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箱の中03
日期:2018-03-31 14:13  点击:227
 暗 い 頭
 
 
「なにが怖いって、やっぱり人間でしょう。それも少し頭の暗い奴《やつ》、これが一番怖い。ね、そうでしょ、砂田先生」
 突然、隣の席の男に声をかけられた。
 新宿の花園神社に近い路地裏のバー。黒い内装、黒いカウンター。スポット・ライトのような照明が細長い店のあちこちに光の濃淡を作っている。明るい光に曝《さら》して見せるような店ではない。
 客は五人。一人はカウンターにうつぶして眠っている。十二時に近かった。
 声と同時に、一番奥の席にすわっている男が顔をあげ、鈍い視線でこっちを見た。あまり感じのよい人相ではない。さっきからチラリ、チラリと視線を投げていた。
 ──知った人だろうか──
 照明が暗いので、よくわからない。じっと見つめるのも気が引けるし……。
「ねぇ、そうでしょ、砂田先生」
 もう一度、隣の男が私の顔をのぞき込む。
「まあ……」
 と、私は曖昧《あいまい》に答えた。
「駄目よ、弓さん。こちらさんは一人で静かに飲みたいんだから」
 と、ママが隣の男をたしなめる。
「うん」
「もうたっぷり飲んだでしょ。帰りなさいな」
「うん」
 神妙な様子で頷《うなず》いている。それほどしつこい酔っぱらいではないらしい。私としてはむしろ奥の席のほうが気がかりだ。視線がねばっこくからみつく。
 私の仕事はイラストレーター。だが、テレビのクイズ番組などにも時折出演しているから、顔を知っている人も多いだろう。
 今日の夕刻、新宿のデパートで油絵三人展が終った。私の本職はイラストレーターだが、油絵も描く。事業部の人の話では大成功だったらしい。新聞にも小さな批評が出た。私の作品だけが取りあげられていた。油絵で評価を受けるのはうれしい。色彩感覚と抒情《じよじよう》性がほめてあった。
 関係者と一緒に夕食をとり、そのあと、
「お車、どうしましょう」
 と尋ねられたが、
「いいです。ちょっと散歩をしますから」
 と断った。
 心が高ぶっている。わけもなく新宿の裏通りを歩いてみたかった。
 二十年ほど前……つまり、まだ駈《か》けだしだった頃、この付近に住んでいた。イラストレーターを目ざして必死に勉強し習作に励んでいた。西日の射す狭いアパート、丼飯《どんぶりめし》とコロッケ、銭湯、安酒……貧しい生活を続けながら夢だけを脹《ふく》らませていた。あの頃がひどくなつかしい。
 ──一種のナルシシズムかな──
 成功を勝ち得た今、ふっと昔なじんだ街《まち》を訪ねてみたくなったのだろう。
 十年以上もこの界隈《かいわい》に足を踏み入れていない。だから街の様子は相当に変っている。知らない道まである。新しいビルが目立つ。
 ──どこもかしこも汚かったからな──
 どの路地にも似たような匂《にお》いが漂っていた。その匂いも薄れ、ところどころひどく小ざっぱりした様子に変っている。
 見知った酒場を見つけて中へ入ったが、ママが代っている。店の構造には見覚えがある。カウンターの汚れぐあいにも、
 ──こんな感じだったな──
 記憶がないでもない。
「いらっしゃいませ」
 知らないママが一人に、知らないチーフが一人。こういう店では、ふりの客はめずらしいのだろう。
「前に来たことがあるもんだから」
 と、説明した。
「あら、ホント」
 ママもチーフも私の顔を知らないようだ。そのほうがいい。あまり雰囲気のよい店ではないけれど、昔はいつもこんなところで飲んでいた。今夜はわざわざ、それを確かめに来たのだった。
「水割りを」
「はい」
 静かにグラスを傾けていると、いきなり隣から、
「ねぇ、砂田先生」
 と、名前を呼ばれたわけである。
 あとで思い返してみると、その少し前まで隣の客はママを相手に、UFOがどうの、幽霊がどうの、夏の夜のせいなのだろうか、あやしい話に興じていた。私が耳を傾けるのを待っていたのかもしれない。
 いっこうに聞いてくれないので、
「怖いのは、やっぱり人間でしょう」
 と、まことしやかな文句を呟《つぶや》いたのだろう。
 だが、ママがいち早く私の気分を察してくれた。この配慮はありがたい。
「弓さん、ね、もうこれで最後よ。おうちに帰りなさいな」
 ママは薄い水割りを作り、もう�飲まさない�とばかりにボトルをうしろに隠す。
「うん」
「終電でしょ」
「母ちゃんとこへ帰るか」
 グラスの水割りをグイと喉《のど》に流し込み、フラフラと揺れながらドアを押した。
「気をつけてね」
 男の姿が消えるのを待って、
「すみません」
 と、笑う。若くはないが笑顔がかわいらしい。
「いや。水割り、もう一ぱい」
「はい」
「ママも、どう」
「はい、ありがとう」
 だがすぐにドアの外がにぎやかになり、三人連れが肩からなだれ込んで来る。
「あらっ」
 とママは店内を見まわし、
「すみません。席、つめてくださいな」
 私が頼んだ水割りを奥のカウンターへトンと置く。鈍い眼《まな》ざしの男の隣だった。
 ──弱ったな。出ようか──
 と思うより先に、鈍い眼ざしが、
「どうぞ」
 と、膝《ひざ》をそろえる。
「どうも」
 とりあえずその席に腰をおろした。
「いらっしゃいませ。どうしたの、その黒い顔?」
 ママは新しい客の接待に余念がない。
「グアムで焼いてきたんだ」
「豪勢ねえ」
「社員旅行だよ」
 私はママと客とのやりとりに眼を向けていたが、耳もとで、
「砂田先生、お久しぶりです」
 鈍い眼ざしの男がくぐもった声で話しかける。はすかいに見える表情が含み笑っている。独り笑いのような、自嘲《じちよう》のような……。
「失礼。ちょっと思い出せなくて」
 と、仕方なしに答えた。
 毎日いろいろな人に会っている。たくさんの名刺をいただく。ファンもいる。いちいち覚えてはいられない。
「清水です」
 そう言われても、私にはなにも思い出せなかった。年齢は三十四、五歳だろうか。
 男の服装は、黒いシャツに灰色のジャケット。特に異様ではないけれど、醸し出す雰囲気は、どことなくまともな生活者のようではない。なにかしらダーティな部分で生きている人の匂いがする。
「どちらの……?」
「ふふふ。前に先生のお宅にうかがったことがありますよ」
「ほう?」
「大塚の……あれは仕事場ですか。倉庫みたいな。今はちがうんでしょ」
「ああ、そうですか」
 十四、五年前、私は大塚に住んでいた。新婚間もない頃だった。新聞社が主催するコンクールで最優秀賞に選ばれ、イラストレーターとして一躍脚光を浴び始めた頃だった。大塚駅に近いマンションを住居とし、そこから自転車で五分ほどのところにアトリエを借りていた。たしかに倉庫のような部屋だった。訪ねて来る人は今ほど多くはなかったけれど……。かなり昔のことである。清水という名にはまったくなんの覚えもない。
「すみません。思い出せなくて」
「でしょうね」
 男はタバコをつまんで口にくわえる。左の手の甲に刃物でえぐったような醜《みにく》い疵痕《きずあと》が残っていた。
 ──やっぱりまともな人じゃない──
 そう思ったのは、疵痕のせいばかりではない。普通の社会人ならば、もっと明快な態度をとるだろう。清水などという姓は世間にいくらでもいる。肩書もなにも言わずに「清水です」と名のるのは配慮を欠いている。押しつけがましい。
 ──知らんのですか──
 と、不遜《ふそん》な気配が感じられてならない。それもこの男の身についたやり方なのかもしれない。
「先生になぐられましてね」
 男は唇をゆがめながらさらに解《げ》せないことを呟いた。
 私はめったに暴力をふるわない。よほどのことがなければ、人をなぐったりしない。なぐられるのも厭《いや》だが、なぐるのも同じように嫌いだ。ここ十数年を考えてみても、人をなぐったことなどあっただろうか。
 そう、息子をなぐった……。一度だけ。
 古い友人をなぐった……。酒を飲んで喧嘩《けんか》をして。相手がなぐったから。しかし、すぐに仲なおりをした。
 ──あとほかにあっただろうか──
 心当たりがない。人ちがいではあるまいか。
「私がなぐったんですか」
 男は私の戸惑《とまど》いをなめるように眺めてから、
「ほら、先生の絵を盗作して」
 と言った。
「ああ」
 それならわかる。すっかり忘れていた出来事を私は思い出した。
「あのときの……青年ですか」
「その節はどうも」
 と、首を垂れる。
 ──こんな顔の男だったろうか──
 面《おも》ざしは思い出せないが、出来事そのものの記憶は充分にたどることができた。
 
 だれにとっても新婚時代はすばらしいものだろうけれど、私の場合はとりわけ輝いていた。キラキラと眩《まぶ》しいほどに……。
 美しい新妻。一緒に暮らしてみると、心根のやさしさがよくわかった。最高の伴侶《はんりよ》。最高の生活。足に錘《おもり》でもつけておかないと、舞いあがってしまいそうな毎日だった。私生活が満たされているばかりか、私はあの前後、商業デザイン協会が主催するコンクールで入選したのを皮切りにつぎからつぎへと賞を受け、一歩一歩第一線のイラストレーターとしての地歩を固めていた。新聞社のコンクールは婚約の当日だった。アメリカの広告代理店から注文を受けたのも、あの頃だったろう。
 順風|満帆《まんぱん》。前途は無限に広がっていた。
「すごいのね」
 妻の喜びがまた私の喜びを倍加する。
 住まいは2LDK。これは結婚前に借金をしてようよう購入したものだから、アトリエを兼ねるほどの広さはない。西巣鴨の庚申塚《こうしんづか》の近くにほどよい建物を見つけて借りることにした。倉庫のような建物だったが、十坪近い広さがあって、改装すると、よいアトリエになった。
「行ってらっしゃい」
 朝食はコーヒーにトースト。新妻が作る野菜サラダ、キャベツいため、コーン・オムレツはどれもみんなおいしい。それを食べ終えると自転車を漕《こ》いでアトリエへ向かう。
「行って来るよ」
 玄関口でキスなんかをして……。外国の映画みたいだった。
 たしか……ひどくむし暑い、夏の午後だったろう。
 アトリエの電話のベルが鳴った。
「はい」
 不機嫌な声で答えた。
 ──どうせ仕事の催促だな──
 私としては普通の声で答えているつもりなのだが、みんなが「愛想わるいぞ」と言うところをみると、きっと不機嫌に響くのだろう。
「もしもし」
 妻の声だ。
「なんだい?」
 アトリエに妻から電話がかかってくるのはめずらしい。朝夕顔をあわせているのだから、よほどの急用でもなければ、わざわざ電話で話すことはない。
「お客さんがそっちへ行くわよ」
「だれ?」
「知らない人」
「編集者かな」
「そうじゃないみたい。どうしてもあなたに会って、おわびをしたいことがあるんですって……。あんまり熱心に言うものだから」
「若い人?」
「ええ。二十歳くらいかしら。いけなかった?」
「いや、かまわん。ちょうど仕事が一段落したところだから」
「ちょっとへんな人よ」
「うん?」
「気をつけたほうがいいみたい。逃げ道、用意しておいたほうがいいんじゃない」
 声が笑っている。本気で心配しているわけではあるまい。
「わかった」
 私も笑いながら答えた。
 アトリエには出入口が三カ所もある。逃げ道にはこと欠かない。とはいえ私も本気で心配をしたわけではなかった。
 ──なにをわびるつもりかなあ──
 思い当たることはなにもない。多分ファンの一人ではあるまいか。若い人たちのあいだではイラストレーターは人気の職業である。ファンもたくさんいる。私としては世間に名を知られるようになって間もない頃だったから、私に関心のある人に会ってみるのも、
 ──おもしろいかもしれない──
 そんな好奇心を抱いたのも本当だった。
 電話を切ってから三十分あまり待った。もう来ないのかと思った。
 ──それならそれでいい──
 次の仕事の段取りにでもかかろうかと思ったときにブザーが鳴った。
「はい」
 ドアを細めに開けた。
 中肉中背。ひどく緊張しているような印象だった。
 ──少し暗いタイプかな──
 顔をまっ赤にして汗を流しているのは、道に迷ってあちこち捜したせいだろう。
 にこりともせずに首だけを垂れた。お辞儀のつもりなのだろう。
「アトリエのほうへ行けって言われたもんですから」
 と、ぶっきらぼうに呟く。
「ああ、そう。今、電話があったよ。どうぞ」
「失礼します」
 田舎《いなか》の人らしい。悪気はないのだろうが、人づきあいの作法に通じていない。ひどく丁寧なところと、ぞんざいなところがまだらを作っている。
 玄関のすぐ近くにソファが置いてある。テーブルを挟んで私の席がある。私は冷蔵庫を開け、カン入りのジュースを取り出し、グラスと一緒に男の前に置いた。
「暑かったでしょう」
「はあ。いただきます」
 男はジュースを一気に飲み干した。
「もっといる?」
「いいです」
 ソファに浅く腰をおろしてアトリエの奥をうかがっている。
「十五分でいいですね」
 時間を制限したほうが無難だろう。
「はあ?」
 言葉の意味がよく飲み込めないらしい。
「次の仕事があるもんだから」
 と、私は時計を見た。
「あ、はい。清水と言います」
 男は名を名乗った。最初からちぐはぐな感じだった。
「砂田です」
 笑いながら私も名を告げた。そして両掌《りようて》で片膝を抱えながら相手が話しだすのを待った。
 男は一つ深呼吸をしてから、
「あのう、私、先生に謝らなければいけないことがあって……」
 深々とお辞儀をする。そのあまりの丁寧さに、私はなにか私の見えないところで、
 ──よほどひどいこと、やられたんじゃあるまいか──
 と、そんな不安を覚えたほどであった。
「なんでしょう」
 表情を引き締めた。
「私、長野の商業高校を出て、それから東京に来て、練馬で食品関係の会社に勤めています」
「はい」
「高校二年のときに年賀状のコンクールがあって、私、先生の絵をそっくり真似して出しました」
「なるほど」
「一等になって賞品をもらい、校友会雑誌の表紙にもなったんだけど、そのあと、あれは盗作だって、わかってしまいました」
「どんな絵ですか」
「葉書の上のほうに�賀正�って赤い字が書いてあって下のほうが四角い絵になってるやつ……。青っぽい版画で、木と雪と灯籠《とうろう》が白く抜いてあって、灯籠の中に黄色い灯がともってて……」
 それだけ言われれば見当がつく。
「ああ、月刊デザインに発表したやつね」
「はあ。古本屋で見つけて、とってもいいと思ったから、つい魔がさしてしまって……。そっくり同じのを作って、出したんです」
「そう」
 あまりほめられたことではないけれど、中学生や高校生なら、ついうっかりをやりかねない。いや、むしろいろんなところでおこなわれていることだろう。早い話、正月が近づく頃の雑誌の誌面に専門家の年賀状をサンプルとして掲げること自体が、
 ──どうぞ真似をしてください──
 という示唆《しさ》ではあるまいか。
 気に入ったデザインを真似して私的に配っているぶんには、トラブルも起こるまいけれど、コンクールに応募したとなると、これはルール違反だろう。
「入賞したわけね」
「はあ。最優秀賞でした」
 どれほどの規模のコンクールだったのか。話の様子では、せいぜい学内の生徒を対象としたもののようにも感じられた。
「そのとき、すぐに言えばよかったんだがねえ、こういうことは」
「そうなんです。校長室に呼ばれて、いきなりほめられちゃって……。それで引っ込みがつかなくて」
 事情はおおむね察しがつく。美術かなにかの宿題で年賀状のデザイン作製が課せられたのだろう。提出期限が迫り、苦しまぎれに、
 ──これでいいや──
 軽い気持ちでそっくりのコピイを作ってしまったのだろう。
 ところが、それが最優秀作に選ばれてしまった。校長がこのコンクールに関心を持っていて、
「これ、いいじゃないか。だれが描いたの? ほう、二年の清水君か。ちょっと呼んでくれ。センスがあるよ、なかなか」
 校長みずからがほめることになってしまった。校長室にはきっと、担任の教師や美術の教師もいただろう。こういう情況では、
「あれはちがうんです」
 と告白するのに勇気がいる。狼狽《ろうばい》しながらも成行きにまかせてしまう。
 むしろ私としては、
 ──美術の先生が気づかないものかなあ──
 と、そちらのほうを疑わないでもなかった。
「君はもともと絵がうまいほうなの?」
「いえ、普通です」
 かりにも原画はプロの手によるものである。わるいできではなかった。普段、普通程度の絵を描いている学生があれだけのデザインを描けるものかどうか、さらに言えば、年賀状のデザインなんて、どれほど物真似が多いものか、大人である教師が少し想像力を働かせてみれば、見抜けないことではなかったろう。そんな気がしてならない。運のわるいことに、みんな善意の教育者ばかりだったらしい。
「困ったでしょうな」
 そのうえ、それが校友会雑誌の表紙を飾ったとなると……。
「はあ。盗作だ、盗作だって言われて、みんなの前で謝らされて……外にも出られんし、親にも叱《しか》られるし」
 首を垂れたままボソボソと呟く。表情の暗さは、もともとの性格なのだろうか。それともこの事件と関係があるのだろうか。
「さんざんな目にあったわけだ」
「はあ。すみませんでした」
「充分に罰は受けたわけだ」
「自分でわるいことしたんだから仕方ないけど……このあいだ電車の吊《つ》り広告で先生の名前を見ました」
「展覧会の広告かな」
「それを見てたら、そう言えばまだ先生には謝ってなかったと気がついたんです」
「私に?」
「盗んだのは先生の作品だから。学校では謝ったけど、先生にはまだ謝っていません」
 男の訪問の目的がようやくわかりかけた。私はまた笑ったかもしれない。
「もうあなたは罰は受けたわけだから」
「盗作されても平気ですか」
 顔をあげて、きっと睨《にら》む。心の不確かさを感じさせる鈍い眼ざしだった。
「いや、そうでもないけど」
 私はあわててうち消した。
「もちろん自分の作品を盗作されて平気なわけがないよ。ただあなたの場合は、それでお金儲《かねもう》けをしたわけじゃない。学校のコンクールに出して、学校の雑誌の表紙になった。いいことじゃないけど、もうすんだことだし、今さら目くじらを立てるほどのことでもないでしょう。こうやって訪ねて来てくれただけで充分です」
「そうすか。私みたいな小物に盗まれても、先生は平気だってことですか」
 からみつくようなもの言いである。一途《いちず》で生真面目《きまじめ》なだけの青年ではないのかもしれない。
「小物ってわけじゃないけど、もういいでしょう」
「おとしまえをつけさせてください」
 うわめ遣いでチラリと私の表情をうかがう。
 ──まるでチンピラだな──
 もしかしたら本当にチンピラそのものなのかもしれない。そんな気配も感じられる。学校に行きにくくなり、中退して東京に出て来た……。そんな生活はけっして楽ではあるまいし、誘惑はたくさんある。仕事をあちこち変え、わるい仲間に誘われる。
「私にどうしろって言うの?」
「なぐってください」
「どうして?」
「盗作をしたんだから」
「いきなりなぐってくれって言われてもなあ」
 私は笑って、その場の雰囲気をやわらげた。
 しかし、相手は固い表情ですわっている。
「私なんかをなぐったら、手が汚れるんですか」
 卑屈になることには慣れているらしい。
「そうじゃないけど」
「じゃあ、なぐってください」
 暑い日射しの中を、ただなぐられることだけを考えて、この男は私の家を捜し、アトリエまで訪ねて来たのだろうか。
「困ったね」
「レベルのちがう者なんか、なぐれんのですか」
 あまり愉快ではない。こんな謝りかたがあるものだろうか。
「なぐればいいの?」
「はい」
「それでおしまい?」
「はい」
「本当だね。もう約束の時間も過ぎたし……じゃあ」
 男は私より先に立って、気をつけの姿勢をとった。
「いいね」
「はい」
 軽くなぐったのでは、相手は満足しないだろう。
 パシン。
 私は平手で男の頬《ほお》を打った。
「もっと強く。もう一つ」
 パシン。私は言われるままになぐった。
「お邪魔しました」
 男はもう一度お辞儀をして、ドアへ向かった。
「もう気にしないことだね」
 私はうしろ姿に声をかけたが、聞こえたかどうか……。
 それだけの出来事だった。
 
「頭の中が少し暗いんじゃないの?」
 私はその日の出来事を妻に話した。
「まあ、そうかもしれん」
「いるのよ、結構世間にはたくさん。見ただけじゃ、わからないでしょ、すぐには。普通の顔して歩いてるけど、少し頭がおかしいの。怖いわね。なにをやりだすかわからないから」
「チンピラみたいな感じもしたな。眼つきだとか、話しかたとか」
「平気かしら、なぐったりして。あとで脅されたりしない?」
「大丈夫だろ」
 自分の犯したあやまちにあれほど固執するのは普通ではない。生真面目なのかもしれないが、この真面目さはちょっとあやうい。バランスを欠いている。あんなにつきつめて生きていては、この世の中は生きにくい。人づきあいもむつかしいのではなかろうか。
 ──どんな生活をしているのかな──
 私としては、男の背後にあまりまともとは言えない生活を想像したが、どの道、深くかかわることではない。すぐに忘れた。
 そして、もう一度この出来事を思い出したのは、つい一年ほど前のこと。月刊誌にエッセイの執筆を頼まれ、
 ──なにを書こうかな──
 ふとアトリエを訪ねて来た青年を思い出した。
 ──たしかに世間には頭の少し暗い人間がいる──
 外見は普通の人と変らないが、どこかが少しおかしい。なにかの拍子にそのおかしさが外に現われる。軽い狂気……。時折そんな事件が新聞の社会面に載っている。
 ──多分、あの男もそうだったろう──
 眼つきも、ものの言いかたも少しへんてこだった。人を訪ねて来て、いきなり「なぐってくれ」だなんて……それだけでもまともではない。エッセイはそんな視点で、遠い日の出来事を忠実にたどって書いた。
 それもすぐに忘れた。
 
 そして新宿の裏通りの酒場で思いもかけずその清水という男に、
「お久しぶりです」
 と、声をかけられたというわけだ。
 ──こんな顔だったかなあ──
 ほとんどなんの記憶も残っていない。
 ただ……どう説明したらよいのだろうか、以前は暗く、卑屈な印象だったけれど、田舎の人らしい生真面目さがあった。そんな気がする。一途なところがあった。はっきりとは思い出せないが、たしかそうだった。
 今はちがう。暗くて、ふてぶてしい。暗さは変りないが、ヌメッとした無気味さがある。眼ざしが濁っている。真面目さは少しも感じられない。あれ以後の人生が彼を歪《いびつ》に変えたのではあるまいか。
 左手には深い疵痕があった。右手のほうは腕から手の甲にかけて不自然なほど筋肉が隆起している。格闘技の訓練を積んだみたいに……。それもよい印象ではなかった。
 私が黙っていると、男は、
「ご活躍のようで」
 と言う。
「まあね」
「エッセイを読みましたよ」
 男は、あのエッセイを……アトリエに訪ねて来た青年のことを綴《つづ》った私のエッセイを読んだらしい。まずいな。
「印象深い出来事だったから……」
 笑いながら答えたが、男は笑わない。
 私の水割りはすでにただの水に変っていた。もともと長くいるつもりで入った店ではない。
「ママ、お勘定。これで足りるね」
 五千円札をカウンターに投げた。
「あ、どうも。お釣り……」
「いや、いらない。失礼。用があるものだから。元気でやってください」
 最後の台詞《せりふ》は清水という男に告げた。そしてうしろも見ず、あたふたと店を出た。
 ──わるいこと、書いたかな──
 夜道を歩きながらエッセイの内容を反芻《はんすう》してみた。訪ねて来た青年に対して悪意はなかったけれど、�頭の少し暗い男�の一例として書いたことはまちがいない。当人が読んだら、よい気分にはなれないだろう。
 ──配慮が足りなかったな──
 昔なじんだ街を訪ねてみようと、そんな気を起こしたのがいけなかった。
 ──たしかに、一番怖いのは人間だな。頭の少し暗い奴、これが怖い──
 酒場で聞いた話を思い出しながら、角を曲がった。ヒョイと人影が私の前に立った。
「先生、急ぐこと、ないでしょ」
 清水がそこに立っていた。
「なんですか」
 私は相手の顔を見た。
 鈍い眼ざしが細くなった。黄色い眼だと思った。
「先生。あれは、やっぱし盗作って言うんじゃないすか。私のやったこと、そっくり書いたんだから。なんのことわりもなく」
 男の頭の中が暗いかどうか、それはわからない。ただ、男が考えたことは、すぐにわかった。
 つまり、私のエッセイは、清水青年の行動をそのまま書き写している。ことわりもなくコピイを発表したのだから、これは盗作だろうと……。その理屈が正当かどうかはともかく、男がそう考えたことは、疑いない。そして盗作である以上、それを犯した者はその報いを受けなければいけないと……。
「おとしまえをつけさせてくださいよ」
 いつかも同じ台詞を聞いた。
 男がポキンと指を鳴らした。黄色い眼が凶暴な光を帯びた。

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