箱の中
「ご苦労さん」
元麻布の三叉路《さんさろ》でタクシーを降り、西本玄三は右手の高い窓を見あげた。
灯《あか》りがついている。カーテンの細いすきまを縫って一条の光が漏れている。
午前二時過ぎ。
──よし──
ひとつ頷《うなず》いて篁《たかむら》マンションの玄関を通り抜けた。守衛は巡回にでも行ったのだろうか、ロビイにはだれもいない。コートを脱ぎながら来客用のインタフォンを押した。
六〇八号室。
答がない。
──眠っているのかな──
しかし、文恵の生活習慣を考えれば、まだ起きているはず。入浴中かもしれない。いずれにせよ今夜は絶対に会わなければいけない。
もう一度、押した。
「はい、どなたかしら」
くぐもった声が答える。声の調子がおかしい。おびえているのだろうか。
「私だ。こんな時間に申し訳ないけど、急用があって」
と、ことさらに穏やかな声を作って告げた。
「ああ。あなたなの」
と、文恵はすぐにわかった。
会うのは久しぶりだが、時折、電話で話す。それに……十年近く一緒に暮らしていたのだから、わかって当然だろう。声というものは年を取っても思いのほか変らない。
「どうぞ。そこの格子戸を押して」
各部屋で〈鍵《かぎ》〉と記されたボタンを押すと、一階の格子戸の鍵が開く仕掛けになっている。西本は他の知人を訪ねてこのマンションに来たことがあるので、このシステムをよく知っていた。
「うん」
格子戸を開け、居住者用のスペースへ入ってエレベータを待った。
きれいな大理石の床。壁ぎわに両切りのタバコが二本落ちている。だれかが箱から落として、そのまま行ってしまったのだろう。多分、紺の箱に入ったピース。昔、西本はよく喫《す》っていたから見当がつく。
──こいつが一番うまいんだよな──
タバコが本当に好きな人が喫う銘柄。しかし、西本はご多分に漏れず健康のことを考えて今はマイルドセブンに替えている。
二本のタバコに触発され、西本は少時両切りピースの味を思い出していたが、エレベータに乗ってから、
──待てよ──
思いがけない思案が心に込みあげて来た。
──稔がこれを喫っていた──
稔は中学生の頃からタバコを喫い始め、いつか会ったときにはたしか両切りのピースをうまそうに喫っていた。
──もしかしたら──
と思う。
当然考えてよいことだったが、思案をめぐらすより先にエレベータのドアが開き、
「どうしたの? 久しぶりね」
と、六〇八号室のドアが細く開いて文恵が覗《のぞ》いている。
「今晩は。どうも」
西本は曖昧《あいまい》に呟《つぶや》いて、ドアをうしろ手で閉めた。
一瞬、血なまぐさい匂《にお》いを嗅《か》いだように思ったのは気のせいだったろうか。
「寝てたのかい」
「いいえ。まだ」
文恵の顔はひどくやつれて見えた。眼のふちに黒く隈《くま》が浮かんでいる。あきらかに年を取り、醜《みにく》くなった。
しかし、考えてみれば、もう十数年も会っていない。テレビで見ることがあっても、そのときはきれいに化粧をしている。素顔を見たのは、いつが最後だったろう。昔の美しさを期待しては酷だろう。
──理由はそれだけかな──
疑心が西本の胸をかすめる。
「ビール、飲みますか」
それに、なぜか文恵はおどおどしている。
「いや、おかまいなく。すぐに帰る」
「じゃあ、蜂蜜《はちみつ》のお湯。私も飲みますから」
「うん」
蜂蜜のお湯は文恵の好物だった。喉《のど》にもよいらしい。寝る前にそれを作って飲むのが、一緒に暮らしていた頃の文恵の習慣だった。
「ちょって待ってね」
キッチンへ入ってお湯を沸かす。
──どんな間取りなのだろうか──
3LDKくらい。西本は耳を澄ましたが、だれかほかの人がいる気配はない。ただ……かすかに水音が聞こえる。バスタブにお湯を入れているのかもしれない。
「風呂《ふろ》に入ろうとしてたのか」
と尋ねたが、声はキッチンに届かなかったらしく、西本はソファに背を預けてタバコを喫った。
壁に掛けられた絵に見覚えがある。ローランサンの版画。〈ブロンテ家の栄光〉というタイトルで、描かれているのはたしかエミリイ・ブロンテではなかったか。新婚の頃にも、この絵がリビングルームに飾ってあった。
──なぜ別れたのかな──
理由はもちろんわかっている。そのこと自体にはなんの後悔もない。ただ、稔のことを考えると、胸が痛む。両親の離婚が子どもの魂を蝕《むしば》んだことはまちがいあるまい。
今から二十八年前……。
劇団の美人女優と若い彫刻家の結婚だった。
文恵の父親は富山県出身の有力な実業家である。地元の信望も厚かった。一期だけ議員を務めたことがある。死後、故郷の村に銅像が建つような人物である。家族には恵まれず、最初の妻は早く他界し、二度目の妻が文恵を生んだ。一人娘である。父親はこの一人娘を溺愛《できあい》した。
文恵は故郷の村をよく知らない。東京の短大を卒業して劇団の女優となった。容姿は美しいが、演技のほうはもう一つ……これが正直な評価というものだろう。だが、うしろ盾がすごい。
「なによ、あの子」
白い眼で見られながらも、そこそこには名前の知られる女優にはなった。だが、間もなく劇団を離れ、擡頭《たいとう》いちじるしいテレビ界に移り……クイズ番組の解答者になったり、旅番組のリポーターになったり、さまざまなコンクールの審査員になったり、この転身はタレント生命を長らえるうえで大成功だったと言うべきだろう。
「ただすわらせておけば、上品で、いい感じだもんな」
という辛辣《しんらつ》な評判も、テレビ界では一つの長所となる。スポンサー筋には信望が厚いし、文恵自身、必死に働いて食べる立場ではない。いつまでもお嬢さんタレントの気分を残していて、さほど困る事情はなにもなかった。
西本との結婚は、劇団の女優からテレビ・タレントへと移る、その境目の頃だった。文恵の父は、もっとほかのタイプの男を……たとえば自分の後継者となってくれるような男を期待していたのかもしれないけれど、なによりも当の文恵に、
「あの人が好きなの」
と、訴えられ、強くは反対しなかったらしい。この人に対して西本は恩義こそあれ、なんの恨みもない。
豪華な結婚披露宴……。将来を嘱望《しよくぼう》された二人の若い芸術家というふれこみであったが、現実はそう甘くはない。文恵のほうはまだしもましだった。西本のほうが、ずっとむつかしい。もともと彫刻家などという職業は、よほど大家にでもならない限り、生業《なりわい》として成り立ちにくい。名刺の肩書を見て、
「ほおっ、りっぱなお仕事ですな」
と言ってくれる人はいても、心の中では、
──よい家のボンボンなんだろうな──
と考えている。
その通り、金持ちの息子でもなければ、なかなか続けられる仕事ではない。
西本自身は、それほど野心はなかった。高校の美術の先生でもやりながら、好きな彫刻を造っていれば、それでよいと考えていた。たまたま文恵と知りあい、最初は名のある人の娘とは知らずに恋仲となり、そうなってしまえば、若い恋愛はわきめもふらずに走りだす。文恵は美しかったし、本当に輝いていた。
「あなたが好き」
と言われれば、たいていの男は舞いあがってしまう。
──これはいいぞ──
実利も期待できる。
文恵の父親は有力なスポンサーになってくれるだろうし、文恵と一緒になれば少なくとも生活の苦労はずいぶん軽減されるだろう。楽しい夢ばかりを描いていたのは本当だった。
結婚して二年後に稔が生まれた。
夫婦のあいだに亀裂が目立ち始めたのは、あの頃からだったろう。不仲の原因ははっきりしている。
──俺《おれ》がわるいんだ──
西本はそう言い切ることに、なんのためらいもない。
まったくの話、文恵の父からの援助を当てにして収入のある仕事はなにもしなかった。いっぱしの芸術家を気取って、
──今に見ていろ──
気ままな制作に明け暮れていた。
卓越した才能でもあれば、そんな方法でも実を結ぶことができただろう。だが、悲しいかな西本にはそれがなかった。内外のコンクールに挑戦しても落選ばかりが続いた。焦りが生じ、性格まで卑屈になる。
文恵にしてみれば、
──今にりっぱな彫刻家になる──
と、自分でも信じ、まわりにもそういいふらしていただろう。
だが、いつまでたっても西本は|※[#「木+兌」]《うだつ》があがらない。ただの金食い虫にしかすぎない。
体《てい》のいいヒモのような生活である。
それに……すぐれた父親に育てられた娘というものは、いつも心に父親のイメージを持っている。身近な男を父親と比較する。
評価の物指はいろいろあろうけれど、娘の眼にはなにを取っても、父親のほうがすばらしい。山のように大きく、愛の深さも勝《まさ》っているだろう。西本は厭《いや》でも負け犬を意識しないわけにいかなかった。
「親父《おやじ》さんと俺とはちがう」
「そんなこと、わかってるわよ」
「どうわかってんだ?」
「パパは、あなたの年で、もう社長をやってたわ」
「それが、どうした。町の魚屋だって社長だぞ」
「へえー。芸術家は偉いのよね、一銭も稼がなくたって」
「そんなに親父さんが好きなら、パパと結婚すればよかったな」
「その通りよ。できれば、そうしたかったわ。あなたみたいな人より」
「本心で言うんだな」
「きまってるでしょ。本心よ」
こうなると、わがままに育った娘は我慢がきかない。体面を重んじて、しばらくは一緒に生活を続けていたが、実質的にはずいぶん早い時期から、二人は夫婦ではなかった。
そうこうするうちに西本は現在の妻である女性と知りあい、彫刻をやめ、やきものを始めた。もう文恵との生活にはなんの未練もなかった。
別れたときの、直接の原因は、今、思い出してみてもくだらない。大人気《おとなげ》がない。
富山県出身の彫刻家に、名士の彫像を好んで造る男がいて、西本も顔くらいは知っていた。もともと、
──厭な奴だな──
と、相手にもしなかったのだが、噂《うわさ》を聞いてますます憎くなった。名士の彫像なんか、金儲《かねもう》けの手段にきまっている。金儲けは金儲けで静かにやっていれば許してやるけれど、こともあろうに……多分、同県出身のよしみからなのだろうけれど、文恵の父の彫像を造って、
「古稀《こき》の記念にどうぞ」
と、送って寄こした。
父のところへ直接送ればよいものを、どういう了簡《りようけん》か文恵の住所へ送って寄こした。ただの住所ちがいだったらしいけれど、荷をあけてみれば、
「なんだ、この下手くそは?」
西本は唾《つば》を吐きたい気持ちだった。
その作品は等身大の大きさで、胸像にもなれば、足をつけて立像にもなる。そんなアイデアもこざかしい。だが、文恵のほうは、
「よく似てるわ。パパのよい表情、うまくとらえてるわよ。器用な人もいるのにねえ」
と、ことさら感心してみせる。
「こんなもの、職人の芸だよ」
「あなたにはできないわ」
「やらないだけだ」
「妬《や》いてるの」
「妬くわけないだろ」
怒りが胸に膨らみ、そのあと文恵が父親のもとに電話をかけ、
「とてもよい彫刻が届いたの」
と、うれしそうに……聞こえよがしに話しているのを聞いて、もう我慢ができない。
「なんだよ、今の電話は?」
「あら、どうしたの」
「わからんのか」
初めて文恵をなぐった。
離婚が成立した。文恵は思いきりがよい。どんなことでもいったん決断をしたらサラリとやってしまう。
八歳の息子は母の手もとに残すこととなった。その息子がかならずしもよく育っていないと知らされたのは、いつが初めてだったろう。西本は新しい生活に精いっぱいで、正直なところ、稔のことは忘れていた。思い出すことはあったが、なんの配慮もしなかった。それに、
「この先、父親みたいな顔はしないで!」
と、それが離婚のときの、文恵の条件でもあった。いくばくかの心残りはあったが、文恵の要求には忠実に応じたといってよいだろう。
離婚後二年たって文恵の父親が死んだ。西本は葬儀には参列しなかったが、墓参りには行った。いっときはお世話になった人である。
墓の前で合掌し、
──申し訳ありません。よそながら娘さんのことは見守ってまいります。私自身は陶芸のほうで、なんとか身すぎ世すぎはできるようになりました──
と報告した。
そのあと墓の管理をする茶屋へ戻ってみると、文恵が一人で来ていた。稔の素行を聞いたのは、あのときだったろう。
「反抗期じゃないのかな」
「ええ……」
「男の子はむつかしいから」
「きびしくは育てているんだけど」
「それがいい」
さほど深刻には考えなかった。ただ、
──文恵には�きびしく�育てられっこないな──
とは思った。
口先ではきびしく言っても、すぐに底が抜けてしまう。叱《しか》っておいて、あとで謝ったりする。金品を与えて機嫌をとる。そんな傾向は稔がまだ幼いときから顕著に見られた。男の子は母親の弱点を突くのがうまい。
「よい友だちがいるといいんだがな」
「家に連れて来るのと、本当につきあっているのと、ちがうみたい」
「困ったな」
墓地の入口まで一緒に歩き、
「あなたは元気そうだな。このあいだ、テレビで見たよ」
「私?」
「うん、きれいだった」
「馬鹿なこと、言わないで」
短い会話で別れたが、それからは一年に一度くらい文恵から電話がかかって来た。あとで思えば、相談したかったのだろう。相談されても、たいしたことはできなかっただろうけれど、もう少し親身になってやるべきだった。西本としては新しい妻への遠慮もあった。
稔のぐれようは、なまやさしいものではなかったらしい。中学はどうにか卒業したものの、高校は転校を繰り返し、あげくの果ては退学、悪い仲間とつきあい、西本が実情を知ったときには、いっぱしのワルになっていた。
十九歳のときにマリファナの所持で摘発され、このときは西本が八方手をつくして、なんとか起訴猶予ですませたが、それから三年後にコカインの売買で逮捕、有罪……。執行猶予がついたのが本人にとってよかったのかどうか。ただこのときは情報が外部に漏れず、文恵のスキャンダルとして世間に知れなかったのがさいわいだった。
この前後、西本も稔に会って話している。それまでにも、よそながら姿を見てはいたのだが、拘置所から出て来た直後の様子は中学生高校生の頃とまったくちがっていた。別人と言ってよいほどに……。いや、面《おも》ざしはたしかに当人なのだが、人相がまるでちがう。眼つきがわるい。うすら笑いがまともではない。卑屈で、ずる賢い。
──これは駄目だ──
そのくせ母親の前ではいい顔をする。その表情が、世をいかさまに渡る人たち特有のものだ。騙《だま》されている文恵が不憫《ふびん》だった。
──簡単には立ち直れないな──
わが子でありながら、もう手を伸ばすすべがない。しみじみそう思った。
「なつかしいでしょ」
文恵がキッチンから戻って花柄のカップを勧める。
どこにどんなこつがあるのか、文恵の作る蜂蜜のお湯は微妙においしい。
「うん、なつかしい」
西本はすなおに答えた。
かすかな感傷が胸をよぎる。このお湯をずっと飲み続けていたら……今夜のような事件は起きなかったのではあるまいか。
テーブルの上に睡眠薬の壜《びん》が置いてある。西本がそれに眼を止めているのを見て、
「あい変らず眠れないから」
と文恵が言う。
「うん?」
眠れない夜は、このお湯で睡眠薬を飲む、それも文恵の習慣だった。相当に強い薬である。
「タバコ、一本、ちょうだい」
「いいよ」
マイルドセブンとライターを滑らせる。文恵の手が小刻みに震えている。火がうまくつかない。
──文恵はタバコを喫わないはずだが──
急に喫う気になったのは、なぜだろう。
時計が三時を打った。
どこかこの家の様子がおかしい。第一、こんな夜遅い訪問だというのに、まったく突然の訪問だというのに、文恵はいっこうにその理由を尋ねようとしない。
「実は……」
西本が戸惑いながら切り出した。
「ええ?」
「稔君のことなんだが」
「はい」
文恵はゆっくりと頷《うなず》く。こんな時間に急用があるとすれば、その件以外に考えにくい。すでに文恵は予測していただろう。
「もとはと言えば私にも充分に責任のあることだ。すまないと思う。私たちが離婚なんかしなかったら、もう少しよい結果になっていたかもしれない。あなたを責めるわけじゃないよ。むしろ自戒として言ってるんだ」
ひとこと、ひとこと西本は言葉を選び、注意深く話した。
「わかりますわ」
「今までにもいろいろつらいことがあったと思う。しかし、稔君ももう二十六だ。りっぱな大人だろ。自分で責任を取らなければいけないし、あなたの手にはおえない」
「もう遠いところへ行ってしまって」
「えっ? どういう意味?」
「あの……ずっと寄りつかなくて」
「どこに住んでるの?」
「わかりません」
「最近、会ってないわけ?」
「ええ。会うときは、新しい仕事を始めるから、お金を貸してくれって」
「貸したんだね」
「仕方ないでしょ。泣きつくんですもの。私もその都度いろいろ注意をしたけど、守れたことはなかったわね。この前は、そこに土下座《どげざ》をして」
眼に見えるようだ。
「まあ、今までのことは、もういいさ。今夜、来たのは……」
「はい?」
「申し訳ない。ちょっと手洗いを貸してくれないかな」
西本は尿意《にようい》を催していた。大切な話に入る前に小用をすませておきたい。
──どう話したらよいか──
緊張感をほぐし、もう一度、思案を整えておきたかった。
「どうぞ。その奥よ」
文恵が頬笑《ほほえ》んだのは、西本のそんな癖をよく覚えていたからだろう。
「水音が聞こえるぞ。バスルーム?」
「ええ。タイルが汚れて。油で。お湯を流しているの」
「ふーん」
バスルームは洗面所の奥にあるらしい。西本はスリッパを履き替え、便器の前に立った。
──どう話したらよいか──
さっきから同じ問いかけが頭の中を駈《か》けめぐっている。
昨夜十一時前……つまり今から四時間ほど前のことだが、親しい新聞記者から西本の自宅に電話がかかって来た。この新聞記者は警察関係の担当が長い。稔が前の事件を起こしたときにも世話になった人で、西本とは高校時代のテニス仲間である。
「松井稔君に逮捕状が出る。容疑はコカインの売買だ。くわしいことはわからないが、罪状は相当ひどいようだ。海外逃亡のおそれもある。どの道つかまるだろうけれどな。今度は実刑をまぬかれない。なによりもお母様がお気の毒だ。あらかじめ伝えて少しでもショックを小さくしてあげてほしい。万一、彼がお母様のところへ立ち寄ったら、絶対に自首を勧めてほしい。スキャンダルにはなるだろうけど、もう私の手ではどうにもならない。こうしてお知らせするのが、せめてもの友情だと理解してほしい」
おおむねそんな内容の電話だった。
西本はすぐにタクシーを呼び、小田原から元麻布まで走らせた。車の中で対策を考えた。よい思案のあろうはずもない。日本の警察は優秀だから、きっと稔をつかまえるだろう。逮捕、スキャンダル、裁判、実刑……。文恵の悲しみがわがことのように感じられてならない。西本自身だって無関係ではいられないだろう。十数年前に別れたとはいえ父は父なのだから……。
万に一つ、海外へ逃亡できたとしても、その生活はさらに悲惨なものとなる。当座はともかく、よい結果になろうはずがない。それも眼に見えている。
──どの道よいことはない──
たしかに記者が言っていたように、あらかじめ事情を文恵に伝え、いくらかでもショックをやわらげてやること、そして、もう一つ、稔が母の家に顔を出すようなことがあったら、どのような手段を使ってでも自首をさせること。それが大切だ。それを説得するために、西本はこのマンションに駈けつけたと言ってよいだろう。
──でも、変だな──
小用を終えて廊下に出ると……手を拭《ぬぐ》いながら、なにげなく視線を廊下の奥に移すと、奇妙なものが壁に立てかけてある。形から察して電動の鋸《のこぎり》らしいとわかった。この家にふさわしい品ではない。文恵が使う道具ではない。
「どうなさったの?」
文恵がリビングルームから心配そうに覗く。
「あれ、なーに」
と西本は尋ねた。
「ああ、あれ。ベランダに欅《けやき》の枝が伸びて来て困るのよ。いつも冬になって葉が落ちると、切るの」
「あなたが?」
「そうよ。なんでも自分でしなくちゃ」
バスルームの水音はまだ続いている。
──嘘《うそ》をつくのがうまい女じゃない──
余人はいざ知らず、西本はそのことをよく知っている。一緒に暮らしていた頃……たいていは見ぬけた。見ぬいても知らんぷりをしていると、すぐに襤褸《ぼろ》が出て嘘がばれてしまう。
西本はソファに腰をおろし、あらためて本題に入った。
「実は東都新聞の記者から電話があって、稔君に逮捕状が出たらしい。コカインの売買。罪状は相当に重い」
一気に告げた。
「そうですか」
思いのほか文恵は冷静に受け止めた。
「実刑はまぬかれない。海外へ逃亡するおそれもある。あなたにもよいことはない」
「もう何度も泣かされ、覚悟はできてますわ」
「それはそうだろうけど……」
「正直なところ、あの子のことはあきらめているの。何度注意をしても性懲《しようこ》りもなく同じことを繰り返して……死ななきゃ直らないわ、つらいけど」
「わかるよ」
「麻薬なんて、自分も馬鹿だけど、それ以上に大勢の人を苦しめるものなんでしょ。売ったり勧めたりして、どのくらい人を不幸にしたかわからないわ。人殺しよりわるいくらい。人殺しなら、犯人のほうにもなにか理由があるはずでしょ。許せる部分もあると思うの。でも、麻薬の取引きなんて、お金儲けのために人を不幸に突き落とすわけでしょ。許せない。ちがうかしら」
涙が光っている。
「その通りだよ」
「失礼」
文恵は立ちあがり、奥の部屋へ続くドアを開けた。ハンカチを取りに行ったらしい。
だが、そのドアのむこうに、大きなダンボールの箱が二つ、ひどく場ちがいな様子で置いてある。
「えっ!」
西本は声を飲んだ。
場ちがいと思ったのは……そこがリビングルームから奥の部屋への通り路だから……。たまたま大きな物を箱に納め、一時的にそこへ置いたように見えたから……。
西本は自分の顔が青ざめていくのがわかった。
「あれ、なに?」
尋ねられて、ハンカチを当てた文恵の胸が、ドキン、本当に弾《はず》んだのではあるまいか。西本は鼓動が聞こえたようにさえ感じた。まさか鼓動までは聞こえなかったろうが、文恵の一瞬のうろたえぶりはそう感じさせるほど激しかった。
ドアを閉じ、
「言えないわ」
と、奇妙な表情で笑う。
「来たんだね」
西本は静かに尋ねた。
「だれが?」
「稔君が」
「どうして?」
西本はまた新しい言葉を捜さなければいけなかった。
「両切りのピースが落ちていた」
と、西本はあまり理由にもならない理由を告げた。文恵にはわかりにくかったろう。
西本は思う。数時間前……多分、きのうの夕刻あたり、
──稔がこの部屋へ来た──
と。稔は周辺に伸びて来る官憲の手を察知して海外への逃亡を企てる。このマンションへ来たのは逃走資金をくすねるためだったろう。そして、ほんの少し、母親への挨拶《あいさつ》……。しばらく会えないことは確実なのだから。
文恵がどう応対したかはわからない。自首を勧めただろう。だが、稔は取りあわない。そして最後に母は息子に告げた。
「蜂蜜のお湯、飲んでお行きなさいな。おいしいわよ」
稔がそれを飲む。激しい睡魔が彼を眠らせる。文恵はその寝顔を見つめ、細い紐《ひも》を握る。
──ちがうかな──
当たらずとも遠からず。この家の気配はすべて符合している。
考えてみれば、それが一番よい方法なのかもしれない。不肖《ふしよう》の息子を母が殺すのだ。死体が見つからなければ、海外逃亡が成功したと見なされるだろう。
「入っているんだね、バラバラにして」
と、西本はダンボール箱の見えなくなったドアを指さして尋ねた。
「ええ。やっぱりわかった?」
文恵は無邪気なほどすなおに頷く。
もう自首を勧めるどころではない。むしろ、今は、文恵の心を苛《さいな》むにちがいない恐怖と後悔を少しでも軽減してやることのほうが大切だろう。
「あなた、見たくないでしょ?」
だれだって見たくはない。
「どうするつもりなんだ」
「富山へ送るわ。昔の家のあとが記念公園になるの。造成が始まっているわ」
その公園の土の底にでも箱を埋めるつもりらしい。しかし……だれが運ぶんだ、だれが埋めるんだ。うまくいくはずがない。
「それはまずいよ」
今となっては死体が見つからないこと。それが一番必要な条件だ。それならば、文恵は救われる。どれほどの後悔があっても慰めようがある。
「そうかしら」
「私にまかせなさい。あなたのしたことは、けっしてまちがっていない。やむをえないことだった。母の責務かもしれない。いいね、稔君は海外へ逃げたんだ。もうけっして帰って来ないけれど、遠い国で今度はだれに追われることもなく、人を苦しめることもなく、安らかになれる。祈ってあげよう。さ、あなたは、もういい。みんな忘れて。これから先のことは私が引き受ける。富山になんか送っちゃいけないよ。間にあってよかった。私がやきものをやっているのは知ってるね」
「ええ……?」
「七、八メートルもある登り窯《がま》だ。心配ないよ。あとかたもなく焼けてしまう。車を用意して取りに来るから。いいね。急いだほうがいい。すぐに戻って来る」
西本は立ちあがった。
一刻も遅れてはなるまい。警察の捜査がここに及ぼうものなら、なにもかもおしまいだ。それより先に手を打たなければなるまい。
「私、大丈夫よ。来てくれてありがとう」
文恵は戸惑うように呟く。
「四、五時間、待って。ね、なにも考えずに」
「ええ……」
西本はコートを羽織り、急いで部屋を出た。エレベータでくだり、表通りへ走った。
文恵は一人部屋に残り、ポカンとした様子で首を傾《かし》げた。
──稔が追われている──
それはよくわかった。
──海外逃亡のおそれがある──
それもよくわかった。
「でも」
と呟いて、リビングルームから奥の部屋へ通ずるドアを開いた。二つの大きなダンボール箱が置いてある。
中には……離婚の原因となった父の彫像が入っている。バラバラになって……。故郷の記念公園に贈るつもりだった。
突然、電話のベルが鳴る。
ピクン、文恵は体を震わせて受話器を取った。
「ママ? 俺だよ」
と、稔の声が聞こえる。
「もしもし、どこにいるの?」
「今、行くよ。ちょっとやばいことがあって銭がいるんだ。できるだけたくさん。ね、これが最後だから……。大丈夫だってば。とにかく、今、行くから」
「待ってるわ。だれにも見つからないように来てね」
「わかってるってば。ママ、愛してるよ」
と含み笑いと一緒に電話が切れた。
文恵はソファに戻り西本が忘れていったタバコを一本抜いてゆっくりと喫った。
恐ろしい思案が浮かんだ。
もうこれ以上、稔にわるいことをさせたくはない。遠い国へ旅立ってくれれば、だれにも迷惑をかけないだろう。
──西本は登り窯で焼いてくれるって言ってたけれど──
あとかたもなく消えてしまうだろう。
だから……蜂蜜のお湯に睡眠薬をたっぷりと溶かして稔に飲ませれば、それでよい。
──私にできるかしら──
とてもできそうもない。おぞましいイメージが次々に脳裡に映る。いたいけな少年であった頃の思い出があとを追う。逡巡の時間が流れる中で玄関のブザーが鳴った。