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箱の中07
日期:2018-03-31 14:17  点击:299
 強清水(こわしみず)
 
 ガーン。
 衝撃と同時に眼をさました。
 恐ろしい夢を見ていた。
 片足がベッドの外に落ちている。寝返りを打った瞬間に衝突の夢を描いたのだろう。体が小刻みに震えている。意識がまだ闇《やみ》の中を疾駆している。
 急に涙が溢《あふ》れ出し、とめどない悲しみがあとからあとから込みあげてくる。
 人は眠りながら泣くことはできない。どんなに悲しくても涙は出せない。悲しい夢を見て泣くのは、眼をさましてからの作用である。
 灯《あか》りをつけた。
 思案が少しずつ現実を取り戻す。
 新神戸のホテル。時計が三時七分をさしている。
 しばらくは涙を流しながら夢の中味を反芻《はんすう》した。
 ──もう少し眠りたい──
 しかし、眠ったらまた夢の続きを見てしまうかもしれない。それに、いったん眼をさましてしまうと、新しい眠りはなかなかやって来ない。旅先ではことさらにその傾向が強い。
 起きあがり、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。デスクに向かい、開いたままの書類に眼を通した。
 きょうの予定は、十一時半に取引き先の亀田氏に会って昼食を共にし、午後の新幹線で帰京する。帰りの切符はまだ用意してないが、多分三時頃の列車を選ぶことになるだろう。多少の寝不足でも帰りの車両で眠れば、それでよい。
 室内が乾いているのだろうか。それとも大量の涙が体内の水分を奪ったのだろうか。冷たいビールが喉《のど》にここちよい。ゆっくりと飲み干した。
 アルコール飲料の中では清酒が一番好きだ。しかし、冷蔵庫にはそれが見当たらない。二本目のビールを開けた。ついでにミニ・サイズのスコッチを取ってビールに注《つ》ぎ込む。
 名付けてビール・エクスプレス。
 ──邪道、邪道──
 まともな飲み方ではない。学生時代におもしろ半分にこれをやった。もちろんスコッチではなく安ウイスキーだったけれど。味はともかく、酔いがエクスプレスでめぐって来る。
 ──はじめてビールを飲んだのは、いつだったろう──
 子どもの頃に住んでいた家には、小さいながらも庭があった。庭には竹の縁台が置いてあって、夏が来ると、大人たちがパタパタと団扇《うちわ》を使って夕涼みをしていた。
 ビールの記憶には、この風景が欠かせない。黄色い液体が泡を立ててジョッキを満たす。丸味を帯びた青いジョッキだった。それをグイと飲むのを見て、
 ──うまいのかな──
 興味|津々《しんしん》だった。
 ある日、台所の隅に飲み残しのビールを見つけて試飲してみた。
 にがい。ただそれだけの飲み物……。すぐに吐き出してしまった。
 ──サイダーとはちがう──
 と知った。発泡性のところはよく似ているのに……。泡がたくさん立つだけビールのほうがうまいと思っていたのに……。
 ビールをうまいと感じたのはいつだったか。多分、十七、八歳。はっきりとは思い出せない。
 ホテルの小部屋で、こんなことを考えていると、わけもなく二つの記憶が脳裏に映った。
 一つは、とても近い記憶である。記憶という言葉さえ不適当かもしれない。
 きのうの昼さがり、ハーブ園を訪ねた。ホテルのすぐ脇《わき》から長いロープウェイが六甲の山並に向かって延びている。
 ──知らなかったなあ──
 ずいぶんと広い敷地を切り開いて作った植物公園である。たくさんの花が咲き乱れ、ところどころに、しゃれた施設が建っている。散策の道が延びている。花の香りが馥郁《ふくいく》と漂っていた。
 途中で、ロープウェイの窓から布引《ぬのびき》の滝を見た。滝そのものは公園の施設ではあるまいけれど、どことなくちまちました風景に見えてならない。まるで人工の細工のように映る。
 ここでもう一つの記憶と繋《つな》がった。
 ──昔はこうじゃなかった──
 布引の滝は深山|幽谷《ゆうこく》の中にあった。深山幽谷は言い過ぎかもしれないが、子どもの眼にはそう映った。
 多分、小学二年生の夏休み。その頃、西宮に親戚《しんせき》があって、父と一緒に二、三日|逗留《とうりゆう》したことがある。車で布引の滝を見に行った。滝の近くで牛肉の弁当を食べた。まだ物資の乏しい時代だったから、とてつもない贅沢《ぜいたく》のように思った。
 あのときの滝は、まちがいなく奥深い山の中にあった。
 幼い私は布引の滝と書いてあるのを見て驚いた。
 布引はサイダーの壜《びん》に記してある文字だったから……。それが産地の名前らしいと、子どもごころにも見当がついていた。どういうわけか私の飲むサイダーには布引の製造のものが多かった。
 だから……山を割って布引の滝が白い奔流《ほんりゆう》を落としているのを見たとたん、子どもの私は、
 ──これがサイダーなんだ──
 と思った。
 この水を使ってサイダーを作っている……などというまっとうな想像ではない。サイダーの壜を滝壺《たきつぼ》に持って行って、滝の泡を掬《すく》えば、それがそのままサイダーになる、そんな連想だった。
 もちろん、それが現実ではありえない、と、その程度の判断は子どもの頭でもできたけれど、それでもなお、
 ──サイダーの滝なんだ──
 と、その印象が長く心に残った。
 四十年近い歳月が流れ、サイダーの滝が、今はただ公園に昇るロープウェイの借景と化している。
 ──もうサイダーは無理だな──
 ぼんやりとそう思った。
 
 カーテンのすきまが白《しら》んでいる。
 朝が近づいている。
 三本目のビールを飲み干した。
 ──出てみるか──
 浴衣《ゆかた》を脱ぎ、洋服に着替えた。靴を履き、ルーム・キイを握った。
 外はまだ薄暗い。東の空だけが赤味を帯びている。タクシーの窓を叩《たた》き、
「滝へやってくれないかな」
 と頼んだ。
「布引ですか」
 と、運転手が怪訝《けげん》な様子で聞き返す。
「ほかでもいいけど、景色のいいところ」
 どうしてそんなことを呟《つぶや》いたのか……。運転手の表情が、
 ──布引以外にもよい滝がありますよ──
 と告げているように感じられたからだろう。
 布引の滝はきのう見てしまった。なつかしさよりもむしろもの足りなさを覚えた。そばに立てば一層幻滅が増すかもしれない。ほかの滝のほうがいい。
 車が走り出した。
 少し眠った。
 目を覚ますと、右手に渓流が走り、道は深い緑の色に包まれている。
「ここでいいよ」
「いいんですか」
 昔、見た風景に似ている。渓流の先に滝があるにちがいない。
 ドアを開けると、案の定、滝の音が聞こえた。
「うん。帰りはこの道を下ればいいんでしょ?」
「はあ」
「ありがとう」
 舗装道路から山道へと移った。
 夜はもう明けていた。梢の上の空が青い。滝の音がますます高くなる。
 少し行くと渓流は右へ鋭く屈曲して崖下《がけした》へ向かい、道のほうは左手にそれる。大きな岩が川と道とを距《へだ》て、人がようやくくぐり抜けられるほどの切通しをくぐると、急に視界が開けて川原と滝と滝壺があった。
 滝は四、五メートルもあるだろうか。途中までまっすぐに落ち、そこで突出した岩にぶつかって白い流れが扇形に広がって滝壺へ流れ込む。けっして大きな滝ではないが、水量が豊かなので、あたり一帯がうっすらとけぶって、薄い虹が懸《か》かっている。周囲を高い岩壁に囲まれ、どことなく現実から切り離された一郭《いつかく》のように見えないでもなかった。
「ほう?」
 と呟いた。
 しばらくは気づかなかったが、滝壺に近い岩かげに緑色のシャツが動く。子どもが……十歳くらいの少年が、足を水に浸して腰をおろしている。
 眼と眼があった。
 浅黒い顔。黒く光る眼ざし。いかにも少年らしい闊達《かつたつ》な印象を覚えた。
 はじめは魚釣りにでも来ているのかと思った。そうでもなければ、こんな時刻に、少年がたった一人で山中の渓谷に来ているはずがない……。だが、
 ──そうとも限らないか──
 人がどんな理由で、どんな行動を採るものか、推測はむつかしい。それぞれがそれぞれの動機を持って動いている。
 ふと昔読んだヘミングウェイの小説「キリマンジャロの雪」を思い出した。たしか一匹の豹《ひよう》が高峰の中腹まで登って死んでいたのではなかったか。なぜ豹がそんなところまで登ったのか、理由がだれにもわからない。
 まして人間なら、もっと不可思議な行動を採ることがあるだろう。
 少年の目的が魚釣りでないことだけは明白である。それらしい道具はどこにも見当たらない。川の情況も魚が多く棲《す》むところではあるまい。
 ──近くに別荘があるのかな──
 この想像は十中八、九、的中しているだろう。少年はこの滝の風景に愛着があり、家族のだれよりも先に、朝を待ちかねて訪ねて来たのではあるまいか。
 もとより私はそれほど真剣にこんな想像をめぐらしたわけではない。少年の存在に微妙な違和感があったから、一瞬、その理由づけを模索してみただけのことだ。
「なにをしてるんだ?」
 と、声をかけた。
 少年は掌《て》を耳に当てる。
 どこかで見た顔だと思った。仕草がだれかに似ている。
「なにをしてるんだ?」
 もう一度、大声で尋ねた。
「散歩です」
 明快な答が返って来た。
 やはり私の想像は当たっていたらしい。
 ──しかし──
 とも思った。
 今は六月。きょうはウイークデイ。夏休みのシーズンには早いし、休日でもない。学校のほうはどうするのか。
 その説明もすぐにさぐりあてた。
 別荘ではなく、彼自身の家がこの近くにあるのかもしれない。山中にはちがいないが、開発はそれなりに進んでいるだろう。ここからそう遠くないところに新興の住宅地が造成されている可能性も充分にある。そこには小学校くらいあるのかもしれない。ならば、散歩のあとで登校することもむつかしくはあるまい。腕時計を忘れて来たが、まだ六時前だろう。一歩二歩、足を進めて。
「学校は?」
 と尋ねてみた。
 少年は曖昧《あいまい》に首を振った。聞こえないのか、それとも聞こえていながら答えないのか。
 一瞬、登校拒否児のような情況を考えたが、それは屈託のない少年の様子にそぐわない。なにかしら答えたくない事情があるのだろう。
 少年は靴を脱ぎ、水に足を浸している。私は話題を変えて、
「冷たい?」
 と水面を指さした。
「はい、少し」
 私も靴を脱いだ。
 滝壺の下流を占める川床《かわどこ》は滑らかな石面を作り、水深もせいぜい二十センチくらいのものだろう。水の流れもゆるやかである。夏には子どもたちのよい遊び場になるだろう。
 とはいえ滑らかな川床は中央のあたりで亀裂を作り、そこは白い奔流となって走っている。幼い子どもには少し危険かもしれない。
 靴を川岸に置いて川床へ踏み込んだ。
 冷たい。
 とてもここちよい。
 少年は私の動作をみつめている。奔流を跨《また》いで少年に近づいた。
「何年生?」
「四年です」
「じゃあ、十歳か」
「九歳です」
「早生まれかな」
「はい」
 滝壺は文字通り深い壺のようにえぐれている。滝がなければ天然の大きな風呂桶《ふろおけ》のような趣きだろう。
「なんという滝?」
 聞くともなしに尋ねた。この近くに住んでいるのなら知っているだろう。
「強清水《こわしみず》です」
 やはり布引の滝とはべつなものらしい。
「強清水?」
「はい、強い清水と書いて……。でも、本当はちがうんです」
「ほう?」
「伝説があるんです。お母さんから聞きました」
 ちょっと大人びた口調で言う。
「どんな話? 教えてよ」
 私は少年と向かいあう位置の岩に腰をおろした。
 
 昔、旅の父子《おやこ》がこの川のほとりを通りかかった。すでに日は西に沈み、父子は川辺の岩穴で一夜を過ごすことにした。
 子どもが水を汲《く》みに行き、滝の水を掬って飲むと、
「うまい!」
 乾いた喉を冷たい水が潤《うるお》す。
「お父《と》う、うまいよ、この水」
 と父を呼んだ。
「酒だったらいいのだが」
 父も滝の水を掬って飲む。
「うん?」
 表情が変った。
 あわててもう一ぱい掬って飲む。
「酒だ、これは酒だぞ」
 まぎれもない酒の味わいが口を満たし、喉へ落ちる。
 父の様子に驚いて、子どももふたたび水を含んだ。
「水だよ、お父う」
「いや、酒だ」
 まちがいようもない。胃袋に落ちた酒は早くも酔いを全身に広げている。一ぱい、二はい、三ばい……父子はたがいに顔をうかがいながら滝の水を飲んだ。その味わいは……親には酒、子には清水であった。
 このことから「親は酒、子は清水」の言葉が生まれ、いつの頃からか、その後半だけが残って「子は清水」と呼ばれるようになったとか……。
 
 少年はそんな話をきまじめな調子で話した。
「なるほどね。子は清水か」
 そう頷《うなず》きながらも、私の想像は逆だった。
 どう説明したらよいのだろうか。つまり、ミネラルを多く含んだ湧《わ》き水を、強清水と呼んだのではあるまいか。このあたりの水がそんな性質を帯びているのではなかろうか。
 まず先に強清水という命名があって、そこから語呂《ごろ》あわせのように「子は清水」が連想され、さらにそこから「親は酒、子は清水」と、まことしやかな伝説が誕生したのではあるまいか。伝説の誕生には、そんな経緯がめずらしくない。
 少年が立ちあがり、滝壺に近づく。掌で掬って水を飲む。
「おいしい」
 ふり向いて笑う。輝くように明るい笑顔である。
 かすかに私の心を通り抜ける思い出がある。こんな笑顔を見たことがある。
「一人で来たのか」
 と、少年のうしろ姿に尋ねた。
「はい」
「お母さんは?」
 重ねて尋ねた。
「来るかもしれないけど」
 と、少年は右手の繁みを見あげる。
 赤茶けた細い坂道が崖の上まで続いていた。その上に、少年の家へ帰る道があるのだろう。
 少年が眼を凝《こ》らして、そのあたりを見つめている。母が現われるとしたら、その方角なのだろう。
 私もしばらく少年の眼《まな》ざしの赴《おもむ》く先を追っていた。しかし、だれも現われない。
 あきらめて私も滝壺へ近づいた。
 少年のほうは岸に戻り、掌で足を拭《ぬぐ》って靴を履き始めた。
 私も滝の水を掬って口に含んだ。
「えっ!」
 一瞬、自分の感覚を疑った。
 ──これは……? 酒ではないか──
 すぐにもう一口掬った。
 かすかな甘さ。芳醇《ほうじゆん》な味わい……。
 ただの水ではない。明らかにアルコールを含んでいる。
 両掌《りようて》で掬った。
 酔いが胃の腑《ふ》に走る。
 腰を曲げ、水面に口を近づけてガブガブと飲んだ。
 ふと気がつき、ふり返って少年の姿を捜した。
 少年は坂道の下まで行き、訴えるような眼ざしで呟く。
「そんなにたくさん飲んじゃあ駄目だよ」
 しかし、飲まずにはいられない。確かめずには帰れない。
 激しい酔いが全身に溢《あふ》れた。
 それからの記憶はとりとめがない。
 
 時計のベルが鳴っている。
 昨夜、ベッドサイドの目ざまし時計を十時半にセットして眠った。不規則な眠りを予測して講じた処置だった。案の定、私は夜中に目をさましてしまい、そのあとぐっすりと眠ってしまった。
 起きあがり、ベルを止めた。
 頭が痛い。軽い宿酔《しゆくすい》かな。
 デスクの上には缶ビールが四本、ウイスキーのミニ・ボトルが三本……。いい年をしてビール・エクスプレスなんかを作って飲んだらしい。
 ──しかし、この宿酔はビールじゃないな──
 ビールはエクスプレスで飲んでも翌日には残らない。そういう体質である。
 ──清酒を飲んだから──
 おぼろな記憶が心に残っている。
 明けがた、散歩に出た。六甲の山中にまでタクシーを走らせ、渓流を登った。
 滝があった。
 少年がいた。
 昔話を聞いた。
 その昔話は……旅の父子が滝の水を飲む。「親は酒 子は清水」それが滝の名前となった。強清水である。
 そんな話を語りながら、少年が滝の水を飲んだ。
 そして私も飲んだ。それが酒だった。
 ──馬鹿らしい──
 夢でも見ていたのだろう。
 ──しかし、人はあんなに鮮明な夢を見るものだろうか──
 滝まで行ったのは事実にちがいない。最後のところが……つまり、滝の水が酒に変ったところだけが夢なのではあるまいか。
 ──それにしても、この宿酔はなぜだろう──
 時計を見た。いつまでもとりとめのない思案をめぐらしているわけにはいかない。シャワーを浴び、髭《ひげ》を剃《そ》った。荷物を整え、ネクタイを結び終ったとき、電話のベルが鳴った。
「はい」
「おはようございます。亀田です。少し早かったですか」
 十一時半に会う約束だった。
「いや、今、ちょうど」
「フロントの前にいますから」
「すぐに降りて行きます」
 忘れ物のないことを確かめて部屋を出た。
 エレベータがなかなかやって来ない。三基もあるのに……。エレベータのシステムにも頭のいいのとわるいのがあって、頭のわるいのに出会うと、いらいらさせられる。三基がいっせいにやって来て、ドアを開ける。まん中の箱に乗った。各階ごとにドアを開く。
「お待たせしました」
「いや、どうも。地下の和食はいかがです?」
「はい。ちょっとチェック・アウトをしてまいりますから」
「じゃあ、先へ行って席をとっておきましょう。昼になると込みますから。楓《かえで》という店です」
「すみません。お願いします」
 キャッシャーで少し待たされた。
 ──あれはなんだったのかな──
 またしても今朝がたの記憶が甦《よみがえ》って来る。
 少年は母親と一緒に来ているような様子だった。もう少し長く夢を見ていたなら、その母親にも会えたかもしれない。
 階段を降り、楓のドアを開けると、奥まった席で亀田が待っていた。
「ビール、飲みますか」
「昼間から?」
「いいでしょう。一本くらい」
「はあ」
 ビール二本と梅定食を二つ頼んだ。
「まあ、どうぞ」
「すみません」
 おたがいにビールの壜をとって相手のグラスに注ぐ。
「お強いんでしょ」
 と亀田が訊《き》く。
「強いことは強いんですが、このごろ、酔いがひどくて」
「ほう。それはいけませんな」
「深酔いをすると、途中から記憶があやしくなって……」
「いつからです?」
「六年前から」
「気をつけたほうがいいですよ」
「ええ……」
 亀田との商談はむつかしいものではない。書類を提出し、一通り説明をすれば、それですむ。
 すぐに仕事は終った。
 ビールを一本だけ追加してデザートまできれいに平らげた。
「このままお帰りですか、東京へ?」
「はい」
 帰りの切符が用意してあるわけではない。午後はあいている。今日中に東京へ帰り着ければ、なんの支障もない。独り身の生活……。家族が待っているわけではなかった。
 一階の出入口まで来て亀田に尋ねた。
「亀田さんは、この土地のかたなんでしょ」
「ええ。餓鬼《がき》のころから、ずっとここです」
「強清水の滝、ご存知ですか。強い清水と書いて」
 土地の人ならば知っているだろう。
 だが、意外なことに、
「強清水ですか」
 と首をかしげる。
「はい」
「聞きませんなあ」
「六甲の山の中だと思いますよ」
「さあ、ねえ」
「切通しを抜けると、パッと開けて……。正面に滝が落ちているんです。四、五メートルくらいかな。途中でスカートみたいに水が広がって」
「ほう?」
「川床はすべすべして、子どもの遊び場にいい」
「いらしたんですか」
「いや。昔、子どもの頃にそんなところへ行ったような覚えがあって」
 と、ごまかした。
「この土地じゃないでしょ」
 と亀田は抗《あらが》ったが、それでも、
「ちょっと待ってください」
 とフロントのほうへ小走りに行く。身ぶりから察してホテルの従業員たちに、
「強清水の滝って、知ってる?」
 とでも尋ねているのだろう。
 首を振りながら戻って来た。
「やっぱりだれも知りませんな。駅の構内にタクシーの案内所がありますけど……」
「いや、結構です」
 そこまで亀田をわずらわすことはない。自分で尋ねればよい。
「ご熱心ですな。なにか……?」
「いえ、たいしたことじゃないんです」
「じゃあ、これで」
「あ、どうも。よろしくお願いします」
「お気をつけて」
 ホテルの前で別れた。
 亀田とは最近のつきあいだから、彼は私の個人的な事情を知らない。
 私は六年前に飲酒運転をして、妻と子を殺した。子どもが生きていれば、小学四年生になっているだろう。早生まれだから、今は九歳……。母と一緒にこのあたりに来ているかもしれない。
 あの少年も「そんなにたくさん飲んじゃあ駄目だよ」と言っていた。
 ──少し酔っている──
 今しがた飲んだビールが体の中を走っている。
 ──待てよ──
 もう少し飲めば強清水の滝に行けるのではあるまいか。母と子にめぐりあえるのではあるまいか。
 ホテルから駅へと続く道路を歩き、構内のタクシー案内所を探した。
「強清水の滝を知りませんか」
 つぎつぎに尋ね歩いた。
「はい、あるわよ。こっち」
 女の声が聞こえた。その声に聞き覚えがある……。

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