第十一話 野沢菜
「寒いな」
清志が起きて来たのは正午に近かった。
「雨よ」
「わかってる」
いかにも冷たそうな雨が落ちている。マンションの窓からは近所の公園がよく見える。
公園と言っても、さほどの大きさではない。むしろ空地と呼んだほうがいいくらい。青葉の季節はまだしも見られるが、木の枝がすっかり葉を落としてしまうと、ひどくみすぼらしい。ブランコが二台、砂場が一つ。砂場には色のはげたライオンがうずくまっている。眺めているうちに、余計に寒くなってしまう。
「また冬か」
清志が電気炬燵に足を入れた。
「そうね」
照子がテレビに顔を向けたまま答えた。
「子どもたちは?」
「武志はサッカーの練習。美津子は誕生会」
「ふーん。めしは?」
「食べるの?」
「そりゃ、食べるさ」
「私はすんじゃったわよ、当然。もうお昼御飯の時間だけど」
「昼くらい食うんだろ、おまえだって」
「どうする? パンがいい? それともお茶漬け?」
「パン」
「コーヒーと目玉焼きくらいしかないわよ」
「それでいい」
照子が肩をまるめてキッチンに立つ。
だが、すぐに戻って来て、
「コーヒー、ないみたい。紅茶でいい?」
と尋ねた。
「コーヒーまでないのか」
清志がそう言ったのは、昨夜、玄関の電灯が切れたままになっていたから……。門口が暗いのは貧乏くさくていけない。文句を言うと、照子の返事は「買い置きがないのよ」である。
「スーパーで売っているだろ、電球くらい」
「わが家はピンチなの」
月給日の直前、まさか電球一つも買えないほどひどい状態ではあるまいけれど、主婦としては心理的に買い控えをしたいときもあるのだろう。インスタント・コーヒーも、そのくちらしい。
「お財布カラッポよ」
「まったくだ。俺もない」
「あら、少し借りようと思っていたのに」
「冗談じゃない。明日の昼めし代も危ない」
「ゴルフは?」
近所に練習場がある。日曜日にはほとんど欠かさずに行っている。
「無理だよ。少し貸せよ。な、まるっきりなしってことないだろ、わが家の大蔵省に」
「残念でした。それが本当にまるっきりないの。今晩のおかず代だってないんだから。最後に残しておいたのを武志が持ってっちゃった。ユニフォーム代だとか言って……」
「絶望的な情況だな。雨でよかった」
「そう。なまじ晴れてると、くやしいじゃない」
パンと紅茶と目玉焼き。バターは……ある。
照子は到来物の野沢菜を切り、どんぶりに盛りあげ、お茶漬けの仕度をする。
「それがあったのか」
と、野沢菜を顎で指した。
「ええ?」
「そっちのほうがよかったかな」
似たような菜っぱの漬け物でも、みんな味がちがっている。これはなかなかうまい。
「でも、これは昼御飯のメニューですもん。あとで食べるんでしょ」
「メニューってほどのもんじゃないな」
新聞を読みながらトーストを頬張った。
テレビ欄を見たが、ろくな番組がない。七つもチャンネルがあるというのに、一つくらい鑑賞にたえるものを映してくれまいか。
「俺にも、お茶」
「待って。新しくいれるから」
「お茶はあるのか」
「まあ、なんとかね」
野沢菜をつまみ、お茶をすする。照子もお茶をすすりながら野沢菜をつまむ。
ポリポリポリ、ポリポリポリ……。
そのうちに清志が炬燵のわきに置いてある小倉百人一首の箱に目を止め、
「こんなもの、やるのか」
と、引き寄せる。
「美津子が言うもんだから、押入れのすみから出したの」
「よくあったなあ」
「やった?」
「昔はね。正月が近づくと、トランプとか、これとか……ほかに遊びなかったもん」
「一つあれば、結構みんなで楽しめたから」
「このごろの遊びはみんな高くつく」
「本当。このあいだミエちゃんとデパートへ行って、男の子に�なんか買ってあげましょ�って言ったら�ゲームがほしい�って……。大きな箱のゲームで六千円もするのよ」
「なんでそんな高いもの買ってやるんだ。ミエちゃんから、うちの子どもたち、なんか買ってもらったことあるかよ」
ミエちゃんというのは、照子の従妹である。家が近いので、顔をあわせることが多い。
「せいぜい百円のガムくらいじゃない」
「そうだろ。あれで意外とけちなんだから、ミエちゃんは」
「意外となんてものじゃないわよ。鼻のわきを見ればすぐにわかるじゃない。欲張り筋がはっきり出ているじゃない」
「欲張り筋って言うのか」
清志が鼻のわきをさすりながら言った。
たしかに鼻の両わきに太いしわが凹むと、ひどく欲張りそうに見えるものだ。
「そうよ、あそこは代々ひどいの。�わるいわねえ�なんて言ってるけど、心の中じゃ、ちっともわるいと思ってないのよ。わざとデパートなんかへ行って高いものを買わせるのね、子どものために」
「知能犯だな」
「計画的なんだから」
百人一首の札を一枚取って、
「足びきの山鳥の尾のしだり尾の……。若い女の子がふり袖なんか着て、キャッキャッやってんのは、いい景色だった」
「田端の叔父さんがさァ、それが好きなのよ。お姉ちゃんとか私のお友だちがお正月に遊びに来ると、�どれ、百人一首でもやるかね� すぐに出て来るの」
「そんなに百人一首が好きなのか」
「ううん、そうじゃない。女の子が好きなの」
「なるほど」
「あれ、なんて言うの。はじめに読み手が一枚、適当に歌を読むじゃない」
「から札か。調子をみるんじゃないのか」
「叔父さんが読み手になると、なんだかへんな歌を読むのよ。上の句は忘れちゃったけど、ゴビの砂漠に月宿るらんとかなんとか、自分で作った歌なんですって。行ったこともないくせに」
「ゴビの砂漠とはすごいね」
「そうよ」
「老人ホームのほうはどうなのかな」
「いいんじゃない。あい変らず女の人のお尻を追いかけまわしてるんじゃないの。ゴビの砂漠でも歌いながら」
「このあいだ会ったときなんか、入れ歯がガタガタしてたぞ」
「だから口をすぼめて、しゃべらないようにしているわよ。あなたの前だから油断してガタガタさせちゃったんじゃない。相手がちょっとましなおばあさんだったりしたら、すぐに見栄を張るんだから」
野沢菜のどんぶりがからになった。
「これ、もう少し切って出せよ」
「あなたも好きね」
「おいしいよ。ほかにおやつもないだろうし」
「そうね」
テレビ・ドラマを見ながら何杯目かのお茶をすすった。ポットのお湯も残り少ない。
「この人、秀ちゃんに似ていないか」
照子がさっきより大盛りにして戻って来た。大映しになったヒロインを指さして清志が呟く。
「秀ちゃんて、江古田の?」
「ああ」
「こんないい女じゃないわよ。わるいわ、この人に」
「顔のタイプとして……」
「タイプとかなんとかいうほどの顔じゃないでしょ、秀ちゃんは。タヌアカって言われてたのよ」
「なんだ」
「タヌキのアカンベエ。私、タヌキのアカンベエなんか見たことないけど、なんとなくそんな感じじゃない。たしかに目は大きいけど、右左でちょっと位置がずれてるみたいで」
「俺だって、タヌキのアカンベエなんか知らん」
「だれも知らないわね」
「結婚しないのか、彼女」
「無理なんじゃない。だれかいる、会社に?」
「ウーン、水島さん」
「水島さんて、あなたと同い年でしょ」
「ああ。むこうのほうが一つ上かな」
「秀ちゃんといくつちがう? 十以上ちがうじゃない。完全なおじさんじゃない」
「タヌアカなら……」
「まあね。ずーっとお一人なの、水島さん」
「そうだよ。洗濯も掃除も料理も、みんな上手らしいよ。�俺んとこに来る女房は楽だ�って、十年以上も言い続けてるけど、肝腎な奥さんがいっこうにやって来ない」
「家事ができればいいってもんじゃないからねえ」
「かえって、できないほうがいいんじゃないのか」
「あなたみたいにまるでやらないのもひどいけど」
「水島さんはともかく、だれかいないかな」
「後妻でもいいから、もう少しましな人……」
「後妻って言えば、部長のとこ、大変らしいよ」
キッチンのほうで、やかんがピイピイと音をたてている。照子が立ってポットにお湯を入れた。手を布巾で拭いながら、
「あら、奥さんの三回忌がすんだら、再婚なさるはずじゃなかったの」
「その予定らしかったんだけど」
「まずいの」
「娘たちが反対しているらしいんだ」
「二人いらしたのよね。どちらもおきれいで、ご自慢のお嬢さんだったんじゃないの」
「うん。部長もまさか娘たちが反対するとは思っていなかったらしい。二人とも結婚して家を離れているんだし、部長があの年で独り暮らしはつらいだろうって、むしろ喜んで賛成してくれると思ってたらしいんだ」
「変な人なのかしら、再婚の相手が」
「娘たちはそういう言い方をするらしいけど、本当はちがうね」
「どうなの?」
「つまり……財産の分配について、娘たち二人で相談がもうできてるんだと」
「どういうこと」
「部長の財産は大変なもんだよ。世田谷の屋敷だけでもすごい。ほかに貸しマンションなんかもあるらしい……。部長が死んだあと二人でどう分けるか、がっちり相談のできているところに、自分たちとそう年の変らない後妻が来ちゃったら、予定が狂っちゃうだろ。大問題だよ、娘たちにとっちゃ。そこで、あれやこれやと難くせをつけ始めた」
「そんな感じの娘さんたちじゃなかったのに。前にお花見のときにお会いしたでしょ。おっとりとした感じで」
「あの頃はそうだったんだろ。今はサラリーマンの奥さんになって�月給日の前はつらいわ�とか�土地つきの家、ほしいわ�とか言ってんだよ。そうそうおっとりとかまえていられない」
「部長さんもお気の毒ねえ」
「まあな。間もなく子会社行きだろうしな」
「あ、そうなの?」
「そうだよ。もともと能力のある人じゃないもの。わが社の七不思議の一つなんだ。どうして役員になれたかって……」
「信子さんのご主人もそうみたいよ」
信子さんというのは美津子の友だちの母親である。なかなかの美人。
「ああ、そうなのか」
「でも、彼女が社長の愛人だから」
「本当かよ」
「当人がそう言うんですもの。だから亭主が出世したって」
「どういう会社なんだ。ろくな会社じゃないな」
「男の人って、信子さんみたいなタイプ好きなんじゃない」
「そうかなあ」
「そうよ。和服が似あって、おしとやかな感じで。でも、意外と淫乱だったりして」
「そうなのか」
「もしかしたらね。でも、彼女、スタイルはひどいわよ。ずん胴で」
「見たのか」
「ええ。プールで。足も短いし、O脚だし」
「それで和服をよく着るのか」
「そう。高いものばっかり」
「こっちは銭がないのになあ」
「本当よ」
どんぶりの野沢菜は、もうあらかたなくなっている。
ポリポリポリ、ポリポリポリ……。
とめどなく食べる。とめどなく他人の悪口が続く。月給日前……。これはこれで楽しいゲームの一つ。雨はやみそうもない。