣く。信じられないほど悲痛な声をあげてすがりつく。
 ——逃げたら、ただじゃおかないぞ。お前を殺して、俺も死ぬ——
 くり返す言葉には、嘘とは思えない迫力がある。
 思いあまって市橋に話した。
 それが十日ほど前の夜のこと……。
 市橋は初めて会ったときから好ましい人だった。四十代のなかばを過ぎているのに、家族がない。会うたびにひたひたと寄せて来る好意を感じていた。
 ——もしかしたらこの人と——
 早い時期からそんな気配を覚えないでもなかった。
「わかった。なにかあるとは思っていたけど」
「本当は言いたくなかったのよ」
「聞いてよかった」
「がっかりしたでしょ」
「いや、しない。響ちゃんが好きだから」
「ありがと」
「いずれにせよ、長くつきあってていい男じゃない。それは確かだ。断固別れたほうがいい」
「ええ」
「未練はないんだね」
「未練なんか……あるはずないでしょ」
 市橋は響子の眼の底を覗いた。いつものやさしい眼差しとは少しちがっていた。三十代には商社の営業マンとして世界を歩きまわり、ずいぶんきびしい仕事もやったらしい。初めて見る鋭い眼の光だった。
「わかったよ。未練はないと思うよ。だけど哀れんでもいけない。心を決めた以上、きっぱりと別れなくちゃ」
「そのつもりよ」
 それからおもむろに尋ねた。
「僕を頼れる?」
「そう思わなかったら、こんな相談、しません」
「うん」
 市橋は軽く顎先で頷いてから、
「一日考えさせてほしい」
「何日でも待ちます」
「よっしゃ」
 翌日会ったとき、市橋は細長い小箱をポケットから取り出し、
「これをあげる」
 と言う。
「プレゼント?」
 ファンから物をもらうことには慣れているけれど、少し唐突の感じがなくもない。
「そうだ」
 市橋は自分で紐を解いて開いた。
 男物とも女物ともつかない腕時計。ボーイッシュの服装をしたときなら響子でも使えるだろう。
「どうして?」
「日付を見てくれ」
 七月二十一日。土曜日。二日前の日付だった。なにか訳がありそうだ。でも響子には市橋の意図がわからない。キョトンとした身ぶりで、
「なにかしら」
 と尋ね返した。
「タイムマシンだ。今日は一昨日なんだ」
「ええ?」
「昨日、君からとても大切な相談を受けた。実を言うと�しまった�と思った。話を聞く前に言っておきたいことがあったんだ」
「ああ、そう。なんでしょう」
 少しずつ謎が解けた。
「だから、今は、時間を戻して一昨日なんだ。二人は一昨日の状態にいるんだ」
「お芝居みたいね」
「そう、その通り」
「それで……」
「うん」
 市橋は間を置くような、これから言い出す言葉を考えるような、曖昧な表情で笑ってからゆっくりと呟いた。
「僕は響ちゃんが好きだ。今までは、ただのファンだったけど、もう少し深入りをしたい。君さえよければ、ずっと人生を共有したいと思っている。わかるね」
 涼しい風のように響く。遠からずそんな告白があるのではないか、そんな予測があった。市橋との親しさは、やはり特別のものだった。
「突然ですのね」
「言い出したのは突然だけど、ずっと前から考えていたことだ」
「すぐに答を言わなければ、いけないんですか?」
「いや、待つ。でも早いほうがうれしい。いい答のほうが断然うれしい。ぜひともそれが聞きたい」
「強引なのね」
 響子は笑った。答はほぼ決まっている。
「こういうことは強引でなくちゃあいけない」
「でも、私、仕事を続けたいし、すぐに身動きはできないわ」
「もちろん……僕は結婚のことを考えている。でも、すぐって言ってるわけじゃない。君が仕事を続けたいのはよくわかっているし……才能もよく知っている」
「才能なんか……」
「ある。普通の奥さんになるのはもったいない。だから形はどうでもいいんだ。君が好きだってことを言っておきたいんだ。文字通り人生を共有したいって……」
 笑いがこみあげて来た。うれしさも混っていただろう。
「これ、一昨日なんでしょ」
「そう」
「だとすると、私はここで考えこんじゃうわね」
「うん?」
「私、市橋さんが思っていらっしゃるほど上等な女じゃないわ。いろいろ過去もあるし……」
 一昨日の気分になって告げると、市橋も笑いながら合わせる。
「男は未来のあるほうがいい。だけど女は過去のあるほうがいい、そういう諺《ことわざ》もある」
「そんなかっこいいのとちがうの。どうしてもお話しておきたいことがあるの。ぜひとも相談にのっていただきたいの。今のお話は、今のお話としてうかがっておいて、それとはべつに……?」
「なんだろう、ゆっくり聞かせてくれ」
 市橋は口を尖《とが》らせ、時計の日付を移しながら、
「そして昨日になり、昨日の相談があって今日になる」
 また、もう一つ日付を変えた。
「遊びっぽいのね」
「深刻なのは柄にあわんから……しかし心は真剣だ。わかるね」
「ええ」
「だから今日はもう人生を共有しようという覚悟で来ているんだ。君の事情を充分に知ったうえで、一緒に戦うつもりで来たんだ」
 遊びのふりをして市橋がなにをしようとしたか、響子にはよくわかった。響子の弱味を聞いてから愛を告白したのでは代償を求めたようになる。まず先に告白をしておいて、それから悩みを聞きたい。そのほうが二人の愛を育てるのによい、と市橋は考えたのだろう。
「悪いみたい」
「悪くない。どうなるかわからないけど、けっして負い目に感じないこと。俺だって今日までいつも清く正しく生きて来たわけじゃないんだから。つらいだろうけれど、もう少しくわしく話してくれ」
「そうね」
 あの夜は酒を飲みながら長い叙事詩でも歌うように昭二との生活を市橋に語った。
 昭二の嫉妬はなみたいていではない。市橋と会って相談する時間も取りにくい。たまたま響子は博多で仕事があった。昭二は一応サラリーマンなのだから東京を離れてまでまとわりつくのはむつかしい。
「博多なら僕も行けるかもしれない」
「来てくださる?」
「なんとかなるだろう」
 市橋は出張の足を広島から響子の待つホテルまで伸ばした。それが昨日の夜半過ぎ。部屋の外には黒い川と街の一画が見えた。二人にとって初めての夜だった。
 
「もう沈んだのね、太陽」
 頬を小さな窓に寄せて背後の空を見た。西の空がわずかに明るさを残しているが、行手の雲はすでに薄闇の底に沈んでいる。
 ——ああ厭だ——
 急に嫌悪が心をよぎる。空港にはきっと昭二が来ているにちがいない。
 ——あと五日間——
 ベッドで肩を並べながら市橋の計画を聞いた。
「それまでなにも話さないほうがいい。一気に片をつける」
「大丈夫かしら」
「君一人じゃむつかしい。僕がついている。男は男に弱いものだ。言っちゃあわるいが、根は気の弱い人だろう。職業的なワルじゃない。憐れみをかけたら負けだよ。かわいそうだと思うのは一年か二年先でいい。ここは黙って僕に従うこと。厭なこともあるだろうけど、我慢してほしい」
「あなたは平気なの?」
「腕には少し覚えがある」
「そんなこと、怖い」
「いや、そこまではやらんさ」
 五日後の日曜日、昭二はいつものようにテレビの娯楽番組を見ているだろう。十二時を合図に響子が、
「話があるの」
 と言う。
「なんだよ」
 ただならない気配を察し、昭二はさぐるような眼で見るだろう。
「別れたいの」
 つとめて冷静に言おう。芝居の台詞《せりふ》のように。少し練習をしておこうかしら。
「なに言ってんだよ」
 昭二は拗《す》ねるような、脅すような表情を向けるにちがいない。何度も見た顔……。はっきりと眼に浮かぶ。
「好きな人ができたの」
「馬鹿!」
 灰皿くらい飛んでくるかもしれない。
 そのとき玄関のブザーが鳴る。響子がドアを開ける。市橋が立っている。
「こんにちは。失礼します」
「どうぞ」
 だれに遠慮することもない。響子自身が所有するマンションの一室だ。女主人が�よい�と言っているのだから同居人が拒《こば》めるわけがない。
「紹介するわ。私の好きな人」
 それからは万事市橋がやってくれる。一時にはワゴン車二台が荷物を取りに来る。ラグビー部の後輩たちが一緒に乗って来るそうだ。当座に必要な荷物だけを運び出す。惜しい品物もあるけれど、それはとりあえずあきらめるよう説得された。そのくらいの覚悟がなければ迫力がない。
「あなたの御都合もおありでしょうから今月いっぱいここに住んでいらしてくださって結構です。あとは他人の物になりますから」
 市橋が昭二に言うだろう。昭二はどんな顔で聞くか。たしかに昭二は、男同士では強いことの言える人ではない。
 少しかわいそうだが、思い切った手段を取らなければ、いつまでもらちがあかない。あとはこういう争いに慣れている強面《こわもて》の弁護士が引導を渡してくれるはず……。
「少しは手切れ金がいるのかなあ」
「そこまで落ちぶれてるかしら」
「わからん。今までだって食うのと寝るのとは、君の世話になってたんだろ。まともなサラリーマンとしちゃ情けない。少し渡しておいたほうがゆくゆくはいいんだがね。そのへんは成行き次第だ。こまかいことは知らんほうがいい。あなたもつらいだろう。僕も好きじゃない」
「ええ……」
 眼をつぶって市橋に委《ゆだ》ねることにした。
 うち合わせのあとはそのまま市橋の胸に頬を寄せて眠った。昭二の夢を見たのはなぜだったろう。その顔が明るく笑っていたのは響子自身の願望らしい。眼をさまして、もう一度市橋に抱かれた。余燼が体のふしぶしにくすぶっていた。あらたに掻《か》き立てられ、はっきりとした快感を覚えた。
 チェックアウト・タイムぎりぎりに部屋を出てスカイ・ラウンジで食事を取った。それから市内の美術館を見物し、昼さがりの大濠《おおほり》公園を歩いた。あまりにも暑い。野良犬も木陰に休んでいる。
 ——でも、こんな散歩もきっとよい思い出になるわ——
 汗を拭うたびにそう思った。
「このまま博多にいたい」
「もう少しの辛抱だよ」
「そうね」
 飛行機は定刻通りの出発だった。
 切れめのない音を響かせて薄暮の中を突き進む。もう三、四十分で羽田に到着するだろう。
「本当に近くなったなあ」
 市橋がそう呟いたのは福岡・東京間の旅程だろう。
「昔は大変だったわ。九州でお仕事があったりすると」
「寝台特急とかね」
「そう。一晩寝ても、まだ着かないの」
「その前はもっとひどかった。昭和二十年代……」
「だれかいい人と一緒なら長旅もいいんだけど」
「そんなのもあったんじゃないのか?」
 市橋は笑いながら尋ねる。男はこんな顔で女の気を引くのかもしれない。
 相変らずハンカチの下では指たちが遊んでいる。市橋は尋ねながら響子の指を強く握る。
「ないわ、私、本当のことを言って、ろくな恋愛をしていないの」
「そう? そうは見えないけど」
「本当よ。歌の仕事って、本物のプロになるの、簡単じゃないわ。うかうか遊んでいられない」
「そうらしいね」
「最初は二十の頃。奥手ね。大学生だったわ」
 竹井のことを少し話しておきたかった。通路側の乗客はイアフォンを耳に差したまま寝息をあげている。
「彼も大学生?」
「ええ。一つ年下で」
「年下好みなのかな」
「そうでもないと思うけど……」
 昭二のことを考えれば否定はしにくい。
「なんで、あの人、私なんかにあんなに夢中になったのかなあ」
「当然だろう。きっとチャーミングだった」
「若いときって、こっちもよくわかんないのよね」
「なにが?」
「男の人のこと。自分のことも」
「それは言えるかもしれないな」
「ふわふわした気分で、恋愛ごっこを始めちゃって……途中から�ちがうな�って思ったから�やめましょ�って言ったのね。ま、そんなに簡単じゃなかったけど」
「うん?」
「とくに邪慳《じやけん》に扱ったつもりはないんだけどねえー。私は音楽のほうへ心がすっかり傾いていたし、彼はもともと心の弱いところがあって……別れがよほど応えたのね。自殺したわ」
 むしろ乾いた声で言った。
「びっくりしただろう」
「びっくり……そう、驚いたわね、もちろん。でも、それ以外に、腹も少し立ったわ。無理矢理死体を一つ預けられたような気がして……」
「わかるよ。そう悪いことをしたわけじゃないのに、むこうに決定的な手段を取られちゃった……。永遠に申し開きができないんだから」
「そう。いろんな感情を味わわされたみたい。もう少し配慮があればよかったと思ったときもあったし�弱い男は仕方ない�って残酷な気持ちで振り返ったときもあったし……。しばらくは恋愛に対して臆病になったわね」
「なんで死んだの? 方法は」
「ガス自殺。まだガスが有毒だった頃だから。睡眠薬を飲んで、ガス栓を開いて」
「それだけの勇気があれば、生きて行けるのにな」
「本当に」
「凡人はなかなか死ねないものだよ。遺書は?」
「なんにもなかったみたい」
「本当に君が原因だったのかな」
「それもわからないわ。私の帰りを待ち伏せしていて�どうしても話を聞いてくれ�って……それが二ヵ月くらい前かしら。よりを戻したいって話だったから、断ったの。だって私、正直言ってもう厭になっていたんですもの。かえって傷口を大きくしただけみたい。だからもう一度�会いたい�って言って来たときは、はっきりとお断りしたわ。それが三週間くらい前かしら。ほかに彼、大学で志望のゼミに行けなくて……そんなことで死なないわね?」
「わからん。人によりけりだ。希望のゼミに行けなくて、自分の才能に失望することもあるかもしれないし」
「ええ……。やっぱり私がいけないんでしょうね。みんなの眼がそう言ってたわ。死ぬとは思わなかったものねえー」
「原因の一つは君かもしれないけど、でもこればかりは仕方がない。弱い人だったのかな」
「そうね。�アルルの女�の最後って知ってます?」
「知らん」
「�見てごらんなせえ、男が恋で死ぬものかどうか�それで終るのね。村人が、失恋で死んだ男の死体を指さしながら言うの。それがオペラの幕切れになるくらい、男の人って恋愛では死なないんじゃないですか」
「失恋だけじゃ死なないな。他に理由がきっとある」
「そうでしょう。そう思っていたんだけど」
 機内にアナウンスメントが響き、飛行機が少しずつ高度をさげ始めた。窓の外は鈍色《にびいろ》の闇と化し、低い底に少しずつ灯が輝く。
「それから八年たって、もう私もプロの歌い手になっていて……今度は本当に好きな人ができちゃって」
 戸波のことまで市橋にうち明けるべきかどうか、迷いがないわけではない。でも舌が自然に動いてしまう。心にわだかまっているものを少しでも外に出して市橋に甘えたかった。
「ほう?」
「今、考えると、そんなにすてきな人かどうか、かなりあやしいんですけどねえー。あの頃はそう思ったわ」
「好きになるって、そういうことだろ。どういう人?」
「普通のサラリーマンよ。妻子のある人で」
「そりゃ大変だ」
「ひっそり愛しあっているだけなら、長続きしたんでしょうけど、私、我慢ができなくなっちゃって」
「離婚してほしいって……?」
「うん、そこまではっきりした計算はなかったわね。ただ彼がそばにいてほしくて電話をかけたの、真夜中に、どうしても今夜会いたいって。ルール違反ね。翌日まで待てば、なんとかなったでしょうに」
 あの夜は本当に会いたかった。だから必死だった。
 戸波は熱意に押されて深夜、響子のマンションに訪ねて来た。
 寒い夜だった。
 冷えた体に抱きつき、そのままベッドへ誘った。業火《ごうか》にあぶられるような熱い情事だった。
 ——この火は地獄に続いている——
 抱擁のあいまにそう思った。戸波と抱きあったのは、あれが最後だったろう。
 あの夜のことを考えると、響子は……そう、奇妙なことに�風林火山�の旗印を思い出してしまう。火のような情事もさることながら�動かざること山のごとし�それをモットーにしていた武田軍が、あるとき動いてしまった。それが敗北に繋がって行く……たしかそんな映画を戸波と一緒に見た。
 あの夜、戸波は動いてはいけなかった。秘密の恋は、いつも林のように静かでなければなるまい。
「むこうの奥さんが気づいたわけだ」
「調べればわかることですもんね。彼の気持ちが急に硬化して、それを詰《なじ》ったものだから余計におかしくなっちゃって」
「男は意気地なしだからなあ、この問題に関しては」
「仕方ないんじゃないのかしら。ただ、ただ、あのときはひたすら悲しかったけど、今はわかるわ。奥さんが一度訪ねていらして、ずいぶんひどいことを言われて……」
「彼は?」
「電話で少し話しただけ」
「それっきり?」
「ええ、それっきり。去年かしら、偶然銀座で会ったけど」
「どうだった?」
「べつに。なんにも感じないのね。不思議なくらい。なつかしくもなければ、くやしくもないの。�少し年取ったかなあ、この人�てなもんよ」
「そんなもんかもしれん。今の彼と知りあったのは、そのあと?」
「ええ、もちろん。あ、そうか、銀座で会ったときのことね。うーんと、同じくらいかな。でも、これで全部。本当。ろくな恋愛をやってないの」
 掌にまた握力が加わる。市橋は指で�今度は大丈夫�と告げているのかもしれない。
 ——うまくいくかなあ——
 きっとうまくいくだろう。そう信じたい。市橋は苦労人だ。男らしく、やさしいところがある。でも大きな期待を持つまい。そのほうが、きっといい運にめぐりあえるだろう。運命の神様はえてして天邪鬼《あまのじやく》にできている。�ベルト着用�のサインに続いて�禁煙�のサインがともった。機内のあかりが消え、エンジンの音が変った。
「東京湾かしら」
 遠い光の群に包まれて、ところどころ船の灯を散らした闇が眼下に広がっている。
「そうだろ。どのコースから入るのかな」
 昭二は空港ロビイに来て、苛立ちながら待っているだろう。五日後に別れが来るのも知らないで……。
「うまくいくかしら」
 そう尋ねたのは、昭二と別れる手はずについてだった。だが、市橋は勘ちがいをしたらしい。
「着陸のとき、これがまた危いんだ」
 そう言われて響子も忘れていた恐怖を思い出す。
「そうみたい。怖いわ」
 響子の横顔を見ながら市橋は少し笑った。あながち勘ちがいをしたわけではないのかもしれない。噛んで含めるように言う。
「男女の別れってやつは、飛行機の離着陸とおんなじなんだ。不安はあるし、どの道多少のショックはあるけど、本当にすごいトラブルってのは滅多にありゃしない」
「ええ……」
 呟きながら言葉の意味を反芻《はんすう》した。とてもおもしろい言い方……。
 足もとで車輪を出す音が響く。窓の外のあかりがどんどん低くなり、水平になる。
 ——そうかしら。私はいつも失敗ばかりしていて——
 黒い海が切れ、空港の端が現われた。
「大丈夫だよ」
 市橋が耳もとで囁くのと、ガタン、ガタン、ギューッ、激しい震動が伝わるのとが同時だった。
 体が弾み、引っぱられ、シートベルトが息も止まるほど強く胴を締めつける。一瞬胴がちぎれたように感じた。機内に二つ、三つ、悲鳴があがった。飛行機は、いくつかの軋《きし》みと衝突音を混じえ、機体をブルブルと揺らしながら止まった。
 おわびのアナウンスメントが流れる。
 響子は、たったいま市橋から聞いた言葉を思い出して呟く。とてもショックの大きい着陸だったから……。
「前途多難みたい」
 男女の別れもそうなりそう……。
「とにかく無事だった」
 ふたたび明るくなった機内で二人は顔を見合わせ、少し笑った。

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