第五話 遊園地
その遊園地は横浜にあった。
世田谷の家から行くとなると、電車で四、五十分。さらに駅前の繁華街を通り抜け、坂を登り、二十分くらいは歩かなければいけない。子どもの足では……あちこちのぞきながら行くものだから、もっとかかった。だが、陸男はひところ子どもたちを連れてよくそこへ行った。
「どこへ行きたい?」
と尋ねれば、三人の子どもたちは口をそろえて、
「横浜の遊園地」
と言う。朋恵を頭に、順一、精二と続く。いろいろな時期があったけれど、眼に浮かぶのは、みんな幼い面ざしの小学生である。
遊園地という呼びかたは、あまり正確ではない。もっとずっと大きい。りっぱな動物園がある。公園がある。そしてブランコやジャングル・ジムを置いた遊び場がある。しかも、どこへ行っても無料。ジェット・コースターやコーヒー・カップなど、お金のかかる乗り物は用意してなかった。
初めは妻の恭子も一緒で……つまり家族全員で遊びに行ったのだろうが、その記憶はあまりはっきりと残っていない。顔ぶれは、ほとんど陸男と三人の子どもたち。たとえば、日曜日の朝、布団からなかなか起きてこない恭子に気がついて、陸男が、
「どうした?」
と尋ねれば、
「ええ、なんだか頭が痛いの。風邪みたい」
「じゃあ、寝てたらいいだろ」
「でも……」
と妻は言いよどむ。
子育てのまっ最中。一家の主婦は、そうおちおちとは眠っていられない。広い家ではないから、うるさくて休めない。
「いいよ。俺が遊園地に連れてくから」
空模様をながめながら陸男が言う。それが始まりだったろう。
少し遠いけれども、横浜の遊園地は遊びどころが多い。お金がかからないのもうれしい。四人分の弁当を用意し、あとは菓子類とジュースを現地で買い与えればそれでいい。まる一日たっぷりと時間を潰《つぶ》すことができた。
「おまえはどうする?」
「お茶漬けでも食べるからいいわよ。一日寝てればなおるから。お願いします」
「うん。わかった」
大喜びの子どもたちと一緒に出かけた。
ライオンの檻《おり》がある。虎も眠っているし、豹《ひよう》も木の上にいる。猿山もあるし、爬虫《はちゆう》類を集めた屋根つきの建物もある。
遊園地を見終ると、公園にまわり、ここには木の柵《さく》で囲った一画があって、時間ごとに兎《うさぎ》やモルモットを放してくれる。子どもたちは、それを追いかけ、つかまえて膝に抱く。ふっくらとして毛糸玉みたい……。
それに飽きると、今度は本当の遊園地。ブランコに乗り、ジャングル・ジムに登り、砂場で遊ぶ。日本列島を形どった跳び石があり、そのあたりでピョンピョンはねるのが、一日の行楽の終点だった。
盛りだくさんなのは結構だが、子どもと一緒に見てまわるのは大変だ。まったくの話、むこうはエネルギーに溢《あふ》れている。なにかしらおもしろそうなものがあれば、かならず首をつっこむし、いつまでもながめている。大人はとてもつきあいきれない。
危険がないのも、この遊園地の特徴だった。
二、三度行くうちに、どこから入って、どこを通り、最後はどこにたどりつくか、コースはきまってしまう。お昼の弁当を食べ終ったところで、
「おまえたちだけで遊んでいろよ」
「お父さん、どこへ行くの?」
「うん、ちょっと用があるから。朋恵、よく見てやれよ」
長女を監督係に命ずる。
幼い二人は不安そうな表情を浮かべるが、慣れてしまえば、そのほうが自由に遊べる。時計塔のありかは知っている。
「何時ごろ帰って来るの」
「四時だな」
「うん、わかった」
「じゃあな」
陸男は遊園地を出て繁華街へ向かう。多少の心配はあったが、普段だって親の眼のとどかないところで遊んでいるんだから、とくに今日だけ気に病む理由もない。
陸男にとっても週に一回の休日である。気晴らしがほしかった。
パチンコ屋へ入る。古本屋をのぞく。音楽を聞きながらコーヒーをゆっくりと飲む。
堀割りを越えて裏通りに入ると�歌麿�だの�クレオパトラ�だのと看板をかかげた悪所があって、昼間から営業していた。
ワンピースの女が陸男の前を歩いて行く。薄い布地の下で、いかにもばねのありそうな体が弾んでいる。女は角を曲がり、陸男があとを追って曲がると、もう女の姿はない。どこかのドアへ入ったのだろうが、なんとなく白昼夢を見ているような不思議な感じだった。
一度だけ、そんな店に入ったことがある。
「いらっしゃいませ。ご指名は?」
「だれでもいい。いい子、いないかな」
「はい。じゃあ、秋田さん」
この店の女性は、都道府県の名をつけている。
「秋田さんてのは、やっぱり美人につけるのかなあ」
細い階段を昇りながら陸男はあいかたに尋ねた。
「そんなことないみたい。順番で、あいてる名前があると、それになっちゃうの」
女は陽気で屈託がない。秋田美人にはほど遠いが、肌の白さは北国を連想させてくれる。
「何時からやってんの」
「早番は二時から。お客さん、初めてですか」
「うん」
ベッドのある浴室。陸男が裸になり、女も裸になった。細い体だが、胸はふくらんでいる。
——子どもたちは、どうしているかな——
今ごろは動物園から公園に移ってモルモットを抱いているころだろう。
——恭子はどうしているかな——
妻はあまり体の丈夫なほうではない。病気のときは眠るのが一番だ。ぐっすり眠っているにちがいない。子どもたちを連れ出してやったのは、ささやかながら女房へのサービス……。
——しかし、こんなことやってちゃ、サービスにはならんなあ——
もちろん、やましさはあるが、男の世界はこんなものだ。家庭をこわすほどのめりこんだら、いけない。でも、これはほんの気晴らし……。
女に体を洗ってもらい、ベッドで抱きあった。女の体は若くて心地よいけれど、すべてが流れ作業みたい……。九十分で一丁あがり、となる。
「いくら」
「はい、すみません」
一カ月の小遣いの半分以上。今月は切りつめなくちゃあ……。
——無駄遣いをしたなあ——
子どもたちになにかを買ってやったら大喜びをしただろうに……。このあたりの価値観は、どれを大とし、どれを小とするか、なかなかむつかしい。
日曜日のせいか、昼日中から酒を飲ませている店があった。港町の習慣なのだろうか。それとも陸男がたまたま穴場を見つけたのかもしれない。
カウンターだけの割烹《かつぽう》店。和服の女が一人……。
「お早いのね」
「何時から開いてるの?」
「三時から……。でも八時には閉めるの。結構お客さん来るのよ。かわいたものくらいしかないけど、なんにします?」
「ビール。あたりめ。こんにゃくの煮つけ」
「はい。横浜のかた?」
「いや、ちがう。ちょっと仕事があって」
子どもを遊園地に置いて来たとは言いにくい。
「日曜日なのに?」
「まあね。ママこそ日曜なのに働くじゃない。残るぞお」
「ママじゃないの。ここ、姉の店なの。私は木金土だけ手伝って……。それから日曜日の売り上げはお小遣いにしていいことになってるの」
「ああ、なるほど」
事情がすっかりわかってたわけではないが、この店には何度か顔を出した。子どもたちを横浜の遊園地によく連れて行った理由の半分は……半分以上はこのせいだったろう。
カウンターの中の女が好きだったわけではない。わるい感じの女ではなかったけれど、それだけでなにかが起きるものではない。
「もう四時か」
「そうね。この時計、少し進んでいるけど」
「お勘定してくれ」
「待ちあわせ? いいわね」
「いや、そんなんじゃない」
急ぎ足で遊園地へ向かった。子どもたちは案の定、日本列島の跳び石の前で待っていた。
「そこが北海道よ」
幼い精二は、なにをいわれたのか、よくわからない。知床半島のあたりで片足をあげていた。順一は九州から足を伸ばして、かろうじて沖縄を踏んでいる。
「もう四時半だよ」
「すまん、すまん」
五時まで遊んで家へ帰った。
子どもたちが大きくなるにつれ、陸男が遊園地に戻る時間が五時になり、それから六時過ぎまで遊んで帰るのが習慣になった。
恭子が胃|潰瘍《かいよう》の手術をした。
あのときも子どもたちを連れて一日だけ横浜へ行ったはずだ。
そして陸男はいつものように割烹店をのぞく。
「奥さん、おありなんでしょ」
「うん、どうして」
「いえ、べつに。見ればわかるわ。お子さんもいらして」
「うん、いる、いる」
嘘をつく理由もない。
女とは何度か顔をあわせ、かなりうちとけていた。陸男がこんなところで、こんな時間を持っていることなど、だれも知らない。眼の前の女は知っているが、その女は陸男が何者か知らない。名前を告げたこともなかった。
——日常とはちがう時間が流れている——
それほど大げさに考えることもないのだろうが、そんな意識がないでもない。
——男はだれだって、こんな時間を持っているものなんだ——
男だけではない。人はだれでも日常とはちがったもう一つの時間を持っている……。主要道路のわきに、もう一つバイパスがあるみたいに。少なくともそんな時間を持ちたいと願っている。
「何人いらっしゃるの、お子さん?」
「三人だ。女、男、男」
「いいわね、大勢で」
「あんたは独りなのか」
「そう」
「結婚したことないの?」
三十五、六にはなっているだろう。
「したこと、あるわよ。子どもも二人産んで」
「へえー、それで」
「離婚しちゃった」
「子どもを育てているわけか」
「ううん。もとの亭主のところにいる。つぎの奥さん、もらったんじゃないかしら」
「どうして離婚なんかしたんだ」
「べつに好きな人ができちゃって……」
「激しいこと、やったんだなあ」
「そう。いま考えてみると、夢の中みたい。奥さんをやりながら時間を盗んで男と会ってたの」
「そんなにいい男だったわけか」
「すったもんだがあって、別れてしまえば、ちっともいい男なんかじゃないわよ。どうしてあんな男と、って思うくらい。でも……なんて言うのかしら、普通の生活のほかに夢の時間がほしかったのね、きっと。ほら、電車に単線と複線があるじゃない」
「ああ、複線ね」
つまり、本線とバイパスだ。女も陸男と同じことを考えていたらしい。
「へんな話、しちゃったわね。ビール、もう一本あけますか」
「いや、いい。俺も本線に戻らなくちゃ」
「そうみたいね」
女はなにか感づいていたのかもしれない。
女に会ったのは、このときが最後だったろう。次に行ったときは格子戸に鍵がかかっていた。その次も、そのまた次もそうだった。日曜日の営業はやめになったらしい。
——なにかあったのかな——
女にとっては、あの店にいること自体がバイパスだった……。
そのうち陸男も足を運ばなくなった。子どもたちも大きくなり、もう遊園地に興味を示さなくなる。横浜は遠くなり、陸男ももっとほかのところにバイパスを求めなくてはならなくなる。
そして、長い時間が流れた。
今日、久しぶりに横浜に来た。
「もう六時か。行かなきゃ」
カウンターの割烹店。とてもよく似た店を見つけた。和服の女、ビールにあたりめ、こんにゃくの煮つけ。駅に近い裏通り……。
酔った頭の中で、昔と今が交錯する。
「またどうぞ」
大急ぎで繁華街を抜け、遊園地へ戻った。
もう日が暮れかけている。そこだけが記憶とちがう。恭子は入院中。しかし、今度はいけないかもしれない。
日本列島の跳び石……。
朋恵は静岡へ嫁いだ。順一は博多へ行っている。精二はついこのあいだ盛岡へ転勤した。
もう跳び石の上に人影はない。