第六話 御香典
帰宅したのは九時過ぎだったろう。そう遅くはなかったが、日出雄は少し酔っていた。電話のベルが鳴る。洋服を脱ぎながら受話器をとった。
「もし、もし……ああ、今晩は。えっ、いつ? そりゃどうも。急だったの? 年だからねえ。まあ、仕方ないさ。みなさんに力を落とさないようお伝えくださいねっ。はい、ご苦労さま」
短く話して電話を切った。むこうが切っちゃったのだからどうしようもない。
「だれ?」
妻の君子がターバンの頭で尋ねる。頬《ほお》が上気しているのは風呂あがりのせいだろう。
「米子《よなご》のおばあちゃんが死んだそうだ。葬式ももうすんじゃったらしいぞ。遅ればせながら連絡するって……」
「だれからなの、今の電話は?」
「圭一君。知らんだろ?」
「ええ」
「俺だってよく知らん。いくつになったのかな。大人びた口調で言ってたけど」
「親戚《しんせき》って言っても、ほとんど米子とは縁がないから」
「まあ、そうだな」
「いつのこと?」
「先週の水曜日だって」
米子の家では、日出雄のところに連絡をし忘れ、一段落したところで思い出し、あわてて電話をかけてよこしたのだろう。そのくらい薄い関係になっていた。日出雄としても、つい先日職場が変ったばかりで今は休みを取りにくい。米子は飛行機で行くにしても、そう近いところではない。本心を言えば、この遅い連絡はありがたかった。むこうもそのあたりを考えて、電話を遅らせたのかもしれない。
「米子のことは、私、わからないから」
君子がお茶を入れながら言う。
死んだお豊おばあさんは、日出雄の父の姉にあたる。もともと米子の人で、その娘に千恵さんがいて、その息子が米子市内に家を構えている。今、電話をかけてよこした圭一は、その長男のはずである。四世代が一つ家に暮らしていたわけだが、日出雄が知っているのは、お豊おばあさんと千恵さんまで、それより下の世代は一、二度顔をあわせたが、せいぜい名前を知っている程度の関係だった。
「おいくつでしたの、おばあさん?」
従姉の千恵さんでさえ、日出雄よりひとまわり上の酉《とり》年で、誕生日が来れば六十七歳になるはずだ。
「九十に近いんじゃないのか。いや、ちょうど九十か。俺がものごころついた頃から、もうずーっとおばあさんだったからなあ」
「でも、お世話になったんでしょ」
「なった、なった。ほかの人はあんまりよく知らんけど、あのおばあさんには世話になったよ。終戦後、荻窪に家があって、俺はそこから大学へ通ったんだ。サラリーマンになってからも、しばらくは居候をやってたんだから」
当時の家族は千恵さんを除いて、みんな他界してしまった。
「きびしい人だったらしいじゃない」
「うーん。きびしいって言うのかな。俺は、ほら、お袋を早く亡くしただろ。だから、おばあさんが母親がわりみたいな気分で、いろいろ注意してくれたんだ」
「頭があがらないわけね」
「そういうこと。どうもあのおばあさんの前に出ると、俺、いつもヘマばっかりやっちまってな。ろくな思い出がないよ」
「そうなの」
死亡の知らせを聞いたら酔いが少しさめた。リビングルームの椅子に腰をおろして、日出雄はお茶をすすった。
「ああ。一度、あんこを作らせられたことがあってさ」
「あんこ?」
「うん。知らんだろ」
「あんこくらい知ってるわよ」
「そうじゃない。あんこの作り方。小豆《あずき》を煮て」
「昔、やってたわねえ」
「長い時間をかけてグジュグジュ小豆を煮て、そのあと木綿の袋に入れて、こすんだよ。一応力仕事だからな。その仕事をまかせられたんだけど、俺、袋の中に残ったほうが大事なんだと思っちゃってな」
「馬鹿ねえ」
「知らなきゃそう思うんじゃないのか。あんこのほうはお湯と一緒に袋の外に出る。それに砂糖を加えて煮つめるんだけど、俺、袋をギュウギュウ押しながら、そっちはみんな台所の流しに流しちまったんだ」
「怒られたでしょ」
「あきれられたよ。荻窪の家に行ってすぐの頃だったから、まいったなあ、あのときは」
戦後の食料事情はまだ充分には回復していなかった。小豆が貴重品の頃だった。しかも、おばあさんが何時間もかけて丹念に煮込んだ小豆である。下水管に流れて行ってしまっては、もうどうしようもない。
「もうひとつ、落語みたいな話もあったじゃない」
最近は夫婦で昔話をすることが多い。長女は嫁に行き、大学生の長男はまだ帰らない。日出雄たちも着実に老後の生活に入り始めている。まさか九十歳まで生きることはあるまいけれど……。
「なんだったっけ」
「マッチ会社の火事」
「ああ。話したかなあ」
「話してくれたわよ、新婚旅行のときに。俺はオッチョコチョイのところがあるから、よろしくって。それが言えるだけいい人だと思ったわ」
「俺、オッチョコチョイかな」
「まあねえ。多少はそういうとこ、あるんじゃない」
君子はうれしそうに笑う。
君子の前では、さほどの失敗をやってないだろう。いや、三十年も一緒に暮らしていれば、馬鹿らしい出来事の一つや二つあるけれど、それはだれにでもあることだ。日出雄の荻窪時代は、そう長い年月でもないのに、なにかしらヘマをやっていた。
「あれは消防車が三、四台、ものすごい勢いで走って行ったんだよな。俺、火事が好きだから、外へ飛び出して行って、どうしたんだって聞いてまわったんだ」
「そしたら、マッチ会社が火事だって」
「そう。近所の薬屋の主人が大通りのほうから帰って来て、教えてくれたんだ。だから俺は家に駈け戻ってそう伝えたよ。おばあさんがさあ、そりゃ大変だ、マッチ会社なら保積先生の家の近くだって……。あの頃、お世話になってた人がいたんだよ。電話なんかないしな。おじいさんがまだピンピンしてたから、とにかく行ってみようって、自転車で飛び出してったんだ。でも、なーんもない。保積先生のとこへ行って、大恥をかいちゃったって」
「あなた、本当にマッチ会社だって聞いたの?」
「俺はたしかにそう聞いたと思ったのに、あとで薬屋の主人にたしかめたら、まちがいだ、まちがいだって、そう言ったんだって……」
「マッチ会社とまちがいねえ。多少似てるわ。でも逆よりいいんじゃない」
「逆って?」
「まちがいだって聞いて知らん顔してたら、実はマッチ会社だったら、ひどいじゃない」
「そりゃそうだ。マッチ会社の火事なら、さぞかしよく燃えるだろう。こりゃ大変だと思ったとたん、よくたしかめるのを忘れたんだろ、きっと」
「叱られた?」
「叱られたというより、じゅんじゅんと説教されたな。人には聞きまちがいはあることだし、そりゃ仕方ないけど、これから世の中に出て、そんなまちがいをしないようにって……」
「あるわよね、そういうこと。一郎だって、ほら、お友だちのお母さんが外交官だって言うから、女だてらにすごいなって思ったら、保険の外交だったじゃない」
「そりゃ、ただの聞きまちがいとはちがうさ。さて、寝るかな」
「ご香典、送らなくていいの?」
「あ、それは送らにゃならんだろ。明日、手紙を書くよ。あんまり高く包むこともないだろ」
「ま、そうね。おばあさんの手に渡るわけじゃないし。連絡だってすぐに来なかったくらいだから」
「うん。そうしよう、おやすみ」
日出雄はお茶を飲み干し、手洗いに寄ってから布団に潜り込んだ。
だが、すぐには眠れない。思うともなくおばあさんのことを考えた。しっかり者だった。明治の女らしく目立たないところで一家の幸福を支えていた。
——ここ十数年会ってなかったな——
体は頑健な人だった。頭もしっかりとしていた。電話の話では、今年の正月から寝込んでいたと言う。もう少し事情を聞けばよかった。いきなり「おばあさんが死にました」と言われて、日出雄も少しうろたえた。若い人の電話だから要領をえない。口上だけを伝えて切ってしまった。ほかの人が連絡をしてよこせばいいのに……。
——千恵さんはどうしてるのか——
千恵さんだって、言っちゃあわるいが、死んでもおかしくない年齢だろう。看病やら葬式やらで寝込んでしまい、それで圭一君に連絡を頼んだのかもしれない。
千恵さんは二人姉妹で、妹がいた。真由ちゃんといって、日出雄より二つ下。色白のきれいな人だったが、この人も早く死んでしまった。
——あれもひどいドジだったなあ——
真由ちゃんの結婚がきまり、新居に荷物を運び込むトラックに乗るのが日出雄の役目だった。おばあさんが、
「ああ、そうそう。二階の押入れから、春の絵を持ってってあげて」
出発まぎわに頼まれた。
知人に日展に入選した画家がいて、同じ号数の春の絵と秋の絵と二枚があったのだが、日出雄は新婚家庭と聞いて、妙なことを考えてしまった。
——あれだ——
とっさに思いついたのが、二階の押入れの箪笥《たんす》の奥深く隠してある春画のこと……。まあ、春の絵と言えば春の絵である。結婚する娘にそういうものを持たせる習慣が、どれほど実行されていたかはともかく、ないでもなかった。
里帰りして来た真由ちゃんが、
「なんであんなもの……」
と苦情を言ったらしい。おばあさんのほうはなにを言われたのかよくわからない。真由ちゃんのほうも恥ずかしくて、はっきりとは言えない。
「あなた、ほしがってたじゃない」
「だれがほしがるのよ」
「正樹さんも喜ぶと思ったのに……」
「そんな人じゃないわよ」
「床の間に飾ったら……。あるんでしょ、床の間」
さすがにこのへんまで会話が進むと、おかしいと気づく。
——さては日出雄さん——
箪笥の奥にひっそりと隠してあったのだから、日出雄がその存在を知っていたことさえ、あまり名誉にはならない。
「なにやってんのよ」
「本当にそそっかしいんだから」
真由ちゃんには恨まれるし、おばあさんからはお小言をくらうし、笑い話としてあとあとまで語られた。まったく頭があがらない。ほかにも思い出せば似たような失敗がいくつかある。
翌朝、日出雄は少し早起きをして弔慰の手紙を書いた。字はあまりうまくない。手紙を書くのは苦手である。
——おばあさんが生きていたら、字が汚いの言葉遣いが違うの、また文句を言われるかもしれないぞ——
そんな意識がつきまとう。いくつになってもおばあさんは、それを言うつもりでいた。
——しかし、今回は大丈夫。死んでいるんだから——
香典のほうは、一万円を白紙で包み、
——少ないかな——
そう思ったが、人間にはひどくけちになってしまう瞬間があるものだ。二万円包んだからといって、なにかいいことがあるわけではない。送るほうの立場に立てば、一万円と二万円は明白に違う。微妙なところだが、一万円でも儀礼はつくせるだろう。
「現金書留の封筒、あったよな」
「ええ」
「じゃあ、これを出しておいてくれ」
「わかりました」
「そう言えば、自分の両親と、それからその両親の両親と、合計六人の年齢をたしあわせて六で割ったあたりが、当人の寿命だって説があるぞ」
「あなたのとこ、わりと短命なんじゃない」
「うーん。俺の場合はいくつになるのかな」
「でも昔より寿命が伸びてるわよ」
「まあな」
君子とたあいない話をかわしてから家を出た。
——九十歳まで生きれば本望だろう——
明るい出来事ではないが、長く悲しむほどでもなかった。
——これにて一件落着——
そうなるはずであった。
それから五日たって、土曜日の午後、日出雄が植木の手入れをしていると、手紙が届いた。君子は買い物に出たらしく、留守である。
——あれっ——
封書を裏返し、はじめは見まちがいかと思った。次に、死んだ人の遺志により、こんな手続きが取られることもあるのかと思った。白い封筒の裏におばあさんの名前が記してある。
封を切って読んだ。
�……死んだのは私ではありません。千恵のほうです。私ももう死んでいい年ですから、まちがわれたのは仕方ないけれど、一言だけ言っておきます。千恵が死んだのなら一万円の香典で不足はないけれど、私が死んで、それで一万円はいけません。あなたはとても私の世話になったのですから。世間様に笑われます……�
当人にこれを言われてはかなわない。
九十歳になっても、おばあさんはちっともぼけていないらしい。おそらく下唇などを噛《か》んで……矍鑠《かくしやく》たる姿が浮かんだ。