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霧のレクイエム05
日期:2018-03-31 14:06  点击:276
 不 在
 
 
 十二月五日、本堂はヨーロッパへ出発した。成田空港からの短い電話が、その知らせだった。
「行ってらっしゃい」
「うん、じゃあ。あなたも元気で」
「たまには電話をくださいね」
「わかった」
 電話が切れた。
 ——これでしばらく会えない——
 心の糸がプツンと切れてしまったような寂寥《せきりよう》感を覚えたが、ある意味ではなまじ本堂が国内にいて会えないのよりましかもしれない。今、必要なのは時間の経過である。本堂がいつか言っていたことを思い出した。
「時間のパネルを入れ替えるんだ。童話か芝居みたいにね。僕たちはまだめぐりあっていないんだ。これからめぐりあう。今のところはまだ知らない者同士なんだ」と……。
 たしかに時間の経過とともに事件の実感は稀薄になる。良心の痛みはあるが、もうそれは思うまい。自分とは関係のないことのように思えてくる。
 ——こんなことでいいのかしら——
 と心配になってしまう。
 ——私って、少し欠落してるところがあるのよね——
 本堂のことも、しばらくは本当に忘れてしまうのがいいのかもしれない。なにもかもすっかり忘却して、ある日、めぐりあい、
「どこかでお会いしましたねえ」
「あら、そうかしら。思い出せないわ」
「前世かもしれない」
「わかった。あのときの……初恋の人よ」
 そんなふうに言いあって、しあわせな二人になれないものだろうか。
 ——本堂さんはそれをやろうとしてるんだわ——
 おそらく本堂は自分の知能と意志力に相当の自信を持っている人だろう。うまく隠しているけれど�その気になれば俺はなんでもできる�くらいの自負は持っているだろう。その力強さが魅力である。いつのまにか洋子が魅かれてしまうのも、そのせいらしい。自分の脳味噌の力で、現実を別なものに変えてしまうことも、本堂にはできるのかもしれない。少なくとも本堂がそうやりたいと思っていることは疑いない。
「つまり……認識論の世界ね」
 洋子は鼻筋を指で撫でながら独りごちた。まるで、目の前に本堂がいて話しあっているみたいに……。
 たとえば蜜柑《みかん》がテーブルの上にのってる。そこにあると思うから、ある。ないと思えば、ない。大切なのは認識の問題だ。
 まあ、蜜柑はきっとテーブルの上に実在しているのだろうけれど、霊魂はどうか、神はどうか、愛はどうか……。あると思うか、ないと思うか、そこにそのものの存在がかかっているテーマはけっして少なくない。
 ——自分が生まれる前の世界。自分が死んだあとの世界——
 これは決して実感することができない。みんながただあると思っているだけである。自分が生まれたとたんにパッと全世界が誕生し、自分が死んだとたんに、パッと世界が消滅すると考えたとして、それがまちがいだとは言いきれない。
 洋子はそんなとりとめない会話を本堂と交わしている自分を想像した。そんな日が続いた。
 ある日、ふと横浜へ訪ねていってみることを思いたった。
 本堂と初めて抱きあった港町へ……。
 ——今年の冬は暖かいのかしら——
 十二月のなかばに入ってもコートのいらないような日が続く。井の頭線から東横線へと乗りついで桜木町で降りた。そして山下公園まで歩いた。
 街のところどころに本堂がいる。声が聞こえる。本堂の気配が洋子と肩を並べて歩いている。それを期待して港町まで来たのだが、想像以上にはっきりと感ずることができるのがおもしろい。ホテルの最上階まで昇ってコーヒーを二つ頼んだ。ウエイターは怪訝《けげん》に思ったかもしれない。
「お砂糖はなんばい?」
「僕はブラックでいいよ」
「そう。じゃあ、ミルクを私にちょうだい」
 そんな会話を心の中で交わして、甘いミルク・コーヒーと苦いブラック・コーヒーとを飲んだ。
 本堂と歩いたはずのない道にも本堂がいる。ここはもともと洋子の好きな町である。無意識のうちにも本堂と二人で歩くことを考えていたのかもしれない。
 フランス山に登るつもりで来て人形の家に入った。世界の人形がところせましとばかりに並べてある。吊《つる》してある。
 ——右田とかいう男、からくり人形のコレクターだったわ——
 洋子もカタカタと不思議な動きを示す人形に興味を覚えたことがあった。
 ほんの一、二年前、洋子は銀座のデパートで茶運び人形を見た。
 おかっぱ頭の人形が、茶わんを手にのせられると歩きだし、途中まで行くと戻って来る。中のからくりも設計図をつけて説明してあった。
 ——こんなの、ほしい——
 そう思ったが、べらぼうな値段にちがいあるまい。
 もっと昔……どこかの遊園地できまった時間になると高い塔の窓が開き、人形たちの楽隊が現れて音楽をかなで、ついで王子様と王女様がぎこちない仕ぐさで現れて踊りだす。それが見たくて、いつまでも帰ろうとしなかった。
 今でも有楽町のマリオン、新宿のハルクあたりで似たような仕かけを見るけれど、
 ——昔のほうがすてきだった——
 本当に一瞬のうちに夢の世界が動きだしたような興奮を覚えた。
 ——子どもだったから——
 それもあるだろうが、昔の細工のほうがぎくしゃくとしていて、そのためにかえって不思議な現実感を作りだしていたのではあるまいか。現代の技術をもってすれば、どんなに精巧なからくり人形でも作れるだろう。それだけにもはや精巧であることがおもしろさに通じない。ぜんまい仕かけみたいな中途半端な精巧さがかえってからくりの楽しさを見せてくれる。
 洋子は人形の家を出て岩崎博物館からさらにブリキのおもちゃ館へとまわった。岩崎博物館は服飾の歴史を展示している。ブリキのおもちゃ館は、その名の通りなつかしいブリキ玩具のコレクションを並べている。ここにもぜんまい仕かけの人形があった。
 帰路に渋谷で降り、車を飛ばして区立図書館へ寄った。獣医学の歴史について学生時代に読んだ本をもう一度見ておく必要があった。�獣医学の発達�……。あのときもこの図書館で見たはずだ。
 目的の本はすぐに見つかったが、ついでに、
「からくり人形のことを書いた、よい本ありません?」
 図書館員に尋ねてみた。
 頬骨の張った図書館員は偶然この方面に明るい人だったらしい。ほとんど迷うこともなく厚い目録を開け、
「これですね。ほとんどこれ一冊でしょう。範囲も広いし、説明も詳細だし……」
 と�からくり人形の歴史�を勧める。
 だがその本は目下貸出し中。見ることができない。
「区民のかたには館外貸出しをなさるんですか」
 洋子は図書館のカウンターで尋ねた。
「はい。区民のかたと、こちらに職場があるかたにも。もう返ってなくちゃいけないんですけど……お急ぎですか」
 図書館員は貸出しの記録らしいものを見ながら首を傾げる。
「いえ、結構です」
「また、来てみてください」
�獣医学の発達�だけを借りて閲覧室へ入った。本堂も時おりこの図書館を利用するようなことを言っていた。
 ——お腹がすいちゃったなあ——
 朝ごはんを食べただけである。閲覧室で必要なページを捜し、コピイをとって図書館を出た。
 青山通りにおいしいスパゲティの店がある。思っただけでお腹がグウとなる。一人で食べるのは冴《さ》えないけれど、
 ——あそこはカウンター席があるからいいわ——
 ボンゴレを注文した。貝がたくさん入っているので豪華な感じがする。
 ——また猫を飼おうかしら——
 いつかアミイを見つけたペット・ショップの前を通ってみたが、もうシャッターがおりている。
 夜に入り風も冷たくなった。ジングルベルのメロディが聞こえ、町はもうはっきりとクリスマスの色に染まり始めている。一年のたつのが本当に早い。こんなに早く日時がたってくれるものならば、本堂が帰って来るのも、そう先のことではあるまい。待ちどおしいけれど、過ぎてしまえば短い時間に思えるだろう。
 家に帰ると、上の六〇七号室から声が聞こえて来る。ドアが開いている……。
 管理人の声。もう一つの声は、話の内容から察して、周旋屋だろう。
「この十一月が過ぎたら、今、住んでる人が外国へ行ってしまうから、そのあと売ってくれって委任されておりましてね」
「聞いてます」
 六〇七号室の持ち主はアメリカにいるような話だった。留守を知人に預け、結局、売ることにしたらしい。
 ドアがしまり、男が二人、並んで階段を降りて来た。
「お売りになるのかしら」
 洋子が尋ねると、管理人が、
「ええ。あのこと黙っててくださいね」
 と小声で言う。死者が出た部屋というのは、あまりかんばしいものではあるまい。
 ——今度はどんな人が住むのかしら——
 六〇七号室について洋子はそれを思わずにはいられない。不安はあるが、今までのようにひどいことはないだろう。
「よかった」
 なにはともあれ、へんてこな男がいなくなり、不都合のない住生活が戻って来た。ここはやっぱり快適なマンションである。
 クリスマスから年末、そして新年、洋子はさして変りばえのしない日々をすごした。一人暮らしにはさびしい時期である。
 ——来年はどうなるかな——
 去年の正月は箱根へ行った。今年は東京にいて……おかげで二日間も日直を頼まれてしまった。洋子の勤める病院ではペット・ホテルをやってはいないけれど、年末年始は入院という形でペットを預けられる。飼い主にとって、体の弱いペットはそのほうが安心なのだろう。だから外来は一応休んでいても、だれかが勤務しなければいけない。
 ——かえって気晴しになっていいか——
 今年勤務しておけば、来年は休みやすい。一年後も同じ病院に勤めていれば、の話だが……。
 ——生活が大きく変るかもしれないわ——
 その期待はある。運勢は……たしかこの数年は上昇に向かっているはずだ。元旦《がんたん》のおみくじも大吉。占いのたぐいは信ずるほうである。とくによい占いは絶対に信ずる。
 松がとれてすぐに六〇七号室が売れた。新しい住人は中年の夫婦。子どもはいない。体が弱いのでないかと思うほどもの静かな人たちだ。ほとんど足音も聞こえない。
 あのまま鈴木とかいう男につきまとわれていたら……なにをされたかわからない——
 住生活をおびやかされるのは想像以上に不愉快なものだ。ピアノ殺人だってあることだし、当事者でないとちょっとわからない部分がある。鈴木勇はどの道出ていくはずだったが、それは洋子の知らないことだった。
 ——私も少し狂ってたのかなあ——
 去年のことは早く忘れるのが一番だろう。本堂がくり返していっていたように……。
「こんにちは」
 声が先に聞こえて、それからブザーが鳴った。
「はい」
「宮地でーす」
 便利屋の宮地である。洋子はドア・チェーンをはずした。
「しばらくじゃない」
「故郷に帰ってたんです。おみやげ。きらいですか」
 宮地が壜詰めの海胆《うに》をさし出す。
 あい変らず宮地は黒い帽子をかぶっている。この青年は大学を出たのに就職もせずに便利屋をやっている。洋子とは気のあうところがある。
「好きよ。青森の海胆ね」
「よかった」
「むこうじゃほやを食べるんでしょ」
「好きですか。今度持って来ます」
「ううん、いい、いい。せっかくだけど、あそこまで海くさいのは駄目。どう、ちょうどコーヒーをわかそうとしてたところだから。おあがりなさいよ。あなたに、なにか頼むことなかったかなあ」
「いいんですか」
「どうぞ。六〇七号室、新しい人が買ったみたいね」
「鈴木さんて、本当に事故だったんですか」
 宮地はリビングルームのソファに遠慮がちに半分だけ腰をおろした。
「そうなんでしょ。そんな話だから」
「でも、管理人さんのところへは、殺されたかもしれないって、警察から電話があったみたいですよ」
 洋子は、やかんにお湯をいれ、ガスの栓をひねりながら、うしろ姿のまま、
「そんなこと……聞いたわね」
「天罰ですよ。ひどいやつだったから。アミイのこと、あんなふうにしたんだし……」
「でも、もう外国へ行く予定だったんですってね」
「そうなんですか。あ、そう言えば、そんなこと聞いたな」
 三角の濾紙にコーヒーの粉を入れ、沸騰したお湯を注ぐ。コーヒーの香りが部屋いっぱいにひろがる。
「どう、今年の景気は?」
 ミルクと砂糖をテーブルの上に運んだ。
「どうかなあ。結構いそがしいけど……。いろんなこと頼まれるんですよね」
「そうみたいね。でもいつまでもこんなことしてていいことないわよ」
 宮地は洋子の忠告には答えず、
「尾行って意外とむつかしいものですね」
 スプーンをまわしながら言った。
「尾行って……人のあと追いかけること?」
「そうです」
 と、宮地がうなずく。
「便利屋さんて、そんなこともやるの?」
「頼まれれば、一応」
「ふーん。どんな尾行?」
 洋子は、コーヒー・カップの上まで垂れた髪をかきあげ、宮地の顔を見あげた。
「不倫の……」
「ああ、やっぱり」
「最近は多いらしいですね」
「そうみたい」
「僕の友だちがやってて……」
「不倫を?」
「ううん、そうじゃなく、調査の仕事を」
「ああ、そうか」
「あんまり近づきすぎては気づかれそうだし、離れすぎると見失ってしまうし」
「でも、そういうとこって、悪質なのもあるんでしょ。逆に依頼者をゆすったりして」
「僕の知ってるとこはちがいます。良心的っていうか、ビジネスとしてキチンとやってますよ。便利屋よりましかな」
「あなた、俳優さん志望ですもんね。変装なんかうまいんじゃない」
「でもそういうこと、あんまり関係ないみたいですよ。資料を分析したりして……。もう一人、新聞社の社会部に友だちがいて、そっちのほうから調べてもらったりもするんです。これから伸びる仕事じゃないのかな。アメリカなんかじゃ、ずいぶん盛んなんでしょ」
「依頼人の秘密はちゃんと守ってくれるわけね」
「もちろん。それが一番大切なことですから」
「社会部のかた、知ってるって言ったけど」
「はい?」
「ちょっと頼んでいただけるかしら」
 そう言ってから洋子は、
 ——大丈夫かしら——
 と迷った。だが、もう少し東北新幹線の事件について知りたい。
「なんでしょう」
「殺虫剤なんかに使う薬が使われているみたいだから……。うちの病院とは関係ないわよ。だから、絶対秘密にしておいてほしいの」
「はあ」
 宮地はポカンとした表情で洋子を見つめている。
「ちょっと興味があるものだから……。コーヒー、もう一ぱい、どう?」
「はい、いただきます」
「あのね、この間、東北新幹線であったでしょ、殺人事件が……。事件のその後を知りたいの」
「そんなの、ありましたね」
「研究所で使うような薬を使ってたじゃない」
「そうなんですか。だいたいのこと、新聞や雑誌に出てるんじゃないですか」
「でも、それ以外のことも少しあるんじゃない。とくに殺された人を恨んでいた人とか……。社会部の人なら知ってるんじゃないかしら。お代はちゃんと出しますから、ちょっと調べてもらえない? むつかしいの?」
「いえ、むつかしくはない」
「でも私のことは内緒よ。病院や獣医さんのこと、変に思われると困るから、それは大丈夫なの?」
「そんなこと、奴は聞きませんから」
「なんか口実がないと不自然ね」
「雑誌のデータに必要だって言います」
「なに、それ」
「いろんな雑誌があるでしょ。ノンフィクションみたいな読み物が。ああいうの、たいてい新聞社から材料が出てるんです」
「あなた、いろんなこと、知ってるのね」
「役者志望の連中って、みんな食えないから……。いろんなこと、やってんです」
 宮地は笑うと笑顔がかわいい。
「おもしろいのね」
「なにを聞くんですか」
「事件のあらまし、捜査がどうなってるか……。とくに殺された人の周辺、恨んでいた人がいたわけでしょ。私も推理小説、書こうかしら」
「メモ用紙と書くもの、貸してください」
「はい、どうぞ」
 電話の下から取って渡す。宮地はボールペンを走らせながら、
「テープでいいですか」
 と聞いた。
「いいわよ」
「お金が少しかかりますけど」
 宮地は申し訳なさそうな顔で言う。
「そりゃ、かまわないけど、おいくらくらい?」
「一万円くらい……かな。わかってることだけでいいんでしょ、奴が」
「ええ、まあ。それで充分よ」
「少し値切ってみます」
「値切らなくていいから、それより秘密厳守ね」
「仁科さんのほうも、秘密を守ってくださいね。奴としては、小遣いかせぎでやってることだから。わるいことじゃないけど、人に知られていいことじゃないでしょ」
「それは大丈夫。その人の名前も聞かないわ」
「じゃあ、頼んでみます」
「お願いするわ。ちょっと推理をしてみたいの。お代は?」
「いただいておこうかな。そのほうが手っとり早いから」
「いくら」
「一万円でいいです」
 財布の中にそのくらいの金額は入っているだろう。洋子はきれいなお札を選んで渡した。
「じゃあ、お預りします」
「あなたへのお礼もしなくちゃね」
「いいです。奴におごらせますから」
「いつもそうなの」
「そうでもないけど……」
「じゃあ、あなたへのお礼はまたあとで考えるわね」
「いえ、本当にいいです。どうもご馳走さまでした」
 宮地はお辞儀をして帽子をかぶる。
「どういたしまして。またね」
 送り出したあとで、
 ——大丈夫かしら——
 また不安がこみあげて来る。事件に過度の興味を持つのは、危険なことである。だが、知りたいことは知りたい。
 ——宮地さんなら大丈夫ね——
 短いつきあいだが、律儀で、義理がたい。約束したことはきちんと守ってくれるだろう。
 事件の記録は新聞や雑誌から切り取って茶封筒に入れてある。それを取り出してながめていると、
「馬鹿だな。早く忘れたほうがいいのに」
 頭の中で声が響く。本堂がそばにいたらきっとそう言うだろう。
 ——元気でいるのかしら——
 本堂からは今年に入ってまだ一度も連絡がない。少し腹立たしい。
 ——電話くらいもっとかけてよこせばいいのに——
 成田空港からの電話では、本堂はフランスからスペインへまわるような話だった。そのあとローマとフィレンツェから短い電話があっただけ……。洋子はヨーロッパへ行ったことがない。
 ——時差は……八時間くらい遅れているのよね——
 ヨーロッパから「日本へは電話がかけにくい」と聞いたことがある。むこうが起きているときは、こっちが寝ているし、こっちが家にいるときは、むこうが仕事中だったりする。あるいは、その逆。
 今は午前十一時八分。ヨーロッパは夜中の三時八分。本堂は眠っているだろう。
 それに、本堂は取材の旅に出ているのだろうから、ホテルは、日本へ直通電話のかけられるところばかりではあるまい。国際電話の交換台を通すとなると�本堂和也から仁科洋子へ�の通話記録がなにかの形で残るだろう。本堂はそんな危険なことはやらない。
 ——私のほうもいつも家にいるわけじゃないし——
 留守中にベルが鳴ったかもしれない。
 ——でも、私が言いわけを考えてあげること、ないんだけどなあ——
 気がつくと、なぜ本堂から電話が来ないか、本堂のために洋子は一生懸命弁護している……。
 苛立っていても仕方がない。
 買い物のついでに本屋へ行って旅行関係の雑誌を捜し、目次をながめた。どこかに本堂の書いた記事が載っているかもしれない。でも、本堂は、
「ほとんど匿名だし、ガイドブックを作っていることが多いんだ」
 と、言っていた。
 名前が見つからないのは、そのせいだろう。
 ——どんなガイドブックを作っているのかしら——
 いくつかの出版社がシリーズでガイドブックを発行している。国内の観光地を訪ねるシリーズもあれば、海外旅行のためのシリーズもある。これだけ多くの本があるのだから、当然それを書く人がたくさんいなければいけない。
 ——改訂もしなくちゃいけないし——
 旅先の様子は年々少しずつ変っているだろう。新しい道路ができたり、新しいホテルが建ったり……かと思えば、時刻表が変ったり、入国ビザが必要になったり、三年に一回くらいは新しい版にあらためなければなるまい。
 十冊ほど調べてみたが、本堂の名は見当たらない。筆者のはっきりしない本もいくつかある。
 日がたつにつれ、洋子はあきらめることに少しずつ慣れた。
 本堂の居場所がわからないのだから連絡の取りようがない。まったくの話、本堂が言っていたように「僕たちはまだめぐりあっていないんだ。これからめぐりあう。今のところはまだ知らない者同士なんだ」と、これはまさしくそんな状態らしい。と言うより、そうとでも思わなければ洋子はやりきれない。
 それでもひまがあると、本堂と一緒に行ったところを訪ね歩いた。横浜へは三度も行った。赤坂のホテルもなつかしい。
 ——�死刑台のエレベーター�を見たんだわ——
 部屋にビデオ装置つきのテレビが用意してあった。本堂はなにげなく�死刑台のエレベーター�を映したけれど、
 ——あれは私に見せるため——
 きっとそうだったろう。
 愛しあっている二人が殺人を企てる。ジャンヌ・モローとモーリス・ロネ。二人の愛は真剣だった。愛を貫くためには邪魔物を殺さなければいけない……。
 ——また軽井沢へ行ってみるかなあ——
 本堂の思い出を訪ねるとなれば軽井沢をはずすわけにはいかない。その計画は、本堂が旅立ってこのかた、ずっと心の中にあったけれど、
 ——まだ寒いわ——
 と、渋ってしまう。冬の軽井沢は足場がわるい。通行不能の道もある。春を待つほうが得策だろう。
 二月に入ると、犬猫病院の同僚が一人、結婚して新婚旅行に出かけた。洋子の出勤の数が増える。重症が多く、治療の結果もはかばかしくない。動物たちはみんな静かに死を迎える。じっとうずくまって待ち続けている。
 おかしいことが一つあった。あわて者のおばあさんが、犬猫病院をてっきり人間の病院だと思いこんで飛びこんで来た。耳が聞こえないので説明するのが一苦労。
「ここは駄目なんですよ。人間の病院じゃないんだから」
「ああ、やっぱり。保険はきかないんですか」
 一人がプッと吹きだすと、もうみんな我慢ができない。
 こんなこと、洋子は初めてだが、最近の犬猫病院ではけっしてめずらしいことではない。レントゲン科や精神科まであるのだから……。玄関の看板に書いてある。
 この季節の東京は寒い日もあるが、すぐに暖かさを回復する。揺り戻しを続けながら春が近づいて来る。
 二月の末になって、ようやく本堂から久しぶりの電話がかかって来た。
 恨み事は言うまい。洋子はそんな気分に変っていた。
「今はどこから?」
「パリだ。寒くてねえ」
「東京は大分暖かくなって来たわよ。お変りもなく?」
「うん、元気だ。ずっと田舎のほうへ行っててね。スペインの田舎。いいところだね。何度訪ねてもいい。べつに変ったこと、ないね、そっちは?」
「あんまり連絡がないと、私、警察につかまっているかもしれないわよ」
「なにかあったのか」
「ううん、なにもないけど。無事よ。一週間に一回くらい連絡があっても、いいんじゃないかしら。本当になにが起きるかわからないわよ」
「そうしようとは思ってはいるんだ。ただ、時間帯がねえー。こっちは今、昼だからね。昼間はたいていどこか田舎のほうを走っている。たまたま今日はパリにいるから……」
「どこのホテルですか」
「ダルマ橋に近いとこ。もうチェック・アウトする。これから列車でアムスヘ……」
「仕事はかどってますか」
「強行軍だけどねえー」
「いつ帰るの?」
「滞在は延びるだろうなあ。すまないけど、ここ一番、大切な仕事なんだ。帰って本を書く。どうか待ってて」
 本堂はきっと電話口で眉を寄せ、苦しそうな表情を作っているだろう。演技っぽいところもあるけれど、許してあげたくなるような、うまい表情だ。
「我慢するわ」
「ありがとう。なにしろ僕たちは、まだめぐりあってないんだから。僕は考えているんだ。めぐりあうのは、十一月十七日、あなたの誕生日。午後三時。軽井沢の二手橋の近くの散歩コース。いつか会ったところ」
 本堂は一気に言う。
「そんなに先なの」
「そのくらい時間を置いたほうがいい。冗談じゃなく、そこで本当に知りあったみたいにするんだ。なにもかも。今までのことは、すっかり忘れて」
「それまで帰らないんですか、日本へは」
「短期間なら帰るかもしれない。でも中途半端な会いかたをするより、そのほうが絶対にいい」
 本堂がこんな言い方をするときは譲らない。口調はやわらかいが意志は堅い。
「日本に帰ったときくらい会いたいわね。連絡だけはしてちょうだい」
 洋子としては、やんわりと頼むのが精いっぱいである。
 ——このところ、私ったら同じことばかり言っている——
 少しめめしい。プライドに傷がつく。それに……男と女のあいだにはいつも微妙な力学が作用している。一方が追いかければ一方が逃げ腰になる。しつこく迫らないほうがいい。
「うん、そうだな」
 本堂は煮えきらない。
 そのとき玄関のブザーが鳴ったが、洋子は無視して電話を続けた。届け物が届いたのかもしれない。
「このあいだ横浜へ行ったわ」
 話題を変えて近況を話した。
「パリはようやく政情が安定してきてね」
 と、本堂も毎日の生活ぶりを語る。
「新しいボーイ・フレンドでも作って、気長に待ってようかしら。ねっ?」
「ああ、それがいい。じゃあ、十一月十七日、軽井沢で」
 本堂はスケジュールをすっかり決めているらしい。
「そうねえ!」
 洋子のほうが曖昧に答えて、イエスともノウとも言わない。
 こういう会話もある。話しながら、おたがいに自分の主張をけっして変えない。途中に天気の話や病気の話など、あたりさわりのないテーマが混って、一見和気あいあいとしているが、その実|肝腎《かんじん》な会話は少しも噛《か》みあっていない。だからなんの進展もない。洋子はこんな話しあいが、あまり好きではないし、得意でもない。本堂のしたたかさをかいま見たように思った。
 ——馬鹿らしい——
 ささいなことに一喜一憂していても始まらない。十一月と言えば、あと九ヵ月ほど先のこと。そのときに本当によい状態で会えるものなら、いま我慢をすることも必要だろう。
 電話のあとで郵便受けをのぞくと、茶封筒が落ちている。
�お留守なので置いてきます。あとでテープを返してください。宮地�と、茶封筒の表側に書いてある。
 宮地の友人が新聞社の社会部にいる。東北新幹線の事件について捜査がどこまで進んでいるか、その人に尋ねてもらった。宮地はすぐに動いてくれたらしい。
 洋子はカセット・テープをデッキに入れた。
 スウィッチを押す。ガタガタ、コトン……。テーブルの上になにか置くような響きがあって、
「いい? じゃあ」
 くぐもった声が聞こえた。記者はメモを見ながら話しているらしい。
 A面からB面へ移って合計四十分くらい……。洋子は一通り聞いたあとで、今度はメモをとりながら耳を傾けた。
 捜査本部が作られたが、捜査はさほど進展していないらしい。現場には犯人の痕跡《こんせき》がほとんど残されていない。犯行が水ぎわだっているので「プロの仕わざではあるまいか」などと、そんな観測も出ている。「犯人は女装した男ではないか」という意見もある。
 現場の捜査にめぼしい手がかりがないので、目下のところ(1)使用された薬品のルート、(2)那須塩原のニュー・スター・ホテルの関係者、(3)右田輝男に恨みを持つ者、この三つにポイントをおいて捜査が進められている。
 (1)の薬品は有機リンの化合物で、製薬会社で殺虫剤、殺鼠剤の研究などに用いられるもの。ごく標準的な薬物なのでメーカーの特定はできない。この薬物は最近あまり使われていないが、管理のルーズなところはないか、関係者が持ち出していないか、関東一円の製薬会社、病院、大学の研究機関を対象にして調査中。しかし、みすみす自分の職場の手落ちを訴える者は少ないから、今のところこの筋ではあまりはかばかしい進展は見られない。
 (2)はグリーン車のキップ購入なども含めて捜査しているが、ニュー・スター・ホテルはただ便宜的に利用されただけではないか。事件の前日、十一月二十日の午後、東京の旗屋光二という男から宿泊の予約が電話で入ったが、当人は現れなかったし、その男の告げた自宅の電話番号も根拠のないものだった。この予約は、死んだ右田からホテルに照会があったときにフロント係が「はい、宿泊の予約をうけたまわっております」と答えることを予測し、右田に疑いを抱かせないための工作だったろう。グリーン車のキップは、三日前、つまり十一月十八日の午前十時五分に東京駅八重洲側のみどりの窓口で七号車の6C、6Dと二枚一緒に買われたもの。しかし、買いに来たのが男であったか女であったかさえもつかめていない。この筋からの捜査もあまり多くの期待を持てない。
 (3)については、仕事がらみ、女性がらみ、いくつかの筋があって、今、捜査が一番力を入れているところ。
「政治家がらみのやつは、あんまりはっきり言えないんだ。そこは承知しておいてくださいね」
 そこでテープがB面に変った。
「容疑が固まらないうちは警察はなんにも言わないしね。それ自体がべつな犯罪ってケースもあるわけだろ。うちの社会部で調査してることもあるけど、これはなおのこと言えない」
 テープの声は少し笑っている。
「一つは、自民党議員の脱税関係。今一番刺激的な話題だから、ゆすりがいもある。それだけに、やりすぎると殺される可能性もあるわけだな。政治生命にかかわるもん。右田はなにかつかんでいたらしい。議員の名前もはっきりわからない。わかれば調査もできるけどな。脱税だって、おそらく一年か二年か三年くらい前のことだろうし、もうそのぶんは支払って一件落着しているだろうから、法に触れるわけじゃない。証拠となるものは手をうってガッチリ隠してあるさ。まあ、右田がなにを握っていたか……。警察はある程度までつかんでると思うけど、脱税は犯罪じゃないし、政治家がらみはとくに口が堅い。こっちもうっかりしたことは言えない」
 新聞記者としては推測はできても、しゃべるわけにはいかないのだろう。
「もう一つは、千葉の県会議員の汚職。空港付近の用地買収にからんだもの。野党のほうだが、あんまり評判のいい議員じゃない。示談屋みたいな男だ。これは別件で警察が調べている。今のところは県会議員のレベルだけど、親分がいるだろうからな。案外、根は深いのかもしれない。この件については右田は、かなりいい�証拠�を持っていたらしい。荒っぽい連中の多いところだから、深入りしすぎたかもしれない。これも、今のところは、話せないな。話せないことばっかりで申し訳ないけど、練馬区の鹿崎総合病院、これは手術のミスがあったらしい。取材した記者の話じゃ�ニュースにするのもむつかしい�ってことだから、どのくらいのミスだったのか。そんなことで殺されたんじゃあわないけど、病院なら薬品とつながりがあるから一応は疑っているわけ。ほかにもなにかあるかもしれないけど、今のところ、右田の仕事関係じゃ、この三つがポイントになってます。それから次は女性関係ですがね……」
 と、少しあらたまった調子で言う。
「こっちは女性の感情がからんでるからね。そんなことじゃ殺さないだろうと思っても、当の女性が�憎い。殺してやりたい�って、そう考えたら、どうにもならんわけでしょう。だから、いろいろ疑わなくちゃいけない」
 テープから漏れる声が、また少し笑っている。
 右田輝男の女性関係については、洋子がこれまでに読んだ週刊誌とそうちがっていない。ただ、テープの声は名前や住所まではっきりと告げている。相手が政治家や有力者のときは慎重だが、庶民のプライバシーはさほど大切に守られない……。
 クラブ・モレイのママ。佐賀栄子。四十六歳。店の住所は新宿区歌舞伎町一。自宅は新宿区百人町二。右田の古い愛人で、右田のくさい部分にもかなり深く通じている。まあ、仲間うちと呼んでいいような関係だから疑惑は薄いけど、一応はマークしておく必要がある。モレイの経営はとくにわるくはない。十九歳の娘がいる。その父親とは離婚。この女には事件のときのアリバイがある。午前十一時過ぎに近所の美容院に行っている。証言者多数。「右田さんが死んで私になんの得があるのよ。ひどい男だけど、もう忘れたわ」という本人の弁は、その通り信用してよさそう。
 目黒のバー�加世�のママ。中田カヨ。三十四歳。五年前に右田の資金で店を出している。店は目黒区目黒一。自宅は下目黒三、KWマンション三〇七。彼女はもと店のバーテンダーだった上塚修、三十二歳と一緒になりたいが、右田が許さない。邪魔をしている。昔はともかく、最近の右田はそれほど中田カヨに執着があるわけじゃないのに、女が自分以外の男と親しくなったのがおもしろくない。世話になりながら、かげでコソコソやったのが気に入らない。
「右田さんにはもう充分尽したんだからいいと思うんだけどねえ」という第三者の証言もある。中田カヨもそんな気持ちだったらしいが、右田はいろんないやがらせをやっていた。金銭面でもはっきりしないところがたくさんあって「あれは返したわ」「いや、あんなもんじゃ足らんよ」よく言い争っていた。この女のアリバイは不確か。「午前中は寝てるにきまってるでしょ」と当人は言っている。
 つい先月まで渋谷のスーパー・エブリシングに勤めていた木崎早苗二十二歳は、右田の愛人だな。今は品川区東五反田三の桜マンション五〇三に住んでいて無職。いずれ右田がどこかのクラブにでも勤めさせるつもりだったらしい。若い女のことだから、右田の思惑通りになったかどうか。木崎早苗が裸足《はだし》で部屋を飛び出し、右田が追いかけて行って、引きずるようにして連れ戻った、それを近所の人が見ている。そのあと泣き声が聞こえていた。「私の将来のこととか、お金のこととか意見のあわないことが少しあったんです」と本人は言っている。この女はほかにも家具屋の主人のパトロンがいて、若いわりにはしたたかだな。アリバイ……十時に近所の薬局へ行っている。
 相田和美、二十九歳。中野区野方一、アビタシオン相田の持ち主で、父親と二人で暮らしている。彼女は創作折り紙の研究家。カルチャー・センターなどで教えている。未婚。同じマンションに妹の芳美がいて、こちらは二年前に結婚。夫は大蔵省のエリートで、単身ロンドンに赴任している。美人姉妹のほまれが高かった。和美がなぜ独身でいるのか、謎《なぞ》の一つ。右田との接点はほとんど考えられないんだが、警察は相田和美が右田にゆすられていたのではないか、そう見ているふしがある。もちろん右田が死んだ今、本人は「右田さん? 知りません」と否定しているが……。この姉妹のアリバイもほとんど完全。姉は午前中ずっと中野の文化センターで折り紙の指導をしていたし、妹は家にいてクリーニング屋の店員や郵便配達員がたしかに顔を見て話をかわしている。
「ざっと以上ですが、もう一つ、右田輝男をおびきだすにふさわしいからくり人形はなんなのか、つまり、あまり確かとは思えない情報に飛びついた右田が那須塩原まで行く気になったのは、犯人たちがよほどの逸品をほのめかしたから……。犯人はその方面の知識に明るい人なのではないか、ここに来てあらたにそんな捜査も進められています。不充分ですが、今、話せるのはこんなところです。なにかに発表するのでしたら、一応原稿を見せてください。お願いします」
 ガタ、ガタン……。そこでテープは終っていた。
 洋子はフーッとため息をつく。
 ——運がよかった——
 とりあえずそう思う。プロの仕わざではないかと疑われるほどうまくやったなんて……偶然うまくいったとしか考えられない。もう一度やったら、きっとどえらい失敗を犯すのではないかしら。
 ——おかしいわ——
 犯人が男かもしれないと、そんな疑いもあるらしい。
 あのとき洋子はマスクをかけていた。身長は百六十一センチ。まあ、小さな男くらい……。でも肩幅は狭いし、どこから見ても女の体形である。
 とはいえ警察がまちがってくれるぶんにはなんの不都合もない。
 ——薬を手に入れたのは五年も前——
 だれも知らないはず……。あのころ一時的に厭世《えんせい》的な気分に襲われて、いつか自分が死ぬことを、ほんのちょっぴり考えていた。その日のために……多分、そんな意図だったろう。薬のルートから発見されるはずはない。
 ——やっぱりクイボノね——
 本堂から教えられた言葉を思い出す。クイボノは、だれの利益か、という意味。右田が死んでだれが得をするのか、この疑問の先に犯人がいる。
 もう本堂和也の名前は、警察のリストにあがっているのではあるまいか。本堂には強固なアリバイがある。本堂のことだから、そのあたりに抜かりのあろうはずがない。
 ——でも——
 洋子は小さく叫んだかもしれない。
 本堂のアリバイがいくら強固でもほとんど何の意味もない。殺人の実行者は女なのだから。
 警察が本堂に狙いをつけているとすれば、本堂の周囲に親しい女がいないか、それを捜すにちがいない。洋子の存在が浮かび、その女が獣医で、薬理にも通じていて、しかも当日のアリバイがはっきりしないとなると……、
 ——危いわ——
 本堂が洋子に連絡することを極度に警戒しているのは当然のことだ。
 本堂はしきりに言っていた。
「僕たちはまだめぐりあっていないんだ。これからめぐりあう。今のところはまだ知らない者同士なんだ」
 今年の十一月十七日に二人は、はじめて軽井沢で知りあう……。
 そういうドラマを完全に作りあげなければいけない。
 ——それよりも宮地さんが、いらないことをしゃべったりしなかったかしら——
 背筋が冷たくなる。
 宮地が新聞記者に調査を頼むとき、
「知りあいに獣医の女性がいてね。その人が事件に興味を持っているんだ」
 などと言っていたら……。
 その危険は考えたはずだが、つい捜査の進展が知りたくて宮地に頼んでしまった。
 ——今からでも遅くない——
 宮地の電話番号をまわした。
 呼び出し音が鳴っている。
 ——でも、どう口どめしたらいいの。へんなこと言ったら、かえって怪しまれる——
 よく考えてから宮地と話したほうがいい。
 そう思って電話を切ろうとしたとき、
「はい、もし、もし」
 荒い息使いと一緒に宮地の声が聞こえた。
「はい。テープ、ありがとう。今、聞いたわ」
 洋子は、次に言う言葉を捜しながら、とりあえず礼を言った。
「あんなんでいいですか」
「うん。大丈夫。もう、いいんだけど……。忘れてたくらい。でも、おもしろかった。宮地さんて結構すごいのね」
「そんなことないです」
「大学のお友だちなの? 記者のかた」
「はあ」
「声がずっと老けてるから」
「昔からボソボソ話す奴なんです」
「なんと言ってテープに吹き込んでもらったの」
「実話雑誌の記事を書くからって。テレビ・ドラマのシナリオにもなりそうだしって」
「あなたが書くって言ったの?」
「はあ。まずかったですか」
「ううん。それが一番いいの。納得してくれた?」
 洋子はからかうような軽い調子で尋ねた。
「はい。そういうこと、こだわらない奴だから。これで飲めるって喜んでました」
 一万円はわるくない臨時収入だろう。
「こういうことって、いけないのかしら、記者のモラルとして」
 取材で入手したことをほかに漏らすのは許されることなのだろうか。
「そのくらいなら、いいんじゃないのかなあ。とくに秘密ってほどのものじゃないし。アルバイトみたいなもんだから」
「そうでしょうね」
「でも黙っててくださいね。迷惑かけると困るから」
「私は大丈夫よ。なかったことにしましょ。テープ、取りに来て、ついでのときに」
「高かったですか、一万円」
「ううん、それはいいの。ご苦労さま。それよりバスルームの壁紙が少しはげかけてんだけど、今のうちに貼《は》っておいたほうがいいかしら」
 自分でもできることだが、宮地に頼んでおこう。
「明日の午後、どうですか。見に行きます」
「いいわよ。じゃあ、そうして」
 受話器を戻し、
 ——うまくいった——
 と、洋子は胸を撫でおろす。テープの件はこれで心配なさそうだ。
 ——返す前にもう一度テープをよく聞いておこう——
 洋子は赤鉛筆で、あらたに細かい情報まで書き加えた。重要なところには傍線を引いた。
 スウィッチを切って、ゆっくり読み返す。
 ——なにかに似ている——
 そう、たとえば、役者が舞台のそでから舞台をながめている風景……。洋子は舞台に立ったことなど一度もないけれど、今の情況はそんな感じではあるまいか。
 いま舞台の上で演じられているのは、東北新幹線で起きた事件である。洋子はそれを観客として見ている。だが、舞台の裏も一部分だけ見える。そして洋子は出演者でもあった……。とはいえ演出家ではない。からくりがすっかり見えるわけではない。今はむしろただの観客に近い。
 テープを聞いて記したメモには、不用なことも相当に含まれている。たとえば�犯人は女装した男かもしれない�などという疑問は、洋子が吟味する必要はない。
 気がかりなのは、右田輝男に恨みを持っている人たちのほう。
 ——この中のだれかと本堂が繋《つな》がっている——
 どの筋かわからない。国会議員の脱税。県会議員の汚職。病院の手術ミス……。右田は人の弱味を�めしのたね�にしていた……。本堂はこんな人たちと本当にかかわりを持っていたのかしら。
 ——ピンと来ないわ——
 理由はなにもないのだが、そっちの方角ではないような気がする。むしろ右田の女性関係。
 クラブ・モレイのママ、佐賀栄子、四十六歳。バー加世のママ、中田カヨ、三十四歳。目下の愛人、木崎早苗、二十二歳。創作折り紙の研究家、相田和美、二十九歳。
 ——この人かしら——
 なんとなく最後の人のところで胸が騒ぐ。
 相田和美は、美人姉妹のお姉さんのほう。いまだに独身でいるらしい。週刊誌には、右田は�この女と目をつけると、どんな手段を用いてでも手に入れたくなる。コレクターの執念と共通している。最近も上玉を見つけたが、その女性にはもう将来を約束した恋人がいる。普通の人ならあきらめるところだが、右田はあきらめない……�と書いてあった。その�上玉�が相田和美ではあるまいか。
 ——上玉ねえ——
 書いた人の年齢がわかるような古い言葉使いだが、相田和美は和服のよく似合う上品な様子の女ではあるまいか。カルチャー・センターで創作折り紙を教えている……。趣味もわるくなさそう。そのあたりに本堂と繋がるところがある。
「そうなのよ」
 洋子は自分で驚くほど大きな声をあげた。
 このあいだから頭の片すみにあったことでありながら、きちんと考えなかった。疑いを抱えながら思案を避けていた。
 ——本堂さんは……アリバイ工作をしていたわ——
 断定はできないが、そんな気がする。十一月二十一日午前十時すぎ。犯行の日時は、キチンと決められていた。不安の影がそのあたりにうごめいている。
 考えてもみよう。犯罪の実行者が女だとわかれば、男の本堂が直接疑われるはずがない。陰で糸を引いていたかどうかはともかく、実行者としてはけっして疑われない。逆に言えば、本堂がどれほど強固なアリバイを作っておいても、東北新幹線に乗ったのが女だとわかってしまえば、本堂のアリバイなんか、てんから問題にもされない。
 ——ちがうかしら——
 わけのわからないものが洋子の中を駈けぬける。怒りかもしれない。疑念かもしれない。嫉妬《しつと》にも似ているが、そうは思いたくない。
 洋子が新幹線に乗るとして、そのときにアリバイ工作が必要な人がいるとするならば、それは女でなければおかしい。洋子は本堂の偽装をすることはできない。つまり洋子は女しか守れない。
 赤鉛筆の芯《しん》がポキンと折れた。よほど不自然な握り方をしていたらしい。思わず知らず無理な力が加わってしまったのだろう。
 ——二重の安全を考えたのかしら——
 本堂は慎重な人だ。実行者は女。しかも本堂にはアリバイがある。安全性は二重にでも三重にでも確保しておいたほうがいいけれど……。
 でも、どこかおかしい。
 むしろまず実行者が女であることにより本堂自身を守り、次にアリバイ工作によって、もう一人の女を守る。そんな構造になっているのではあるまいか。その女が右田を殺す理由を持っている。その女と本堂はどういう関係なのか。洋子は芯のない赤鉛筆を軸ごと折ろうとしたが、今度はそう簡単には折れない。
 ——まちがっているかしら——
 こわい夢を見ているようだ。早く走らなければいけないのに、体が動かない。しっかりと考えなければいけないのに、感情ばかりが高ぶって、まともな思考が働かない。
 ——落ちつかなくちゃあ——
 洋子は息を深く吸い、次に胸を縮めて息を吐いた。二度、三度とくり返して、少し動悸がおさまった。
 ——警察は犯人が女装しているケースも考えているらしいけど——
 そうなると本堂もアリバイが必要だ。二重の安全性も意味を持つ。
 ——頭がこんがらがりそう——
 やはり冷静さを洋子は失っているらしい。本堂の周辺に女の影を見たような気がして……。
 ゆっくり考えてみれば、殺人の実行者が女であるか、男であるか、それはさして重要な問題ではない……。
 実行者が女ならば、まず男は疑いの外に置かれる。疑いのかけられそうな女は、あらかじめアリバイを作っておくから、これも疑いが晴れる。
 実行者が男ならば、まず女は疑いの外に置かれる。疑いのかけられそうな男は、あらかじめアリバイを作っておくから、これも疑いが晴れる。
 今度のケースでは、洋子が実行者なのだから、本堂はアリバイの有無に関係なく安全のはずである。本堂の安全のためには洋子を選びさえすれば、それでいいのであり、女である洋子を選んだからといって、かならずしもだれかほかの女を守るためだとは言いきれない。
 それはそうなのだが、なんだか釈然としない。やっぱりもう一人、女がいて……、
 ——本堂と、その女が非常に親しい関係だとしたら——
 どちらが右田に恨みを持っているか、それはとりあえず思案の外におこう。右田が殺されれば、二人とも疑われるような状態を想定してみよう。
 どちらが手を出しても危い。だれかほかの人に頼んで殺してもらうほうがいい。
 男に頼むか、女に頼むか……贅沢は言えない。現実問題としてそんな仕事を頼める人を自由に選ぶわけにはいかない。
 たまたま洋子が女だった。本堂はそれだけで安全、あとは女のアリバイを作る。となると、アリバイのたしかな女が、本堂と親しい人、となる。
 ——考えすぎかなあ——
 洋子はアリバイのことにばかりこだわっているので、つい、つい、女である自分が守れるのは女と、その考えに固執してしまうのだが、性別に関係なく、だれかほかの人が殺人を代行してくれれば、それで本堂は安全なのである。かならずしも本堂の周辺にもう一人の女を置いて考える必要はない。
 そう思うすぐかたわらから、
 ——なんだかおかしいわ——
 と、疑惑が意地わるく吹き出して来る。やはり本堂の不在が長すぎるからだろう。あまりにも早く親しくなりすぎてしまった。思いこみだけで深入りしてしまった。知らない部分がまだまだたくさん残っている。
 ——少しずつ調べてみようかな——
 宮地の顔が浮かんだが、やめておこう。だれかに頼むのは危険である。洋子自身が注意深く尋ねてみるよりほかにない。氷の湖を歩くように……。一歩一歩安全を確かめながら。
 テープから書き取ったメモを見なおした。
 事件の時刻にアリバイのはっきりしている女は……まずモレイのママ。午前中に美容院に行っている。確かなアリバイ。「何人かの人に顔を見せ、居場所をはっきりとさせておきなさい」と言われたとき、女が一番最初に思いつくところではあるまいか。
 夜の仕事を持っている人が、午前中から美容院に行くなんて、わざとらしいところもある。
 加世のママは自宅にいた。だれも見ていない。
 木崎早苗は近所の薬局に行っている。これはどの程度確かなアリバイなのか。顔見知りの薬局で、言葉まで交わしていれば、ほぼまちがいない。
 相田和美は地域のカルチャー・センターで折り紙教室の講師を勤めている。これは完全なアリバイと言ってよいだろう。それだけにかえってあやしいとも言える。
 どの女性についても住所がはっきりとわかっている。それだけでも宮地のテープには一万円の価値があるだろう。
 東京都の地図を出して、一人一人の住むあたりを調べてみた。そのうちに町田市のページを見て洋子の指が止まった。
 本堂は言っていた。「家は町田にあるんだけど、ほとんど帰らない」と。
 ——こっちが先ね——
 本堂がどんな家に住んでいたのか、それを知ったら何か見えて来るものがあるかもしれない。
 

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