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時のカフェテラス12
日期:2018-03-31 13:59  点击:318
 虫歯のあと
 
 
 三日前から歯痛が続いている。
 耐えられないほどの痛さではないが、一刻も忘れられない。
 ——なんとかしなくちゃあ——
 雅子《まさこ》は鏡の前で下唇をめくり、指先で痛みのありかをさぐってみた。
 右下の小臼歯《しようきゆうし》。しかし、ほかにも褐色に汚れた部分がある。四、五本はわるい歯があるだろう。
 歯医者へ通ったのは十年以上も前のことだ。
「今、治しておけば、当分大丈夫ですよ」
 あのときは何日も通って丹念に治療してもらった。
 あれ以来、虫歯の痛みなどとんと忘れてしまっていたが、治療の耐用年数は過ぎてしまったらしい。
 ——どこかにいいお医者さんいないかしら——
 考えているときに浪江《なみえ》から電話がかかって来た。
「あのサ、高校のときのお友だちがご主人に死なれちゃって……。向井さんて言うの。生命保険の勧誘をやっているんだけど、あなたのとこ、どうかしら。前にそんな話、してたでしょ」
「そうねえ、保険てあんまり好きじゃないけど、一口くらい入っておかないと、やっぱり……」
「そうよ。今は貯金のかわりにもなるし、ね、一度ご主人のいらっしゃるときにでも彼女を行かせますから、話だけでも聞いてあげて。子ども一人かかえて大変らしいの」
「いいわよ」
「なんだか声に元気がないじゃない。どうしたの」
「べつにどうってこともないけど……歯が少し痛いの。いいお医者さん、知らないかしら、うちの近くで」
「あ、知ってる。渋谷ならいいでしょ」
 浪江は昔から顔が広い。こんなときには便利な人だ。
「ええ。あんまり高いのは困るわよ」
「一応保険はきくの。でも、大切なところはやっぱり保険外じゃないとね。おたがいにもう四十じゃない。このへんできちんと治しておけば一生ものでしょ。少しかかるのは仕方ないわよ」
「そりゃそうだけど」
 言葉尻を濁した。異論はない。
 人はよく目鼻立ちの美しさを言うけれど、歯の美しさも案外馬鹿にならない。とりわけ若さを感じさせるためには歯の役割は大きい。歯並びがよいと、笑顔がわるくない。おかげで明るい印象をふりまくことができる。
 雅子自身、歯並びには自信を持っている。ここで充分な手入れをしておきたかった。
「本当よ。歯って意外と大切よ。うちの伯父さんで急に老《ふ》けちゃった人がいるの。みんな禿とか白髪《しらが》とか気にするけど、五十代はもうそれじゃないわね。歯が台なしになっちゃって、口のまわりが急に老けちゃったの。これはもう完全におじいさんの顔よ」
「わかるわ。とにかく紹介して」
 浪江の長っ話を適当に聞いて電話を切った。浪江はすぐにでも渋谷の歯科医に連絡をとってくれたのだろう。
 二十分ほど待って電話を入れると、話は通じていた。
「今、痛みます?」
「はい、少し」
「じゃあ、今日の午後二時。よろしいですか」
「お願いします」
 時計を見ると十二時を過ぎている。洗濯物をベランダに干し、
�ちょっと出て来ます。五時くらいに帰ります。母�
 テーブルの上におやつを置いて家を出た。もう娘も五年生。鍵は持っているし、手はかからない。
 ——もう一人いたほうがよかったかしら——
 そう思うときもあるが、経済的にはずいぶん大変だったろう。計算をしたことはないけれど、子ども一人を生んで育てる費用は莫大なものだ。二ついいことはありえない。それに……雅子が年齢よりいつも若く見られるのも子どもが少ないせいだろう。
 まったくの話、女は子どもを一人生むと、確実に自分の体をそこなう。削《けず》り取られる。歯痛だって、もう二、三年早く来ていたかもしれない。
 原宿で電車を降り、室内プールの脇の公園を歩いた。渋谷で降りるより多分このほうが近いだろう。
「いいお天気」
 空気を、少し痛む口の中に吸いこんでみた。
 青空が広がり、いかにも秋らしい気配が漂っている。公孫樹《いちよう》の並木が黄ばみ始めていた。
 山手線の車両が視界の低い位置を走っている。それを見おろしながら雅子は足を止めた。
 ——痛いわ——
 歯医者に行くと決めたときから歯痛はむしろやわらいでいた。だから、ことさらに�痛い�と思ったのは、痛みのありかをわざわざ捜したからだろう。
 それに引きずられるように、遠い日の風景が脳裏に映った。
 記憶の中でも、やはり電車が走っている。
 赤い電車。だから地下鉄の丸ノ内線。四谷のあたりで地上に姿を見せる。それを見たのは上智大学の脇の、土手のような道のような繁みから……。
 ——アイリッシュ・コーヒーがおいしかったわ——
 紐をたぐるように古い記憶を引き出したが、もう二時も近いだろう。ぐずぐずしているときではない。
 雅子は首を一つ振ってから、急ぎ足でその場を離れた。
 
 帰り道も同じところを通った。太陽はすでに西に傾き始めている。風が少し冷たくなって、肌よりも心に染みこんで来る。
 山手線がまた走って来た。
 逆の方向からもう一つ走ってきて、すれちがう。
 ——痛いわ——
 炎症を抑える薬をつけてもらったらしいが、痛みはむしろさっきより強くなった。
 十年ほどのあいだに治療の方法は少し変ったようだ。すぐにはわるい歯の治療に取りかからない。レントゲン写真を撮《と》る。口の中をくまなく調べて方針を立てる。今日は歯の磨きかたを教えられたようなものだった。つま楊子に毛をはやしたような細いブラシをもらった。これを歯と歯のあいだのすきまに通して掃除をする。
「うちの患者さんの中には毎日二時間もかけて歯を磨くかたがいらっしゃいますよ。そうすると歯ぐきがしまって……とってもいい状態になるんですね」
 医者は噛んでふくめるように言う。
 それはそうかもしれないが、ひとことくらい反論がしたくなる。人は歯を磨くために生きているわけではない。二時間はおろか一時間だって無理だろう。
 一時的には丹念に磨く。だが、間もなく雑になる。何年かたって、また痛む。そして治療を受ける。それをくり返しているうちに寿命が尽きる。
 だが、口をあけたままの患者には、はかばかしい反駁はできない。
「はあ」
 と、間のびした声で返事をする。
 この前治療を受けたときも、しばらくは丁寧に磨いていた。
 あれは……結婚して一年と少し。季節は秋だったろう。でも、
 ——あのとき……歯が痛んでいたわけじゃないわ——
 人間の記憶なんてずいぶん曖昧なものだ。連想の糸も、どうしてこれとこれとが繋《つな》がるのかよくわからないときがある。そう言えば、昔、象の鼻を見て、初めての性体験を思い出した人の話を聞いたことがある。唐突の連想だが、本人の心の中ではなにかしら繋がるものがあったのだろう。
 それに比べれば、今、雅子の心の中にある連想はよほどたぐりやすい。
 電車が走っていた。
 緑と赤のちがいはあるが、眺めおろす角度といい、距離感といい、よく似ているだろう。季節も同じ頃。時間は……もっと早かった。
 歯の痛みは……そう、そのあたりの脳の働きがちょっとおもしろい。今は虫歯が少し痛い。あのときは痛くなかったろう。痛ければ、あんなことにはならなかった……。ただ歯痛そのものとはたしかに関係があった。
 健一と結婚をして、四谷に狭いながらもマンションを一つ買って、貯えなんか一銭もないときだった。夫の会社にほんの少し社内預金があるくらい……。
「急にお金が必要になったら、どうする?」
「なんとかなるさ」
「なんとかって、たとえば、どういうこと?」
「今から考えたってつまらん。わからないから、なんとかなんだ」
 健一の故郷は青森。雅子の実家は博多。どちらの両親も健在だが、お金のことで頼りにしてはいけない。頼っても、よい結果は出ないだろう。それはわかっていた。
「怖いわね」
「怖いって言えば、怖いけど……」
 しかし、若い夫婦がなんの貯えもなく生活をしていることなど、けっしてめずらしい状態ではあるまい。どこの新婚家庭も似たようなものだ。
 歯痛は新婚旅行のときからかすかにあった。アスピリンを携帯して行ったのを覚えている。
 虫歯はいったん治っても、後日かならず勢力を増して襲って来る。それから一年たって、どうにも我慢しきれなくなり、医者通いを始めた。
「きちんと治しておいたほうがいいんですがね」
「はい?」
「少し高いですけど、やりますか」
「どのくらいでしょうか」
「二十万円くらいでしょう」
「そのほうがいいんでしょうねえー」
 ためらいを隠すように尋ね返した。
「そうです。あとで治療をすると、そんなものじゃすみませんから」
 歯医者は実直そうな老人だった。
 ——この人なら信頼がおける——
 ひとつひとつ丁寧に治療してくれることからも人柄がうかがえた。それに……体に関することは、早い時期に、きちんと手当てをしておいたほうがいい。これは絶対に正しい。雅子が育った家でも、よくそれを言い聞かされて来た。
「お願いします」
 お金の目算も立たないまま言ってしまった。
 高いことは高いが、どうにもならないほどの金額ではない。健一に相談すれば、それこそなんとかなるだろう。なんとかしてくれるだろう。
 ところがあいにく健一と喧嘩をしてしまった。喧嘩の原因はなんだったか……。
 ああ、そうか。
 生理が不順になって、
「赤ちゃんできたかもしれないわよ」
 と言えば、
「ふーん」
 健一はテレビの野球を見たままふり返りもしない。
「歯の治療と一緒だと困るのよね」
「へえー」
「どうなの、感想は?」
 苛立つ気持ちを抑えて尋ねた。
「なんとかしろよ」
「なんとかって、なによ?」
「二年くらい子どもは持たないつもりだったろ」
「でも、できちゃったら、そうはいかないわ」
「堕《お》ろせばいいじゃないか」
 あきれて健一の横顔を見つめた。夫の知らない側面を初めて見たように思った。
 ——どうしてそんなに軽々しく言うことができるの——
 すわり直して、
「そんな簡単なことじゃないでしょ。女が、どんなにつらい思いをするか……」
「だいたいあんたがボヤボヤしているからだろ」
 すぐには言葉の意味がわからなかった。
「ボヤボヤって……?」
「こういうことは女が気をつけるもんだよ。男はわかんないんだから。危い時期か、安全な時期か」
「あなたは関係ないってわけ?」
「そうでもないけどサ。ルーズなとこがあるからだよ。お袋も言ってたぞ」
「それ、どういうこと」
 憤りがこみあげて来た。多少だらしないところがあっても、それとこれとは関係がない……。
 結婚して初めての大きな諍いだった。
 ——どうしてこんな男と一緒になってしまったのか——
 そのまま家を出てしまいたいほど情けなかった。
 あとになって考えてみれば、新婚の甘い季節が終り、ぼつぼつ現実の苦さを味わう時期にさしかかっていたのだろう。どんなに仲のいい夫婦だって喧嘩はする。
 言ってみれば、結婚後しばらくは、夫も妻もよそ行きの衣裳で暮らしているんだ。無意識のうちにも恰好をつけている。そんな感情のままで一生過ごして行くわけにはいかない。一年もたてば窮屈を実感するようになる。雅子たちも大小さまざまな不満が少しずつ鬱積して、いつか吹き出さなければいけない状態になっていたのだろう。
 雅子は頑固なほうだ。
 健一も譲らない。
 夫婦は二週間近くもぎくしゃくした気分で暮らしていたのではなかったか。
 ちょうどその最中に、歯科医の支払いを請求された。
 どうしても健一に相談する気にはなれない。雅子には気軽にお金を借りるような友人もいなかった。
 指輪を質屋へ持って行って十万円を借りた。これも初めての体験だった。門をくぐってから出るまで、なにかわるいことをしているような厭な気分でいっぱいだった。
 ——町の金融業者のところへ行ってみようかしら——
 何度か頭に浮かんだが、決心がつかない。高い金利を払わされ……ろくなことがなさそうだ。やめておこう。多少のお金ならば、家計からやりくりがつくだろう。
 ——でも、やっぱり少し足りないなあ——
 どこかにお金でも落ちていないものだろうか。
 ちょうどそんなときだった。
 歯医者は紀尾井町のマンションの二階にあった。窓は遊園地に向って開き、子どもたちの声が聞こえる。一番ひどい歯に金を入れてもらい、四本の虫歯も処置してもらった。
「あともう一回くらいでいいですよ」
「あのう……治療代は?」
「ええ。そのときで結構です」
 請求書には二十四万円と記してあった。
「はい……」
 とりあえずそう答えて外に出た。ホテルニューオータニの前を通り、ブッシュを割って土手にあがった。土手といっても川があるわけではない。広いグラウンドを挟《はさ》んで地下鉄が走っている。二、三百メートルほど土手の上の道が続き、ところどころにベンチがある。春には桜の花が咲く。公園と呼ぶほどのものではないけれど、ビルだらけの街の中では、ほんの少し自然の気配が感じられる。晴天の日にはたいていここを通った。展望もわるくない。グラウンドでは楕円形のボールを投げて……あれはアメリカン・フットボールの試合だったろう。
 雅子はあいているベンチに独り腰をおろして、ぼんやりと眼下の風景を眺めていた……。
 十数年たった今、奇妙なほど鮮明に、そのときの風景と自分の心を思い出す。
 もう歯の治療は、あらかた終っていたのだから、痛みはなかっただろう。だが、ベンチにすわって、
「困ったな」
 そう呟く悩みの原因には歯痛があった。しかも電車が走っている。昔と今が、まるで同じことをくり返しているみたいに近しいものに感じられる。連想があのときに繋がるのは、けっして理由のないことではあるまい。
 
「いい陽気になりましたね。暑くもないし、寒くもないし」
 とても響きのよい声だった。
 雅子には好きな声と嫌いな声とがあって、嫌いな声を出す人は、それだけで好きになれない。経験的にもそんな人と親しくなってあまりよいことはなかった。その反対に、好きな声の人には、ついつい気を許してしまう。動物のような勘が働くのだろうか、健一を好きになったのも最初は声だった。
 声の主は四十近い男。茶色の背広に茶色のネクタイ……たしかそうだった。
 赤い地下鉄が走る。
 楕円形のボールが高く飛ぶ。
「はい」
 相手の自然な調子に引きずられて雅子は答えた。
「あれ、アメリカン・フットボールでしょう」
「そうなんですか」
「ボールがまるくないから投げるのがなかなかむつかしいんですよね」
「はい」
 男はひどくなれなれしい。知った人かと思ったほどだった。
「ちょっとこつがありましてね、投げるときにボールに回転をつけるんですよ。横の方向に」
 男は手真似でボールを投げる仕ぐさを示す。
「やっていらしたんですか」
「ほんの少しね。ルール、ご存じですか」
「いいえ、ぜんぜん」
「四回攻撃できるんです。そのあいだに十ヤード進めば、また新しく四回攻撃できます。それをくり返してゴールまでボールを運ぶわけです」
 男は指をさしながら説明する。
「あ、あんなに蹴飛ばしちゃって……」
「蹴飛ばすのは、もう攻撃を放棄したときなんですね。今度は白いユニフォームのほうが攻めるんです」
「そうなんですかあ」
 十分も一緒にすわってボールの行方を追っていただろうか。
「お散歩ですか」
「ええ、ちょっと」
「コーヒーでも飲みましょうか。とてもいいお天気だし」
 本当にみごとな晴天。あれはここちよい秋日和の悪戯《いたずら》だったのかもしれない。
「ええ」
 と答えてしまった。よい天気とコーヒーとどんな関係があるのか。
 土手を降り、ホテルの庭園を抜けてコーヒー・ラウンジに入った。
「アイリッシュ・コーヒー、おいしいですよ」
「じゃあ、私もそれを……」
 細いグラスの中に、白と茶色とが二層に分かれて映っている。クリームは冷たく、コーヒーは舌先が火傷《やけど》するほど熱い。不思議な味わいだった。
「明後日、デュッセルドルフへ帰るんです」
「ご家族は?」
「いません。外国暮らしが多いものですから」
「大変ですわね」
「そうねえー。慣れてるつもりですけど、日本に帰って来ると、ほっとしますね」
「そうなんですか。東京なんかいつもせかせかしているみたいで、外国のほうがいいんじゃないんですかあ」
「そりゃ外国にもいいところありますよ。でも、なんて言うのかな。ソフトなんですね、日本は。景色も食べ物も。女の人が特にそうなんですよ。当りが柔らかくて�ああ、これだ、これだ�って、とてもなつかしく思いますね」
 男はけっしておしゃべりではなかったが、巧みな話し手だったろう。
 ——この人に好かれている——
 時間が経過するにつれ、それがわかった。親しさが湧《わ》いて来た。かすかに魔術にかかっているような、そんな気分だった。
 いや、それはちがうかもしれない。
 雅子の心を満たしていたのは、もっと下賤《げせん》な感覚ではなかったのか。
 ——この人になら抱かれてもいい——
 けっしてふしだらな女ではなかった。見ず知らずの男に抱かれたいなんて……そんなこと、それまでに思ったこともなかった。でも今は思う。世間には、ふしだらな女がいるのではなく、ふしだらになる瞬間があるのではないのかしら。
 ——きっといいことがある——
 そんな直感もあった。
 男の誘いも巧みだった。
 
 ——どうしてあんな気持ちになったのか——
 そのあといくら考えても納得のいかないことばかりだった。
 とても感じのいい男。明後日は外国へ帰ってしまう人。ほんのいっときの安らぎを求めている……。あとくされはなにもない。まるで短い夢かなにかのように、雅子の日常とは繋がらない時間が過ぎるだけだろう。こんな冒険があってもいいんじゃないのかしら。お金が手に入るかもしれない……。
 理由を求めてもほとんどなんの意味もないような気がした。どれもちがっている。いくらか当たっているけれど、そんなことがあの日の突飛な決断の理由とは思いにくい。
 最後にたどりついた結論は、
 ——みんな黙っているけど、女の人はこんな瞬間を時折体験しているのかもしれない——
 であった。
 雅子はそれまでに健一以外の男を知らなかった。だが、なにかしらわかるものはある。その男は健一より年かさだけあって情事の手くだにたけていた。
 ベッドで抱かれながら、
 ——少しちがう——
 と思った。でも、詰まるところは、
 ——みんな似たようなものなのね——
 そんな感覚を抱いたのも本当だった。愛撫がちがっても感じるのは雅子自身なのだから。
「ありがとう」
 男は体を離すときにそう呟いたように思う。声の抑揚に実感がこもっていた。
 ——この人にも、こうしなければいけない切実な事情があったんだわ——
 ぼんやりとそんなことを考えた。
 男が女を抱く。とくに理由なんかありゃしない。事情が許せば、男はたいていそうする。その程度のことは雅子も一通り心得ていた。だから、あのときの男の心根をことさらに美化して考えるつもりはないのだが、ほんの少しくらいは、ただの肉欲とはちがったものがあっただろう。故国への郷愁のようなもの……。本当のことはわからない。文字通り肌で感じただけの気配……。
「ご家族は本当にいらっしゃらないんですか」
「ない。あればホテルの部屋になんかいやしない」
「向こうにも?」
「ない」
「すてきな秘書嬢がいたりして」
「それもいないなあ。年中旅をしていて、時折港が恋しくなる」
「じゃあ、私は港なの?」
�港�という言葉に力点を置いて言う。
「厭ですか?」
「べつに」
 男と女の関係は、結婚制度の誕生などよりずっと古くからあっただろう。こんな出会いのほうが本来の姿に近いのではないか、と思った。
 シャワーを浴び、
「さよなら」
 そう告げてドアを押した。男も、
「さよなら」
 とだけしか言わなかった。
 たいていは「また会いたい」などと言うものだろうけれど……。
 そう言われたところで雅子のほうには、また会う気はなかった。男もまた会う機会などけっしてありえないことを知っていた。
 一度だけホテルの窓をふり返った。
 家に戻ってハンドバッグの中をのぞくと、ホテルの封筒……。中に現金が入っていた。忘れてはいたが、頭のどこかでそんなこともありうるだろうと考えていた。
 ——ここでは怒りを感じるべきなのかしら——
 まともな女なら怒って当然、と、そんな公式が世間にはあるらしい。雅子だって普段ならおおいに憤っただろう。
 奇妙なことに、時間がたってしまうと、男の存在感は稀薄だった。ホテルを出てからというもの、
 ——本当にあったことなのかしら——
 と考えたほどだった。
 ——秋の日の悪戯——
 この封筒もそんな悪戯の一つかもしれない。おとぎ話の中でひょっこりと宝物が庭のすみに置いてあるみたいに……。
 ——売春なのかしら——
 そうでないとは言いにくい。
 さすがにその思いは楽しめなかったが、その言葉の持つ卑しさもいつのまにか脱色されてしまった。
 今、思い返してみると、あの日はホテルを出て、もう一度同じ土手の道を歩いたはずだった。グラウンドでは同じフットボールのゲームが続いていた。やはり赤い電車が走っていた。日射しだけが西に傾いていた。
 ——秋——
 そう思った。
 もとよりあれはたった一回だけの出来事だった。封筒の中のお金は、歯医者の支払いにいくらか役立ってくれた。しかし……なにもかもみんな忘れてしまうほど、遠くて、薄い記憶である。まるで自分のことではないような……。
 
 日曜日の昼さがり、保険外交員の向井さんが訪ねて来た。直前に浪江から、
「よろしくね。人柄のいい人よ」
 と連絡があった。
 人柄もわるくなさそうだが、器量もわるくない。笑顔を絶やさず恥ずかしそうに説明する。まだ仕事には慣れていないらしい。健一は大ざっぱなほうだから根掘り葉掘り聞いたりはしない。
「老後の保障なんかあんまり期待していないんですよ。いざっていうとき、家族がなんとかやって行ければ、それでいいんだ。三十年先がどうなっているかわからないもん」
「みなさんそうおっしゃるんですのよ」
 契約がまとまり雑談に移る。
「ご主人おいくつでいらしたの」
「ちょうど四十でした」
「本当に? 大変ねえ」
「生命保険なんかほとんど入っていなかったものですから」
 と首をすくめて言う。そんな表情も若々しい。雅子自身も若く見られるほうだが、この人にはかなわない。
「お子さんいらっしゃるんでしょ」
「ええ。娘が一人」
「うちとおんなじね」
 一時間ほど話をして帰って行った。
「毎月、大変だけど、仕方ないか」
「ありがとうございました、って言うべきなのかしら」
「そりゃ、そうだよ。俺自身のためにはなんの役にも立たないのに毎月支払わなくちゃいかん」
「でも、いろんな保障があるんでしょ。入院したときとか」
「あることはあるらしいけど……目玉はやっぱり俺が死んだときだ」
「じゃあ、ありがとうございます」
「うん」
 健一はタバコをくわえ、ふと思い出したみたいに呟く。
「しかし、美人過ぎるな」
「好みなんでしょ」
「いや、そんなことじゃない」
「いいんじゃないの、ああいう仕事には、美人のほうが。男は鼻の下を長くするし」
「むしろまずい」
「どうして?」
「あれだけきれいだと誘惑が多いよ。それをさばくのが大変だ。年中狙われる」
「まさか」
「本当だよ。大口の契約を取るとなると、それがついてまわるな」
「体を餌にして契約を釣るわけ?」
「そう言っちゃ身も蓋《ふた》もないけど……そういうこともあるさ。魚心あれば水心だな」
「本当かしら」
「男と女の関係は複雑だよ。いろんなパターンがあるんだ。純愛から売春まで……。みんな知らんぷりしているけど、わりと身近に思いがけない関係が転ってるさ」
「くわしいのね」
「そのくらいはわかる」
 雅子は頬をさすった。まだ少し歯痛が残っている。

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