第九話 秋の色
日曜日の昼さがり。文雄は畳の上に寝転がり、腕枕をして小さな庭を眺めていた。
郊外地の建売り住宅。狭いながらも、借金をしてようやく手にいれた�わが家�である。垣根の植木もまだ充分に葉をつけていない。だから、葉のすきまから外が見える。
そんな垣根だから、外からも当然家の中が見えるはずだが、そこは空地になっていて、わざわざのぞきに来る人もいないだろう。
小学四年生の啓介が濡れ縁に腰かけ、足をブラブラさせていたが、いつのまにかどこかへ行ってしまった。裏の木戸を抜け、空地のほうにでも遊びに出て行ったのかもしれない。
その木戸がそのまま細く開いているらしい。
かすかに人の気配を感じた。そっと入って来るような……。
——啓介かな——
と思ったが、どうもそうではないようだ。
妻の春子は台所でそうめんをゆでている。遅い昼食の用意……。中学生の娘は朝早くテニスの練習に行った。まだ帰る時間ではない。
——だれかな——
それより少し前に、空がつくづく青いと思った。まだ暑さが残っているが、空の色はあきらかに秋である。それに、ここは都心を大分離れているから空がきれいなのだろう。空がきれいなのはうれしいが、そんな田舎でなければ土地が手に入らない。見つめているうちに文雄は、子どもの頃に住んでいた国分寺の社宅を思い出した。父が文雄くらいの年齢、文雄が啓介くらいの年齢だったろう。
庭へ入って来たのは、女の子らしい。
草色のブラウス。焦茶色のスラックス。腰にコバルト・ブルーのベルトを巻いている。色あいがとても美しい。
そっと忍び込んで来て、足を止め、文雄の様子をうかがっている。文雄のほうは眠っている。
だから、これは夢なのだろう。
少女の顔立ちは、とても整っている。
——ああ——
と、納得した。これは、小学生のとき同じクラスにいた美少女、村瀬昌子にちがいない。顔は忘れてしまったが、きっとそうだ。村瀬昌子以外にこんな美少女はいるはずがない。
——どうしようか——
と考える。せっかくむこうが忍び足で入って来たのだから、こっちが気づいて目を開けてしまっては、つまらない。目を開いたら夢がさめてしまうかもしれないし……。
文雄はずっと目を閉じ続けていた。
少女はしばらく動かずにいたが、急に向きを変え、入って来たときと同じようにそっと出て行く……。草色と青と焦茶色の服装がはっきりと映った。
村瀬昌子は、文雄の家のすぐ近くに住んでいた。でも一緒に遊んだことなんか、ほとんどなかったろう。すでに女の子と遊ぶのは、恰好のわるい年齢になっていた。相手が美少女だから、余計にそうだ。
——一回こっきりかな——
まだあちこちに原っぱが残っていて、自転車で雑草の中を走り抜ける。赤い自転車が追いかけて来た。それが村瀬昌子だった。
「待ってえー」
声を聞いて少しスピードをゆるめた。
赤い自転車が追いつき、並んで走った。
「速いんだからあ」
と、少女は髪をなびかせてつぶやく。
うれしいけれど、こそばゆい。だれかに見られたら、あとで冷やかされるだろう。
でも、せっかくむこうが仲よく遊ぼうと誘っている。邪険にはできない。しばらく一緒に走った。原っぱに大きな円を描きながら……。
そのうちに村瀬昌子がペダルを止めて降りる。草の上に腰を落とす。文雄は自転車に乗ったまま、そのそばに立っていた。
——なにを話しただろう——
思い出せない。クラスメートの噂話。最近見たテレビのこと。空だけが青かった。
それから一年ほどたって村瀬昌子は、どこかへ引越して行った。
「村瀬さんとこ、夜逃げだってさ」
そんな噂を聞いた。
夜逃げというのは、夜中に荷車でもひいて家族がこっそり逃げて行くことだろう。
——そんなわけはない——
村瀬昌子が住んでいたのは、りっぱな家だった。家財道具だって小さな荷車に載るような量ではあるまい。文雄は心配になって引越したあとの空き家に行ってみた。庭にまわって、ガラス戸の中をのぞくと、部屋はきれいに片づいていた。村瀬昌子の父親は銀行員だった。仕事で失敗して左遷された……。浮き貸しのようなミスだったと、これは文雄がずっとあとになって知ったことである。
子どもの頭が考えたのは……お金持ちの家が転落して、美しい娘がドロ沼の生活に落ちて行く、そんな物語である。
三文小説みたい……。だが、子どもの想像にはよくかなっている。ヒロインが美しいだけにドラマチックである。昌子は美貌《びぼう》を売り物にして、悪事に手を染めてしまう。心ならずも悪い連中とつきあっている。それを助けに行くのが、文雄自身である……。
——彼女、どうしたろう——
三文小説はともかく、もっと現実的に村瀬昌子のその後を考えたこともある。とりわけ町で、凜《りん》とした様子の娘を見かけたときなど、
——こんな感じだったかな——
と、不確かな記憶をたどった。
村瀬昌子も当然年を取る。文雄と同じように年齢を重ねているはずだ。だから、
——こんな感じかな——
と思う印象も、三十年のあいだに少しずつ年を取った。
——あまりいい運命ではあるまい——
なんとなくそんな気がする。美女は薄幸によく似あう。もう死んでいるかもしれない、すっかり老け込んでいるかもしれない。
夢の中に急に村瀬昌子が登場したのには驚いた。しかも、昔のままの若さで逃げていく……。
——待って——
文雄がサンダルをつっかけて裏の木戸から外へ出ると、そこは一面の原っぱ……。自転車で草を切って走った、あの原っぱが広がっている。
建売り住宅の裏も空地になっているけれど、こんなに草ははえていない。だから、文雄はまだ夢の中にいるらしい。
女がふり向いて手招きをする。
どこにいたのか啓介がそのあとを追って行く。
——いけない——
文雄は激しい狼狽を覚えた。とにかく�よくない�と感じた。
やはり村瀬昌子は悪いことに加担しているらしい。三十年たっても昔のままの顔でいること自体が、よくない証拠である。まじめな暮らしをしていれば、そんなことはありえない。
「啓介……」
呼び戻そうとしたが、声が出ない。それがもどかしい。あせりを感じた。パクパクと口だけを動かしている。逆に、背後から、
「御飯よ。早くいらして。啓介も呼んで」
と、妻の声が聞こえた。そうめんがゆであがったのだろう。
今度は本当に目をさました。
鮮明に色のついた夢だった。草色のブラウスと焦茶色のスラックス、それを区切ってコバルト・ブルーのベルトが鮮やかだった。
——どうして、あんな色なのかなあ——
村瀬昌子と結びつくものはなにもない。
「卵、いるでしょ」
「ああ」
と答え、いったん食卓に向かいかけてから文雄は、向きを変えて庭へ出た。
「啓介、啓介」
大声で呼んだが姿が見えない。呼びながら木戸を出て路地のほうまで行ってみた。やはり啓介はいない。
「いないぞ」
平たいざるの上に、そうめんが盛ってある。ガラスの鉢に汁を入れ、といた卵を混ぜ、もみ海苔《のり》を散らした。
「どこへ行ったのかしら」
「さっきまでそのへんにいたのになあ」
ほんのちょっぴり不吉な予感がある。妖しい女に魅入られ、どこかへ行ってしまったのではないか。
「もうすぐお昼だって、わかってるくせに」
「今に戻って来るさ」
妻と二人だけでそうめんをすすった。汁が冷たいので、とてもおいしい。
そうめんもカン入りの汁も、そして多分もみ海苔も、みんな到来物である。啓介はあまりそうめんが好きではない。
遊びに夢中になれば、帰って来ないかもしれない。このごろの子どもは、食べることにそう熱心ではない。文雄たちの若い頃とはちがっている。昔は、まず食べることが第一だった。遊びに夢中になって、食べるのを忘れるなんて、ほとんどないことだった。
到来物のそうめんを、到来物の汁にひたして、ありがたく妻と二人で食べた。
食べ終っても啓介は帰らない。
「しょうがないわね」
「変だな」
「どうして?」
「いや……べつに」
春子は、余ったそうめんをボウルに移し、ラップをかけて冷蔵庫の中にかたづけた。文雄はテレビの前に寝転がって、ゴルフの中継を眺める。
——昔はよく牛になるって言われたけど——
今は、そんな途方もないこと、だれも言わない。啓介はこの迷信さえ知らないかもしれない。
二時になっても、三時になっても啓介は帰らない。
少しずつ不安が深くなる。
「本当にどこへ行ったのかな」
「お友だちのところにでも行ったんじゃないの。ひとことくらい言ってから行けばいいのにねえ」
「しかし、転校して来たばかりだろ。友だちなんか、まだいないんじゃないのか」
夏休み中に引越して来た。啓介は今の小学校へ通い始めてまだ二週間しかたっていない。
「子どもなんて、すぐ仲よくなるんじゃないの。いいお友だちができそうだから、なかなか帰って来れなくて」
それはおおいにありうることだ。
「草色のブラウスを着て、青いベルトをしめて、焦茶色のスラックスをはいた女、知らんか」
と、文雄は春子に尋ねた。
「なに、それ? 知らないわ」
色彩はきれいだが、ちょっとはですぎる。狂気の色あいではあるまいか。夢の中でも異様だった。
それが草原の中を逃げて行き、啓介があとを追いかけて行った。
「知らなきゃ、いいんだ」
蝉《せみ》が鳴いている。
風鈴が時折揺れて、やさしい音を放つ。
啓介が帰って来たのは四時に近かったろう。
「ただいま」
疲れきった様子でいる。目の奥に微妙な興奮が残っているようにも見えた。
「どこへ行ってた? 昼めしも食わずに」
春子は夕飯の買物に出かけて留守だった。
「お父さん……」
「なんだ」
「すごいとんぼがいるね」
啓介は両手の人差し指で十センチほどの長さを作ってつぶやく。それがとんぼの大きさなのだろう。
「どんなとんぼ?」
「見たことないやつ。胴体が緑と青で、しっぽが焦茶色で」
文雄は�あっ�と思った。
「銀やんまだろう」
「そう言うの?」
「そうだ」
めっきり見なくなった。啓介は本当に見たことがないかもしれない。見なければ、名前も知らないだろう。
「それを追いかけて行ったのか」
「うん」
「ずっと?」
「うん。つかまえられそうだったから。いなくなったと思ったら、またすぐ来るんだ」
「ふーん」
文雄は、わけもなく、
——村瀬昌子は死んだな——
と思った。とんぼに身を変えて、そのことを伝えに来て……。これも三文小説かもしれない。
むしろ、文雄がまどろみに入る、その直前に銀やんまが縁側へ入って来たのかもしれない。おぼろな意識がそれをとらえ、そのまま夢に忍び込んだのだろう。
夢の中で見た色彩は、たしかに銀やんまの色だった。胸が草の色で、腰のあたりが鮮やかなコバルト・ブルーを呈している。しっぽは黒に近い焦茶色だった。
すると……頭のすみで、こぼれ落ちかけている記憶が戻って来た。
「あ、きれい」
村瀬昌子が指をさす。
原っぱの高い草をかすめて、とんぼが飛んでいた。
「銀やんまだ」
「とれないかしら」
「よーし」
自転車で追いかけたが、とんぼはスイと空の高みに逃げて行く。
青い、青い空が広がっていた。
三十年なんて、すぐにたつ。だから、とんぼを追いかけているうちに、文雄は少年に戻るかもしれない。
——こいつ、俺に似て来たな——
啓介を見ていると、文雄は、今とんぼを追って行ったのが自分自身であるような、そんな不思議な意識を覚えた。