一月にしては陽気が暖かい。
春を思わせる明るい日射しがガラス窓を抜けて縁側にさし込んで来る。小さな庭の片隅で南天の実が赤く輝いている。寒椿《かんつばき》は今年は花が少ないようだ。
梅代はガラス戸を開けてシクラメンの鉢を庭石の上に並べた。少しは外気に当てたほうがよい。
今日は土曜日……。夫の啓介はゴルフの練習に出かけた。
──幼稚園もお休みなのかしら──
隣家の娘がピアノを弾いている。明るいメロディがタンタンと聞こえて来る。少し上達したようだ。
新年のあわただしさが通り過ぎて、また同じような毎日がめぐって来た。お正月だからといって家族の少ない家では、格別の趣向もないのだが、やはり多少の気ぜわしさはある。それが終ると、もう暦は月のなかばを過ぎていた。
リビングルームは畳の上に絨毯《じゆうたん》を敷き、洋風のテーブルが据《す》えてある。
「よいしょ」
梅代は安楽|椅子《いす》に腰をおろして、ぬるくなったお茶を口に運んだ。
このひとときがわけもなくいとおしい。
──平穏な生活──
しみじみそれを実感する。
夫は古稀《こき》を迎えた。
梅代自身も今度の誕生日が来れば、六十五歳になる。若い頃はけっして頑健な体ではなかったけれど、今はどこといってとくにわるいところもない。
住まいにも年齢がある。小さな家だが、十坪ほどの庭もあって、年老いた夫婦とよく折りあっている。住む人と住まいとの年齢がちぐはぐでは、やはり生活はやりにくい。
このままさらに年齢を重ねて、つつがない一生を終えることになるだろう。最後には少しは厄介なことも起きるだろうけれど、それは仕方があるまい。
──なにもない、無難な一生だった──
昨今はそんなことをよく考える。簡単なことのようだが、数十年の長さで考えてみれば、思いのほかめずらしいケースなのかもしれない。
──運がよかった──
しみじみそう思う。陽《ひ》だまりに座って感ずる、わけもないいとおしさは、このあたりの思案から来るのだろう。
夫の啓介は誠実で、やさしい人柄だ。仕事もおおむね順調だった。
父も母もよい人だった。とりわけ父には一人娘のせいもあって、よくかわいがられた。父のやさしさは、けっして猫っかわいがりではなく、娘の幸福を深いところで考えてくれるような厚い配慮だった。梅代は前半生で父に愛され、後半生では夫のいつくしみをふんだんに受けた。恵まれた人生と言ってよいだろう。もちろん悩みごとが皆無だったというわけではない。一つ、二つ、すぐにも思い出すことがあるけれど、歳月を経てしまえばそんな出来事も心の底に沈んでしまう。現実に大きな被害を蒙《こうむ》ったわけではない。わり切って考えることもできる。
──和子も生まれたんだし──
いっときは子どもが生めない体なのかと嘆いたが、結婚後十年を過ぎて妊娠を知った。昭和三十四年のことである。一人っ子というのは少し寂しいけれど、ないよりはずっとよい。これもまた性格のよい娘である。
──和子も三十四になるのね──
若い頃の梅代によく似ていると言われる。
和子は子どものいないせいもあって、まだ若々しい。
──もうぼつぼつ子どもを作らなくちゃあねえ──
孫のないのが目下の悩みである。総じて子宝に恵まれにくい一族なのかもしれない。
夫の啓介とは、梅代が十五歳のときに初めて知り合った。父と母と弟と、奉天に住んでいた。早い時期から、
──この人のお嫁さんになる──
と思っていた。
と言うより、啓介は梅代の父の、お眼鏡《めがね》にかなった青年だった。父こそが、
──この男を娘の婿《むこ》にしよう──
と、強く考えていた。
父の意見に逆らうのはむつかしい時代だったし、育った家族の雰囲気もそうだった。それに、梅代自身が啓介を好ましく思っていたし、啓介の気持ちも同様だったろう。そうであるならば、結婚への道筋にはなんの支障もあるまい。十代で婚約……。終戦前後の苦しい時代ではあったけれど、今思い出しても、心が弾《はず》むような、気恥ずかしいような、二人の仲だった。
リビングルームの棚に仏壇が置いてある。二枚の写真が飾ってある。母は人なつこい笑顔で笑っているが、父はいかめしい。
梅代の父は生涯の大部分を軍人として過ごした人だったから、その影響は、人格にも立居ふるまいにも生活のやり方にも、すべて現われていた。とりわけ姿勢に……。いつも背筋をピンと伸ばしてよい姿勢を保っていた。その特徴は上半身だけを写した老後の写真にもよく残っている。
夫の啓介も陸軍士官だったけれど、今はもうりっぱな猫背である。軍人としての年期が父とは大分ちがっていたからかしら。啓介が軍務にあったのは、せいぜい四、五年だったろう。すぐに敗戦を迎えてしまった。それはそれでよいことではあったけれど……。
梅代の母に言わせれば、
「お父さんは軍人には向いていなかったわ。少将くらいにはならなくちゃあ。同期には中将になった人もいるのよ。根がやさしいから」
と、あれは苦情だったのか、それとも褒め言葉だったのか。最後の位は大佐だった。
どんな性格が軍人に向いているのか、梅代にはよくわからないが、なんとなく父は駄目だったろう。そんな気がする。いくらいかめしい顔をしていても、心根のやさしさが頬《ほお》のあたりにこぼれていた。仏壇の写真だって見る人が見ればそれがわかる。荒々しいことは好きではなかった。家族の団欒《だんらん》をなによりも大切なことと思っていた。
ふと気がつくと、南天の枝に尾の長い鳥が来て、実をついばんでいる。このごろよく見かけるが、名前はわからない。
──奉天ではカナリアを飼っていたっけ──
若い将校姿の啓介が、梅代の家に訪ねて来て、陽だまりで巣籠《すかご》を掃除していた。そのそばで梅代が座って手伝う……。そんな光景がつい昨日の出来事のように思い浮かぶ。五十年も経《た》っているというのに……。カナリアはたしか金糸雀と書いたはずだ。あの頃の記憶となると、この文字のほうがふさわしい。
階段を踏む足音が聞こえ、
「おはようございます」
おどけた声と一緒に娘の和子が襖《ふすま》を開ける。和子は、夫の尚雄《ひさお》が海外へ出張しているので、先週から両親の家へ来ている。
「あまり早くはないわねえ。お祖父《じい》ちゃんが生きていたら大目玉よ」
時計の針は十時に近い。
「よく寝たわ。気持ちいい」
和子は人形劇を演ずる劇団に勤めている。保母になるつもりだったのが、途中からコースが変った。劇団の事務いっさいを受け持っている。
「今日はお休みなの?」
「午後からちょっと」
「なにか食べる? お餅《もち》が残っているけど」
「うん」
ポットのお湯を急須《きゆうす》に注《つ》ぎ、まずお茶を飲む。
「お父さんは?」
「ゴルフの練習」
「早いのね」
首をまわして肩の凝《こ》りをほぐしている。
「あの鳥、なにかしら」
「さあねえ」
「食べるの、南天の実?」
「食べてるみたいね」
二人とも縁側に座ってしばらく黙って鳥の仕草を眺めていた。
「ねえ、お母さん、うちの先祖って、山形なんでしょ」
と、和子が首を傾《かし》げながら呟《つぶや》く。
「そうよ。お祖父ちゃんのほうはね。山形の……酒田のあたりで」
「商人だったんでしょ」
「商人って言っても、廻船問屋って言うのかしら。船を使って手広く商売をやってて、代々続いた旧家だったみたいよ」
「やっぱり。近くに温泉ある?」
「さあ? あったんじゃないかしら。どうして」
「朗読を頼まれたの。山形の放送局から」
「あら、本当」
「民話。本当にあった昔話っていうの」
「へえー」
「江戸時代くらいかしらねえ」
そのまま会話が途絶えたが、和子が餅を焼きながら、
「お母さん、生まれ変りって、信じる?」
奇妙なことを言いだした。
「生まれ変り? なんですか、それ」
「よく言うでしょ、輪廻転生《りんねてんせい》とか」
「ああ、あれね」
「とっても変なの。山形放送の朗読で�蟹《かに》の恩返し�ってのを読んでたら、�あ、これ、覚えがある。私だわ�急にそんな感じがしたの」
「馬鹿ねえ。前に読んだんじゃないの?」
「ううん。そういうのとはちがうわ。なんかフワーッと頭の中に……。覚えがあるのよ。子どもの頃の写真を見せられて、�あっ、そう言えば�って、いろいろ忘れてたこと、思い出したりするじゃない。あれとおんなじ」
「朝寝をしたと思ったら、今度は寝ぼけ? 低血圧、まだ癒《なお》らないんでしょ」
和子には子どもの頃からその傾向があった。朝のうちは頭の働きが鈍い。
「低血圧は癒らないけど、本を読んだのはお昼過ぎだもん。びんびん冴《さ》えていたわよ」
「どうだか」
「でも、本当。とっても変な感じだったわ。はじめてよ。ね、聞いて、聞いて」
子どもじみた口調で言う。
人形劇などにたずさわっているせいか、和子にはほんの少し現実離れをしているところがある。
──三十四にもなって──
と梅代は思わないでもないが、
──なにも急いで年を取ることもないか──
少女の心を持ち続けているのも大切なことかもしれない。それに……梅代自身も、
──この世には人の知恵では計り知れないことがある──
と、時折、感じないでもない。
「じゃあ、話してごらんなさいな。聞きましょ」
と、座りなおした。
和子はトースターで焼いた餅に醤油《しようゆ》をつけ、それを海苔《のり》で包んで一口頬張ってから、
「山形放送から届いた本を電車の中で読んでいたのね。そしたら、なんだか頭の芯《しん》のほうから�これ、知ってる。私じゃないかしら�って、そんな気が急にしてきちゃったのよ。うん」
と、一つ頷《うなず》いたのは、むしろ醤油餅の味加減を賞味したのかもしれない。
「ふーん」
「若いお嫁さんなの、主人公は。夫は、明日から船を出して遠くの国へ行くのね。だから、ほら、心配じゃない、やっぱり。胸騒ぎがして、夫の身を案じているわけ」
「ええ……」
「そこで蟹を助けるのよ、そのお嫁さんが」
「なんで急に?」
「かわいそうじゃない。村人が獲《と》って来たのね。食べられちゃうわけでしょ」
「大きい蟹なの?」
「どうかしら。沢蟹みたい。川の……」
「寄生虫がいるんじゃないの、川の蟹は」
「わかんない。とにかく蟹がかわいそうだから、それを買い取って逃がしてやるのね」
「まるで浦島太郎ね」
「そう。あれとおんなじ。川に連れてって�もう人間になんかつかまるんじゃないよ�って逃がしてやって、帰ろうとすると、旅のお坊さんが怪我をしているの。お嫁さんは、お坊さんを背負って近くの湯治場《とうじば》まで連れて行くんだけど……湯治湯って温泉でしょ」
「そうね」
「お坊さんは懐《ふところ》から手紙を出して�これをどうしても明日中に山向こうの村まで届けなければいけない�って言うのね。お坊さんは足を挫《くじ》いて歩けないし……」
「困るわねえ」
「でしょう。でも、とても大切な手紙らしいし、お坊さんが手を合わせて頼むものだから、結局、彼女は夫に頼んで、それを山向こうまで届けてもらうの」
「自分で届ければいいのに」
「ううん、それは駄目。赤ちゃんがお腹《なか》にいるんですもの。夫のほうは仲間たちと一緒に船を出すはずだったんだけど、彼一人だけ船に乗らないのね」
「ああ、そう」
「そしたら、その船が難破して、彼女の夫だけが助かるのよ。�ああ、あれは、蟹がお坊さんに姿を変えて、恩返しをしてくれたんだ�ってわかるの」
「よくある話じゃない」
「聞いたことある? 子どもの頃、私に話してくれた?」
「聞いたことはないけど……」
「でも、本当に変なのよ。読んでいくうちに�これ、覚えがある。私よ、たしかに私よ�そんな気がしたのね。細かいことは思い出せないけど�昔、こんなこと、あったな�って、感じだけはかなりはっきりと頭のすみに浮かんでくるのよね」
「どうしたのかしら」
「劇団の光枝さんに話したら……彼女、こういうこと詳しいじゃない、そりゃ、もう絶対に前世の記憶だって……」
「そういうこと言う人、いるわね」
「全体はぼやけていて、はっきりしないんだけど、部分的にはひどくはっきりしていて�これはたしかに私のことだ�って、それがわかるときがあるんですって。彼女も前にそんなことがあったらしいわよ。光枝さんの場合は京都の近くのお寺で身を売ってたんですって」
「身を売ってたって?」
「売春よ」
「お寺で?」
「お寺って、そういうこと、わりとあったみたいよ。旅の人がお布施をはずむと、尼さんがサービスをしてあげるの。前に読んだことあるわ」
「本当に?」
「本当みたい。光枝さんは千人浄土って言って、千人の男に極楽を味わわせてあげたんですって」
「馬鹿なこと、言うんじゃないわよ」
「でも、それがはっきりわかったんですって。尼さんになって旅人の相手をするのなんか、特別な体験でしょ。考えたこともないのに突然フワーッと来て�これは私だ�ってわかったんですって」
「人形劇なんかやってるから……」
とんでもない妄想《もうそう》を描いたりするのではあるまいか。
「でも、うちは子どもたちが相手よ。尼さんのサービスなんか出て来ないわ」
「そりゃ、そうでしょうけど」
「で、光枝さんはともかく、私よ。�蟹の恩返し�もよく似てるのよ。頭の奥のほうからフワーッと湧《わ》いて来て」
「そう言えば、和子、あなた前に蟹を助けたことあったわよ」
と、梅代はとうに忘れていたことを思い出した。
「えっ、私が?」
「そう。代田に住んでいた頃かしら。まだ小さかったわ。魚屋さんの店先に一匹だけ生きた蟹がいて……しばらく遊んでいたんだけど、かわいそうだから逃がしてやりたいって、せがんだの」
「覚えていない」
「海の蟹だから川に逃がしたって駄目だっていくら聞かせても駄々をこねて……結局、その蟹を買ったわ」
「で、逃がしてやったの?」
「一緒に川へ行ったわね」
「帰り道でお坊さんに会った?」
「会うわけないでしょ。でも、そういう昔のことが頭の隅にいくらか残っていたんでしょ」
電話のベルが鳴った。
和子が小走りに寄って受話器をとる。
「もしもし……あ、私」
友だちからの電話らしい。
「平気よ、で、どうしたの?」
親しい友人からの電話なら、長話ときまっている。
梅代は立ちあがり、ガラス戸を開けて庭へ降りた。落ち葉を掃いておこう。
和子にとって、それは本当に不思議な体験だった。不思議な感触と言ったほうがよいかもしれない。母にはうまく話せなかったけれど……多分だれに対してもうまくは話せないと思うけれど、今までに味わったことのない感触が脳裏に急に広がったのは本当だった。
──これ、なんなの──
恐怖さえ覚えた。
なにが恐ろしいと言ったって……いや、恐怖の種類はたくさんあるだろうけれど、自分の頭の中に、理性ではわりきれないものの存在を感ずるのは、かなり怖い。些細《ささい》なことでも、それが鮮明に脳裏に映るとしたら相当に無気味である。
──これって軽い狂気じゃないの──
とも思った。
きっかけは、ただの昔話である。�本当にあった話�と銘うっているけれど、根拠はあやしい。
だが、それが突然、
──あなたのことよ──
と、主張し始めた。和子の中で自分自身に起きたことのように感じられてしまった。説明はむつかしい。
そのとき和子は総武線で新宿から水道橋へと向かっていた。空いた座席に腰をおろして放送局から送られて来た本を開く。
──これを読むのね──
民話集の目次で三番目にある物語のページを開けた。タイトルは�蟹の恩返し�。
この民話集には�山形で本当にあった話�と、副題がついている。�蟹の恩返し�には(酒田)と記してある。酒田市あたりで採集された民話なのだろう。
──酒田には前に一度行ったわ──
父方のルーツが酒田と聞いたことがあるけれど、今は親戚《しんせき》がいるわけでもない。和子が行ったのは、五年ほど前、劇団の巡業だった。
劇団の支持者に飛島出身の人がいて……実は山形放送の仕事もこの人に頼まれたものなのだが、
「俺《おれ》、飛島の神童って言われたんだ」
酒田の沖あい四十キロに位置する島である。
「それで、そのくらい?」
「文化果つるところだからなあ」
「わかる、わかる」
巡業の旅は楽しい。
あんなこと、こんなこと、とりとめない旅の記憶を頭の片隅に置きながら和子は�蟹の恩返し�のページに眼を滑らせた。
朗読の仕事は下読みが大切だ。まずサッと読む。そうやって全体の雰囲気を掴《つか》む。人名や地名などむつかしい読みや不確かな読みについては、抜かりなく辞書を引かなければいけない。アクセントを確かめなければいけないし、息つぎのポイントも、意味がよく通るように、滑らかに読めるように、チェックする。
電車の中の作業は、その第一段階のつもりだったが、数行読んだ時点で、奇妙に引き込まれてしまった。引力のような気配を覚えた。
ヒロインの名は、あい、と言う。あいは、若い人妻らしい。夫は明日から船旅に出る。何日も帰らない。
──大丈夫かしら──
ヒロインの不安が和子自身の不安と重なる。和子の夫は営業の仕事でアメリカの西海岸を走りまわっている。アメリカはかならずしも治安のよいところではないらしい。夫の持論は「やっちゃいけないことがあるんだ。それさえ守っていれば、そんなに危険なところじゃないサ」である。
でも、アメリカをよく知っている人に言わせれば「昔はそうだったけど、このごろはちがうわ。昼日中《ひるひなか》、繁華街で災難にあったりしているから」……。過信は禁物。昔の船旅はもっと危険が多かったろう。
──どうか夫の身に危難がふりかかりませんように──
と、いつも心のどこかで思っている。
なにかしら善行を積めば神様の加護が得られるのではあるまいか。
村人が蟹を紐《ひも》で吊《つる》して来るのに出あった。
物語には、さほど細かい情況まで記してあるわけではないのだが、
──山あいのゆるい坂道。道は港のある町へと続いている。川のせせらぎが聞こえる。村人は頬かむりをしている。蟹は紐の先で苦しそうに蠢《うごめ》いている──
情景がパッと和子の脳裏に映った。
めずらしいことではない。
朗読の下読みのときには、いつもイマジネーションを働かせて読んでいるから……。
しかし、あとで考えてみると、そんな作用もいつもとは少しちがっていた。
──蟹がかわいそう──
食べられる運命を知っているのだろう。たくさんの足を必死に動かして苦しみを訴えている。
「その蟹をゆずっていただけませんか」
「買ってくれるのかね」
「はい」
持っているお金を全部はたいて、その蟹を買い取った。
せせらぎの響きが高くなる。川まではそう遠くはない。木の枝をはらいながら川土手を下り川床に出る。小石を踏んで水辺まで行った。紐を解き、
「もう人間になんかつかまるんじゃないよ」
電車の振動の中からふとそんな声が聞こえた。
──私の声かしら──
蟹はうれしそうに水に浸り、それから振り向いて甲羅《こうら》を傾けた。お辞儀のような仕草で……。
──これ、見たことがある──
鮮明にその情景が脳裏に映った。
──どうしたのかしら──
考えるより先に視線が本のページを進む。
蟹は水の流れに身を委ねて泳いで行く。銀色の水が岩のあいまを縫って流れて行く。あいは、そのあとを追って川床を走った。すぐに蟹の姿は見えなくなった。
──どこから登ろうかしら──
川土手の繁みを見通したとき、灰色の衣装が見えた。不自然な姿勢でだれかがうずくまっている。荒い息遣いが聞こえる。近づいて、旅の僧侶《そうりよ》らしいとわかった。川ぞいの高い道から足を踏みはずしたのだろう。
「お坊さん。どうされましたか」
「道をまちがえ、近道を行こうとして足を滑らせてしまった」
「まあ、血が……」
脚絆《きやはん》がまっ赤に染まっている。
その脚絆を解き、傷口を水で洗い、手拭《てぬぐ》いを裂いて血を止めた。
「足を挫いてしまった」
「それはいけません」
とっさによい考えが浮かんだ。川床を少し下れば湯治場へ続くなだらかな道に出る。湯治場へ行けば、だれか治療の心得のある者がいるだろう。
「どうぞ背中へ」
「すまんのう」
僧侶を背中に背負って川床の砂の上を歩いた。よろけながら、休みながら……。ようやくの思いで湯治場までたどりついた。
「ご親切ありがとう」
「どういたしまして」
「申し訳ないが、ご親切ついでに、もう一つ頼まれてくれまいか」
僧侶がそう切り出したのは、一通りの治療を終えてからだった。
「なんでしょうか」
「山向こうの村までどうしても届けなければいけない手紙がある。一刻も早く届けなければならない」
「はい?」
「この体では、とても山越えはむつかしい」
たしかに……。女の足でも越えにくい山道だった。
「はい」
「わしの替りに行ってはくれまいか。なんのお礼もできないが、どうか仏様への功徳《くどく》だと思うて聞いておくれ」
「山越えの道は、けわしくて女の足ではまいれません」
「そうか」
「でも、主人に頼みましょう」
「おう、おう。お内儀でいらしたか。それならば好都合。どうかご主人様にお願いしてくだされ。この通り、お頼みいたします」
掌《て》を合わせて頭を垂れる。
「もったいないことです。頭をおあげください。きっと主人に頼んで届けさせますから。ご安心ください」
あとさきの考えもなく約束してしまった。
家に帰り着いて夫に事情を伝えると、
「困ったな」
と、夫は眉《まゆ》をしかめる。
「なぜでしょう」
「わかるだろう。明日は船出だ」
「でも……」
旅の僧侶と約束したことだった。手紙にはなにかしらとても大切な用件が記されているらしい。
それに……どう説明したらよいのだろうか、船の仲間にそむいてでも、この用件だけは果したほうがよいような、そんな気がしてならない。
夫はしばらくためらっていたが、
「よし、行こう。お前のためにな」
と言って立ちあがった。
その瞬間である。
──この台詞《せりふ》、たしかに聞いたことがあるわ──
と和子は思った。
一字一句、同じ言葉というわけではない。情景そのものに、曖昧《あいまい》でありながら鮮明な……そうとしか言いようのない不思議な記憶があった。
男と女。多分、夫と妻。夫が書状をたずさえてどこかへ出かけて行く。そして男が呟《つぶや》く「行こう。お前のためにな」と……。
言葉だけならば……三十年を超える人生の中で、こんな台詞を聞くこともあっただろう。それほど特異な台詞ではない。実生活でも、人形劇の中でも、充分にありうる。なにとは思い出せないが、こんな意味の言葉だけが奇妙に心に残っているということもありうるだろう。
だが、不思議な記憶は言葉だけではない。情景そのものに……言葉で代表される情景に……いや、情景を交えた概念そのものに記憶があった。その概念を言葉に托《たく》すならば、きっとこんな表現になるだろう、と、そうとでも言うより仕方のない感覚だった。
あえて言えば、夢に似ている。鮮烈な夢を見たけれど、そのことは忘れている。前後の事情はなにもわからない。ただ男と女がいて、こんな意味の会話が交わされた、と、その部分だけが現実と分かちがたいほど強く心に残っている。ちがうだろうか。
夢であればこそ、言葉は音として聞いたわけではない。おおむねそういう内容だったが、一字一句同じというわけではない。音を持たないものについて、一字一句同じ音ということはありえない。同様に、眼に見えない情景について、同じ情景とは言いにくい。夢を�見る�と言うけれど、あれは�見る�のではなく、�思う�のだろう。聞きもしないし、見もしないものでありながら、聞こえて、見えて、それなりに確かなものに感じられた。
男のうしろめたさも和子は実感した。そのことは、ほとんど物語の中に書かれていないというのに……。
船で行く旅は仲間たちの共同作業だったろう。廻船の出港のようなものを想定してみればよい。船旅は危険を冒してみんなで行く一蓮托生《いちれんたくしよう》の小社会だった。仲間同士の堅い結束を必要とするものだったろう。そんな情況にありながら、
「俺は行かない」
出航の前日になって同行を拒むのは、仲間たちに対する裏切りであった。裏切りとまで言うのは不適当かもしれないが、うしろめたさなしではできないことだったろう。
──変ね──
さらに読み続けた。
──あっ──
うしろめたさの理由がすぐにわかった。
船は米や紅花《べにばな》を積んで若狭へ向かう。港を出て三日目、季節はずれの疾風《はやて》に遭い、あえなく沈没した。その噂《うわさ》が届いた。あいの夫だけが生き残った。
──よかった──
物語は�蟹がお坊さんに姿を変えて恩返しをしてくれたのでしょうか�と結んでいるが……かすかに釈然としない。
──手紙はどんな用件だったのかしら──
それが説明されていない。
生き残ったのは結構だが、うしろめたさの度合は手紙の持つ意味あいによってずいぶんちがってくるだろう。早い話、山向こうの村人を全員危難から救い出すような内容なら、バランスがとれている。あと味がわるくない。
しかし、このあたりが�昔、本当にあった話�の真骨頂《しんこつちよう》なのかもしれない。現実というものは、そうそうバランスよく運ぶものではないのだから。
──お坊さんはどうなったの──
想像はつくが、そのことにも物語は触れてなかった。
だが、そうした思案とはべつに、
──私のことみたい──
納得のいかない感覚が心に残っている。
思い当たるものはなにもない。夢かもしれないが、そんな夢を見た記憶はどこをどう捜しても見つからない。
気がつくと電車が水道橋駅に着いていた。
「それが前世なのよ」
光枝はスパゲッティを巧みにフォークに巻きつけながら即座に断定した。
光枝とはさほど親しい間柄ではないけれど、時折、誘いあって夕食を一緒にとる。
「前世?」
「あなた、酒田の出身だって言ってたでしょ。そのお話、酒田なんでしょ」
「出身てほどじゃないわ。父方のルーツが酒田あたりらしいって……」
「そのお話も昔のことじゃない。合ってるじゃない」
「でも……」
和子はミートソースの汚れをナプキンで拭《ぬぐ》った。
「頭の中にフワーッて湧いて来たんでしょ。これは覚えがある、私のことだって」
「まあ、そんな感じね」
「それがそうなのよ。前世の記憶がほんの少し残っていることがあるのよ。それが突然浮かんで来るの。私もそうよ」
「いつ?」
「ずいぶん前よ。放送劇をやってた頃。京都の大原から琵琶《びわ》湖のほうへ抜ける道を歩いていて、あ、ここ知ってる、って急に思ったわ。初めてのところなのにね。どんどんわかってくるの。尼寺があったのね、昔。そこで私は尼さんだったの」
「本当に?」
「尼さんかどうかわからないけれど、尼寺にいたんだから、そうじゃない」
「ええ……?」
「千人|斬《ぎ》りって、知ってるでしょ。おじさんたちがよく言ってるじゃない」
「プレイボーイの話?」
「そう、現代風に言えばね。女の人を千人、ものにすること、そう言うじゃない」
「ええ」
「その反対を千人浄土って言うんですって。男の人千人に対して、極楽の思いをさせてあげるからよね、きっと。私は、それをやってたらしいの」
「尼寺で?」
「昔の尼寺って、そういうとこ、あったみたいよ。旅人を泊めて、サービスをしてあげて」
「聞いたことある」
「そんな突拍子《とつぴようし》もない経験が、急に自分のこととして頭の中に浮かんで来たのね。まったく覚えてないもの。当たり前だけど」
「ええ……」
光枝は男性関係の少ない人ではないけれど、それとこれとではおのずと性質が異なっている。
「輪廻転生ってのは絶対にあるのよ。モーツァルトなんかもそうね。伝記を読んでいて、そう思ったわ。前世で恵まれなかった音楽家ね。それが生まれ変ったの。それでなきゃ、あんなに幼いうちから、あれほどの才能を発揮できるわけないでしょ」
「だれだったの、前は?」
「名もない音楽家よ。名が出なかったから、その執念が強く残っていたのよ」
「なるほどね」
和子は曖昧《あいまい》に頷いた。
光枝の話は飛躍がありすぎる。納得のできるものではないけれど、
──さっきのは、なんだったのかしら──
電車の座席で感じたものは、日常的な説明で合点《がてん》のいくものではなかった。前世の記憶が甦《よみがえ》るとしたら、あんな感じかもしれない。
テーブルにコーヒーが運ばれて来て、
「話、変るけど、あなたのお父様、軍人だったんでしょ」
光枝が尋ねる。
「ええ。そうだけど」
「うちの亭主が推理小説を書いてて、昔の軍隊のこと、知りたいんですって。取材させてもらえる?」
「あらかた忘れてるみたいよ。めったに話さないし」
「でも素人《しろうと》とはちがうでしょう」
「そりゃそうでしょうけど……。昔のこと、あんまり話したがらないし」
「やたら自慢話する人もいるのにね」
「ええ……」
光枝に家の中まで入り込まれるのは、考えものだ。ちょうどレストランのドアが開き、
「やあ、今晩は」
光枝の知人が入って来た。
光枝が立ちあがり、和子は一人で残りのコーヒーをすすった。
暦を見ると、一月ももう残り少ない。あと五日……。月日の経つのが速いことにはいつも驚かされるけれど、一月は格別に速い。
梅代はお湯を沸かし、熱い番茶をいれた。夕食のときに食べた天ぷらの油が少し口に残っている。さつまいもの天ぷら……。
──昨日はおいしかったんだけど──
電子レンジで温めると、油が浮いてしまう。
夫も和子もまだ帰らない。
梅代はコントローラーを取って、テレビのチャンネルを九時のニュースに変えた。秋田犬のような面ざしのアナウンサーが出生率の低下を告げている。それを見ていると、
──�産めよ殖《ふ》やせよ�なんて言われた時代もあったのに──
独り笑いが込みあげて来る。若い頃にはよくからかわれたものだった。「梅代だなんて、いい名前ですねえ。りっぱな子どもをたくさん産んでくださいよ」などと。赤い顔をして睨《にら》み返していた。
──それなのに、たった一人しか産めなくて──
奉天にいたのは三年あまり。女学生だった。大きな町のはずなのに、実際に生活を営んでいた地域は限られていた。自宅と学校のあいだを往復し、それからピアノの先生の家へ通う。日本人の居留地は奉天駅の周辺に集まっていた。駅前の広場と、それをとり囲むビルの様子は今でもそっくり思い出すことができる。大和館、満鉄病院……現地の人の住居は土塀に囲まれ、いつも、家畜の匂いが漂っていた。高梁《こうりやん》畑に落ちる夕日はとても大きい。雄大でありながら、どこかもの悲しかった。
「さようなら」
「またいらっしゃい」
幅の広い車両。どこまでも続く長いレール。昭和二十年の三月に大連経由で帰国した。母と弟と三人だけの旅だったが、船室はホテルのように豪華だった。
「お父さんは帰れないんだよね」
「ご奉公があるんだから、無理よ。啓介さんも」
「啓お兄ちゃんに会いたいなあ」
啓介は牡丹江《ぼたんこう》付近を警備する部隊に配属されていたが、一年前までは奉天にいて、父直属の部下だった。家族に近い存在だった。弟もよくなついていた。
「お手紙書きなさいよ」
「うん」
敗戦のことなど、想像すらしていなかった。けれど、戦局は急速に悪化していたにちがいない。
あとで知ったことだが、八月に入り、啓介が軍令をたずさえて平壌へ飛ぶ。現在のピョンヤンである。それを追うようにしてソ連の参戦。そして日本の敗戦。平壌まで来ていた啓介の引揚げは早かった。
──運がよかった──
元気な姿で帰って来た啓介を見てそう思った。
父の帰国は二十二年の秋だった。終戦後の混乱期は生きるのに必死だった。父は追放され、しばらくは庭の片隅を畑に変えて野菜作りに精を出していた。啓介は……闇屋《やみや》のような仕事に手を染めていたらしい。
昭和二十三年に結婚。家の八畳間にみんなが集まってご飯を食べる、ただそれだけの披露宴だったが、夫婦の幸福は宴会の華やかさで計れるものではあるまい。
「赤飯はやめよう。白いご飯がいい」
混ぜものは、もうこりごりだったのである。あれから四十年たっても梅代は赤飯を作るたびにそれを思い出してしまう。
表で車の止まる音が軋《きし》み、夫かと思ったら、
「ただいま」
和子が帰って来た。
「車?」
「学《がく》さんに送ってもらったの」
「ご飯は?」
「もうすんだ。お番茶、いい匂いね」
キッチンへ入り込み、お湯を熱くしてから、
「お母さんは?」
と、土瓶をかかげる。
「ええ、ちょうだい」
テレビは外国のドラマに変っていた。
「光枝さんのご主人がね、昔の軍隊のこと、聞きたいんですって、お父さんに」
「忘れたでしょ、もう」
「そうよねえ。私もそう言ったんだけど」
しばらくは見るともなしに母娘《おやこ》でテレビの画面を見つめていた。
「朗読、終ったの?」
「うん。四谷のスタジオで入れたわ」
「そう」
「あれ、私の前世じゃないかもしれない」
「まだそんなことを言ってんの」
「だって、とても変な感じだったのよ。フワーッと湧いて来て。あのサ、お母さん、�夢十夜�って知ってる? 夏目漱石の。愛読書だったんでしょ」
「漱石は昔、よく読んだけど」
「�夢十夜�は?」
「読んだと思うわよ。どうして」
「その中にあるんですって。学さんが言ってた」
「学さんて、だれ?」
「劇団の中谷さん。今日送ってくれた人よ。なんでもよく知ってるから、学者の学さんなの」
「そうなの」
「で、漱石の�夢十夜�だけど、ものすごく怖いお話があるんですって。子どもを背負って田舎道を歩いていくの。眼の見えない子なんだけど、なんでもよくわかるのね。今に鷺《さぎ》が鳴くとか、石が立ってるとか、行く先は左手の森のほうだろうとか、大人びた口調で言うのよ。その通りのことが起こるの。で、最後に�ここだ、ここだ、杉の根のところだ�って。そう言われて思い出すのね。百年前のこんな暗い晩に、この杉の木の下で自分が眼の見えない人を殺したって。とたんに背中の子が石地蔵みたいに重くなるの。学さんたら、運転しながら低い声で話すんだから」
「そう言えば、あったわね、そんなのが」
梅代は記憶の糸をたぐった。
夢のような話が十話あったと思うのだが、あれはまさか漱石が本当に見た夢ではあるまい。
「前世の体験みたいだけど、そうじゃないんですって。学さんが言うのよ。あれはね、遺伝なんですって」
「遺伝?」
「そう」
和子はしたり顔で頷いてから、
「形態の変化は遺伝しないけれど、学習の内容は遺伝する、って、そういう学説があるんですって」
「わからないわ、むつかしくて」
梅代は首を振った。
「そんなにむつかしくないのよ。モルモットの尻尾《しつぽ》をいくら切っても尻尾のないモルモットは生まれて来ないわ。これが形態の変化のほうよ」
「かわいそうねえ。モルモットはいつもそんなことされて」
「でも右のほうへ行くと、電気がピリッとする巣箱に入れてモルモットを何代も飼い続けると、とうとう右には行かないモルモットが生まれるの。学習の内容が遺伝したわけ。ねえ、お母さん、心当たり、ない?」
「なにに」
「�蟹の恩返し�。わりとうまく読めたわ。聞いてみて」
和子がバッグの中から小型のテープレコーダーを取り出してスウィッチを押す。
「むかし、山形県の酒田あたりで本当にあったお話です」
と、小さな箱の中から和子の声がこぼれ出る。
「あなた、機械に入れたほうがいい声になるわね」
「やっぱり? みんながそう言う」
梅代は聞くともなしに娘の声を聞いた。
テープが中ほどまで進むと、和子が、
「ねえ、覚え、ない? お母さんが体験したことが私の中に遺伝するの」
と覗《のぞ》き込むようにして尋ねる。
「ううん」
かすかな胸騒ぎを覚えた。
テープが終り、玄関に靴音が響き、夫が帰ってきた。
翌朝、八時過ぎに和子はあわただしく家を出て行った。夫は朝早くからゴルフの練習だ。
梅代は一人、陽だまりにすわり込む。ガラス窓を抜ける日射しは暖かいが、外は風が冷たい。シクラメンの鉢を出すのはやめておこう。
梅代は煎茶《せんちや》をすすりながら庭を眺めた。
──平穏な生活──
このままなにごともないままに無難な一生を終えることだろう。
思案がゆっくりと遠い昔へ移っていく。
──和子が言ってたけど──
モルモットの尻尾を切る話はよくわからない。むしろ梅代としては胎教のようなものを感じてしまう。母親の強い思いが胎児に移ることはないのだろうか。
敗戦直後、梅代は母と弟と三人で母の実家に身を寄せていた。それまではあまりつきあいのなかった叔父叔母《おじおば》や従兄弟《いとこ》たち……。苦しい時代だったから、みんなの心がささくれだっていた。結婚前の啓介が食糧や放出物資を持って訪ねて来てくれるのが、なによりの楽しみだった。娘の婚約者なのだから……。母にも弟にも、啓介はよく気を配ってくれたと思う。
昭和二十二年の秋に父がすっかり痩《や》せこけて引揚げて来た。体の回復まで一年近い日時がかかった。心の回復までにはもう少し時間が必要だった。
それでも二十三年の春には、梅代は啓介と結婚し、新しい生活が始まった。
なかなか子どもが生まれない。
「だれかの恨みかしら」
冗談まじりにそんなことを呟いたこともある。
「覚えがあるのか」
「ううん、なにもないわ」
生活が落ち着くにつれ、疑惑が生まれた。きっかけは思い出せない。なにかしら噂が耳に入ったのだろう。疑惑は長い日時をかけてゆっくりと脹《ふく》らんだ。そして、ちょうど和子を身籠《みごも》る頃に、暗い疑惑はゆるぎないものとなって梅代の心を苦しめた。
昭和二十年の八月……。
──啓介はどうして牡丹江付近の最前線から退いてきたのかしら──
もちろん軍令による任務の遂行だったろう。しかし、あのとき梅代の父は関東軍の中枢部にあって、なにかしら特別の情報を得ていたのではあるまいか。戦局は極端に悪化していた。ソ連軍は国境付近に厖大《ぼうだい》な軍隊を集めていた。
──啓介に梅代たちを托そう──
父自身は死を覚悟していただろう。
数日後、ソ連が急遽《きゆうきよ》参戦し、黒竜江を越えて攻め込む。すでに弱体化していた関東軍はひとたまりもない。到るところで敗退し、啓介の所属した部隊は綏芬河《すいふんが》付近で一兵も残さず戦死した。戦後何年たってもだれ一人として、この戦線で生き残った者の消息はなかった。
──運がよかった──
しかし、それだけのことだろうか。
疑惑はそこに始まり、長い日時を経て、一つの確信に到達した。細かい事情はなにもわからない。ただいくつかの厳然たる事実が残った。啓介が生き残り、戦友たちはすべて死んだ。父はいち早く戦局を察知しうる立場にあったし、なにかの方便で将校を一人、最前線から平壌へと移すことができた……。少なくともその可能性は皆無ではなかったろう。
父はなにも語らずに死んだ。
啓介もまたなにも語らない。しかし、うすうすと感ずることはあったにちがいない。にもかかわらず、そのことは妻にさえもひとことも語らない。今日に到るまで、ただの、ひとことも……。
父は公正で、正直で、思いやりの深い人だった。生涯を通じて、そうだった。長年近くで見ていれば、見まちがうことはない。
夫もまた同じように公正で、正直で、思いやりの深い人格である。これも五十年近く連れそって、よく知っていることである。
──だれかの恨みをかっているのかしら──
いっこうに子どもに恵まれない時期には、梅代はわけもなくそんなことを思った。皮肉なことに妊娠を知ったときに、
──恨まれて当然──
疑惑は頂点に達し、激しい恐怖を覚えた。
──健康な子どもが生まれるだろうか──
そんな不安にもさいなまれた。
恨みなどという、なまやさしいものではあるまい。大勢の男たちが恨むいとまもなく死んでいった。小さな謀《たくら》みの存在さえも気づかなかったろう。知らなければ、恨むこともできない。恨むことさえできずに死んでいった多くの兵士たちには、それぞれの家族がいた。その家族たちも、小さな謀みは知るまい。
──それでいいのかしら──
家族たちは多くの悲しみと苦しみを背負った。
公正な父。公正な夫。
しかし、いつか、どこかでこの知らない恨みが現われないものだろうか。
──現われなければ、この世はあまりにも理不尽だ──
そんな気がしてならなかった。わけのわからない恐怖の理由もそこにあった。とりわけ和子が胎内にあったとき……。恐ろしい夢を見て夜中に跳び起きたこともあった。
健康な女の子が生まれた。
健康に育った。
なにも不幸は起こらなかった。
しかし、あのとき、異常なまでに感じた恐怖はどこかに痕跡《こんせき》を残さなかっただろうか。�蟹の恩返し�はたわいのない昔話である。
──わりと上手ね──
和子の朗読を聞くともなしに聞いていたが、途中から不安を覚えた。不安は少しずつ深まった。恐怖は形を変えて胎児にも伝わったのかもしれない。
胎児の記憶が……理不尽な記憶が、似たような物語とめぐりあって、
──私のことだわ──
と感じたのではなかろうか。
物語の中の夫は「よし、行こう、お前のためにな」とその妻に呟いたとか。和子はその声に聞き覚えがあると言って首を傾《かし》げていた。
梅代は、そんな言葉を啓介から聞いたわけではない。だが、啓介の心の中には、そんな言葉が鳴り響いていただろう。それを若い梅代は胎児とともに心で聞いていたのかもしれない。あのとき啓介は、仲間を裏切って父の講じた策に従ったのではなかろうか。梅代のために……。お前のために……。少なくともあとでそのことに気づいただろう。
──なにごともない、無難な一生──
公正な父。公正な夫。平穏な生活。このまま人生を閉じることはまちがいあるまい。
尾の長い鳥が来て、今日も南天の実をついばんでいる。日射しが暖かい。梅代は耳を澄ました。
──なにかしら──
表通りを大勢の人が歩いている。
ザクザクザクと遠ざかっていく。いつまでもそれが聞こえた。
──あれは軍靴の音──
玄関の戸が開いて、
「ただいま」
夫が帰って来た。夫一人が帰って来た。