第八話 男同士
「お鮨《すし》を食べに行こうか」
「えっ、本当」
土曜日の夕刻、尚武《なおたけ》は長男の和平を連れて外に出た。
妻の絹子は長女と一緒に学校のバス旅行に出かけている。帰りは八時過ぎになるらしい。
「和平になにか食べさせておいて」
と頼まれていた。
まだ外は明るい。
和平はスキップを踏みながら父親の少し前を行く。ときどきふり返り、笑いかけ、ひどくうれしそうだ。
「はじめてか」
と聞くと、
「お鮨くらい食べたことあるよ」
と胸を張る。
小学四年生。こんな動作もまだあどけない。
いくらなんでも息子が握り鮨を食べたことがあるかどうか、そのくらいのことは尚武も知っている。おみやげの折り詰めを持ち帰ったこともあるし、客が来れば鮨の出前を取ることもある。ついでに子どもたちのぶんを取ったことも、あったはずだ。
尚武が尋ねたのは、カウンターにすわって食べたことがあるかどうか、そのことだったけれど、和平は先に駈けて行く。それ以上は聞かなかった。
多分はじめてだろう。
握り鮨の立ち食い……。この手の贅沢《ぜいたく》は絹子の好みではない。絹子は食べることにあまり興味がない。根が節約家だから、
「口がおごるのって、毎日のことだから馬鹿にならないのよ」
まだしも着飾るほうに興味がある。おしなべて無駄な出費はしないほうである。
——俺は高校生のときだったな——
尚武には思い出がある。奇妙によく覚えている。
やはり父に連れられて、はじめて寿司屋ののれんをくぐった。
「好きなものを食え」
そう言われても、どれを食べていいのかわからなかった。父と同じものを注文し、あとになってもう一度さっきと同じものを頼んだ。父は尚武に好き放題食べさせておきながら、
「尚武のやつ、いくらでも食うんだ。えらい散財だったよ」
と、あとになって母に歎《なげ》いたらしい。
——それなら、そう言ってくれればいいのに——
ちょっとうらめしかった。
——安くはなかったろうな——
子どもだって、そのくらいの見当はつく。でも信じられないほどうまかった。あれ以来、ずっと握り鮨は尚武の大好物である。
志賀直哉の�小僧の神様�を読んだのもあの頃だったろう。貧しい小僧がバス代を倹約して、たった一個のまぐろを食べようとする。あらすじは忘れてしまったが、小僧の情熱だけはよく覚えている。尚武は父に立ち食い鮨の味を教えられ、それであの小説をよく記憶した。そうにちがいない。
子育てというものは、だれにとっても、
——歴史はくり返すんだなあ——
そんな感じを抱かせてくれる部分がある。自分が父から受け継いだことを、今度は自分が父になって子どもに伝える。
——この道は、いつか来た道——
そう言い替えてもいい。
同じ情況に置かれて、反対の行動を取るケースもまれではない。父から受けたことを、
——あれは厭《いや》だったな——
そう思うから、自分が親になったときには逆のことをやるわけだ。
たとえば……そう、尚武という名前……。
これは昭和二十年までの名前だ。そう言ってもまちがいではあるまい。周囲によくある名前だが、昭和二十一年以降にはけっしてありえない。�武を尚《たつと》ぶ�という思想は、あそこを境にして滅びてしまった。憲法第九条の前では好きになれない名前だった。
だから、息子は和平、平和をさかさにして命名した。
和平はもう寿司屋の前に立って待っている。
——好きなだけ食わせてやろう——
そして、あとは苦情を言わない。人込みを通り抜けて寿司屋のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
カウンターにはまだだれも客はいない。そのほうがいい。男たちが酒を飲み交わす時間になって幼い子どもと二人連れというのは、わけもなく恥ずかしい。寿司屋ならまだ許せるが、小料理屋だったりすると、周囲の客たちは、
——どういう事情かな——
と勘ぐるだろう。
家族の気配を酒場に持ちこむのは、サラリーマンの仁義に反するような気もする。みんな家庭のことを忘れて飲んでいる……。少なくとも子ども連れはあまり見場のいいものではない。
「ビールを一本」
と尚武は指を立てた。
和平はキョロキョロとものめずらしそうに眺めている。
「お兄ちゃんは、お茶でいいかな」
「ああ、お茶でいい」
と尚武が答え、
「好きなものを食べろ。まずまぐろだな。それから白身」
と、つけ加えた。
「旦那は、なんか切りますか」
「いや、握ってもらおう。まぐろと赤貝」
ゆっくりと刺し身を食べているゆとりはあるまい。案の定、和平はたて続けにペロリと食べてしまう。そしてガラスの中を物色する。
「うまいか」
「うまい。あれ、なーに?」
と小声で尋ねる。
「いかだろ」
「じゃあ、それ」
「はいよ」
いかを頬張ったとたんに、和平の顔がゆがむ。わさびが効いたらしい。いかは身が固いから、わさびとうまく折りあわない。舌の上にわさびそのものが触れる。
そのことにも尚武は思い出がある。
——俺もそうだった——
父とはじめて食べたとき……。目から涙が出た。それでもおいしかった。
「お茶を飲めばいいんだ」
父にもそう教えられた。同じように和平に告げた。
「おいしいね」
「つぎ、なんにしましょう」
「さっきの……まぐろ」
和平も同じようにもとへ戻った。
「なにが一番好き?」
と、食べ物の好みを尋ねられたら、尚武は、
「鮨かな」
と、答えるだろう。
てんぷらもうまいし、ステーキもおいしい。うなぎもわるくないし、ラーメンだってきらいではない。腹さえすいていれば、たいていのものがそこそこにうまい。
だが、どんなときでも、
——これはご馳走だな——
と思うのは、やはり握り鮨である。
昨今はキオスクのような店舗で安い握り鮨を売っているけれど、あれだって尚武はうまいと思う。酢飯に生魚がのっていれば、それだけで好物になる。もちろんカウンターでお好みを握ってもらえば最高だ。
ただ絹子が、
「もったいないわ。節約しましょ」
と言うので、家族の前では我慢している。一人で食べるとき……ささやかな人生の楽しみとなる。
絹子といえば……婚約時代にふんぱつして銀座の老舗《しにせ》で絹子に握り鮨をご馳走したことがあった。
「ここで食べよう」
一緒に映画を見た帰りだった。
見合い結婚だから、まだそううちとけてはいなかった。
「ええ……」
カウンターの前に二人並んで腰かけた。
——この人、慣れていないな——
身ぶりを見ていれば見当がつく。もしかしたら絹子は、あのときがはじめての体験だったのかもしれない。二十五歳になっていたはずだから、ちょっとめずらしい。
しかし、尚武は平凡なサラリーマン。結婚後の経済がさほど豊かになる見通しはなかった。
——つましい女のほうがいい——
そう思わないでもなかった。
未来の妻に大盤ぶるまいをし、寿司屋を出たところで、
「うまかった?」
と絹子に尋ねた。
「ご馳走様でした。とてもおいしかったわ」
おいしくないはずがない。値段も高かったし、たしかにたねはわるくなかった。
つぎに絹子とカウンターの握り鮨を食べたのは、結婚してからだったろう。
新婚時代……。財布は絹子が握っている。
十円鮨のたぐいだった。
味はそこそこ……。
「うまかった?」
と尋ねれば、
「とてもおいしい」
表情は銀座の店のときとそう変らない。満足の度合いが同じように見える。
——この人、味がわかるのかなあ——
かすかにそんな懸念を抱いた。
この心配は七割がた的中していただろう。
どんな舌だって、銀座の老舗と十円鮨とでは区別がつく。だが、その区別の度合いが値段の差と見あっているかどうか、それが問題だ。
絹子は値段の差ほど味の差を認めない。さほどちがいがないのなら高いものを食べることはない、これが絹子の考えだった。
こうなると、絹子とわざわざ高い鮨を食べる理由はなくなる。ほかのご馳走についても絹子は似たような態度を示す。いつのまにか外で食事をすることはまれになってしまった。食べるときは、腹を満たすため……。安いものがほとんどである。
和平はたっぷりと食べた。
「もういいか」
と尋ねると、
「うん」
と頷いてから、
「もう一回まぐろ」
と言う。勘定のほうもたっぷりと取られた。
「お母さんには黙っていろよ」
店を出たところで釘をさした。
「どうして」
理由を説明するのがむつかしい。つまらないことを言ってしまった。
「典子がかわいそうだろ」
と娘の名を引きあいに出した。
「そうだね」
この理屈は和平にもわかりやすい。
「男同士の約束だ」
笑いながらつぶやいた。
「うん、わかった」
和平も花のように笑う。
「お父さん、お鮨、好きなの?」
「ああ、好きだ」
「一番好き?」
「そうだなあ。一番好きかもしれんな」
「上と並とがあるんだね」
「ああ」
和平は握り鮨を食べながら、しきりに値段表をにらんでいた。なにかしら感ずるところがあったのだろう。
「上のほうがおいしいんだよね」
「そりゃ、そうだ」
和平はまたスキップを踏みながら走って行ったが、すぐに戻ってきて、
「このあいだ、おじいちゃんのお棺の中にタバコをいっぱい入れてあげたね」
と、聞く。
二カ月ほど前、尚武の父が死んだ。葬儀の一部始終を和平は身を乗り出して見つめていたっけ。
父の好物はタバコだった。一緒に住んではいなかったけれど、孫たちもそのことを知っていただろう。
その父のために、尚武はタバコのカートンを一つ和平に買わせて、棺の中に入れた。和平はそれを思い出したらしい。
「お父さんが死んだらね、僕、お鮨を入れてあげるよ」
無邪気な声で言う。
「そうか。それはいい。お鮨を食べながら、あの世へ行くとするか」
「上鮨がいいね」
「そりゃ、そうだ」
「お母さんはきっと�並でいいのよ、どうせ焼けちゃうんだから�って言うよ」
「そうかもしれんなあ」
苦笑がこみあげて来る。子どもは案外、親のことをよく見ているものだ。
「でも、僕、絶対、上にするから」
「ああ」
「男同士の約束だよ」
「うん、うん」
尚武はゆっくりと頷いた。
和平もきっと�父と一緒に握り鮨を食べた日�を忘れずに覚えているだろう。