汚れたガラス窓
昭和が平成へと変った年、関根孝也は白金台にマンションを借り、中留敏子と同居を始めた。都心に近い住居は二人の身分から考えて少々高級にすぎただろう。
4LDK。小さいながらそれぞれの私室があって、あとはベッドルームと応接間、リビングルーム、ダイニングキッチン、細長い庭までついている。
だが、孝也は週刊誌などに原稿を書くフリーライターで、仕事は不規則できついが、収入のほうは同年代のサラリーマンよりはるかに多い。稼ごうと思えば稼ぐ手段がある。敏子のほうも、六本木のブティックの経営をまかされており、そこそこの収入があった。どちらにとっても仕事がら都心に住みたい。それに、
──正式な結婚ではないのだから──
と、どことなく刹那《せつな》的な意識もあって、住生活には贅沢《ぜいたく》をしたかった。
つまり、一生ということなら、夢を将来に託して節約をしたり貯金をしたり、郊外に土地を探したり自分の家を持ったり、長期的な展望が必要となってくるだろうけれど、三十歳を過ぎた男女の同棲《どうせい》には、もっと別な視点がある。願望がある。
知りあって、親しくなり、
「一緒に暮らしてみない?」
「結婚かい?」
「飽きないようならね」
「じゃあ、とりあえず一年くらい」
「いいわよ」
もちろん愛しあってはいたけれど、成熟した大人の感覚で始めた共同生活だった。結婚のことはほとんど話題にもならなかった。
「でも、あなた、いいの? 長男でしょ」
孝也は二人姉弟で、姉は函館に嫁いでいる。父は亡く、母は埼玉県の大宮で華道の先生をやりながら一人で暮らしている。今のところ健康に支障はないが、次の誕生日が来れば母も六十六歳になるはずだ。
「それで?」
「私、絶対に厭《いや》よ。お母様と一緒に暮らすのだけは」
敏子はきっぱりと言いきって唇を噛《か》む。きびしい言い方だが、こういうことははっきり言ってもらったほうがいい。本心を隠していると、あとでややこしいことが起きる。敏子が孝也との生活を前にして提示した条件はこれ一つと言ってもよかった。
「わかってるよ」
結婚ならばともかく、同棲に親が同居するケースはめずらしかろう。敏子がこの条件を告げたこと自体、彼女の心の中に、
──このまま結婚になるかもしれない──
と、そんな予測なり、願望なりがあったのかもしれない。
敏子と孝也の母とは反《そ》りがあわない。そう繁く顔をあわせていたわけでもないのに、折りあいがわるかった。三回も会っているだろうか。
理由は見当がつく。母にしてみれば、たった一人の息子である。夫《つれあい》を早く亡くし手塩にかけて育てあげた。それを横から来てさらっていく……。嫁という存在はもともと姑《しゆうとめ》には気に入らないところがある。
──せめて自分の眼にかなった女《ひと》を──
と、母は考えていたにちがいない。
お花の先生をやっているから、年ごろの娘はたくさん知っている。ひそかに狙《ねら》いをつけていた娘もいたらしいが、孝也のほうは、
「放っておいてくれよ。自分で捜すから」
と、見向きもしなかった。
この件では母と何度口争いをしたかわからない。母も強い。なかなか譲らない。今でもあきらめてはいないだろう。
孝也にしてみれば……母の好みは古くて、田舎《いなか》くさい。幼いときから、ずっと強い母親の庇護《ひご》の下で生きてきた。とくに反抗はしなかったけれど、一人前の男になってからは、母の存在自体がうとましい。結婚相手まで母の好みで選んだら、またぞろ母の圧力が伸びて来るだろう。目に見えている。ご免だね。こんなことを口に出して言おうものなら、
「孝也! 本気でそんなこと言うの」
と、母は気が狂ったように怒りだすだろうけれど、このあたりの感情は、わかる人にはみんなたやすくわかるはずだ。
孝也が三十過ぎまで独り身でいる理由も、こうした情況と無縁ではあるまい。母に従うのは厭《いや》だし、さりとてことさらに反旗をあらわにするのも厄介である。宙ぶらりんの状態……。こんなときに知りあったのが敏子というわけだが……母が気に入るまいことは最初から想像がついた。
敏子は三十過ぎまで独り暮らしをしている女……。
「なにもそんなオールドミスをもらわなくてもいいだろ。顔がきれいなわけじゃないし、若いほうがすなおでいいんだから」
と、母もまたずいぶんきびしい言いようだった。三十二歳でオールドミスと言われたら、敏子は怒るだろうし、常識にも反するだろうけれど、母の判定ははじめからネガティブだった。
敏子の年齢が気に入らない。表情が気に入らない。髪型が気に入らない。着る物が気に入らない。言葉遣いが気に入らない……。よいところなんか一つもない。
これだけ気に入らない女が、息子を奪っていこうというのだから、妥協の余地は皆無に等しい。それがしかも結婚ではなく同棲というのだから……実情を知って母が許すはずがない。マンション住まいも母には見えないように計画して、既成事実を作ったというのが正直なところである。
こんな雰囲気はもちろん敏子にも察しがつく。女は野生の動物みたいに敵を察知する。
敏子と母とがはじめて会ったのは、たしか同棲の二年前、大宮で催された華道展の会場だったと思うのだが、二、三分|挨拶《あいさつ》を交わしたあとで、すぐさま敏子は孝也の耳もとで囁《ささや》いた。
「お母様は嫌いみたいね、私のこと」
あの頃の私たちはまだそれほど親しい仲ではなかった。敏子は、ガール・フレンドに毛の生えたようなもの。恋人と呼べるような相手ではなかったのに、やはりなにかしら来たるべき将来を予測するものがあったのだろう。母もまた、
「なに、あの娘? 感じのわるい人ね」
と、ぬかりなく嫌悪の反応を示していた。
こんな経緯を考えれば、敏子の台詞《せりふ》は……「私、絶対に厭よ。お母様と一緒に暮らすのだけは」と言ったのは、むしろ言わずもがなの条件だったろう。孝也はそこに気づかないほど馬鹿ではない。
──この二人は駄目だな──
とうにわかっていた。
母には感謝している。十二歳のとき父と死別し、それ以来ずっと母の手一つで育てられた。なに不自由のない生活だった。母に対しては一定の愛着もあるし、親孝行はなすべきことだと思っている。年老いた母の面倒をみることも充分に考えているけれど、
──敏子は無理だなあ──
と思い、その一方で、
──お袋も、もう少し譲ってくれればいいんだが──
なすすべもなく迷ったまま選んだのが同棲という中途半端なスタイルだったろう。
人はいつも右か左か、はっきり決断をして生きているわけではない。孝也は、なんの根拠もないまま、そしてそのことを自分でも充分承知していながら、
──今にうまくいくかもしれん──
と、頭の片隅で期待し、
──とりあえずは敏子と一緒に暮らし、五、六年後のことは、そこで考えればいい──
と、はじめから敏子との仲をそう長く続くものと考えていなかった……そんなふしもなくはない。
それに、とにかく仕事が忙しい。社会派のジャーナリストと看板を掲げているが、注文があればなんでも取材して記事を書く。スキャンダルが一番銭になりやすい。政治家、宗教家、タレント、ときには記事に書かないことが金になることがある。
「大丈夫かしら?」
敏子は孝也の仕事をそれほどくわしく知っているわけではない。
「なにが?」
「あんまり阿漕《あこぎ》なことやってると、ろくなことないわよ」
「おい、おい、阿漕はひどいなあ。正統なジャーナリズムだよ」
「命を狙《ねら》われたりして」
「テレビの見すぎじゃないのか」
敏子は低血圧症で、ご多分に漏れず朝に弱い。必然的に夜更かしをする。ベッドに入って夜半すぎのテレビ映画を見ている。たいていがスリラー。孝也も宵っ張りのほうだが、ベッドに入ってしまえばすぐに眠ってしまう。朝は孝也のほうがたいてい先に目をさまし、起きてまずコーヒーを沸かす。これはなかなかの腕前だ。独り暮らしが長かったせいもあって孝也は、なべて簡単なメニューをうまく作る。ホットドッグ、焼飯、ラーメン……。料理がうまいというより気軽に体を動かす。この種のサービスを厭《いと》わない。
「ありがとう。おいしい」
敏子はほめ上手のほうだろう。
しばらくは、どちらにとっても楽しい毎日が続いた。おたがいに放恣《ほうし》な生活が身にあっている。あまり干渉せずに、そして折りあえそうなときにだけ顔をつきあわせて親しみあう。たわいのない会話をかわし、
「嘘《うそ》ばっかり」
「本当だってば」
陽気に笑ってすごす。深刻なテーマはめったに話題にのぼらない。
そして恋人たちのように甘い抱擁《ほうよう》。セックスなんて、すこぶるメンタルな営みだ。たとえ同棲をしていても、夫婦ではない男女が抱きあうときには、かすかに背徳の気配が漂う。子孫を作るための営みではない。つかのまの愛を確かめ、快楽を尽すために抱きあっている。相手がうとましくなれば、強く拘束するものはなにもない。熱く抱きあっているのは、とりもなおさずここちよいから、相手が必要だから、男女の営みの原点としての愛がそこにあるから……。結婚届が二人の愛を保証してくれるわけではなかった。
「高校生の頃、習ったことがある。〈伊勢物語〉だったかなあ」
「なーに?」
「男がにぎり飯を包む木の皮にくっついた飯粒を一つ一つ丹念に食べてるんだ」
「ええ?」
「女がそれを見て�なんて倹約な人なんだろう�って感心する」
「ええ」
「そのうちに二人のあいだに愛情がなくなり、女は男の同じ仕草を見て�この人、なんてけちくさいのかしら�って、愛想をつかす」
「わかるわ」
「男と女の感情なんて、そんなものじゃないのか。仲がいいときは、みんなよく見える。わるくなれば、なにもかもわるい」
「ええ、本当に」
あんな会話もまた来たるべき将来に対する漠然とした予測だったのかもしれない。
敏子は掃除があまり好きではない。孝也ももちろん好きではない。表現は同じだが、嫌いの中味は少しちがっている。
「私は本当はきれい好きなのよ」
「そうかなあ」
「そうよ。わかるでしょ。だから掃除をやりだすと、とことんやらないと気がすまないのよ。掃除なんてものは、やりだすと本当に限りなくきれいにできるの。それで疲れちゃって……ほかのこと、なんにもできなくなっちゃうでしょ。それが困るの。それを考えると、掃除がうとましくなるの。あなたは、いくら汚くても平気なんでしょ。全然ちがうわ」
「俺《おれ》だって、きれいなほうが好きだよ」
「豚も本当はきれい好きなんですってね。でも汚くても耐えられるから」
「豚と一緒かよ。ひどいな」
「だって……」
たしかに敏子は掃除をやりだすと、ずいぶん念入りにやる。あれでは疲れてしまうだろう。あれほどの精度で住まい全部をきれいにするとなると、どれだけの労力がかかるか、わからない。憎みたくなるのも頷《うなず》ける。
とりわけ大変なのはガラス磨き。二人の住むマンションは一階にあって、南向きに大きなガラス窓がある。高さ二メートル、幅三メートルほどの一枚ガラスが二カ所に張ってある。すぐ近くに隣家の欅《けやき》が枝を伸ばしているせいもあってか、鳥の糞《ふん》や埃《ほこり》が固まってこびりつく。薄汚れて外もろくに見えなくなる。こうなるとせっかくみごとなガラス窓を張った意味がない。むしろ余計に汚さが目立って腹が立つ。
さりとて敏子の体力では簡単に拭《ふ》けない。
「美容にいいんじゃないのか」
「馬鹿なこと、言わないでよ。あなたこそ、このごろお腹《なか》が少し出てきたんじゃない。やって」
「そのうち、ひまになったらな」
「いつひまになる?」
「しばらくたて込んでるなあ」
「そんなことばっかり言って」
二人は手をこまねいて汚れを眺めていたわけではない。三年近い共同生活の期間に少なくとも敏子が二回、それから孝也が一回半、ガラス拭きに挑戦した。一回半というのは、敏子にせがまれてしぶしぶやってはみたものの、乾いてから眺めてみれば、ところどころに汚れの縞《しま》模様ができている。
「なによ、これ、全然きれいになっていないじゃない。汚れを動かしただけね」
「ひどいなあ」
やむなくもう一度やり直し。それで一回半と数えたわけだ。
敏子のほうは、そんな失敗は残さなかったけれど、ほとほと足腰に響いたらしく、
「もう厭、こんなの。だれかに頼みましょうよ」
「だれに頼む?」
「そういう人、いるんじゃない。便利屋さんとか」
「それがいいよ」
ちょうどそんな相談をしている矢先のことだった。
孝也が散歩に出かけた。散歩といっても緑の公園を歩くわけではない。町から町へ、狭い歩道をとりとめもなく歩く。万歩計をつけるときもある。この日も三十分ほど歩いてマンションへ戻ると、ドアのすきまに紙が押し込んである。
──チラシ広告かな──
二つ折りの紙片を開いてみると、
�掃除、ガラス拭きのご用はありませんか。気楽にお電話ください。東都大学・お掃除研究会�
と書いてあった。マジックペンで書いてコピイ機で複写したものだろう。電話番号は局番のあとに4649(ヨロシク)と、暗誦《あんしよう》の便宜まで記してある。
──これはいいかもしれんな──
近ごろの学生は遊び感覚で、いろいろなサークルを作る。名前は�お掃除研究会�だが、まさか真面目《まじめ》に掃除の方法を研究しているわけではあるまい。アルバイトを目的とした集団が、もっともらしい名称をつけているのだろう。掃除は体力のある学生にこそふさわしい作業である。少しは慣れた連中がやっているのだろうか。料金もさほど高いことはあるまいし、ガラス拭きなら充分にまかせられる。
──東都大学なら、真面目な学生が多いんじゃないのかな──
とも思った。それに東都大は白金台からそう遠くはない。
孝也はもう一度、チラシ広告に記された電話番号を確かめ、紙をポケットへ押し込んだ。いや、押し込んだつもりだったが、そのまま握ってうっかり屑箱《くずばこ》へ捨ててしまったのかもしれない。
とにかくチラシ広告を見たときには、
──頼んでみるか──
と思ったが、すぐに忘れてしまった。
ドアの中で電話のベルが鳴り、あわてて駈《か》け込んだのが忘れた原因だったろう。
四、五日たって、ふと思い出し、
「ガラス拭き、学生にやらせたらどうかな」
「学生?」
「ああ。このあいだ、チラシが入ってた。東都大お掃除研究会。気楽にご用命くださいって」
「なーに、それ」
「アルバイトだろ。学生なら、いいんじゃないか。チラシはどっかにふっ飛ばしちまったけど、電話番号を覚えている」
「そう」
「頼んでみろよ」
「ええ」
敏子は頷《うなず》いたが、電話番号を聞こうともしない。さらに三、四日たって、
「ガラス拭き、どうする?」
と、窓ガラスを見ながら孝也が尋ねると、
「いいわよ、べつに」
「大分汚れたし、大変だぞ」
「ええ、でも……」
気のない返事だった。
あとで考えてみると、あの頃から敏子の様子がおかしかった。一緒にいても会話がどことなく噛み合わない。うわのそらで答えている。同棲生活も三年近い日時を経て、当初の情熱が色あせていた。利害のバランスも少しずつ狂い始める。心身の乖離《かいり》が感じられるようになっていた。そんなこともありうるだろうと予測して始めた共同生活であり、たまたま敏子のほうが先に不都合を感じたということだろう。一緒に暮らすことに気乗りがしなくなれば、住む家の環境なんかどうでもよい。ガラスがきれいかどうかなど、さして問題にもなるまい。
孝也のほうはとりわけ忙しく、敏子の微妙な変化に気づかなかったのは迂闊《うかつ》だった。気づいてはいたのだが、そうした変化の本当の意味を考えなかったのは甘かった。
日曜日の朝、コーヒーをすすっていた敏子が顔をあげ、まるで気候の変化でも話題にするように、
「私、家を出るけど、いいかしら」
と呟《つぶや》く。
「家を出るって……どういうこと?」
「お店のお客さんで、永井さん、知ってる?」
「いや、知らん」
知るはずもない。
「横浜の元町で店を一緒に出そうという話になって……。もう、私も来年は三十五でしょ」
おねだりでもするような表情で孝也の顔をのぞき込んだ。
敏子の台詞《せりふ》はあまり論理的ではない。だがそれは大切なポイントが一つ抜けているからだろう。孝也には見当がつく。
「結婚するのか」
と、ポイントを先に明かしてやる。
「ええ、まあ。すぐにってわけじゃないけど」
「なるほどね」
「それで、こんな生活しているの、まずいでしょ」
これはすこぶる論理的である。だれが考えたってまずい。
──どうしよう──
孝也は狼狽《ろうばい》を心の奥に押し込め、ほどよく面子《メンツ》の立つ対応を思案した。
仕方ない。充分にありうることだった。三年近くも楽しく過ごしたんだから欲張ってはいけない。男女の仲は振るよりは振られるほうが負担が少ない。結論ははっきりしている。ただ、あまり簡単に「はいよ」と言うのは、どうかな。三年間の愛情がにせもののように感じられてしまう。
「よく考えて決めたのか」
「ええ」
敏子は神妙に答えた。
「戻せないんだな、もとへは?」
「あなたのこと、好きよ。でも……」
「わかった。明日から、俺、大阪だ。水曜日に帰って来るから、それまでにもう一度、よく考えておいてくれ。決心に変りがないなら、俺はいいよ」
と提案し、それから、
「我慢するよ」
と続けた。
「すみません」
気まずい沈黙が流れたが、敏子が、
「ステーキ、食べに行きましょうか、今夜」
「ああ、いいね」
最後の晩餐《ばんさん》になるだろう。
──正月のおみくじがわるかったかな──
凶を引き、私生活には波乱があると書いてあった。
大阪へ行くのは、ある大物政治家のスキャンダルを調査するためだった。現職の大臣が関西の劇団女優を愛人にしている……。表向きは後援会長だが、実情はそんなものじゃない。二人の仲は今も続いているらしい。密会の場所を一つ聞き込んだ。関係者の口は堅そうだが、現場に行ってみなければ、埒《らち》があかない。この取材は一カ月も前からいろいろな方面に手をまわして網をかけて来た。網をすぼめる時期が近づいている……。
「じやあ、行ってくる」
翌日、孝也は大阪へ発《た》った。
「はい、気をつけて」
敏子は笑顔で見送る。まるで前日の告白が嘘《うそ》のようにさわやかだ。
──留守中に男と会うんだろうな──
九十九パーセントまちがいあるまい。百パーセントと言ってもよい。孝也は軽い嫉妬《しつと》を覚えたが、肩口で片手を振ってドアを閉じた。
二日後にマンションに帰りつくと、
「お帰りなさい。お食事は?」
敏子がエプロン姿で玄関に立っている。
「うん、あれば食べる」
「好物のちらし寿司、作ったわ」
「サンキュー。ビールの小壜《こびん》、頼む」
「はい」
「あんたも飲む?」
「ええ。いいの? 小壜なのに」
「かまわん。半分ずつ」
それを飲み干したところで敏子が首をすくめて、
「やっぱり予定通り……」
「出るのか」
「ごめんなさい」
「いや、それならいいんだ。いつ?」
「明日、荷物の整理をして。きちんとご挨拶《あいさつ》をして」
「三つ指ついてか」
「そうね。そうします」
あっさりとしたものだった。
孝也のほうは感傷に浸っている余裕もない。
敏子のいないリビングルームで熱いコーヒー・カップを掌《てのひら》で包み、
──ガラス窓を汚したまま行っちまったなあ──
ぼんやりと眺めているときに電話のベルが鳴り、受話器を取ってみれば、
「もしもし。大阪に行ってたみたいだな」
と、親しい先輩の黒川だった。
黒川は大手の出版社の編集局長を務めている。今年の春、総合雑誌の編集長から昇格して取締役となった。業界では腕利きとして知られている。この人には大学の同じゼミの後輩ということで孝也はずいぶん世話になった。
「早耳ですね」
「まあな」
「なんでしょう」
「せっかくだけど、大阪の取材、なかったことにしてくれないかな。筋ちがいの願いだけど……頼むわ」
「えっ?」
「気持ちはわかる。わるいようにはしない。それに……恩着せがましいようだけど、このまま進むと、君のためにならない」
いわゆるもみ消しである。充分にニュース・ヴァリューのある記事でも、発表を控えさせられることは、ある。よくあるとまでは言わないが、この業界に生きていれば聞かない話ではない。女性がらみのスキャンダルはとりわけそうだ。ジャーナリストにとっては、なによりもつらい譲歩のようだが、なーに、ゆっくり考えてみれば女性がらみのスキャンダルなんて、大衆の好奇心を満たすだけのもの、偉い人に対する大衆の嫉妬心におもねるためのもの、あるいは反対勢力の罠《わな》だったりして、大上段に社会正義を主張するほどのものではない。もみ消しに応じても魂の痛みは小さい。
「でも、私がやらなくても……どこかが……」
今のところ孝也一人のスクープになりそうな感触だったが、それは判断の甘さかもしれない。いずれだれかがあばく。
「もちろん、その可能性もあるけど、一つ一つ抑えていくより仕方ない。とりあえず君だよ」
黒川は顔が広い。いろんなところと繋《つな》がりを持っている。
──なぜ黒川さんが──
と思ったが、黒川が大物政治家と親しくてなんの不思議もあるまい。今までは知らなかったが、なにかしら非常に強い接点があるのだろう。
「そうですか」
孝也は少しためらった。黒川には抗《あらが》えない。これまでもずいぶん世話になったし、これからも世話になる。ここで譲っておけば、次によいことがある。別件で無理を願うこともできる。だから結論は決まっている。ただ……二つ返事で「はい、はい」と承知するのも、安易すぎるような気がして……。
──最近、ほかにも似たことがあったな。ああ、そうか。敏子のときがそうだった──
敏子に対しては三日だけ熟慮するように頼んだ。しかし、黒川のほうは、
「頼む」
と、急いでいる。
「わかりました」
「こまかい事情は……いいよな。いずれ、ゆっくり話すよ」
黒川もあまり話したくはあるまい。孝也としては聞きたい気持ちもあるが、見ぬもの清しという言葉もある。黒川とずっと親しくしていくためにも聞かないほうがよい。
「はい」
「とりあえず取材費だけは送るから」
「いいですよ」
「いや、いや、そこまで甘えるわけにはいかん」
「いつもお世話になってますから」
「じゃあ、頼むわ。また連絡する。体、大丈夫なんだろ」
「はい」
「奥さんは?」
と、敏子のことを尋ねる。
「ええ、元気です」
この件もこまかいことを伝える段階ではあるまい。
「奥さんによろしく」
「ありがとうございます」
電話を切った。
コーヒーの残りを捨て、水割りをたて続けに三ばい飲んだ。
酔いがまわる。
疲労を覚えた。
──この二、三カ月、俺はなにをやっていたのかなあ──
苦笑が浮かぶ。
狙った仕事は実を結ばない。敏子はあっさりと出て行ってしまった。こんなときには気ごころの知れた女がそばにいてくれるほうがいい。
──わるい女じゃなかった──
敏子の存在がなつかしい。
以前は親しいガール・フレンドの二、三人くらいいつも身近にいたけれど、敏子と一緒に暮らすようになって、みんな縁遠くなった。消息もよくわからない。
──お袋は喜ぶだろうな──
唯一の救いといえば、これだろう。母は真底から敏子との生活を憎んでいたから……。わけもなくガラス窓の汚れが眼につく。
──お掃除研究会へ電話をしてみるかな──
夜九時。学生ならば、失礼でもあるまい。
局番のあとに�ヨロシク�……。だが、答えたのはテープレコーダーの声だった。「この電話は現在使われておりません」と。孝也の記憶にはまちがいがない。もうお掃除研究会は解散したのだろう。
また二はい水割りを飲んだ。
それから三カ月……。敏子は順調にやっているらしい。元町のブティックも開店が近い。
孝也の生活は変らない。
同業者がたむろするスナックでコーヒーをすすっていると、はすむかいにすわった男が、
「殺し屋って、本当にいるんだなあ」
と、タブロイド判の新聞を読みながら叫んだ。あまり上等の新聞ではない。早い時間に読むと手にインキがつく。記事の内容も興味本位で、眉《まゆ》つばものも多いのだが、時折、大新聞が扱わないような記事が載る。
「あるんじゃないのか。東南アジアなら、三万円くらいだとか」
孝也は茶化しながら答えた。
「サラ金で困った日本人が、銭のない外国人を誘って、首都圏で殺人請負い業を始めたんだとサ」
「このごろ、世の中がマンガチックだからな。劇画みたいなことが本当に起きちゃうんだから。それで、成功したのか」
「いや、未遂だ。しかし、余罪があるかもしれない」
「とりあえずは失敗したわけだ?」
「そう。学生アルバイトの掃除屋を装って目的の家に入り込み、中の構造がわかるわけだから、あとで忍び込んで、盗んだり殺したりするってわけよ」
「本当かよ。ちょっと見せてくれ」
孝也は新聞を奪い取って記事を読んだ。
──よく似ている──
事件は未遂に終ったらしいが、外国人を交えた五、六人のグループが殺人請負い業を考えたのは本当らしい。少なくとも記事にはそう書いてある。事件は先月浦和市で起き、グループの用いた名称は……埼京大学お掃除研究会……。
「どうした?」
「いや、べつに」
よもやま話にしては少し深刻すぎる。まさかとは思うが、よく似ている。
──狙われたかな──
東都大学お掃除研究会のチラシ広告……。マンションのドアのすきまに押し込んであった。孝也はそれを見て掃除を頼もうとした。
一方で孝也は政治家のスキャンダルを追いかけていた。命はともかく、引出しの中の書類は狙われたかもしれない。
黒川が電話をかけて寄こし「このまま進むと君のためにならない」と言ったのは、背後に思いのほか怖い部分が見え隠れしていたせいかもしれない。どちらの団体も掃除研究会の名称に�お�がついている。そこが悩ましい。
──調べてみるかな──
もう一つピンと来ない。もっと大きなスキャンダルが隠されているかもしれない。
だが、今度もまた孝也にとって手の放せない私的な大事件が起きてしまった。やっぱりおみくじがわるかったのだろうか。
夜中に電話のベルが鳴り、
「お母様が急に……大宮の病院で」
と、女の声がすすり鳴く。
知らせてくれたのは、お花の弟子の一人らしい。母は風呂《ふろ》場で倒れ、数人の弟子が気がついて病院へ運んだが、もう手遅れだった。
「一カ月前の健康診断のとき、血圧が少し高いって言われて、心配していたんですけど」
と電話の声が言う。
脳|溢血《いつけつ》である。母の両親兄弟には、この病気で倒れた人が三人もいる。もっと注意すべきだったろう。
死顔は安らかだった。
──これから親孝行をしようと思っていたのに── 悔んでみても間にあわない。
葬儀をすませ、遺品などの整理はやはり孝也が立ちあわなければならない。
母のハンドバッグの中に、スケジュールを記した小さな手帳があった。なにげなくページを繰っていた孝也の指が、
──えっ──
五カ月ほど前の日付のところで止まった。敏子と仲むつまじく暮らしていた頃である。孝也はむしろ結婚を考えていた。別れたのは、その二カ月ほどあとのことだ。
母のスケジュールの余白に電話番号らしいものが書いてある。あの、東都大学お掃除研究会の番号が……。
──お袋はなにを考えていたのか──
母は白金台のマンションへ来たこともない。ガラス窓の汚れを知るはずもない。そして、あのタブロイド判の記事。それを思うと周辺に汚れた窓と同じように見えないものがちらつく。
──殺し屋なんて、本当にいるのかなあ──
明日、敏子が線香をあげに来てくれるらしい。