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箱の中04
日期:2018-03-31 14:14  点击:322
 知らないクラスメート
 
 
「ニャンコは、かならず遅れて来るのよ」
 と、甲高い声が聞こえた。
 さんざめきを貫いて、よく通る。幹事役の野中照美の声だろう。昔から美しいソプラノの持ち主だった。
「そう。いつだって遅いんだから」
 だれかが相槌《あいづち》を打つ。
 四谷のレストラン。小ぎれいで、料理がおいしくて、値段もさほど高くはない。二、三十人で会食のできる瀟洒《しようしや》な部屋があって、女性たちの同級会などにはよく利用されているらしい。
 さわやかな五月の夕刻、昭子たちが集まった理由も、まさにそれだった。短大を卒業して十七年目。
 ──この前は……たしか実家の父が死んだとき──
 と昭子は思う。
 だから五年前。昭子は出席できなかった。その前となると……一度集まったのは確かだが、時期までは思い出せない。
 四十数人のクラスだった。小さなグループではずっと交流が続いているのだろうけれど、クラスの全員に呼びかける集まりはめずらしい。知らない顔もないではない。名前の思い出せない人となると、さらに多い。
 時刻は五時を十四、五分まわっている。
 段取りに手ちがいがあったらしく、集合は�五時(時間厳守)�と案内状に記されてあったのに、
「ごめんなさい。前の会合が延びたらしいの。五時半には、お部屋へ入れますから」
 と、もう一人の幹事が説明する。
 おかげで時間を厳守した面々は、玄関|脇《わき》の狭いホールで待つことになってしまった。
 子育ても一段落したのだろうか。今日の出足はわるくない。昭子は十分遅れの到着。親しい顔も見えるのだが、ホールが込みあっているので、人をかきわけて近づくのはむつかしい。
「お久しぶり」
「お元気?」
「ええ、おかげさまで」
 周囲の人とだけ挨拶《あいさつ》を交わし、昭子は柱のかげに立って、見るともなしにみんなの様子を眺めていた。
 手を取りあって話している二人がいる。
 ──あの人たち、そんなに親しかったかしら──
 たしか同じボーイ・フレンドに熱をあげていた……。馬術をやっていた男。
 ──どちらかがその人と結婚したのかしら──
 その後の消息は知らない。どちらもふられてしまって、それで仲がよくなったのかもしれない。
 その隣にいるのは、
 ──あら? 手島さん、老けたわ──
 観察が少し意地わるい。
 クラスできれいな人と言えば、手島さん、それから二宮さん。
 ──私は三番目くらい──
 しかし、みんなが三番目だと思っていたのかもしれない。
 いずれにせよ、一位と二位は暗黙のうちに了解されていた。その手島さんが今日はあまり美しくない。昔から痩《や》せぎすで、眼ばかり大きい人だった。こういう顔立ちは、皮下脂肪の、ほんのわずかな多寡《たか》で美しさが左右される。三十代のなかばだから、まだ充分に美しくてよいはずなのに、
 ──どうしたのかしら──
 体のどこかに支障があるのかもしれない。お化粧の下の肌がドス黒く感じられる。
 ──二宮さんはどうかしら──
 二宮佳子の渾名《あだな》はニャンコ。面ざしが猫に似ているわけではない。二宮という苗字《みようじ》からつけられたものだろう。手足の動きがしなやかで、そのあたりの印象が猫に似てないこともない。人柄も明るくて、ニャンコはいつもクラスの中心だった。
「ニャンコ、まだ?」
「だから、いつも遅れるのよ、あの人」
「先生は?」
「青山羊《あおやぎ》さんは来ないみたいよ」
 クラス主任は青柳教授。まるで名前に合わせたように、顎《あご》に髭《ひげ》を垂らしている。だれが考えても、渾名は青山羊に落ち着くだろう。
「よかったあ」
「あなた、睨《にら》まれてたもんね」
「そうよ。言語学だけ私、Cなんだから。一生恨んでやる」
「でも、Dじゃなくてよかったじゃない」
「ひどいわ」
 声の聞こえる範囲で笑いが起きる。昭子も笑ったが、
 ──あの人、だれかしら──
 と視線を移した。
 話し声は当然聞こえただろうに、笑いに加わらず、壁ぎわに無表情のまま立っている……。
 実を言えば、さっきから気がかりだった。灰色のワンピースを着て、黒い、つばつきの帽子をかぶっている。だれとも喋《しやべ》らない。さほど注意深く観察していたわけではないけれど、そんな気がする。
 ──お仲間じゃないのかしら──
 その可能性も皆無ではない。
 昭子たちが群がっているのは、レストランの玄関脇のホールである。ほかの客だって、自由に出入りするスペースである。
 たとえば、その灰色のワンピースの女性は、このレストランのホールで、だれかと待ちあわせをしていた。待ち人が現われるより先に、昭子たちのグループがどんどん集まって来て、行き場を失ってしまったのかもしれない。彼女が立っているのは、入口にそう遠くない位置だから、そんな事情も考えられないでもない。
 しかし、それはかなり無理をして考えたことでもある。
 ──私だったら、あんなところにはいないわ──
 昭子のみならず、たいていの人がそうだろう。まちがわれたらばつがわるい。なにも喋らず、みんなから半歩くらい距離をあけているけれど、このホールを埋めているのは昭子たちのグループだけなのだから。
 ──ほかに行くところ、あるでしょ──
 ドアの外だってよい。雨が降っているわけではないのだし、なにも気まずい思いまでして中に留《とど》まっている理由はないだろう。
 ──でも、世間にはおかしな人もいるから──
 灰色のワンピースは、もしかしたら頑《かたくな》な性格の人なのかもしれない。
 ──私のほうが先に来たのよ。外で待つのなら、あんたたちが待つべきよ──
 などと考えているのかもしれない。無表情は少し怒っているようにも見える。いずれにせよ、かすかな違和感が漂っていた。
 ──でも、上から落ちて来た人もいたから──
 と、これは十七年前の記憶である。
 卒業名簿には五十人近い名前があったはずである。ほとんどが一年のときに一緒に入った仲間だったが、ほんの二、三人、上から落ちて来た人が……つまり単位が取れずに落第した上級生が含まれていた。
 名簿に名前が記されているから案内状が届く。たいていは、
 ──私はちがうから──
 と、当人が出席を避けるが、中には奇特な心がけの人もいるだろう。あるいは主任の先生にだけは特別にお世話になっていたりして……。そこで出席してみたものの、親しい顔がどこにもいない。それで戸惑っている……と、そんなふうに見えないこともなかった。
 五時二十一分。
「もうすぐですから」
 と、幹事も少し苛立《いらだ》っている。
「ニャンコ、来ないじゃない。来るはずなんでしょ」
「出席の通知はいただいてるけど……」
「二宮さんは、いつも二十五分遅れるのよ」
「あら、そうなの」
「知らなかった? その点は正確なの。だから憎たらしいのよ」
 言われてみれば、昭子にも思い当たるふしがある。二宮佳子とは、それほど親しくはなかったけれど、何度か行動をともにしたことはある。コンサートへ行くとか、パーティに出席するとか……。女性同士のことだから、十分、十五分の遅刻は許容範囲のうちだろう。それが過ぎて、
 ──どうしたのかしら──
 心配になり、つぎの手立てを考える必要が生じ、
 ──とにかく早く来て──
 と、願うような心境になったとき……それが多分二十五分の遅刻くらいだろうか、
「ごめんなさい」
 憎めない笑顔で現われる。待たされたほうは、
 ──よかった──
 怒るよりも安堵《あんど》の胸を撫《な》でおろしてしまう。微妙なタイミング……。そんなことが、昭子が覚えているだけでも二、三度あった。だれに対しても、同じ手口なのだろう。
「だから、ニャンコには三十分前の時間を言えばいいのよ」
「やったわよ。そうしたら五分前に着いちゃって、だれも来てないじゃないの。ニャンコったら待ってればいいのに買い物かなんかに行っちゃって、結局二十五分遅れて現われたのよ」
「待たせる人って、自分で待つのはきらいなのよね」
 時計が五時二十五分を指した。
 しかし、動きがあったのは会場のほうである。
「ご迷惑をおかけいたしました。チェリー・ルームのほうへどうぞ」
 黒服の男が呼びかける。
「じゃあ、みなさん、どうぞ」
 幹事にうながされて一同がゆるゆると両開きのドアをくぐり抜ける。
「あら、きれい」
「本当に」
 部屋は中庭に面している。広い庭園ではあるまいが、傾斜を作り、樹木を植え、奥行きを深く見せている。噴水が水を噴きあげ、幅広いフランス窓にそってチューリップが今を盛りと花を並べていた。
 入口でくじを引き、口の字形の席につく。
「もう全員、見えたのかしら、出席の通知を寄こされたかたは?」
「えーと、二宮さんだけ……」
「ニャンコ、今日は特別に遅いわね」
 いつもみんなの中心になって華やぐ人である。まったくの話、
「ニャンコがいないと、クラス会じゃないみたい」
 そんな感じも嘘《うそ》ではない。
 そのときである。
「二宮さんは死にました」
 ざめわきを縫って、はっきりと聞こえた。
 ドアに近い部屋のすみから、灰色のワンピースがあい変らず無表情のまま発した声だった。
 一瞬、部屋の中が静まった。みんなが息をのんで、すみの席にすわった女を見た。当然なにか説明が続くのだろうと思った。
 だが、灰色のワンピースは、黙ってすわっている。
「だれなの、あの人?」
「わからない」
「落ちて来た人じゃない?」
「そうね、きっと」
 小声でささやく。
 突然、笑い声が起こり、
「あなたも、その話、聞かされたの?」
 と、とりなしたのは、フランス窓を背にしてすわっている春恵だった。
 テーブルのところどころに似たような笑い顔が散っている。
 ──なにか仕掛けがあるらしい──
 怪訝《けげん》な顔を向けると、春恵が�みなさん、落ち着いて、落ち着いて�とばかりに両手を広げ、掌《てのひら》を下に向けて静める。
「私がヘマをやったの。でも、そうでしょ、だれだって驚くわよ」
 と、少し大きな声で話し始めた。
 オードブルが並ぶまでには、まだ少し時間があった。
 
 三カ月ほど前のこと、春恵が二宮佳子のところへ電話をかけた。
 あとで考えてみれば、電話番号を押しまちがえたにちがいない。
「二宮さんですか」
 あいにく、かかった先の家の苗字《みようじ》も二宮さんだったらしい。
「はい」
 くぐもった女の声が答える。佳子ではない。
「佳子さん、いらっしゃいますか」
「佳子は死にました」
「えっ、本当に? いつでしょう」
 だれだって、あわててしまう。
「一カ月前に。急死です」
 ガチャン、と電話が切れた。
 ──大変──
 春恵は、二宮佳子とそれほど親しい仲ではない。佳子の家族について、面識はもちろんのこと、ほとんどなんの知識もなかった。
 ──離婚をして、実家に帰って……子どもはないはずだし……。今、電話に出たのは、だれかしら。あまり感じのいい声じゃなかったけど──
 とりあえず仲よしの石井百合香に電話をかけた。
「あなた、ご存知? 二宮さん、亡くなられたんですって」
「本当? 知らない。ご病気?」
「いえ。それがよくわからないの。一カ月前って、電話口では言ってらしたけど」
「じゃあ、事故かしら」
「言っちゃわるいけど、電話口の人、とてもつっけんどんだったわ。なんかよくないことでもあったんじゃないかしら」
「そうねえ」
「いずれにせよ、このまんまってわけにもいかないでしょ」
「お葬式はすんでるわねえ、きっと」
「ええ……。みんなに声をかけて、お花くらい届けなくちゃ。四十九日とか」
「そうね。則子に聞いてみる。彼女、ニャンコと仲よかったから」
 つぎからつぎへと電話の輪が広がる。
「ニャンコったら、運転免許を取ったって言ってたわ。それじゃないの」
「彼女、放心癖があるでしょ。道を歩いていながらボケーッとしてるの。あれ、危ないわよ」
 だが、間もなく、
「馬鹿なこと言わないでよ。チャンと生きているわよ」
「うそーォ」
「嘘じゃないわよ。今、電話で話したわ」
 情報はもとの道を戻って春恵にまで届いた。
「ええーッ。困ったわ」
 春恵としても自分の早とちりに気づかずにはいられない。文字通りの大失敗であった。
 
 同級会の会場で、ところどころに起きた薄笑いは、この騒動の関係者のものだろう。一度はうっかりと二宮佳子の死を思った人たちの笑いである。
「本当に私がドジだったのよ」
 と、春恵は深々とお辞儀をする。
「どういうことだったの?」
「わかんないわよ。ただ、やっぱりまちがえて番号を押したんでしょうね。そこが偶然、二宮って家で……私が�二宮さんですか�って聞いたら�はい�って、たしかに答えたのよ。だから私、天からニャンコの家だと思ったわけ。それで次は�死にました�でしょ。あせったわよ、本当に」
「ひどいわね」
「あとで考えたんだけど、ニャンコの家ととてもよく似た電話番号で、今までにもチョイチョイまちがわれていたんじゃないのかしら。それで頭に来ちゃって……」
「よく�火葬場です�って答えるのがあるって言うじゃない」
「それとおんなじ発想ね。まちがい電話がかかって来ると、みんな�死にました�って答えるのよ、きっと」
「人騒がせじゃない」
「でも気がつくんじゃないかしら、たいていは。自分がまちがえたって」
「すみません、私は馬鹿で、気がつかなかったんです」
 と、春恵がまた丁寧に頭《こうべ》を垂れる。
「ごめんなさい。あなたのことじゃないわよ……」
 と、あわてて訂正するのを、照美が横から押さえて、
「大変お待たせいたしました。オードブルもそろいましたようなので、同級会を開催いたします」
 開会の宣言をした。
 昭子はあまり親しくはない二人に席を挟まれてしまった。右手にすわった高木さんは、電話に惑《まど》わされた一人らしい。オードブルのチーズをフォークの背に載せながら、
「噂《うわさ》って広がるたびに本当らしくなるでしょ」
 と、今の話題を蒸し返す。
「ええ……?」
「AさんBさんCさんと順に伝わって来て、はじめのAさんは疑いを持つこともできるけど、Bさんは無理でしょ。話だけ聞いて、まるまる信じ込んじゃうと、もう疑えないわ。それがCさんに伝わるときは完全に本当の話になっちゃうのよね」
「ええ……」
 たしかにそういう構造はありうるだろう。
 今のケースについて言えば、春恵だけは疑うことができた。相手の声の調子がおかしかった、つっけんどん過ぎた、普通はもう少しくわしく死の事情を説明してくれるものだろう、電話番号を押しまちがえたかもしれない……などなどと。
 しかし、いったん春恵が、
 ──二宮さんが死んだ──
 そう信じ込んでしまい、そこから発せられる伝達は、次の人にとっては疑うのがむつかしい。�死んだ�と言われれば�死んだ�ことなのである。冗談で言えることではない。電話口では、
「去年、お会いしたときは、お元気だったのに」
「どこかそんな感じのかただったわね」
「パッと咲いて、パッと散るタイプなのかしら」
 まことしやかな感想なども加わって、ますます固い真実となってしまう。
 ──なにか似たことがあったわ──
 昭子はキャビアの塩味を舌の上に転がしながら思った。
 ──そう、鯛《たい》の刺身だわ──
 昭子が中学生の頃……。あれも電話だった。
 電話をとったのは、昭子の姉だった。遠縁の従兄《いとこ》の声で、
「鯛を一匹もらった。刺身にして持って行くから、今晩のおかずは作らずに待っててくれ」
 と言う。
 あとで聞けば、従兄は、
「俺《おれ》は、目の下二尺の鯛って言ったはずだがなあ」
 と、頭をかくのだが、そのことは母には伝わらなかった。刺身が到来するという情報だけが姉から母に伝わり、母から祖母に伝わり、昭子や兄にも伝わって、
「どうした風の吹きまわしかしら」
「鯛の刺身って、どんな味だっけ」
「なさけないこと言わないでよ」
「お酒を用意しておかなくちゃあね」
 待てど暮らせどいっこうに鯛は届かない。
「大きな鯛なのかしら」
「二尺って、どのくらい」
「六十センチ以上だろう」
「目の下って、なーに?」
 と姉が聞く。
「魚の大きさを言うとき、目から下の寸法を言うのよ。頭は普通食べないでしょ」
「じゃあ、目の下六十センチって言ったら、すごいじゃない」
「電話でそう言ったの?」
「ええ。たしかそう言ってた」
「大き過ぎるわ。嘘《うそ》じゃない」
「あっ、エイプリールフール、今日は」
「それよ、それ」
 被害が大き過ぎたため、従兄は母や祖母から苦情を言われたらしい。�目の下二尺�のところで気づくべきだったろう。しかし、電話を受けた姉が信じ込んでしまい、それから先は信じた話がつぎからつぎへと伝わって行く。
 ──あれとおんなじ──
 オードブルの中にも鯛のマリネがある。梅肉であえて和風の味つけに仕上げてある。とてもおいしい。それを喉《のど》に落としてから、
 ──そう言えば──
 昭子は急に思い出して、ドア寄りの席に視線を向けた。
 ──あの人──
 灰色のワンピースは、やはり黒い帽子をかぶったまま無表情にすわっている。ナイフとフォークを取ろうともせずに……。
 ──変ね──
 彼女もまちがったニュースを伝えられて�二宮さんは死んだ�と思ったくちなのだろう。だが、その後の知らせが……つまり�あれはまちがいでした�という伝達が彼女には届かなかった。それで今日まで、二宮佳子が死んだものと思っていた……。
 ──ちがうかしら──
 きっと、そう。だから、みんなが、
「ニャンコ、遅いわねえ」
 と呟くのを聞いて、突然、巫女《みこ》の託宣のように、
「二宮さんは死にました」
 と告げたにちがいない。
 いや、当人に確かめたわけではないから確信を持てないが、会場のみんながそう思っただろう。
 ──もう少し話題に加わればいいのに。トンチンカンの人っているのよね──
 訝《いぶか》しく思うより先に、
「順番に近況報告をお願いしまーす」
 と、昭子のすぐ近くから立ってショート・スピーチを始めることとなった。
 一人一分間。家族のことなどを話せば終ってしまう。
 メニューはスープに移り、次に車海老《くるまえび》のクリーム煮が運ばれて来た。
「ニャンコ、来ないわね」
「どうしたのかしら」
「あらっ」
 気がつくと、灰色のワンピースが消えている。近況報告もせずに……。洗面所にでも立ったのかと思ったが、いっこうに戻って来ない。
「あの人、だれなの?」
「だれも知らないんじゃない」
「頭、おかしいんじゃないの」
 みんなが首を傾《かし》げたが、そのときはそれ以上、長くは話題にならなかった。
 そして、会食が終りに近づく頃、幹事の照美に電話がかかり、戻って来た照美の顔はまっ青に変っていた。
「二宮さんが亡くなられました」
「えっ?」
「今度は本当のようです。お母様から電話があって……」
「いつ?」
「ここへ向かう途中。病院からのお電話みたい」
 満場がざわめく。
「さっきの人、なによ」
 捜し求めたが、灰色のワンピースはあとかたもなく消え去っていた。
 
 葬儀の日には大半のクラスメートが集まった。
 事故死の事情が少しずつ明らかになる。二宮佳子は、同級会の当日、銀座に用があり、それをすませたあと午後五時過ぎにタクシーを拾って四谷へ向かった。そのまま到着すれば、例によって二十五分遅れになったのではあるまいか。赤坂の日枝《ひえ》神社の下の道路でダンプカーと衝突。運転手は軽傷ですんだらしい。二宮佳子も即死ではなかった。救急車が呼ばれたが、病院に向かう途中で心臓が止まった。死亡時刻は五時三十二分……。
「変な女の人が�死にました�って言った時刻じゃない」
「そうよ」
 時計を見ていたわけではないから正確なことはわからないけれど、多分、そのくらい……。
 ──たしか五時二十五分に会食の部屋へ入って、それから少しあと──
 と、昭子は記憶している。
「なんだったのよ、あの人? 黒いつばつきの帽子なんかかぶって」
「怖い」
「厭《いや》あーね」
 いったいだれなのか、今度は本気で詮索《せんさく》が始まったが、照美も、もう一人の幹事も、
「いつのまにか来てたのよね」
「そばに行くと、すっと向こうへ行っちゃうの。てっきり落第組だと思って……」
 と要領を得ない。
「出席の通知を寄こした人は全員見えたわけでしょ、ニャンコ以外は?」
「ええ。でも、返事をくれないかたも結構いたから……。私、聞いたのよ。でも、あの人�野中さんのほうに言いました�って照美のほうを指さすから……」
「あら、私、なんにも言われてないわよ」
「会費はどうなっているの?」
「会費だけはレジに置いてあったわ、無記名で」
「手島さん、あなた、なにか話していらしたじゃない。隣の席だったでしょ」
 調べてみると、灰色のワンピースと口をきいたのは、手島みやこ……あの日、昭子が昔ほどきれいじゃないと思った痩せぎすの人だけだった。
「ええ。でも、話ってほどの中身じゃないわ」
 結局、正体はわからない。
 葬儀からの帰り道、昭子は手島と同じ電車に乗った。
「不整脈があるの」
 手島みやこは、この前よりさらにドス黒い顔色をしている。
「ちゃんと診ていただいたら、お医者さんに」
「でも、怖くて」
「診ていただいて安心したほうがいいわよ」
「ええ……」
 そのうちに話題は、またしても灰色のワンピースの女のことに移った。
「あのかた、オードブルが出て間もなく席を立ったのね」
 と、手島は視線を宙に浮かせて呟く。
「ええ?」
「その少し前に�来月また�って、たしかそうおっしゃったの。なんのことかわからないし、聞きちがいかもしれないでしょ。�なんでしょう�って聞き返したら、そのままついと立って出て行ってしまったの。それっきり戻らなかったわ。気味わるい」
「来月、なにかお集まりがあるんじゃないの。お茶の会とか……。同じ会のメンバーだったりして」
「でも、思い当たること、なにもないのよ」
 昭子の降りる駅が近づいてきた。
 
 それから二カ月ほどたって手島みやこの訃報《ふほう》を聞いた。狭心症の発作による急死だった。
 ──まさか──
 いまわしい想像が心をよぎる。
 灰色のワンピースを着た女は、手島みやこに対して「また来月」と、そう言って別れたというではないか。その女は二宮佳子の死を的確に告げた人でもあった。
「まさか」
 昭子は、口に出して呟いてみた。
 黒い帽子の下にあった無表情な顔……。いま思い返してみると、眼《まな》ざしにも唇の動きにも、まがまがしいものが漂っていたように思えてならない。
 
 昭子は夢を見た。
 電話をかけている。
「武志さん、いらっしゃいますか」
 と尋ねている。
 武志は夫の名前である。とすると……これは結婚する前のことなのかもしれない。
 くぐもった女の声が答える。
「武志は死にました」
 恐怖が走り抜ける。
 ──あの女の声だ──
 なじみの薄い声なのに、なぜかそれがはっきりとわかる。
 女は、だれかの死を人に伝える役目を負うている。黒い帽子をかぶり、灰色のワンピースを着てあちこちに現われ、だれかの死を伝える。
 ──いけない、早く目ざめなくては──
 狼狽《ろうばい》が込みあげてくる。
 ようやく目を開けた。
 ──よかった──
 でも、大丈夫かしら、夜光時計が午前二時半を指している。
 夫は福岡に出張中……。すぐにでも宿泊のホテルに電話を入れたかったが、
「なにごとだ?」
 と怒られてしまうだろう。
 まんじりともせず朝を待った。
 
 翌朝、時間を計って電話をかけた。
「スーツケースの鍵《かぎ》は何番で開くんでしたっけ」
 と適当な用件を考えて……。
「442だ。親父《おやじ》のとこの局番だ」
「ああ、そうだったわね」
「どこへ行くんだ?」
「お友だちが貸してほしいって言うから」
「ふーん」
「気をつけてね」
「ああ」
 夫は、当然のことながら無事だった。
 それでも昭子は、一日中、あちこちの友人知人に電話をかけた。
 夢の記憶が残っている。
 とりわけあの女の声がしっかりと耳の奥に残っている。
「……は死にました」
 一瞬が怖い。呼びだし音が切れたあと、いつかその声を聞くような気がして……。

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