地 図
寒さ暑さも彼岸まで。東京に関して言えば、この諺《ことわざ》はほとんど正確に気温の変化を言いあてている。
この季節、気象台にはよく電話がかかってくるらしい。
「もう寒さは終りですか」
そんな問いあわせが来ると、係員はかならず、
「いいえ、まだです」
と答えることにしているとか。
同じように秋ぐちに、
「もう暑さは終りですか」
と聞かれれば、
「いいえ、まだです」
と答える。地学の授業で洋子はそんな話を聞いた。雑談の楽しい先生だった。
いつも同じ返答。それでいいらしい。寒さも暑さも、かならずぶり返す。
みんなが「寒さは終りですか」とか「暑さは終りですか」と尋ねたりするうちは、まだ本当の春や秋にならない。そんな疑問をけっして抱かなくなったとき、ようやく本当の春や秋になる。だれの目にも季節の変化があきらかとなり、もうけっして電話の問いあわせなどがなくなって、初めてぶり返しのない春や秋がやってくる。電話でわざわざ問いあわせがあるうちは、安んじて気象台員は「まだです」と言っていればよい。とてもおもしろいロジックだった。
彼岸が過ぎると、春は惜しみなく街に暖気をふりまく。数日のうちに疑いようもない確かな春となり、もう冬ははっきりと過去に変っている。
洋子が犬猫病院に行くのは月曜日と木曜日。臨時の勤務を頼まれることも多いが、週に二日くらいはウイークデイに休んでいる。
そんな休日の昼さがり、うららかな空を見て町田まで足を延ばした。一度も行ったことのない町。小田急線にその名の駅があるのは知っていたが、どれほど時間がかかるのかわからない。
下北沢で乗り替えて、三十分ほど。思いのほか大きな町である。新興の住宅都市。駅周辺に新しいビルが建ち並んでいる。デパートやファースト・フードの店。銀行の看板も目立つ。
駅の構内に電話のカウンターを見つけ、洋子は個人名の電話帳を開いた。
本堂という苗字……。
めずらしい姓ではないが、それほど多くはあるまい。
たった三軒だけ。だが、本堂和也という名前は見当たらない。加入者が本堂和也とは限らないだろう。
——どうしよう——
洋子は駅前のコーヒー・ショップで一息ついて計画を立てた。
そう言えば、以前にまちがい電話がかかって来たことがある。
「仁科洋子さんですか」と聞かれたので「はい」と答えたが、相手の言うことが少しおかしい。
「どなた」と尋ねれば「小学校の同級生です」と言う。結局は人ちがいらしいとわかったのだが、あれを応用すればいい。
電話ボックスに入り、テレフォン・カードをさしこむ。電話帳で調べた本堂さんは三つ。はじめの本堂昌生さんからダイヤルをまわした。呼び出し音が鳴り、
「はい?」
女の声が答える。
「ちょっとお尋ねいたしますが、お宅に本堂和也さん、いらっしゃいませんでしょうか、小学校の同級会をやろうと思いまして」
早口で告げた。胸が弾む。ひどくわるいことをやっているような気がする。
「和也ですか、いませんけど」
「お留守ですか」
「いえ、和也なんて、うちにはいません。どこの小学校ですか」
「町田第一小学校です」
と適当な名前を言う。
「人ちがいですわ」
「どうも失礼いたしました」
丁寧に謝った。せめてもの罪ほろぼし……。
電話とはそもそも無礼な道具である。洋子はかねてからそう思っている。相手にはっきりと姿を見せないところがいかがわしい。しかし、今日は許してもらわなくてはいけない。せっかく町田まで来たのだから。
「もし、もし。本堂和也さん、いらっしゃいましょうか」
二番目は少しせりふを変えて尋ねた。
「どちらにおかけですか。いませんけど、そんな人」
「和也さんてかた、ご家族にいらっしゃいません?」
「いません」
声と同時に邪慳《じやけん》に電話が切れた。
三番目は、老人の声。少し考えてから、ゆったりと、
「和也? いませんねえ。そういう名前の者は」
頭が弱くなっているのかもしれない。
——大丈夫かしら——
洋子はここでも丁寧にお礼を言って電話を切った。
——変ね——
そうは思ったが、電話帳に名前を載せない人もいる。げんに洋子自身も載せてないのだから、他人のことをとやかく言えない。
わざわざ町田まで来たかいがない。
電車の中で恵比寿のレジデンシャル・ホテルの電話番号が手帳に記してあることを思い出した。旅の多い本堂だが、東京へ帰ったときは、そこが拠点になっている、と聞いた。洋子も一、二度連絡をとったことがある。
下北沢で乗り替え、渋谷で電話をかけた。
「はい。恵比寿レジデンシャルです」
「本堂さんのお部屋は何号室でしょうか」
「本堂さん?」
「本堂和也さんですけど」
「今、泊まっていないねえ」
マンションなのだろうか、ホテルなのだろうか。電話の声はひどくぞんざいである。
「おたくのご住所をうかがいたいんですけど」
「ここ? 渋谷区恵比寿四の四十一……。なんなの?」
「どうもありがとうございます」
相手の問いかけには答えず洋子は電話を切った。
今日はもう一つ、渋谷の図書館へ寄って先日コピイをとった�獣医学の発達�をもう少し調べる必要がある。
洋子は時計を見た。恵比寿へ行ってからでも遅くはあるまい。
山手線で一駅。恵比寿駅前の書店で東京都の地図を買い、恵比寿レジデンシャル・ホテルを捜した。
すぐに見つかったが、名前ほどりっぱな建物ではない。古い三階建てのビル。壁には裂けめが走っているし、塗装のはげかけているところもある。
「ごめんください」
玄関を入り、だれもいないカウンターに呼びかけた。
「はい」
中年の女が顔を出した。
「ちょっとお尋ねしますが……こちらはホテルなんでしょうか、それともマンションなんですか」
「ホテルですよ。もう古いし、料金もそうは取れないから、長く滞在しているかたもおられるけど。近く建てなおす予定なのね」
「本堂和也さん、よくご利用になっていらっしゃいます?」
「本堂和也さんねえー。どの人かしら、いろいろお客さんがおられるから……。どういうご用?」
「届け物を頼まれたんですけど、今はいらっしゃらないようなので」
「ああ、そう」
女はファイルされたカードを調べる。
「今は泊まっていらっしゃいませんね」
「以前は?」
「興信所のかた?」
女はいぶかしそうに洋子の顔を見る。頭のてっぺんからゾロリと足もとまで……。
「いえ、そうじゃありません」
「古いカードを調べればわかりますけど、困るんですよね、お客さんから文句が出たりしても……」
「いえ、いいです。じゃあ、ここは�泊まりたい�って言えば、どなたでも泊まれるんですね」
「はい。部屋があいていればね」
「わかりました。ありがとうございました」
お辞儀をして外に出た。視線が背中を追っている。
洋子がなにか調査に来たらしいと、女は見ぬいたのだろう。
本堂が時折ここを利用していたことは調べるまでもない。洋子自身が一、二度電話をかけている。そのときには連絡がついたのだから……。
意外だったのは、恵比寿レジデンシャル・ホテルが、ホテルだったことだ。ホテルと言っているのだから、ホテルであってなんの不思議もないはずだが、洋子はなんとなくマンションのようなものを想像していた。ホテルと同じような管理とサービスがついている賃貸マンション……。本堂の口ぶりもそんなふうに聞こえた。
だが、どうもそうではないらしい。そういう利用法もありうるだろうが、大部分の人はただのホテルとして利用している。本堂にとっては、むしろ常宿のようなものだったろう。
——あの人、どこに住んでいたのかしら——
いくら旅から旅への生活だって、どこかに住所がなければ困るのではあるまいか。洋服とか本とか、だれだって少しは私物を持っている。カタツムリじゃあるまいし、全財産を持って歩くわけにはいかない。その拠点が恵比寿レジデンシャル・ホテルだと思っていた。あるいは町田に住所と家とがあるのかなと、思うともなく洋子は思っていた。
——わからない人ね——
これまでにもけっして疑問がなかったわけではない。
男と女の仲なんて、どの道不確かな部分があるものだ。なにもかもわかってしまったら楽しさも苦しさもない。
洋子は昔からそんなロジックが好きだった。
だから本堂について、不確かなところがあっても、深くは追及しなかった。むこうが説明をしないのなら、
——それもいいんじゃない。今にどうせわかることでしょうから——
あえて問いただそうとしない。そんなところがないでもなかった。はっきりわからないのは本堂の韜晦《とうかい》趣味のせいだろうと考えていた。
——でも、ちがっていたかもしれない——
住所とは、とても大切なものだ。住所のない人はめずらしい。住所不定というのは、それだけでまともな社会人としての要件を欠いている。もちろん本堂和也に住所がないはずがない。どこかにあるのだろうが、洋子はそれを知らない……。本堂はそれを教えてはくれなかった。
本堂とは、まるで凸と凹との文字を噛みあわせるように気分がよくあうと思ったことがあったけれど、
——おかしいわね——
思わず笑ってしまう。大切なことを尋ねない洋子と、大切なことを話さない本堂と、妙なところでも凸と凹との組み合わせができていたらしい。
——十一月十七日。本当にそれまで会えないのかしら——
行く先、行く先で、穴を掘られているような不安を覚えてしまう。
渋谷の図書館へ寄って�獣医学の発達�を借りた。業界の雑誌に原稿を頼まれ、一つ二つ確かめておきたいことが残っている。ついでにもう一度�からくり人形の歴史�を請求してみたが、依然として貸出し中。
「この前も貸出し中だったのよ」
「すみません」
図書館員はスポーツ刈りの若い男で、からくり細工のように頭をカクンと垂れて謝る。面ざしもちょっと人形に似ている。
ないものなら仕方がない。ぜひとも見たいわけではない。洋子がカウンターを離れると、背後で、
「駄目じゃない。ちゃんと返却してもらわなくちゃ。十一月五日の貸出しでしょ。もう五ヵ月近くもたってんのよ」
女の声が聞こえた。眼鏡の女が若い男を叱《しか》っている。
「あのう、一応請求はしてんですけど」
若い男は、またカクンと頭をさげている。
「一応じゃ駄目。ちゃんと取り戻すまでやらなきゃ」
図書館から本を借りたまま返さない人もいるらしい。
四月に入っても本堂からはあい変らずなんの連絡もない。本堂はすでに決心を固め、それを堅く守り通すつもりなのだろう。むこうがその気なら、洋子のほうからは連絡のつけようもない。
——ただ待ってるのも、しゃくね——
本堂は右田輝男についてもなんの説明もしてくれなかった。
だが、右田が本堂にとって邪魔な男なら、右田の周辺になにかしら本堂の影が残っているだろう。新聞社の調査では、右田に恨みを持つ人の中に本堂の名はあがっていなかった。仕事上の怨恨《えんこん》はわからない。
——あやしいのは、右田の女性関係——
これは洋子の直感である。本堂と右田の接点には、なんとなく女性が立っているような気がする。本堂はあれほどみごとに洋子を籠絡《ろうらく》したのだから、ほかの女性を扱うのもきっとうまいにちがいない。くやしいけれど、そう考えるほうが正しい。
——本堂さんはどの女性かを助けようとしている——
たとえば相田和美。創作折り紙の研究家。この人が一番あやしい。本堂と相田和美のあいだには強い絆《きずな》があって、相田和美が右田にゆすられているとわかれば、本堂はどうしても助けてあげなければいけない。
相田和美には将来を約束した相手がいるような話だったが、それがまさか本堂では……。
——ありうることね——
怒りを通り過ぎてあきれてしまうほどひどい想像だが、その可能性は皆無ではあるまい。むしろおおいにありうることかもしれない。
本堂はなぜ右田を恨まなければいけないか、けっして洋子に説明してくれなかった。
——説明できないわけよね——
もし相田和美とそんな仲になっていれば、の話である。
事件当日、相田和美にきっちりとしたアリバイがあるのもかえって疑わしい。カルチャー・センターの教室で大勢の人を相手に折り紙の講習をやっているなんて、これ以上完全なアリバイはない。本堂は、その時刻にあわせて洋子を東北新幹線に乗せたのではあるまいか。
右田が死んでしまえば、あとは洋子の周辺から本堂は少しずつ遠ざかる。できるだけ痕跡を残さずに……。そのあたりも事実の経過とよく一致している。
——少し調べてみようかしら——
相田和美の住所を知っているのが強味だった。中野区野方一……。アビタシオン相田。地図を頼りに捜した。
黄土色のスレートを貼ったビル。壁に凹凸のある三階建て。まだ新しく、美しい。自動ドアを入ると、ポーチがあり、その奥にもう一つ鉄格子の扉がある。その扉は居住者の許可がなければ開かない。ルーム・ナンバーを記した郵便受けとインターフォンが壁に並んでいる。外来者はインターフォンで呼び出し、中でスウィッチを押すと、ようやく鉄格子が開く。二〇五号室に�相田�の文字がある。アビタシオン相田と名づけているのだから、マンションそのものが相田家の持ち物なのだろう。
——妹夫婦もここに住んでいるような話だったけれど——
その苗字はわからない。背後で自動ドアが開き、中年の男が入って来た。
——声をかけられたら、まずいな——
そう思ったとたん、
「どちらをお訪ねですか」
と声をかけられた。管理人室のカウンターにはだれもいない。この男が管理人らしい。
「相田先生の折り紙教室、どこでやっていらっしゃるのかしら」
「たしか文化センターだと思いますよ」
「どこにあるんでしょう」
「線路ぞいに中野のほうへ行って」
と指をさして言う。
「お妹さんもこちらにいらっしゃるんでしたわね」
「ああ、宗近さんね、三〇七ですけど」
「じゃあ、あとでお寄りするわ。ありがとうございました」
「いえ、どうも」
いぶかしく思われないように、笑顔でゆっくりとドアの外に出た。
——われながら上でき——
どちらかと言えば、洋子はとっさにうまい知恵の出るほうではない。あとになって�ああ言えばよかった。こうすればよかった�と悔むほうである。
——嘘がうまくなったのかしら——
管理人に教えられた道をたどって文化センターの前に出た。いくつかの教室が四月の聴講生を募集している。相田和美の創作折り紙教室は金曜日の午前十時から。先月から始まっているらしい。
「創作折り紙のお教室、これからでも入れますの?」
「はい、まだあきがありますけど」
だが、ゆっくり考えてみると、危険がなくもない。
もし相田和美の周辺に本堂がいるとすれば、警察はこの二人を見張っているかもしれない。
洋子は、佐渡で変死した鈴木勇のことを思い出した。
警察は、あの前後に、近くの旅館に泊まっていた男や、佐渡行きの船に乗った客など、くまなく調べているにちがいない。きっと本堂の名もそのリストの中にあるだろう。
その本堂が相田和美と親しくして、その和美の教室に、死んだ鈴木勇と同じマンションに住む洋子が出入りしている……。そんなわずかな接点を警察が見つけ出すものかどうか洋子はわからないけれど、油断はできない。むしろ、一瞬、黒い手でジワリ、ジワリと追いつめられているような恐怖さえ感じた。
——やめておこう——
とりあえず和美の顔を見ておけば、それだけでいい。
二日待って金曜日の十二時近く、折り紙教室の終る時刻を計って洋子は中野の文化センターへふたたび足を運んだ。
数人の受講生に囲まれて講師が現れた。
ブラウンとグリーンをからめたスーツ。笑うと目尻《めじり》にしわがくっきりと凹《くぼ》むが、顔立ちは美しい。垢ぬけた印象で、おそらく才色兼備などという言葉がすぐにつけられるタイプの女性だろう。本堂のことをぬきにして考えれば、洋子のきらいなタイプではない。受講生は、色とりどりの、もみ紙のような折り紙の束を持っている。幼稚園じゃあるまいし、ただの色紙を使うわけではないらしい。
和美は受講生たちに一礼をして講師の控え室へ消えた。
洋子は待つともなくロビイの椅子《いす》にすわって壁の絵をながめていた。
「さようなら」
「失礼します」
和美が玄関に現れ、受講生の群に挨拶をして外へ出て行く。洋子もあとを追って出た。
和美は車で来たらしい。駐車場に向かい、モス・グリーンの車に乗りこんでエンジンをかける。
洋子は走り去って行く車のナンバーを確認した。
——まるで探偵ごっこね——
受講生が三々、五々、駅のほうへ歩いて行く。ゆっくりと歩いているのですぐに追いついてしまう。
「相田先生って、おいくつかしら」
受講生の年齢はさまざま。だが、三十代の主婦がほとんどではあるまいか。歩道から溢《あふ》れながら話している。
「三十くらいね、きっと」
「おきれいね」
「ええ……。ここどう? 中が広いから」
駅前広場まで来てレストランらしいドアを指さす。みんなで食事をする相談にでもなっていたのだろう。
洋子はそのまま駅まで歩いて、上り電車に乗った。
電車の中で東京都の地図を見た。
新宿で降りて歌舞伎町へ向かう。昼さがりの街はすでににぎわっていた。仕事で歩いている人もいるのだろうが、大半は遊んでいるみたい……。今日は金曜日。どういう立場の人なのか。
——あなたはどうなの——
と、洋子は笑いながら自分に問いかけてみた。
——本当に探偵ごっこみたい——
クラブ・モレイを見つけるまでにそう時間はかからなかった。週刊誌に路地を写した写真が載っていたから……。
佐賀栄子の店。死んだ右田と古くから関係のあった女。店はビルの二階にある。二階全部がモレイ。でもビルそのものの様子から判断して、さほど高級な店ではあるまい。
洋子は階段を昇ってドアの前まで行ってみた。廊下にはごみを入れた袋やラーメンの丼《どんぶり》が置いてある。
名刺が一枚落ちていた。クラブ・モレイと印刷してあって、山本ミミと女の名前が手書きで記してある。電話番号もそえてある。
——そっと電話をかけてみようかしら——
このあいだ町田まで行って、本堂という苗字の家にいちいち電話をかけてみた。その記憶が洋子の頭に残っていたのかもしれない。
歌舞伎町から百人町までは、そう遠くはない。百人町には佐賀栄子の自宅がある。今日は一日かけて右田と関係のあった女たちの居どころを見て歩くつもりだった。
——女の背後に本堂さんがいる——
居どころを見たからといってすぐになにかがわかるはずもない。それは覚悟している。でも少しは見えて来るものがあるだろう。見ないよりはいい。洋子は知らない町を歩くのが好きだった。
佐賀栄子の家は三階建ての古いビルの一階。上のほうは多分賃貸のアパートになっているのだろう。一階の窓はみんな閉じている。今は留守らしい。洋子は玄関の前を一、二度往復して新大久保駅へ向かった。
うまいアイデアが浮かんだ。
右田輝男に恨みを持っていた女たち、もしかしたら本堂と繋がっているかもしれない女たち、その電話番号を調べて一つ一つ電話をかけてみる。
「パリで本堂さんから大切なものを預ってまいりました。お渡ししたいので、どこどこへおいでください」
それだけ言って電話を切る。
本堂和也を知らない人なら、まちがい電話だと思うだろう。とんちんかんな返答が返ってくるかもしれない。本堂と秘密の繋がりを持っている人なら、きっと反応がある。指定の場所に姿を見せるのではないかしら。
新大久保駅で山手線の内まわりに乗り、ここでまた洋子は東京都の地図を確かめた。中田カヨは目黒に店を持っている。家も目黒にある。そこへ行ってみたところでたいした成果もあるまい。
——散歩のつもり——
地図で見た住所は権之助坂の裏通り。のら猫がごみ袋をあさっている。
黒いドアに白く�加世�と書いてあった。いかにも駅周辺のバーといった感じ。さほど大きな店ではないようだ。それから川ぞいの道を歩いて下目黒のマンションを捜しあてた。三階の廊下を歩いていると、三十くらいの女と目があった。化粧っけはないが、目鼻立ちは整っている。きちんと化粧をすれば、相当の美人に見えるかもしれない。洋子の背後でドアがしまった。多分、三〇七号室のドア……。中田カヨの部屋。つまり、いま会った女が中田カヨその人だったろう。
裏手の路地に出てマンションの窓を見ると、三〇七号室には下着が干してある。黒いスリップ、黒いパンティー。
そこから大通りに出たところのコーヒー・ショップに寄って昼食をとった。マッチをもらい、店の名を確かめた。
「タイガーっていうの、この店?」
「はい」
「お休みはいつ?」
「火曜日です」
「そう、ありがとう」
手帳を開いて、店の名を記した。
「ごちそうさま」
また目黒駅に戻り、五反田まで。次は木崎早苗である。北口から国道ぞいに歩いて陸橋の手前で右手に曲がった。なかなか見つからない。地番が少しちがっているのかしら。タバコ屋でガムを買い、
「桜マンションって、この近くですか」
と尋ねた。
「桜マンション? ああ、大通りのむこうでしょう」
大通りのむこうなら四丁目か五丁目になるはずだ。でもそんなことはどうでもかまわない。
信号を渡ると、白壁のマンションが建っている。郵便受けに木崎の名が貼ってあった。
エレベーターで五階まで昇った。五〇三号室の表札には木崎輝男と書いてある。
——ああ、そうか——
まちがいあるまい。木崎は中に住んでいる女の苗字。輝男は、スポンサーである右田の名前。こんなケースでは、こんな表札を掲げるのかもしれない。国道に戻ってエリザベスという名の洋菓子店を見つけた。木崎早苗のすまいからそう遠くないところ……。ここでも店の名を手帳に記した。
洋子はいったん仕事をやり始めると、中途半端なことはきらいなほうである。やろうと決めたことは、たいてい最後まできちんとやってしまう。
中田カヨと木崎早苗と、二人の女については、それぞれのすまいに近いコーヒー・ショップと洋菓子店を手帳に記した。どうせ調べておくなら、佐賀栄子や相田和美についても同じことをやっておいたほうがいい。
——さっき見ておけばよかったなあ——
山手線でまた新大久保まで乗り、数時間前に歩いた道をとって返した。こげ茶色一色の塗装、手造りコーヒーの店、モンドの看板があった。雰囲気のよさそうな店……。
——でも、コーヒーは飲んだばっかり——
佐賀栄子の名に続けてモンドと書きとめた。
今度は大久保駅まで歩いて、中野へ。これは帰り道でもある。相田和美の住むアビタシオン相田は、早稲田通りから少し入ったところ。角に開化堂という、古風なケーキ屋があり、そこに喫茶室があるのを確かめた。
——これでよし——
アーケード街で買い物をして井の頭のマンションへ戻った。六時を過ぎている。今日一日、地図をたよりにあちこち捜し歩いた。
——ああ、疲れた。何キロ歩いたかな。でも、もう少し——
お茶をいれ、電話の前にペタンと坐りこんで一〇四番をまわす。すぐにかかった。運がいい。
「四つほど電話番号を知りたいんですけど」
「はい、どうぞ」
中田カヨ、木崎早苗、佐賀栄子、相田和美、それぞれの文字を説明し、住所を告げて尋ねた。
「少しお待ちください」
「はい」
洋子は手帳を開き、ボールペンを握ったまま一〇四番の答を待った。
「佐賀栄子さんと相田和美さんはございますけど」
「それだけで結構です」
あとの二人は、おそらく電話番号簿に登録してないのだろう。
——電話がないのかしら——
今どきそんなことはあるまい。
「よろしいですか」
「あとの二人は、知りようがないんですね」
「はい」
「ありがとうございました」
こんな場合の対策もすでに考えてあった。電話番号がわからなければ、そっと訪ねて行って郵便受けにメモを落としておけばいい。
それに……洋子の直感では、中田カヨと木崎早苗は事件と繋がりがない、そんな気がする。理由は二人ともアリバイがはっきりしないから。
もし本堂と関係があるならば、その女はきっとアリバイを明確にしておくはずだ。アリバイが不確かだからこそ、かえってあやしくないのである。
——やっぱり相田和美の線——
考えれば考えるほど、中野方面があやしい。
だが……ここまで調べておきながら、洋子は、すぐにはさぐりの電話をかけなかった。行動を起こすまでには、しばらく日時がかかった。なにはともあれ、楽しい仕事ではない。ひどくうしろめたい。つい、つい日を延ばしてしまう。
そのうちに犬猫病院で思いがけない偶然に遭遇した。
——広い東京で、こんなこともあるのかしら——
なにかの作為ではあるまいか、といぶかったほどである。
シェトランド・シープ・ドッグがフィラリアにかかって入院することになった。病気は相当に進んでいる。もう老犬だ。手術をしても助かるかどうかわからない。
飼い主の名は雲井一生。どこかで見た名前だと思ったが……洋子はさして気にもとめなかった。手術のあと病室で洋子は飼い主と一緒に犬の容態を見守っていた。
「この病気にかかるのは飼い主の怠慢のせいって言われたけど、本当かね」
あまり感じのいい男ではないが、犬は好きらしい。本気で心配している。
「まあ、そうですね。予防さえちゃんとやっておけば、フィラリアは防げますから」
飼い主の怠慢が原因と言っても、けっしてまちがいではあるまい。
「仕事がいそがしくてね。女房には逃げられちゃうし」
どこか崩れた感じの男である。ネクタイをしめているがまともなサラリーマンには見えない。
洋子はなにも答えずにいた。
犬は力なく眠っている。まだ麻酔がとけない。
「厄年なのよ。ついてないね。去年は社長が殺されちゃうし……。知ってるでしょ。東北新幹線で起きた殺人事件。ウーロン茶に毒薬を仕こまれて」
洋子は身を堅くした。本当にドキンと心臓が鳴った。音を聞かれたのではないかと思うほどだった。
「ありましたわね、そんなの」
洋子はそっと男の表情をさぐりながらつぶやいた。
雲井一生という名前……。ああ、そうか、週刊誌で見た名前らしい。
「社長と犬を一緒にしちゃいかんか」
男は自嘲気味にふっふっと笑っている。
洋子は大仰な仕ぐさでカルテを見た。飼い主の職業欄に誠総業と会社の名が記してある。この名前にははっきりとした記憶がある。
「いい犬ですね」
故意に話をそらした。相手を油断なく観察しながら。
「よくそう言われる」
「このごろはやっているんですよね、この犬」
「そうかね」
「でも、これだけいいのはめずらしいわ。もっと大事に飼ってあげればよろしかったのに」
話しながら頭の中で計画をねった。
カルテに記された男の住所は、病院のすぐ近くである。犬が病気にかかり、近所の病院に連れて来た……ただそれだけのことだろう。ほかに狙いがあるとは思えない。その病院にたまたま洋子がいた。病院になにかをさぐりに来たわけではあるまい。
いったん頭の中に計画ができあがってしまうと、それを実行せずにいられない。ためらいはあったが、引きとめるより先に言葉が洋子の口からこぼれてしまった。
「本堂さん、ご存知ですか。本堂和也さん?」
犬と飼い主を交互に見ながら尋ねた。だが、注意はひたすら飼い主のほうに向けながら……。
「本堂和也さん? 知らないなあ。どういうかた」
雲井の表情は少しも動かない。洋子は眠っている犬のパッドを軽く触って、雲井に思案のための時間を与えた。
「ブリーダーのかた。この毛並みの犬は本堂和也さんのところから出ているのが多いから」
「いや、これは友だちからもらったんだ」
「そうなんですか。ブリーダーって、変った人が多いんですのね。本堂さんは人形のコレクターで……」
何度も本堂の名を口に出して言ってみた。雲井が「知らない」と答えたら、こんなふうに話を進めてみようと企てていた。人形のコレクターと言えば、雲井は殺された右田を連想するだろう。雲井は右田のすぐ下で働いていたのだから。それに本堂和也という名前がからむ……。雲井が本堂を知っているならば、きっと思い出してくれるだろう。だが、雲井は、
「ああ、そう」
気のない声で言う。
犬猫病院の女医がつまらない世間話をしている、と、そんな様子で聞いている。
なにか強い理由があってとぼけているのでなければ、雲井は本当に本堂和也を知らないのだろう、洋子の判断はその方向に傾く。
手術を受けてシェトランド・シープ・ドッグは、なんとか命をとりとめた。おかげで洋子は、その後も何度か雲井と顔をあわせることができた。
「このかたなの、いつかお話したブリーダーの本堂和也さん……」
たった一枚だけ洋子は本堂の写真を持っている。洋子の部屋で、夜、フィルムの余りを使って写したものだ。あまりよく撮れていないが、なんとか面ざしだけはわかる。
「ほう」
雲井はなにを見せられたのか、それさえわからないみたい……。ちょっとながめただけだった。
——この人、顔も知らないな——
雲井が本堂を知らないのは、まず、まちがいない。
となると、本堂和也と殺された右田とは、仕事の関係で繋がっていたのではない。少なくとも本堂は誠総業の仕事とはかかわりがない。週刊誌の記事でも、右田の仕事関係の事情は、たいてい雲井一生が代弁していた。
もちろん、右田は誠総業以外に、いろんな仕事をやっていただろうが、それでも雲井がまったく知らないというのはこの方面に本堂がいないから。きっとそうだろう。
そのうちに雲井は病院に顔を見せなくなり、かわって新聞に千葉の県会議員の汚職が載るようになった。空港の用地買収にからんだ贈収賄事件。評判のあまりよくない野党議員が検挙された。週刊誌にあったK・Sというイニシャルとも一致している。
——これが右田の関係していた事件ね——
洋子は新聞や雑誌を買い求めて、注意深く読んでみたが、右田の名が出てきたのは、たった一回。ほんの二行……。深くはかかわっていなかったようだ。
——やっぱり女性関係——
どうしても考えがそちらに向く。
本堂からは二月の末の電話を最後になんの連絡もない。十一月十七日まで本気で会わないつもりらしい。
——まったく薄情なんだから——
だが、どこかで本堂は洋子のことを観察しているのではあるまいか。わけもなくそんな気がする。
六月に入って洋子はようやく気の進まない電話をかけてみる気になった。
まずモレイのママ、佐賀栄子から。栄子の自宅の電話番号は、すでに調査ずみ。手帳に記してある。
病院の昼休みに公衆電話のダイヤルをまわした。
「もしもし?」
「はい?」
しわがれた声が返って来た。寝起きばなかもしれない。
「パリで本堂和也さんから大切なものを預ってまいりました。お渡ししたいので明日一時、お宅の近くのモンドにおいでください。よろしいでしょうか」
「あなた、だれなの?」
「学生です。パリから帰ったばかりで」
「どこにかけてんのよ?」
「本堂和也さんから、電話番号と喫茶店の名前だけ言われて」
「本堂和也さん? 知らないわね。お客さんにはいないわ。番号は何番にかけたの?」
洋子が番号を告げると、
「あってるわ。モンドって喫茶店も近くにあるけど……。なにを預ってきたの?」
「小さなものです」
「ふーん、変ね」
「知らないようなら、いいって言われて来ましたから」
「あんた、いたずらじゃないの?」
「ちがいますけど……じゃあ、失礼いたします」
電話を切った。胸がトクトクと鳴っている。
——この人は、関係ないな——
そうは思ったが、翌日一応洋子は、佐賀栄子の自宅近くのモンドまで行ってみた。
モンドは細長いコーヒー店。カウンターの席にすわって雑誌を読み続けていたが、佐賀栄子らしい客は現れない。佐賀栄子の周辺には本堂和也はいない。手帳に×印をつけた。
つぎは相田和美、こちらが本命。佐賀栄子に電話をかけたのは予行演習みたいなものだった。
——本堂さんの名前を言うのは、まずいかなあ——
つまり、相田和美と本堂が知り合いなら、後日、和美が「へんな電話があったわよ。あなた、パリで女の人に、なにか頼んだ?」などと本堂に尋ねるだろう。本堂は�洋子がなにかやったな�と感づくだろう。それはおもしろくない。
電話の中身を少し変更することにした。
「もし、もし」
二日たって今度は相田和美の番号をまわした。
「はい、相田でございます」
おそらく和美自身だろう。三十歳くらいの上品な声である。
「本堂和也さん、ご存知ですね」
同じような聞きかたでも「ご存知ですね」と「ご存知ですか」とではずいぶんちがう。すぐには返答がない。
「あの、いえ、存じあげませんが……」
「連絡がございます。ご近所の開化堂、知ってらっしゃいますわね」
「ええ?」
「明日のお昼の十二時、開化堂でお待ちしてますから」
「どちらさまでしょうか」
「明日の十二時に」
「でも……」
「あらっ、まちがえたのかしら」
ひとり言のようにつぶやいて唐突に電話を切った。苦肉の策である。もし相田和美が本堂を知らないなら、最後の「あらっ、まちがえたのかしら」を聞いて、和美はただのまちがい電話だと思うだろう。本堂とのあいだに隠れた糸が繋がっているのなら「連絡がございます」という言葉を和美は無視できないだろう。しかも「連絡がございます」という表現は、本堂から頼まれた連絡なのかどうか、はっきりとしない。どちらにもとれる。それからもう一つ「明日の十二時」と指定したのも、洋子に狙いがあってのことだった。
——あやしいなあ——
電話で本堂和也の名を告げたとき、和美は「存じあげません」と言ったが、その直前に思わず息をのむような気配があった。戸惑いが感じられた。あれは本堂を知っていて、どう答えようか、一瞬、迷ったから……。秘密の関係であればこそ、とりあえず「存じあげません」と答えたにちがいない。
明日は金曜日。中野の文化センターで相田和美の折り紙教室がある。授業は十二時に終る。洋子はあえてその時間を指定してみた。
文化センターからケーキの開化堂までは車で五分たらず。講師なら授業を五分や十分早く切りあげることもたやすいだろう。もし相田和美が、
——これはとても重要なこと——
と考えたら、そうするにちがいない。反対に、
——よくわからないけど、きっとまちがい電話ね——
そう思ったなら、わざわざ授業を早く終えたりはすまい。帰り道にちょっと開化堂をのぞく程度ではあるまいか。
開化堂は早稲田通りに面している。
洋子は、はじめ道路越しに出入口の見える位置で見張るつもりだったが、その日、中野駅に着いて方針を変えた。
——文化センターのほうに行こう——
和美がはたして授業を早く終えるかどうか、そのときの様子は? それを確かめたい。開化堂には少し遅れて行ってもいいだろう。
十一時四十分……。洋子は文化センターの外で少し待った。日射しが暑い。もうはっきりと夏の温気が漂い始めている。
それからロビイに入って、講習会のパンフレットを見ながら折り紙教室が終るのを待った。
十二時少し前、相田和美が急ぎ足で現れた。オレンジ色のワンピース。事務室に首をつっこみ、すぐに洋子の前を通って外に出る。駐車場へ急ぐ。
洋子は門の外に出てタクシーを拾った。
和美の運転する車が前に走り出て、洋子はそのすぐうしろを追うことになった。
——あらっ——
二、三百メートル走って和美が車を止めた。まっすぐ開化堂へ行くと思ったのに……。洋子の乗ったタクシーが追いぬく。ふり返ると和美は歩道をよぎり、錆《さび》色のビルの中に入って行く。
「待って」
洋子はタクシーを止めてもらい、外に出た。
洋子は道を戻り、和美が消えたビルの前を通り過ぎながら、中をうかがった。
暗い通路があり、その奥にオレンジ色のワンピースが立っている。こちらに背を向けて……。電話をかけている。ビルの中にピンク電話があり、和美は受話器を耳にあてている。今、ちょうど十二時。
——ああ、そうか——
たやすく事情が読めた。手応えは充分と言ってよいだろう。
電話の相手は、多分開化堂。なにを話しているかわからないが、見当はつく。
「相田和美と申しますけれど、私に面会のかた、見えていらっしゃいません? 女のかた。三十歳くらい」
とでも言っているのではないかしら。
文化センターにも電話はある。
だが、和美はそれを使わずに、少し離れたビルのピンク電話を使った。偶然ではあるまい。
受講生たちに話を聞かれるのが厭だったから。電話の内容が、和美の秘密にかかわることかもしれないから……。
ビルの奥にピンク電話があるのは、前から知っていただろう。
一連の行動は、和美の頭の中であらかじめ企てられていたにちがいない。十一時五十五分に授業を終え、急いで車に乗って十二時きっかりにピンク電話のダイヤルをまわす。開化堂の電話番号も昨日のうちに聞いておいたのだろう。
——相田和美は、おかしな電話をかけて来た相手と直接、顔をあわせるのを避けたのかな——
それも充分に考えられる。いずれにせよ、やましいことが少しもなければ、和美の行動は不自然である。
電話が終った。短い電話……。当然そうだろう。
和美は車に戻る。車が走りだす。
洋子はタクシーに戻った。
「行ってください」
もう和美の車は見えない。
——開化堂へ行ったのかしら——
その可能性は五分と五分……。
洋子は開化堂の数十メートル手前でタクシーを降り、歩道をゆっくりと歩いた。和美の車のナンバーは記憶してある。開化堂は道の向こう側にガラスのドアを立てている。
角を曲がれば、すぐにアビタシオン相田。和美が開化堂へ行くとしても、いったんは自宅へ戻って車を置くだろう。
——むこうも目を光らせているわ、きっと——
ピザ・ハウスの看板が目に止まった。花の鉢植えを並べた階段を昇った二階。その窓からななめに開化堂の出入口がうかがえる。
——ピザなんて、しばらく食べたことないけど——
階段を踏み、白いドアを押して洋子は窓際の席に腰をおろした。すみっこの席なので開化堂のドアがわずかに見えるだけ……。その中の喫茶室まではのぞけない。相田和美はすでに中に入っているのかどうか。
和美の衣裳《いしよう》は、かなりはっきりした色あいのワンピースだった。あのオレンジ色ならまず見のがすことはあるまい。
洋子はピザ・パイを平らげ、それからコーヒーをゆっくりと飲んだ。店は次第に混んで来る。
十二時四十分まで待って席を立った。
道を渡り、開化堂から出て来る人と入れちがいに中へスルリと踏みこむ。
カウンターのケーキ売り場。右手の奥が喫茶室。
「シュークリームあります?」
洋子はわき目もふらず一直線に店員の前に進んだが、目の右すみにオレンジ色が走った。相田和美が喫茶室にいる……。おそらく洋子のほうを凝視しているだろう。
——あの人じゃないかしら——
などと思いながら。
だが、洋子は顔も向けない。ひたすらシュークリームを買いに来た客を装っている。
「二個でいいわ」
ウインドーケースの上にチョコレートを並べた箱がある。箱の背に金色に光る部分があって、そこに相田和美らしい客がゆがんで映っている。やはりこっちを見ている。
——目があったら、まずい——
いつか、どこかで和美と顔をあわせることがあるかもしれない。いよいよのときが来るまで、むこうにはなにも気づかれたくない。
シュークリームの小箱を受け取って外に出た。商店の並ぶ歩道を急ぎ足で歩き、また道の反対側に渡って、開化堂のドアを遠くから見張った。
オレンジ色のワンピースが見えたのは、一時を大分すぎてからだった。遠目ではあったが、相田和美にまちがいない。角を曲がって自宅のほうへ消えた。
和美が一時間以上も喫茶店にすわっていたのは、やはり昨日の電話が気がかりだったからだろう。
中野駅に戻り、プラットホームへ出る階段を昇りかけると、すぐ前に四、五人の女たちが群っている。話しながらゆっくりと足を運んでいる。
洋子は、はじめ気づかなかったが、追い抜いて下り電車を待っているうちに、
——ああ、あの人たち——
と、わかった。無意識のうちにも話し声を小耳に挟んでいたのだろう。
「外国人はとても興味を示すらしいわね。私の知人で、ご主人が商社に勤めていらっしゃる奥様がいるのよ。むこうの生活が多いものだから……」
「電車の中で折ってらっしゃるかたのお話が新聞に出てましたよねえ」
手さげ袋の口から、それらしい折り紙の束がのぞいている。相田和美の折り紙教室に出席して、そのあと昼食をとり、今帰るところらしい。
「じゃあ、また来週」
「ご機嫌よう」
一人は上り電車に乗ったが、残りは下り電車へ。洋子も下りの車両に乗りこみ、教室帰りの群のわきに立ってさりげなく話を聞いた。
「先生あんなにおきれいなのに……」
「ちゃんといらっしゃるのよ。お友だちが、先生のお妹さんと親しいから」
「ええ?」
「フィアンセのかた、今、外国にいらしてて。お帰りになり次第、ご結婚なさるらしいわよ。相思相愛、あつあつの仲なんですって」
小肥りの女が、わがことのように語っている。
「そうでしょうねえ」
断片的な話だが、事情ははっきりとわかる。相田和美に婚約者がいる。その男は外国に旅をしており、帰り次第、二人は結ばれる……。
相田和美がなにかしら本堂と繋がりがあることはまちがいない。そうでなければ、和美の行動はおかしい。授業を少し早めに切りあげ、人気のない場所を選んで電話をかけた。電話のむこうはおそらく開化堂。そのあと和美は開化堂へ行って一時間以上もコーヒーを飲んでいた。本堂からの連絡を持って来る女を待ちながら……。
そして和美の婚約者は外国へ旅行中。本堂がちょうどそうであるように。
調査の網が少しずつせばまっていく。
——ほかの女たちを調べる必要はないわ——
たとえば中田カヨや木崎早苗。二人とも事件のときのアリバイがはっきりしない。だからこそかえって疑いが薄いのである。
洋子には、見えないものが……一連の企てが、九分通り見え始めた。こまかいところにちがいはあるかもしれないが、大筋はつかんでいるだろう。アリバイのある人こそあやしい。
相田和美のアリバイが一番たしかだった。
——じゃあ、私はだまされたのかしら——
そうは信じたくない。
というより信じにくい部分がある。
これまでにわかった事実を繋ぎあわせてみると�あなたはだまされています�と、その方向を指している。まるで羅針盤が北を指すように……。
そうであるにもかかわらず感覚的に、
——ちがうわ——
と叫ぶものがある。
——おろかな人はいつもそうだけど——
事実をつきつけられても、かたくなに頭を振っているのは、たしかにおろかなことにちがいない。だが……と洋子は場ちがいな連想をめぐらす。
——似たようなことがほかにもあったわ——
そう、科学の歴史……。なにとはすぐに思い出せないけれど、たくさんの実例があったはずだ。いくつもの事実を並べて帰納して一つの結論に到達する。一見正しい結論のように見えるが、一人の科学者が、
——どうもちがう——
と直感する。さしたる根拠もないのにそう思う。信仰のようなもの……。だけど、それが正しかったりする。科学の歴史には、そんなケースが点在している。この直感はけっしてあなどれない。
洋子は、折り紙教室の受講生たちが、いつ、どの駅で降りたのかも知らなかった。電車が滑りこんだ駅を見ると、そこが吉祥寺だった。
——とてもいい感じだったから——
しみじみそう思う。本堂と親しくなった、その道筋についての感想がそうなのだ。なんのわだかまりもなく、本当に滑らかに進んだ関係だった。軽井沢で知りあい、横浜で結ばれた。二人をとり囲む自然や街が、こぞって祝福してくれてるように思った。そのことに疑いを挟むのはむつかしい。
——フォルムが美しい——
洋子はよくそんなことを考える。フォルムというのは形のことだ。目に見えないものにも形がある。恋愛にだってフォルムがある。フォルムの美しい恋と、そうでない恋とがある。
なにをもってフォルムの美しい恋と言うのか、そこまでは洋子の研究も進んでいない。ただ漠然と感ずるだけ……。滑らかで、自然で、ほどよいドラマになっている。どこかで神様の演出がなされているような、美学の法則に適っているような……。
たとえば起承転結。もともとは詩歌を作るための約束事なのだろうけれど、あれも美学の法則だろう。その法則に従えば、人間の心に美しく感じられる。起承転結の整った恋は、きっとフォルムが美しい。
——今は転の時期かもね——
とも思う。本堂との関係は本当にとてもよいフォルムだった。起があって承があって、転となった。
——どんな結論が待っているのかしら——
洋子は考える。
相田和美と本堂が繋がっていると、そこまでは調査してきたが、その先は進みにくい。うまい手立てがない。
六月、七月、八月と、洋子は待ち続けた。待ちすぎて、待つという意識までが薄くなるほど待った。
日時だけがただ流れていく。新聞が一度だけ東北新幹線の事件のその後を報じていた。目新しいものはほとんどなにもない。�迷宮入り�そんな見出しが太く記してあった。記事には本堂の影も、相田和美の影も見えない。
——こんなものなのかしら——
たしかに完全に仕組まれた交換殺人は、犯人たちの仲間割れでもない限り捜査は極度にむつかしいだろう。殺人の実行者には動機がない。疑わしい人にはアリバイがある。
「あっちのほうはどうなの?」
佐渡の事件も迷宮入りになったのだろうか。事故死と見なされたのなら、迷宮入りもへちまもあるまいけど……。
——たしかに大野亀って言ってたわ——
とても重要な場所であるにもかかわらず、洋子はそこへ行っていない。
——行ってみようかしら——
そう決心したときは、もう九月に入っていた。